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1巻
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やってきたのは、燃えるような赤髪と人懐こそうな表情が印象的な男性だった。
どうやら彼が丁寧に抱えて連れてきた女性が患者らしい。
騎士を二人も供として連れていること、そして身に纏う衣服から、リリアは彼女が高貴な女性であると判断した。
その顔面は濃い色のヴェールで隠されている。おそらくその下にあるものに対してリリアを頼ってきたのだろう。
「癒し手様には善処を期待するが……無理だった場合も他言は無用ですぜ?」
赤髪の騎士は冗談めかして言ったが、その琥珀色の眼差しは真剣そのものだ。
「はい、決して他言はいたしません」
リリアは明言した。彼女は臆病だが、その言葉は騎士の剣幕を恐れてのものではなかった。
「恩人を脅すのはやめなさい、グラジオ」
凛とした女性の声が、リリアと赤髪の騎士の間から聞こえた。
「姫様!」
彼女を抱えていた騎士が気づかわしげに呼ぶ。やはり身分の高い女性なのだろう。
けれどあいにく十数年間ほぼ村から出ずに暮らしていたリリアには、彼女が何者であるか見当がつかない。
女性が焦れたように自らの手でヴェールを外そうとするのを、慌てて赤髪の騎士が押し留める。
代わりに金の髪の騎士が丁寧に彼女のヴェールをめくりあげた。
「誤解しないでね。元からこの顔だったわけではないの。これでも子供の頃から、将来は美人になると評判だったのよ」
笑みを含んだような声で言葉を柔らかくして女性が言う。けれど軽口を返せるものは、この場には誰もいなかった。
彼女の顔は、大部分が蛇の持つような鱗で覆われていた。
いや、それだけではない。鱗の部分はところどころ石化している。その質感を見るに、ここ数日のものではない。おそらくもう長い間続いている症状なのだろう。
彼女の言葉通り、いや実際に対面してはっきりとわかるほど、その目鼻立ちの美しさは常人離れしている。
だからこそ、症状の惨さが際立っていた。
「なかなか惨いでしょう? 顔だけではなく指先や足の先も似たようなものなの。無理やり剥がそうとしたら、肉ごと持っていかれて困ったわ」
彼女は相変わらず軽い調子でそう言いながら、手袋で覆われた腕を軽く振る。
「心当たりは。石化と鱗化は同時に発症しましたか?」
リリアは単刀直入に聞いた。
「同時よ。原因はわかっているの。毒入りのお茶を五年前に飲まされたわ。顔についてはそれ以来この有様。ただ最近になって急に症状が進行して、手足にまで広がってしまったのよ」
女性は冷静に説明した。
「さすがに奇妙な石像にはなりたくないから焦ってはいるのだけれど、だからといってこんな夜中にごめんなさいね」
やっぱり朝になってから出直したほうがいいかしら――そう言い出した彼女を否定したのは、リリアではなかった。
「そんな悠長なことを言って、いきなり胴体まで石になるかもしれないんですよ?」
「怖いことを言わないで頂戴、グラジオ」
言葉こそそれなりに丁寧だが、赤毛の騎士は兄のように女性の悠長さを叱る。その口ぶりだけで、彼が女性のことを心底心配しているのだろうと見てとれた。
リリアも内心、騎士に同意する。女性は落ち着いた物言いをしているが、鱗化はともかく石化は厄介だ。
外見を損ねるだけでなく、症状が内臓や呼吸器官に広がれば命に関わる。
急に悪化したというなら一刻も早く診療が必要という判断は間違いではない。
それはそれとして、診療時間を守って出直そうとする女性の気遣いにリリアは衝撃を受けていた。
そんな配慮、自分が死ぬまでされることはないと思っていた。
驚愕と感激の感情を押し殺し、リリアは患者たちに伝えた。
「おそらく、飲まされたのはコカトリスの尾毒かと思います」
鱗化と石化が同時に起こったなら原因はわかりやすい。
石化を得意とする魔物、コカトリス。
一見巨大な鶏に似たその魔物は、尾羽の代わりに蛇が生えている。コカトリスの血には毒があるが、石化と鱗化がどちらも発症したのはその蛇の部分の血を飲んだからだ。
リリアは、エルシアが残してくれた書籍の記述を思い出す。そして治療するための薬のことも。
今はいない師匠に、リリアは心の底から感謝した。貴女の偉大さは、不在時でも人を救うのだと。
――出来損ないの弟子とは違って。
「大丈夫。治りますよ」
連日の疲労で青白い顔をしながらも、リリアは患者に笑いかけた。
この毒に効果的な薬は既に診療所に存在している。
先代の癒し手であるエルシアが過去に調合していた薬の数々。それらは普段地下室で保管されている。
その中に今回の症例にぴったりな薬が置いてあるのだ。
村人に必要とされる機会はなかったから、女性を完治させるのに充分な量がある。
リリアは診療所の扉を大きく開き、患者たちを招き入れた。
そのまま診療台に女性を寝かせるように騎士たちに頼む。
今から女性の体に対して診断を行うと説明し、彼らには応接室で待ってもらうことにした。
「症状が出ているのは顔と首、それと手足だけですか?」
「お腹にも鱗みたいなのが生えているわ」
リリアの問診に、患者の女性はしっかりとした口調で答えた。
体の半分がまるで魔族のような姿になっているというのに、非常に落ち着いている。
気丈な女性だと思う。
服をまくり上げて該当箇所を確認すると、リリアは彼女に治療方針を語った。
「この症状であれば、主に塗り薬での治療になります。効果的な薬ではありますが、塗った箇所にしばらく強い痒みを感じます。けれど絶対に掻きむしらないでください」
「強い痒み……痛いほうがましな気がするわね」
うんざりしたような女性の言葉にリリアは内心同意した。痒みを消すために痛みを選ぶ人間もいると聞く。
しかし今回の治療には痒み止めを処方することはできない。
「申し訳ありません……」
リリアは素直に頭を下げて詫びた。村人ならそれでもリリアを罵り、手を上げるだろう。
けれど返ってきたのは、不思議そうに戸惑う声だった。
「……? 何故貴女が謝るの、癒し手様?」
女性の軽口に対しリリアは頭を下げて詫びた。
それはほぼ無意識で行っていたくらい、慣れた仕草だった。
けれど続く女性の言葉は、リリアにとってあまりにも予想外のものだった。
「謝る必要なんてないわ。治せると言ってもらえて、私は本当に嬉しかったのよ。今まではヤスリでこそげ落とすしかないと言われ続けたのだもの。それなのに、我儘を口にして御免なさい」
女性から頭を下げられてリリアは狼狽する。
「いっ、いえ、ヤスリは、いりません。毎日薬を塗っていただければ二、三週間ほどで元の肌に戻るはずです」
しどろもどろに告げると、女性は大輪の花が咲くように嬉しそうに微笑んだ。
「かっ、完治まで時間がかかって申し訳ありません」
リリアが深々とお辞儀をする様子を、高貴な女性は心底不思議そうに見ていた。
「……癒し手様、私は貴女がそこまで恐縮しなければいけないほど暴君に見えるかしら?」
「いえ、そのようなことは……申し訳ありません」
彼女の言葉に責める意図がないことはわかっている。
けれどどうしてもこのような時、リリアの口からは謝罪の台詞しか出てこない。
馬鹿の一つ覚えのようだと村人からもよく叱られている。
昔はそうではなかった気がするけれど、いつのまにか謝ることしかできなくなっていたのだ。
謝ることはないと言われているのは理解している。けれど謝罪が勝手に口から出てしまう。まるで自分こそが病人のようだ。
そんなリリアに対し、女性は村人のように侮蔑と苛立ちに表情を歪めることはなかった。
「まあ、傲慢で怒りっぽい人間よりは余程いいわね」
「え……」
リリアの頑なな態度をあっさりと受け入れて彼女は笑う。
毒に侵された彼女の顔。
だがその表情のあまりの美しさに、リリアは思わず見惚れた。
「しばらくこの村に滞在して診療をお願いしたいわ。宿はあるかしら」
「あ……宿は……ありませんが、村長にお願いすれば部屋を貸していただけるかと」
「有難う、そうするわ……それと」
女性はリリアをまっすぐに見つめる。
「私は貴女の治療方針を全て受け入れるし、どんな結果でも決して責めたりはしないわ」
そう鮮やかに断言する女性がリリアの目には女神のように映った。
ふと脳裏に蘇ったのは、昔野盗から幼い自分を救ってくれた先代の癒し手の姿。
患者として訪れた目の前の女性は、有りし日のエルシアと同じぐらい、強く優しい眼差しをしていた。
「私はロザリエ・ルクス。これからよろしくね、癒し手様」
「あっ、こちらこそ、お願い致します」
「名前でお呼びしても?」
「あ、はい……私はリリアと申します。あの、どうか、呼び捨てで……お願い致します」
様付けされるのは慣れない。それこそ耐えがたいむず痒さに襲われる。
リリアが口にしないその訴えを、聡明な女性は察してくれたようだった。
「リリア、いい名前ね。素敵だわ」
そんなやり取りをして治療が終わると、ロザリエはリリアの診療所を後にした。
今夜は馬車で過ごし、夜が明けたら村長の家に向かうとのことだった。
「緊急じゃなかったなら元々馬車で一晩過ごすつもりだったの。夜中に押しかけた立場で言う権利はないかもしれないけれど、今からでもゆっくり休んで頂戴、リリア。貴女、すごく疲れた顔をしているわ」
リリアの目の下の隈を見つめながらロザリエは心配そうに告げた。
けれどその優しい言葉にリリアは、ただ曖昧に微笑んで彼女たちを見送ることしかできなかった。
――別に気にしなくていい。この隈は睡眠不足だけが原因ではないし、昨日今日できたものでもないのだから。
――部屋は空いている、朝まで眠るだけならこの家でも構わない。
本当はそう提案するべきだったかもしれない。いやリリアはそう言いたかったのだ。
タイミングはいくらでもあった。ロザリエの患部に薬を塗り、手足の先には補強も兼ねて包帯を巻いた。
その間に、さりげなく口にできたなら良かったのに。
思い続けるうちに、ロザリエは診療所を出ていった。
後悔という名の通り、彼女が去ってから自己嫌悪が湧き上がる。
けれどリリアは、自分から積極的に意見を言うことができなくなっていた。
余計なことを言って叱られるのが怖い。
村人に口ばかり達者だと嫌味を言われた時のことを思い出して体が震えた。
あれはいつ頃だっただろうか。毎晩炎症が痛むと怒鳴り込んできた老人に晩酌を控えるように進言した時のことだ。
飲酒することで血の巡りが良くなり痛みが強くなるのだと説明したら、杖で思い切り腕を打たれたことがあった。
お前が完璧に治さないのが悪い、余計な言い訳はするな、頭を下げて詫び続ければいいと。
思い出したくないほど、悔しくて悲しくて、けれど忘れられない記憶だ。
「……彼女は……ロザリエ様は、そんなこと、なさらない」
わかっているのに。
自分の心についた傷さえ癒せない、確かに己は無能な癒し手だとリリアは俯いた。
翌日、リリアは数年ぶりに朝寝坊をした。
大慌てで身支度を整え、なんとか診療所の開始時刻に間に合わせる。
それまで一人の患者も訪れていなかった幸運に、リリアは胸を撫で下ろした。
いつもなら受付一時間前には中に入れろと数人の老人たちがやってくる。
彼らは待合室での会話を気が済むまで楽しむと、大したことのない肩こりや腰痛に治癒魔法を受けて解散する。
そして翌日も同じように診療所の戸を叩くのだった。
だが珍しく本日彼らの訪れはなかったようだ。
どことなく落ち着かない気分でリリアは何度も机を拭く。お腹が軽く鳴った。
朝食を摂る時間がなかったのだ。
何か適当なものを口に入れようか、いややはり我慢しようかと考えていると、戸がきっちりと五回叩かれた。
弾かれたように場から離れ、リリアは扉を開ける。
そこには昨夜短い会話を交わした、金髪の美しい騎士が立っていた。
「朝からすまない」
「い、いえ……こちらこそ申し訳ありません」
「……何が申し訳ないんだ?」
不思議そうな声で訊かれ、リリアは言葉に詰まる。自分でも何故謝ってしまったのかわからない。
「え、ええと……しゃ、謝罪をさせてしまいましたし、それに、気をつ、遣わせてしまったことも……こちらの落ち度ですから……」
しどろもどろになりながら、リリアは自分が謝ったことの理由を探して、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。返答が遅いと怒鳴られるのではないかと恐れるあまり、ところどころどもりがちになる。
そんなリリアの挙動を見ていた騎士は、なんとも言えないような表情をした。
「……君は、虐待でもされているのか?」
「え……?」
「いや、なんでもない。不躾なことを言ってしまった。よそ者の分際で申し訳ない」
「いえ、そんな……」
こちらこそと再び謝ろうとするのをリリアは自分の意志で押し留めた。
おそらく彼はそのような謝罪は望まない。
リリアが言葉を止めると、沈黙が二人の間を流れた。
「……そういえば、挨拶が遅れたな」
「えっ、あっ! おはようございます!」
沈黙を破った騎士の言葉にリリアは慌てて挨拶をする。
彼の美しい青色の瞳が驚いたように瞬く。その後騎士は己の口元を優雅に手で隠した。
「おはよう、癒し手殿。俺の名はアドニス。君の名を教えてもらっても?」
そう笑み交じりの声で自己紹介の挨拶をされて、勘違いに気づいたリリアは耳まで真っ赤になった。
昨夜は突然のことでバタついていたとはいえ、名乗ることすら忘れていたとは。
「リリア、です。あの、呼び捨てでお願いします」
「なら俺も同じように、アドニスと呼んでもらって構わない」
騎士の返しにリリアは心底困惑した。どう見ても相手はリリアよりも立場が上の人間だ。
この小さな村から長年出たことがない田舎者でも理解できる。
それに今まで村の中で一番低い立場に置かれ、孤独な生活を続けたリリアは、人を気安く呼び捨てにすることに強い抵抗を覚えていたらしい。
そのことに気づいたリリアは頷くことすらできないまま黙するしかない。
幸か不幸かアドニスはリリアに返答を求めることはせず、話題を別のものに切り替えた。
「村長の家で、ロザリエ様が君を待っている。……急で申し訳ないが、共に来てほしいんだ」
そう頭を下げられて、リリアは胸の辺りが焼けつくような感覚に見舞われる。
先ほどから薄々気づいていたが、こうして謝罪をされるとどうにも具合が悪くなる。
散々粗食をしてきた体に脂ぎった肉を急に詰め込まれたような衝撃で、体が悲鳴を上げるのだ。
謝罪の言葉だけが理由ではない。
ロザリエもそうだが、アドニスから向けられる「癒し手」に対する敬意のようなものが。
いや、純粋にこちらの時間を使うことへの気遣い自体が。
今まで与えられなかったそれらの感情は、リリアの心には刺激が強すぎた。まるで裸の心に熱湯をかけられるように耐えがたく、辛い。
けれどそれを口にしては彼らも困ってしまうだろう。リリアは酸っぱい唾液を黙って嚥下した。
「かしこまりました」
アドニスの頼みを承諾し、外出の準備をして再び表へ出る。
入り口には留守中である旨の札をかけておいた。
これを村人たちが見たら、戻り次第リリアに苦情を言うだろうが仕方がない。
彼らが自分を責めるのは日常だ。決して平気な訳ではないが、だからといってそれがロザリエの招集に応じない理由にはならなかった。
だが万が一急病人が出たらという懸念はある。この村は老人が多い。
年を取れば体の不調は多くなる。彼らが癒し手であるリリアの不在に神経質になる気持ちは理解できないことではない。
村人たちはきっと不安なのだ。
おそらくは先代の癒し手が突然失踪した時の恐怖と不安がいまだに刻み込まれているのだろう。
リリアの師であり、母や年の離れた姉のような存在だったエルシア。
ある日突然村から姿を消したエルシア。
けれどそれは彼女の意志ではないはずだとリリアは信じている。
決して感情的な理由だけではない。
十年前のあの日。
少女だったリリアは友人と家の前で立ち話をしていた。
親に言われて卵の差し入れに来たのだと笑う相手を見送って、家の中に戻るまでの間は十分もなかった。
そのわずかな間に、台所で朝食の用意をしていたはずのエルシアは消えていたのだ。
台所ではスープが煮えていて、仕上げに入れる香草が途中まで刻まれたままだった。
今にして思えば、突然消失してしまったとしか説明がつかないような状況だった。
当時、そんなことは想像すらせず、少し席を外しただけだろうと思ったリリアは慌てて火を止めて、不用心な育て親に文句を言おうと家中を探した。
けれどどれだけ探してもエルシアは見つからなかった。
そして、その日から十年経っても彼女との団欒がこの家に戻ることはなかったのだ。
村長宅に着いたリリアは、その家の主人からの命令に目を丸くした。
「私の家に、ロザリエ様をしばらくの間お泊めするように、ですか?」
「そうだ」
何か文句でもあるのかというように村長がリリアを睨む。
ここに客人が居なければ実際にそう口に出して責めていただろう。
それを感じ取ったリリアは萎縮し頭を下げ、男から視線を逸らした。
けれど村長の態度は、弱気だが優しい彼らしくない――リリアは微かに違和感を覚えた。
どうやら随分苛立っているようだ。
そのことを敏感に感じ取り、リリアは怯えた。
それを察したアドニスの瞳が鋭く険しいものになる。
「ごめんなさいね、なんだか話の流れでそうなってしまって」
村長の横に立つロザリエが申し訳なさそうにリリアに謝った。
彼女は顔の大部分をヴェールで隠したまま、器用にも伝えたい感情を声に乗せて話す。
「けれど急な話だから、都合が悪ければ当然断っていただいて結構よ」
ロザリエの声の柔らかさに、リリアは恐る恐る緊張を解いて答える。
「だ、大丈夫です!」
それは、彼女にしては随分と大きな声だった。
リリアの返答を聞いたロザリエは嬉しそうに「よかった」と笑う。
その光景を村長は白けた顔で見ていた。リリアへの意思確認など、取るに足らない茶番に過ぎないとでも言うような冷ややかな目だった。
そんな彼を無視して、ロザリエはリリアを見つめて話しかけ続ける。
「安心して。男連中は村長の家で預かってもらうから」
「男連中……?」
「私の護衛の騎士たちよ、貴女を迎えにやらせたアドニスと、それから今は裏山で猪を狩っているグラジオ」
ロザリエの言葉にリリアは顔を青くする。
猪は立派な猛獣だ。一人であっさりと狩れるものではない。むしろ返り討ちにされる可能性のほうが高いだろう。
リリアはグラジオと同じ騎士であるアドニスを窺ったが、その涼しげな顔にはわずかな不安も浮かんでいなかった。
「あれの趣味は猛獣狩りだ。心配しなくていい」
なんの気負いもなく言われ、完全に安心しきれないもののリリアは納得することにした。
話が一段落すると、今すぐ診療所に戻り待機したい気分に襲われた。これは職業病というものだろうか。
「お肉が届き次第、豪勢にやりましょうね」
己の騎士の戦果を確信し、上品に微笑むロザリエの唇は美しかった。
「いやー猪見つかんなかったわ、スマン!」
赤髪の騎士グラジオはそう謝罪しながらも大きな山鳥を二羽仕留めて帰ってきた。
意外なことに、それを手際よく調理したのは貴公子のような美貌のアドニスだ。
リリアの家にあったハーブと、携帯してきたらしい瓶入りのスパイスを使い、彼は短時間で数品を仕上げた。
メインの肉料理とサラダとスープ。そして村長宅から分けてもらったというこの村では一番上等なパン。
その見た目とスパイスと肉が混じり合った芳香に、朝食を摂っていなかったリリアの腹が小さく鳴る。
ロザリエは顔を赤くした彼女に「ご飯にしましょうか」と笑いかける。リリアはその笑顔に、かつて共に暮らしていた女師匠を重ねた。
どうやら彼が丁寧に抱えて連れてきた女性が患者らしい。
騎士を二人も供として連れていること、そして身に纏う衣服から、リリアは彼女が高貴な女性であると判断した。
その顔面は濃い色のヴェールで隠されている。おそらくその下にあるものに対してリリアを頼ってきたのだろう。
「癒し手様には善処を期待するが……無理だった場合も他言は無用ですぜ?」
赤髪の騎士は冗談めかして言ったが、その琥珀色の眼差しは真剣そのものだ。
「はい、決して他言はいたしません」
リリアは明言した。彼女は臆病だが、その言葉は騎士の剣幕を恐れてのものではなかった。
「恩人を脅すのはやめなさい、グラジオ」
凛とした女性の声が、リリアと赤髪の騎士の間から聞こえた。
「姫様!」
彼女を抱えていた騎士が気づかわしげに呼ぶ。やはり身分の高い女性なのだろう。
けれどあいにく十数年間ほぼ村から出ずに暮らしていたリリアには、彼女が何者であるか見当がつかない。
女性が焦れたように自らの手でヴェールを外そうとするのを、慌てて赤髪の騎士が押し留める。
代わりに金の髪の騎士が丁寧に彼女のヴェールをめくりあげた。
「誤解しないでね。元からこの顔だったわけではないの。これでも子供の頃から、将来は美人になると評判だったのよ」
笑みを含んだような声で言葉を柔らかくして女性が言う。けれど軽口を返せるものは、この場には誰もいなかった。
彼女の顔は、大部分が蛇の持つような鱗で覆われていた。
いや、それだけではない。鱗の部分はところどころ石化している。その質感を見るに、ここ数日のものではない。おそらくもう長い間続いている症状なのだろう。
彼女の言葉通り、いや実際に対面してはっきりとわかるほど、その目鼻立ちの美しさは常人離れしている。
だからこそ、症状の惨さが際立っていた。
「なかなか惨いでしょう? 顔だけではなく指先や足の先も似たようなものなの。無理やり剥がそうとしたら、肉ごと持っていかれて困ったわ」
彼女は相変わらず軽い調子でそう言いながら、手袋で覆われた腕を軽く振る。
「心当たりは。石化と鱗化は同時に発症しましたか?」
リリアは単刀直入に聞いた。
「同時よ。原因はわかっているの。毒入りのお茶を五年前に飲まされたわ。顔についてはそれ以来この有様。ただ最近になって急に症状が進行して、手足にまで広がってしまったのよ」
女性は冷静に説明した。
「さすがに奇妙な石像にはなりたくないから焦ってはいるのだけれど、だからといってこんな夜中にごめんなさいね」
やっぱり朝になってから出直したほうがいいかしら――そう言い出した彼女を否定したのは、リリアではなかった。
「そんな悠長なことを言って、いきなり胴体まで石になるかもしれないんですよ?」
「怖いことを言わないで頂戴、グラジオ」
言葉こそそれなりに丁寧だが、赤毛の騎士は兄のように女性の悠長さを叱る。その口ぶりだけで、彼が女性のことを心底心配しているのだろうと見てとれた。
リリアも内心、騎士に同意する。女性は落ち着いた物言いをしているが、鱗化はともかく石化は厄介だ。
外見を損ねるだけでなく、症状が内臓や呼吸器官に広がれば命に関わる。
急に悪化したというなら一刻も早く診療が必要という判断は間違いではない。
それはそれとして、診療時間を守って出直そうとする女性の気遣いにリリアは衝撃を受けていた。
そんな配慮、自分が死ぬまでされることはないと思っていた。
驚愕と感激の感情を押し殺し、リリアは患者たちに伝えた。
「おそらく、飲まされたのはコカトリスの尾毒かと思います」
鱗化と石化が同時に起こったなら原因はわかりやすい。
石化を得意とする魔物、コカトリス。
一見巨大な鶏に似たその魔物は、尾羽の代わりに蛇が生えている。コカトリスの血には毒があるが、石化と鱗化がどちらも発症したのはその蛇の部分の血を飲んだからだ。
リリアは、エルシアが残してくれた書籍の記述を思い出す。そして治療するための薬のことも。
今はいない師匠に、リリアは心の底から感謝した。貴女の偉大さは、不在時でも人を救うのだと。
――出来損ないの弟子とは違って。
「大丈夫。治りますよ」
連日の疲労で青白い顔をしながらも、リリアは患者に笑いかけた。
この毒に効果的な薬は既に診療所に存在している。
先代の癒し手であるエルシアが過去に調合していた薬の数々。それらは普段地下室で保管されている。
その中に今回の症例にぴったりな薬が置いてあるのだ。
村人に必要とされる機会はなかったから、女性を完治させるのに充分な量がある。
リリアは診療所の扉を大きく開き、患者たちを招き入れた。
そのまま診療台に女性を寝かせるように騎士たちに頼む。
今から女性の体に対して診断を行うと説明し、彼らには応接室で待ってもらうことにした。
「症状が出ているのは顔と首、それと手足だけですか?」
「お腹にも鱗みたいなのが生えているわ」
リリアの問診に、患者の女性はしっかりとした口調で答えた。
体の半分がまるで魔族のような姿になっているというのに、非常に落ち着いている。
気丈な女性だと思う。
服をまくり上げて該当箇所を確認すると、リリアは彼女に治療方針を語った。
「この症状であれば、主に塗り薬での治療になります。効果的な薬ではありますが、塗った箇所にしばらく強い痒みを感じます。けれど絶対に掻きむしらないでください」
「強い痒み……痛いほうがましな気がするわね」
うんざりしたような女性の言葉にリリアは内心同意した。痒みを消すために痛みを選ぶ人間もいると聞く。
しかし今回の治療には痒み止めを処方することはできない。
「申し訳ありません……」
リリアは素直に頭を下げて詫びた。村人ならそれでもリリアを罵り、手を上げるだろう。
けれど返ってきたのは、不思議そうに戸惑う声だった。
「……? 何故貴女が謝るの、癒し手様?」
女性の軽口に対しリリアは頭を下げて詫びた。
それはほぼ無意識で行っていたくらい、慣れた仕草だった。
けれど続く女性の言葉は、リリアにとってあまりにも予想外のものだった。
「謝る必要なんてないわ。治せると言ってもらえて、私は本当に嬉しかったのよ。今まではヤスリでこそげ落とすしかないと言われ続けたのだもの。それなのに、我儘を口にして御免なさい」
女性から頭を下げられてリリアは狼狽する。
「いっ、いえ、ヤスリは、いりません。毎日薬を塗っていただければ二、三週間ほどで元の肌に戻るはずです」
しどろもどろに告げると、女性は大輪の花が咲くように嬉しそうに微笑んだ。
「かっ、完治まで時間がかかって申し訳ありません」
リリアが深々とお辞儀をする様子を、高貴な女性は心底不思議そうに見ていた。
「……癒し手様、私は貴女がそこまで恐縮しなければいけないほど暴君に見えるかしら?」
「いえ、そのようなことは……申し訳ありません」
彼女の言葉に責める意図がないことはわかっている。
けれどどうしてもこのような時、リリアの口からは謝罪の台詞しか出てこない。
馬鹿の一つ覚えのようだと村人からもよく叱られている。
昔はそうではなかった気がするけれど、いつのまにか謝ることしかできなくなっていたのだ。
謝ることはないと言われているのは理解している。けれど謝罪が勝手に口から出てしまう。まるで自分こそが病人のようだ。
そんなリリアに対し、女性は村人のように侮蔑と苛立ちに表情を歪めることはなかった。
「まあ、傲慢で怒りっぽい人間よりは余程いいわね」
「え……」
リリアの頑なな態度をあっさりと受け入れて彼女は笑う。
毒に侵された彼女の顔。
だがその表情のあまりの美しさに、リリアは思わず見惚れた。
「しばらくこの村に滞在して診療をお願いしたいわ。宿はあるかしら」
「あ……宿は……ありませんが、村長にお願いすれば部屋を貸していただけるかと」
「有難う、そうするわ……それと」
女性はリリアをまっすぐに見つめる。
「私は貴女の治療方針を全て受け入れるし、どんな結果でも決して責めたりはしないわ」
そう鮮やかに断言する女性がリリアの目には女神のように映った。
ふと脳裏に蘇ったのは、昔野盗から幼い自分を救ってくれた先代の癒し手の姿。
患者として訪れた目の前の女性は、有りし日のエルシアと同じぐらい、強く優しい眼差しをしていた。
「私はロザリエ・ルクス。これからよろしくね、癒し手様」
「あっ、こちらこそ、お願い致します」
「名前でお呼びしても?」
「あ、はい……私はリリアと申します。あの、どうか、呼び捨てで……お願い致します」
様付けされるのは慣れない。それこそ耐えがたいむず痒さに襲われる。
リリアが口にしないその訴えを、聡明な女性は察してくれたようだった。
「リリア、いい名前ね。素敵だわ」
そんなやり取りをして治療が終わると、ロザリエはリリアの診療所を後にした。
今夜は馬車で過ごし、夜が明けたら村長の家に向かうとのことだった。
「緊急じゃなかったなら元々馬車で一晩過ごすつもりだったの。夜中に押しかけた立場で言う権利はないかもしれないけれど、今からでもゆっくり休んで頂戴、リリア。貴女、すごく疲れた顔をしているわ」
リリアの目の下の隈を見つめながらロザリエは心配そうに告げた。
けれどその優しい言葉にリリアは、ただ曖昧に微笑んで彼女たちを見送ることしかできなかった。
――別に気にしなくていい。この隈は睡眠不足だけが原因ではないし、昨日今日できたものでもないのだから。
――部屋は空いている、朝まで眠るだけならこの家でも構わない。
本当はそう提案するべきだったかもしれない。いやリリアはそう言いたかったのだ。
タイミングはいくらでもあった。ロザリエの患部に薬を塗り、手足の先には補強も兼ねて包帯を巻いた。
その間に、さりげなく口にできたなら良かったのに。
思い続けるうちに、ロザリエは診療所を出ていった。
後悔という名の通り、彼女が去ってから自己嫌悪が湧き上がる。
けれどリリアは、自分から積極的に意見を言うことができなくなっていた。
余計なことを言って叱られるのが怖い。
村人に口ばかり達者だと嫌味を言われた時のことを思い出して体が震えた。
あれはいつ頃だっただろうか。毎晩炎症が痛むと怒鳴り込んできた老人に晩酌を控えるように進言した時のことだ。
飲酒することで血の巡りが良くなり痛みが強くなるのだと説明したら、杖で思い切り腕を打たれたことがあった。
お前が完璧に治さないのが悪い、余計な言い訳はするな、頭を下げて詫び続ければいいと。
思い出したくないほど、悔しくて悲しくて、けれど忘れられない記憶だ。
「……彼女は……ロザリエ様は、そんなこと、なさらない」
わかっているのに。
自分の心についた傷さえ癒せない、確かに己は無能な癒し手だとリリアは俯いた。
翌日、リリアは数年ぶりに朝寝坊をした。
大慌てで身支度を整え、なんとか診療所の開始時刻に間に合わせる。
それまで一人の患者も訪れていなかった幸運に、リリアは胸を撫で下ろした。
いつもなら受付一時間前には中に入れろと数人の老人たちがやってくる。
彼らは待合室での会話を気が済むまで楽しむと、大したことのない肩こりや腰痛に治癒魔法を受けて解散する。
そして翌日も同じように診療所の戸を叩くのだった。
だが珍しく本日彼らの訪れはなかったようだ。
どことなく落ち着かない気分でリリアは何度も机を拭く。お腹が軽く鳴った。
朝食を摂る時間がなかったのだ。
何か適当なものを口に入れようか、いややはり我慢しようかと考えていると、戸がきっちりと五回叩かれた。
弾かれたように場から離れ、リリアは扉を開ける。
そこには昨夜短い会話を交わした、金髪の美しい騎士が立っていた。
「朝からすまない」
「い、いえ……こちらこそ申し訳ありません」
「……何が申し訳ないんだ?」
不思議そうな声で訊かれ、リリアは言葉に詰まる。自分でも何故謝ってしまったのかわからない。
「え、ええと……しゃ、謝罪をさせてしまいましたし、それに、気をつ、遣わせてしまったことも……こちらの落ち度ですから……」
しどろもどろになりながら、リリアは自分が謝ったことの理由を探して、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。返答が遅いと怒鳴られるのではないかと恐れるあまり、ところどころどもりがちになる。
そんなリリアの挙動を見ていた騎士は、なんとも言えないような表情をした。
「……君は、虐待でもされているのか?」
「え……?」
「いや、なんでもない。不躾なことを言ってしまった。よそ者の分際で申し訳ない」
「いえ、そんな……」
こちらこそと再び謝ろうとするのをリリアは自分の意志で押し留めた。
おそらく彼はそのような謝罪は望まない。
リリアが言葉を止めると、沈黙が二人の間を流れた。
「……そういえば、挨拶が遅れたな」
「えっ、あっ! おはようございます!」
沈黙を破った騎士の言葉にリリアは慌てて挨拶をする。
彼の美しい青色の瞳が驚いたように瞬く。その後騎士は己の口元を優雅に手で隠した。
「おはよう、癒し手殿。俺の名はアドニス。君の名を教えてもらっても?」
そう笑み交じりの声で自己紹介の挨拶をされて、勘違いに気づいたリリアは耳まで真っ赤になった。
昨夜は突然のことでバタついていたとはいえ、名乗ることすら忘れていたとは。
「リリア、です。あの、呼び捨てでお願いします」
「なら俺も同じように、アドニスと呼んでもらって構わない」
騎士の返しにリリアは心底困惑した。どう見ても相手はリリアよりも立場が上の人間だ。
この小さな村から長年出たことがない田舎者でも理解できる。
それに今まで村の中で一番低い立場に置かれ、孤独な生活を続けたリリアは、人を気安く呼び捨てにすることに強い抵抗を覚えていたらしい。
そのことに気づいたリリアは頷くことすらできないまま黙するしかない。
幸か不幸かアドニスはリリアに返答を求めることはせず、話題を別のものに切り替えた。
「村長の家で、ロザリエ様が君を待っている。……急で申し訳ないが、共に来てほしいんだ」
そう頭を下げられて、リリアは胸の辺りが焼けつくような感覚に見舞われる。
先ほどから薄々気づいていたが、こうして謝罪をされるとどうにも具合が悪くなる。
散々粗食をしてきた体に脂ぎった肉を急に詰め込まれたような衝撃で、体が悲鳴を上げるのだ。
謝罪の言葉だけが理由ではない。
ロザリエもそうだが、アドニスから向けられる「癒し手」に対する敬意のようなものが。
いや、純粋にこちらの時間を使うことへの気遣い自体が。
今まで与えられなかったそれらの感情は、リリアの心には刺激が強すぎた。まるで裸の心に熱湯をかけられるように耐えがたく、辛い。
けれどそれを口にしては彼らも困ってしまうだろう。リリアは酸っぱい唾液を黙って嚥下した。
「かしこまりました」
アドニスの頼みを承諾し、外出の準備をして再び表へ出る。
入り口には留守中である旨の札をかけておいた。
これを村人たちが見たら、戻り次第リリアに苦情を言うだろうが仕方がない。
彼らが自分を責めるのは日常だ。決して平気な訳ではないが、だからといってそれがロザリエの招集に応じない理由にはならなかった。
だが万が一急病人が出たらという懸念はある。この村は老人が多い。
年を取れば体の不調は多くなる。彼らが癒し手であるリリアの不在に神経質になる気持ちは理解できないことではない。
村人たちはきっと不安なのだ。
おそらくは先代の癒し手が突然失踪した時の恐怖と不安がいまだに刻み込まれているのだろう。
リリアの師であり、母や年の離れた姉のような存在だったエルシア。
ある日突然村から姿を消したエルシア。
けれどそれは彼女の意志ではないはずだとリリアは信じている。
決して感情的な理由だけではない。
十年前のあの日。
少女だったリリアは友人と家の前で立ち話をしていた。
親に言われて卵の差し入れに来たのだと笑う相手を見送って、家の中に戻るまでの間は十分もなかった。
そのわずかな間に、台所で朝食の用意をしていたはずのエルシアは消えていたのだ。
台所ではスープが煮えていて、仕上げに入れる香草が途中まで刻まれたままだった。
今にして思えば、突然消失してしまったとしか説明がつかないような状況だった。
当時、そんなことは想像すらせず、少し席を外しただけだろうと思ったリリアは慌てて火を止めて、不用心な育て親に文句を言おうと家中を探した。
けれどどれだけ探してもエルシアは見つからなかった。
そして、その日から十年経っても彼女との団欒がこの家に戻ることはなかったのだ。
村長宅に着いたリリアは、その家の主人からの命令に目を丸くした。
「私の家に、ロザリエ様をしばらくの間お泊めするように、ですか?」
「そうだ」
何か文句でもあるのかというように村長がリリアを睨む。
ここに客人が居なければ実際にそう口に出して責めていただろう。
それを感じ取ったリリアは萎縮し頭を下げ、男から視線を逸らした。
けれど村長の態度は、弱気だが優しい彼らしくない――リリアは微かに違和感を覚えた。
どうやら随分苛立っているようだ。
そのことを敏感に感じ取り、リリアは怯えた。
それを察したアドニスの瞳が鋭く険しいものになる。
「ごめんなさいね、なんだか話の流れでそうなってしまって」
村長の横に立つロザリエが申し訳なさそうにリリアに謝った。
彼女は顔の大部分をヴェールで隠したまま、器用にも伝えたい感情を声に乗せて話す。
「けれど急な話だから、都合が悪ければ当然断っていただいて結構よ」
ロザリエの声の柔らかさに、リリアは恐る恐る緊張を解いて答える。
「だ、大丈夫です!」
それは、彼女にしては随分と大きな声だった。
リリアの返答を聞いたロザリエは嬉しそうに「よかった」と笑う。
その光景を村長は白けた顔で見ていた。リリアへの意思確認など、取るに足らない茶番に過ぎないとでも言うような冷ややかな目だった。
そんな彼を無視して、ロザリエはリリアを見つめて話しかけ続ける。
「安心して。男連中は村長の家で預かってもらうから」
「男連中……?」
「私の護衛の騎士たちよ、貴女を迎えにやらせたアドニスと、それから今は裏山で猪を狩っているグラジオ」
ロザリエの言葉にリリアは顔を青くする。
猪は立派な猛獣だ。一人であっさりと狩れるものではない。むしろ返り討ちにされる可能性のほうが高いだろう。
リリアはグラジオと同じ騎士であるアドニスを窺ったが、その涼しげな顔にはわずかな不安も浮かんでいなかった。
「あれの趣味は猛獣狩りだ。心配しなくていい」
なんの気負いもなく言われ、完全に安心しきれないもののリリアは納得することにした。
話が一段落すると、今すぐ診療所に戻り待機したい気分に襲われた。これは職業病というものだろうか。
「お肉が届き次第、豪勢にやりましょうね」
己の騎士の戦果を確信し、上品に微笑むロザリエの唇は美しかった。
「いやー猪見つかんなかったわ、スマン!」
赤髪の騎士グラジオはそう謝罪しながらも大きな山鳥を二羽仕留めて帰ってきた。
意外なことに、それを手際よく調理したのは貴公子のような美貌のアドニスだ。
リリアの家にあったハーブと、携帯してきたらしい瓶入りのスパイスを使い、彼は短時間で数品を仕上げた。
メインの肉料理とサラダとスープ。そして村長宅から分けてもらったというこの村では一番上等なパン。
その見た目とスパイスと肉が混じり合った芳香に、朝食を摂っていなかったリリアの腹が小さく鳴る。
ロザリエは顔を赤くした彼女に「ご飯にしましょうか」と笑いかける。リリアはその笑顔に、かつて共に暮らしていた女師匠を重ねた。
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