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73 賢者の目

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 鮮血皇帝の世界で抉り取られた賢者の片目。

 それをかつて自分の同僚だった男に返されたリヒトは、再装着を拒否した。

 出来ないというのではなく生理的に無理という理由で。

 どうやらディストの眼窩に収まっていた事実が許せないらしい。


『元は自分の下着でも、他人が履いた下着を履けると思う?しかも嫌いな奴のだよ?』


 自分の瞳と下着を同列に並べるリヒトの感性は正直理解しがたいが拒否の意思だけは伝わった。

 だからといって捨てるなよと何度も念押ししていたら、ある朝枕元にその眼球が転がっていて気絶しかけた。

 驚愕が落ち着いた後流石に起こって鏡の中の賢者を問い詰めたところ、勝手に脱走したと言われた。


『なんかこう、子豚ちゃんに懐いたんじゃないですかね。俺に向かって何回も大事にしろとか言うから』


 でも気持ち悪いから処分しようかとあっさり言われて必死で止める。彼はもう少し自分の眼球に愛着を持つべきだ。

 しかしリヒトの説明だとまるで眼に意思があるようだ。しかも移動までする。
 
 そんなことなどあるのだろうか。自らの記憶を探ると少し前に賢者が取り外していた左手が思い浮かんだ。

 あれは生き物のようにカサカサと地面を這いまわって、最初は驚いたがちょっと小動物みたいで可愛いと思った。

 この眼球も、似たようなものなのだろうか。だが手と違いリヒトの命令では動いてなさそうだ。

 両掌で包み閉じ込めていた眼球を改めて観察する。黒目の部分がきらきらと輝いている気がする。

 数秒間見つめ続けると垂直に跳ね始めた。どうやら興奮してはしゃいでいるようだった。

 ふにふにした弾力がリズムよく掌に伝わる。器用に飛び跳ねる眼球を見つめ俺はリヒトに言った。


『……可愛いな』

『俺の目もおかしいけど子豚ちゃんの目もおかしい』


 鮮血世界のディストの魔力も感じられるし勝手に動くなら処分なり封印なりした方がいい。

 そう主張するリヒトと口論になり、賢者が根負けした結果今は俺が飼育している。名前はまだない。

 カインたちの件が落ち着いたら腰を据えて考えようと思っていたところだった。

 家出したリヒトの目は愛嬌がありながら控えめで普段は俺の書斎机の引き出しで大人しく暮らしている。

 忙しいと存在を忘れてしまいかける程大人しく勝手に出歩いたりすることもない。

 更に彼、眼球に性別があるのかは不明だがリヒトが男性なのでそれに倣うことにする、は芸達者だった。

 その体は小さな球だが自分自身の強度や弾力を変えることができるらしい。天井近くまで飛び跳ねたりする。

 彼はその技を上手く使って戻ってきたばかりのムクロとすぐ打ち解けた。

 引き出しから出してやると二匹で仲良く遊んでいる。その光景をリヒトは玩具のボール扱いされているだけと評していた。可愛げがない。

 それだけでなくリヒトが今まで俺と話す時に使っていた消音魔法、彼の元眼球はそれを同じように使えた。

 室内の声や物音を外から完全に聞こえなくする術だ。最初に気づいたのはリヒトだった。

 彼は俺が話しかけなくても部屋の様子を観察している時があるらしく、それで不審がったらしい。


『俺が子豚ちゃんと話してる時の真似してるんだろうけど、ポイント稼ぎのつもりかな?』


 元々俺の魔力で俺の術なんだけど。そう嫌味を言う賢者を窘めながらこれは便利だと俺は思った。

 リヒトは多分持ち運べないが彼ならポケットに入る。つまりこの部屋以外で完全な密談が出来る。

 しかし持ち運ぶには眼球そのままだと落とした時に発見者が気絶しかねない。

 そんな訳で小さな石辺りに変化は出来ないかと彼に尋ねて見たところ要望通り黒い石になってくれた。

 実験と実用も兼ねてアーダルとの対面の時などにこっそりポケットに忍ばせておいたのだが、今まで気付かれなかった。そう思っていた。

 しかしまさか第一皇子である俺の服を断りなく乱す人間が現れるとは。

 しかもよりにもよってディストだ。もう一つの世界の彼から手渡されたものが、今この世界の彼に取り上げられている。

 皮肉な運命に笑うこともできなかった。

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