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第一章

9.女神の愛し子という概念

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 フィリス男爵の執務室はエリスティアの部屋の斜め向かいだった。
 だが距離自体はそれなりにある上、別棟である。
 十歳の子供の足で更に慎重に進むとなると到着まで十分はかかるかもしれない。

「それに迷ってしまう可能性もあるしね」

 明かりを消した室内。引っ張ってきた椅子の上に立ちながらエリスティアは父の部屋を見つめた。
 カーテンがある為男爵の姿は見えない。だが向こうの部屋の窓はほのかに明るかった。
 夜も大分更けているが部屋の主はまだ起きているという証拠だ。

 それがわかるのはエリスティアにとってありがたいことだった。

「部屋の窓が明るい時はお父様がいらっしゃるということだものね」

 父の部屋に突撃するなら使用人が少なそうな夜間にしよう。
 そうエリスティアは決めていた。
 ユーグ・フィリル。今まで一度も見たことも話したことも無い父。
 アキム第二王子に連れられて屋敷を出る時も不在だった筈だ。

「冷静に考えると大問題よね……」

 自分は屋敷内に捨てられたような子供だったから気にしなかったが、普通に誘拐だろう。
 父は自分が帰宅した屋敷から娘がいなくなったことを知ってどう反応しただろうか。
 エリスティアは想像してみる。
 隠さなきゃいけない厄介者が引き取られて清々したと笑ったかもしれない。
 だがその後フィリス男爵家は、女神の愛し子を隠匿した罪で取り潰されている。
 エリスティアの父もそして屋敷の使用人たちにも恐らく不幸な結末が待っているのだ。

「これも、改めて考えると変よ」

 父の居る執務室から視線を離さず黒髪の少女は呟いた。
 女神ヴェーラの愛し子で治癒の力を持つエリスティア。
 彼女の存在を隠し続けたことがユーグ・フィリスの罪。
 かって聞いた王妃の言い分が事実なら屋敷内でのエリスティアの扱いはおかしい。

「……お父様が私の髪と瞳の理由をご存じなら、どうして不義の子扱いされなきゃいけなかったの?」

 父に直接そう責められたことはない。
 ただ老いたメイド長や、そして聞こえる陰口を叩く使用人たち。
 全員エリスティアの黒髪紅眼は男爵夫人の浮気相手の色合いを継いだと信じていた。
 少なくとも使用人たちは女神の愛し子の特徴を知らないのだ。

「だからといってお父様も知らないとは言い切れないけれど、知っていて隠す理由もわからない……」

 エリスティアが邪魔だから理由をつけて隠したかった。
 そう考えもしたが、なら何故邪魔者を生かして屋敷内で育てるのかがわからない。
 赤ん坊の頃に捨てるか、最悪殺したって良かったのに。

 王宮での休みなしの過剰労働で死んだエリスティアは気づいたことがある。
 何も考えず生きていくだけなら今の暮らしはかなり恵まれていると。
 衣食住は豪華では無いだけで、寝て食べて寝る分には不足が無い。
 食事だって足りなそうだと思われたら増やして貰えた。

「だからといってこの生活を続けていたら狂うと思うけれど……」

 この部屋には娯楽の類がほぼ無い。古い絵本が数冊あるだけだ。
 エリスティアは字はかろうじて読めるが、屋敷内で教育など全く受けていなかった。
 寧ろ何故簡単な識字が出来たのかさえ謎だ。

 イメリアと親しくなる前は、窓の外を見るか寝るか床で転がるか絵本を読むか。
 それか覚えきった絵本の中身をブツブツと口に出し続けて廊下を通りがかった使用人に気味悪がられるか。
 そんなことを毎日ひたすら繰り返していたことを思い出し黒髪の少女は顔色を青くした。

「うん、駄目ね。絶対頭がおかしくなっちゃう」

 過労死した記憶を引きずり精神が疲れ切っていたから放置され寝放題な現状を快適に思えているだけだ。
 エリスティアは殺風景な部屋に視線を移し、執務室への突入計画を練り始めた。
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