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僕はまた流された
しおりを挟む僕は流れる日々を
ただじっと見ているだけの存在に過ぎない。
今日も明日もこの先も。
多分ずっとそう。
……そうに、違いなかったのだ。
***
失礼ながら新しい学び舎は中学の時より気持ち古く、大型台風が直撃したら直ぐにでも崩れてしまうような気がした。
2024年4月15日
今日は倉ヶ丘高等学校 入学式の日だ。
校長の長い話もさておき、全校に響き渡るチャイムの音と共に新入生体育館から次々に教室へと流れ込む。整列している訳では無いので、各々誰かしらと並んで歩いたりしていた。
僅かな移動距離にも関わらず栗原唯斗の前を歩く男子生徒数人はワイワイと、盛り上がっているようだった。
「校長の話まじ長ぇ!!」
「それなぁー!?」
新入生とて一切物怖じしないのないその声量に
若干肩を竦ませながら唯斗は1人、ポツン、と歩いていた。前を歩くパリピ集団に関してはまるで映画のワンシーンかのようにどこか客観的に見つめている所であった。
同じクラスに同じ中学出身のクラスメイトが1人もいなかった唯斗にとって、ここは見慣れない顔ぶればかりだった。
1年1組。今朝入学式までの数十分過ごしただけの教室。自己紹介すらしていない現段階では仕方の無い状況かもしれないが、話し相手がどこにもいないというのはやはり少し寂しい。
しかし前を歩くクラスメイト及び、陽キャ&パリピ集団に話し掛けられる程の勇気など、唯斗にはなかった。
***
自己紹介はそれぞれほんの1ヶ月程前に卒業したであろう出身中学と、フルネームを言っていく、という簡単なものだった。
きっと自己紹介を提案する担任によっては
趣味や特技を言わされる可能性もあるが、
唯斗のクラスの担任は割とサッパリとしていて、自己紹介も形式的にさっさと終わらせて、さっさと解散してしまいたい様子に思えた。
きっと今年度、唯斗の担任となった中年男性は体育祭などの行事で腕まくりをするような熱血教師ではないだろう。肥満体型である事からもそれは見て取れた。
前の席の生徒が自己紹介を終えた。
次は唯斗の番。
ドキドキと高鳴る鼓動を胸に唯斗は椅子を引く。机に軽く手を付き立ち上がると同時にクラス中の視線が一身に注がれた。
注目される事があまり得意では無い唯斗にとってなんとも苦痛で耐え難い時間だった。早く言ってしまおう。
「鈴並中から来ました。栗原唯斗です」
逃げるように自己紹介し、逃げるように着席した。あとは緊張が解けていく一方だ。
唯斗の席は窓際の1番後ろ。折り返し地点である為隣の席の女子に自己紹介は移る。彼女が上品に椅子を引いて立ち上がる所作を横目に唯斗は、ホッ、と息を吐き出していた。
これから1年過ごすクラスメイト達に悪い印象を与えていないのならそれは唯斗にしては上出来だと思う。
唯斗は顔を上げ、隣の彼女に視線を当てた。
「歩森中から来ました。茅野麻衣です」
髪を高めの位置で1つに束ねた彼女が軽くお辞儀をして腰掛けた。サラサラの髪が肩に乗っかりサラリ、と滑り落ちる。
そんな彼女の姿を唯斗は何を思う訳でもなく、
隣の席からボーと眺めていた。
いや。前言撤回。
彼女を無の感情で眺めては居なかった。一瞬目がクリッ、としていて可愛い子だな、とは思った。
それ以降も残りの生徒の自己紹介の最中。彼女と何度か目が合った気がしたけどどちらからともなく視線をそっと外すから、会話をするまでには至っていない。
***
今日は入学式と自己紹介ぐらいしかなく、
解散となったのはお昼前。11時30分頃の事だった。初日なんてどこもこんなものだろう。
早く帰ってしまおう、と机の横に掛けた真新しいスクールバッグに手を伸ばしかけた所で唯斗の肩は何者かにトントン、と叩かれた。
唯斗の高校生活において、今のトントンが
誰かとの初めての接触だった。
「あの……」
唯斗の肩を叩いたのは隣の席の彼女だった。
柔らかくセットされた彼女の横毛がふわり、と揺らめく。確かこの学校、カラコンは禁止だがこうして直視するとカラコンを疑う程綺麗な瞳をしていた。
「ちょっと……いいかな」
透き通るような彼女の声はどこか不安そうに震えていて、見るからに緊張しているのがこちらにも伝わってきていた。
「あ、 …はい」
それにしても話し掛けられるなんて思ってもみなかった。ましてや女子に、なんて。
保育園時代は男女関係なく、わいわい遊んでたと思うが、小中での唯斗は女子と話す事なんて滅多になかった。どこか懐かしい新鮮な気持ちが胸にぶわぁ、と広がっていくのを感じる。
こうして見つめ合うと見るからにすべすべの陶器みたいな肌…、丁寧に保湿された艶のある唇…、彼女の持ち合わせる可愛らしい容姿がパッ、と唯斗の視界を覆い尽くすのであぁ、今自分は女子と話しているんだ、とさらに思わされた。
「え、と……めっちゃいきなりなんだけど」
ひっきりなしにさ迷わせていた視線を真っ直ぐと唯斗に向ける彼女。聞き逃したりなんか決して出来ないような、何か大切な事を言われる気がして何となく身構える。
彼女は意を決したように大きく深呼吸して言った。
「私と付き合ってくれませんか?」
その言葉を境に、時が止まったようだった。ここだけ。唯斗と彼女が立ちすくむこの空間だけ。綺麗に。ピタリ、と。
「え?」
あまりにも衝撃的なセリフに唯斗は固まる他なかった。視覚と嗅覚…その他諸々が全て彼女に持っていかれる。
確かに”めっちゃいきなりなんだけど” と前フリするだけの事はある内容だった。
これ……、こ、こ、こ、告白!?
「あの…」
ピクリとも動かなくなった唯斗の顔を彼女が控えめに覗き込む。我に返った。
「あぁ、ごめん。びっくりして」
意味もなく襟足を触り、弾かれたように1歩後ろに下がった。しかしそんな混乱状態の唯斗を察してか、彼女はぎこちない笑みを浮かべ、慌てたように口を開く。
「あっ、まず……自己紹介、だよね!ごめん、えと、私は────」
「あ…分かる、よ。茅野さん、だよね?」
遮るように彼女の名を口にした。
新学期早々隣の席である彼女は茅野麻衣。
自己紹介の際、唯斗のすぐ後が彼女の番だったから印象に残っていた。安堵の溜息と共に頭にスっ、と入ってきた名前だった。
「そう!茅野」
彼女は唯斗の言葉を聞くなり、嬉しそうに右側だけにあるエクボを凹ませながら笑った。そんな屈託のない笑顔に少し場が和む。
それにしても…さっきのは一体どういうつもりなのだろうか。相変わらず混乱の渦のど真ん中を彷徨う唯斗は考える。
少し話は逸れたが先程の彼女の発言。
交際を……申し込まれた。
そういう解釈でいいのだろうか。
だとしたら返事がいるやつだ。
しかしながら唯斗はこの茅野さんに交際を申し込まれるような言動は身に覚えがない。
出身中学も違うし、今日会ったばかりの間柄に過ぎないのだ。
たとえこうして同じクラスでも、隣の席でも、
これから学校行事を通して仲が深まる可能性は捨てきれないが、今現在の唯斗と彼女は、とても交際するに値する間柄ではない。
一体何がどうなって、
彼女はこんなだいそれた発言を、唯斗に?
好いてくれている…のか?いや。きっとそういう事なのだろう。でも何故?
思わず尋ねた。
「なんで……僕に?」
ーー自分のどこに交際を申し込みたいとまで思った魅力が?
告白なんて唯斗の人生において初めての経験。
戸惑うのも無理はない。しかしこの後の彼女に唯斗はもっと戸惑う事になる。
「あ、そうだよね、ごめん突然。
栗原くんにとっては初めましてだもんね」
”とっては”───────?
唯斗はその不思議な物言いに少しだけ首を傾げた。聞き返す。
「僕に……とっては、って?」
まるで彼女にとっての唯斗は
初めまして、ではないみたいじゃないか。
「あ」
彼女はほんの一瞬だけ
知られてはいけない事を知られてしまった、とでもでもいうように短く声を発した。
しかしそれを取り消すかの如く、
すぐに顔の前で手を振った。
「なんでもない!忘れて!」
彼女にとって、先程の発言は唯斗が忘れなければならいない事、だったのだろうか。まるで名探偵かのように謎の推理・考察を続ける唯斗はチラッ、と彼女を盗み見た。
「え……っ」
思いがけず声を漏らす。
彼女の目尻から顎先にかけて猛スピードで何かが伝う。……涙だ。
彼女の頬に1滴の涙が伝っていたのだ。
「どっ、、どうしたの?」
唯斗はポタリ、と床に落下にした彼女の涙を目で追いながら尋ねた。これではまるで唯斗が泣かせているかのようではないか。
いや。もしかしたらそうなのかもしれない。
自分に交際を申し込まれるほどの魅力はない、とは思うが、せっかく勇気を出して告白してきてくれたんだ。
それを唯斗は人生で初めての告白ゆえ、いつまでも動揺し、なかなか返事をしない。一見明るくニコニコ、と唯斗に接してくれている彼女。
しかしそれは彼女にとって泣き出してしまう程、嫌な事に値してしまったのかもしれない。
「なんか……」
彼女は手の甲で涙を拭い、
安心したようにフワッ、と表情を崩した。
そして少しの間の後、両手で胸を押さえた。
「喋れたぁ~…、って思って」
心底ホッ、としている様子に見えた。
唯斗は拍子抜けすると同時に遠慮がちに尋ねる。
「僕と?」
「うん。栗原くんと」
噛み締めるように唯斗の名を言った彼女の涙腺は未だ緩んでいて足元には涙の跡が増えていくばかりだ。
唯斗と喋れた事は彼女にとって泣く程の事だったのだろうか。嬉し涙、と捉えていいのだろうか?
捉え違いだったら申し訳ないが、唯斗の目には彼女が”唯斗と喋れた事”をとても嬉しがってくれていたように映っていた。
無論唯斗は芸能人でもインフルエンサーでも無いただの一般人だ。そんなに歓喜される覚えはないのだが。
唯斗はハンカチを差し出そうとポケットに手を突っ込んでみるが今日は寝坊し、思考がハンカチを持ってくるまでに至っていなかった。つまり何にも入っていないのである。
唯斗はオドオドしながらしばらく彼女が泣き止んでくれるのを待とうとしたのだが、そんな間もなく、まだびちゃびちゃの頬を綻ばせて彼女は言った。
「好きです」と。
ストレートすぎるシンプルなその言葉に唯斗はドキリ、とした。
女の子から好意を伝えられる。
唯斗には無縁な事だと思っていた。
結局なぜ唯斗に告白してくれたのかは彼女の涙に驚き、聞けずじまいだったがまだ出会って1日……いや、1日にも満たない!…まだ出会って数時間な訳だし、一目惚れ、とかそういう類なのだろうか。
いや。される程自分が容姿端麗だという自負はもちろん無いのだが。
何にせよ、こうして想いを伝えてくれる事は嬉しい事だった。”僕なんかに?”の、精神はまだ唯斗の心中に燻っていたが、そこはもう一旦置いておく事にした。
「ありが、とう」
照れくささを隠しつつ、たどたどしくお礼を伝えた唯斗に彼女は濡れたまつ毛を少し伏せながらフリフリ、と首を振った。
”とんでもないです!”
と言わんばかりにとても謙虚に。
しかし、これでハッキリした。
彼女は唯斗に好意を持ってくれて、交際を申し出ている。正直罰ゲームか何かかと思ったりもしたがこの様子だとどうやら違うらしい。
込み上げる嬉しさと、
突然の事に対する戸惑いが
唯斗の胸をじんわりと支配していく。
それにしても、これ以上待たせるのは忍びない。そろそろ、返事をしなくては彼女に失礼だ。唯斗は返事をしようと閉ざしていた口を開く。
「え、と…」
「はい!」
彼女は目をパッチリ開いて唯斗に向き直る。
元気の良い返事はまるで忠犬のようだった。
有難い事に彼女は既に唯斗に好意を寄せてくれているようだが、唯斗は彼女に話し掛けられる数分前まで彼女の存在を”隣の席の女の子”、または”クラスメイト”としか認識していなかった。現時点で好意は無いに等しい。
唯斗は返事をした。
***
それから唯斗は彼女と軽く言葉を交わし帰路に着いた。校門前に咲き誇る大きな桜の木を横切る際も。途中コンクリートブロックにぶつかりそうになった際も。駅に向かう途中の唯斗の頭は彼女でいっぱいだった。
電車に数分揺られ、最寄り駅に到着した唯斗は
幼馴染である下野和也の自宅に訪れていた。
和也の家は最寄り駅から唯斗の自宅間のほんの数メートル地点に位置しており、立ち寄るにはちょうど良い場所だった。
和也の自室であるこの六畳一間の畳部屋は昔から唯斗の第2の家、のような場所。唯斗の家に畳は無いのでこの独特の匂いが唯斗を体の芯から解していた。
「まぁっ、最初はそんなもんさ。落ち込むな」
励ますかのように唯斗の肩を撫でる和也。唯斗は若干小馬鹿にされている気がしないでもないので軽く睨む。こんがりと日焼けした和也の肌は野球部らしさをこれでもかと強調していた。
「おもしろがってるだろ」
「そんな事ないさ」
和也は2人の間に置かれたチョコ菓子を口に運ぶ。和也も唯斗と同じく今日は入学式で
部屋の隅には着崩されていない制服が掛かっていた。
倉ヶ丘高校の制服とは少しデザインが違っていたがそこまで大きな違いはない。和也は倉ヶ丘高校よりももっと偏差値の高い隣町の進学校。入学式早々さっそく友達が出来た、と先程自慢されたばかりだった。
「唯斗は幼き頃から少しばかりコミュニケーション障害を患っているんだから仕方ないさ」
先程から、落ち込むな、 など、謎に、そして過剰に唯斗を励ましてくる和也だが、唯斗はまだ今日学校で何があったかなどこいつに話してはいない。一切。
なのに、この反応。
もう既に何かを失敗し、それに唯斗が酷く落ち込んでいるのを前提にしているかのようではないか。
確かに和也の言う通り、不本意ではあるが
唯斗がコミュ障である事は事実。新学期などは緊張して新しいクラスに上手く馴染めない事がほとんど。
だけど1人である事を本人は別に嫌がってはいない、とアピールする為にわざわざ苦手な読書を休み時間によくしていた。
100%周りへのパフォーマンスであった。
和也とは幼馴染だが同じクラスになったのは中学3年の1回のみ。コミュ力お化けである和也が居てくれたからその年は良かったものの…。
小1から中2までの唯斗は完全に読書好きの優等生、的な立ち位置になってしまっていたのだ。
おそらく和也は今日も唯斗が読書好きの優等生を倉ヶ丘高校で実行してきた、と思っている。
まぁ、今日は入学式でバタついていて特にそれを実行する時間はなかったのだが…、もしかしたら今後、やはり例年通りそうなってしまうかもしれない。
実際今日の帰り際、同じクラスの男子生徒がわいわいと連絡先を交換している所などを目撃し、酷く落胆していた。
唯斗も男友達を作りたかったのだ。
もうこれで1歩出遅れた、と肩を落としながら和也の家にこうして流れ込んだのだから、あながちその断定は間違いでは無い。不本意ではあるが。
しかしながら唯斗は今日、誰とも連絡先を交換しなかった訳では無いのだ。唯斗の頭に、その時ポンッ、と彼女の顔が浮かぶ。
茅野麻衣だ。
そうだ。今日はその事を和也に相談しようと思っていたんだ、と思い出す。唯斗は放課後交わした茅野麻衣とのやり取りを和也を話した。別に告白されました自慢、とかそういう感情は一切なく、ちょっと引っ掛かっていた事があったのだ。
「なんだって?」
「え?だから、好きだって言ってくれた子がいて、それでさ───」
「唯斗。…大丈夫か?」
「うん。大丈夫。それでさ───」
「コミュニケーション障害に加えてとうとう厨二病も発症したというのか」
唯斗は大きく息を吐き出した。
ーー告白してくれた女子がいる。
そう話した途端これだ。
心底軽蔑した目が唯斗に寄せられる。
まるで妄想か冗談を口走っているような扱いを一身に受けた。
早く本題に入りたい、というのに
ほんとにこいつは……。
唯斗が誰かに告られる可能性はゼロに等しい。
そう信じて疑わない様子だ。軽く嘲笑い、患者に向けるような心配そうな眼差しの和也を再び睨む。
「まぁ、仮にされたとして、それは一目惚れ、といった所だろう。お前の見た目は確かに一目惚れしやすい。そこは認めよう。だが中身がちょっと…あれだ。」
「なんだよ、”あれ”って」
「コミュニケーション障害だ」
和也にとって唯斗の代名詞は”コミュニケーション障害”なのだろうか。まぁいい。言われ慣れている。
「っていうか、一目惚れしやすいか?僕」
ディスりに紛れ褒められた自らの容姿について首を傾げる。自分のスマートフォンを取りだし、そこに鏡よりも不鮮明にモノクロで反射する自分の顔を見つめる。
そこにいた自分は切れ長…と言うほどでもない多分一般的な目の形とサイズ。そこに僅かにかかる先月ちょびっとだけ切った伸びかけの前髪。そして分厚くも薄くもないこれまた多分一般的な形とサイズを併せ持った唇と鼻。痩けている訳でも肥えている訳でもない頬も、その平凡さに拍車をかけているようだった。
これらを併せ持った唯斗はそう。
ザ・普通なのだ。
見れば見るほど、とても人様に一目惚れをされてしまうような容姿とは程遠い気がしてしまう。やはり自分は一目惚れされる器にはない。
今今それをとてもよく実感させられたところだ。
「謙遜ですか」
「違う、いや本当に!」
自分を客観的に見てかっこいい部類に入るか入らないかだったら入らない方だと本気で思っていたのでこれは謙遜でもなんでもない。
しかし今の和也には何を言っても解釈が酷い方面にいく。もう褒め言葉だとして素直に受け取っておく事にした。
「で?なんて返事したんだよ?」
面白がって信じてくれてはいないと思っていたのだが意外にも真剣な顔をしている。まだ半信半疑といった所だろうが一応は受け入れてくれたらしい。唯斗は閉ざしていた口を開き、こう答えた。
「僕でよければ、って」
脳裏でかなりクリアに過ぎる先程の事。
唯斗は彼女にそういう返事をしたのだ。
彼女の事が恋愛的に好きか嫌いか。
それはもちろん嫌い、になってしまうと思う。だってまだ彼女の事は本当に何も知らない。なにせ出会って数時間の間柄なのだから。ただ自己紹介の際、目がクリッ、としていて可愛い子だな、と思った程度。
そんな安易な理由であそこで「僕も茅野さんの事好きだよ!」なんて言ってしまえば、逆にこんな一瞬で?となるだろう。唯斗もそこまで軽い男ではない。
なのに形上。
唯斗はあの告白を受け入れた、になっていた。
すごくずるい返事の仕方だと自分でも思う。
好意を曖昧に濁しつつ僕でよければ、なんて。
しかし彼女はそこら辺も察してか、あの後
「いいの?」と尋ね、頷いた唯斗に
「好きになってもらえるよう頑張るね」と微笑んだのだ。
あの選択をしたにも関わらず、彼女の中では
唯斗はまだ自分に好意を持っていない、と
ハッキリと確信を持っているようだった。
それに関して強い否定は唯斗も出来ていなかった。
世間一般的には好き同士が交際するのがポビュラーだが、付き合っていくうちにだんだん好きに…。というケースも稀にある。
”唯斗達の交際”は恐らくそっちに近いものだろう。そして、彼女もそれを暗黙の了解、かのように理解してくれている。
その事に関して彼女は特に悲観的になっている訳では無く、むしろ突き動かされる感情のまま、彼女の告白に「僕でよければ」などと返事をした唯斗に今後”付き合って”くれるのはもしかしたら彼女の方なのかもしれない。
なんて、考えていた。
「僕でよければ、って…唯斗はその子のこと好きなのかよ?初対面、だよな?」
「いや、まぁ…初対面、…なんだけど」
反論はなく視線を徐々に下げる。
きっと初対面でさっそく付き合うなんて、軽い、と思われているに違いない。自分でもそう思う。すぐに顔に出る和也は今訝しげな表情をしていた。
ーーでもすごい可愛い子なんだよ
一瞬そんな言葉が口から出そうになったが止めた。可愛けりゃ好きに結びつくのか?と自分に問い掛けた所、そういう訳じゃない、と瞬時に答えが出たからだ。
「唯斗はそういうとこあるよなぁ」
ふぅー、と大袈裟に吐いた息と共に点を仰ぎゴロン、と寝転がった和也。「え?」と聞き返す。
「いや、いつもどっか受け身、っていうかさー。なんていうか、そう言われたから、そうする、的な?流れに身を任せ~。さすれば~傷つかなぁ~あいぃ~とぉお~…」
真剣な話をしていると思いきや急に最近流行っているバンドの曲の1部を歌い始めてしまった。
「受け身……」
その歌の歌詞も合わせて何となく的を得ているような和也の言葉になんだか図星をつかれたような気になる。
「そうそう、いつもどこか保守的、っていうかさ」
またしても図星である事には変わりない。しかしながら社交的な性格では無い人間は必然的にそうなってしまうものでは無いのだろうか?とも往生際の悪い言い訳みたいに思った。
「まぁ、それはさておき。本題は?」
そう切り出した和也にびっくりした。確かにただそんな自慢話をしに来た訳ではない唯斗だったがそんな事まで和也は何故分かるのだ。
「なんでこの話に本題があること分かるんだよ」
返ってきた答えはシンプルだった。
「カン」
唯斗は早速本題に入った。
「正直どう思う?」
「何がだよ」
「この状況……だよ」
ーーこの状況
それは唯斗が初対面同然で茅野麻衣に告白された事についてだ。
「なんていうかさ、そういう感じの子に見えなかったんだよね」
告白だけでも唯斗にとっては大きな壁なのに大した関わりのない初対面同然の入学式当日だ。
告白、に対する価値観がもうはなから違うというならまだしも……。
「えー。でも告白に対する価値観て全国共通じゃないの?」
自らが生み出した可能性はやっぱり上手い事腑に落ちなくて頭を抱えた。
「まぁ、一目惚れなら結構そういう事する子いるじゃん?早く自分のものにしないと誰かに取られちゃう!みたいなさ」
「いやー…マジの好意だけで告白してくれたんならいいよ…?でも……」
”でも”ばっかの唯斗はボソッと言った。
「…なんかこういうのよくあるじゃん。ドラマとか映画で」
そう。この状況1番の引っ掛かりを見せたのはここだった。唯斗は続ける。
「余命幾ばくもない女の子が誰かに突然告白して、最期の時間を一緒に過ごす、って感じの…」
若干の既視感を含む引っ掛かりは多分そこ。
何となく、状況が類似しているというか。なんというか。唯斗の考え過ぎなのだら全然いい。
茅野麻衣が唯斗に一目惚れしていても立っても居られず告白。その背景に命の危機が迫る何かが何も無いのなら全然いい。
でも─────…
涙を流す彼女の姿を思い出してはなんだか気になってしまっていた。学校からここに来るまでの間そんな考えが唯斗の頭をせっせと行ったり来たりしていたのだ。
「唯斗はよくもそんな考えが浮かぶなぁー。そしてよくもそんなシリアスな表情が出来るなぁー」
どうやら唯斗の顔はシリアスだったらしい。
密室殺人のトリックを暴こうとする刑事みたいだぞ?とさらにそれらしい例えを見出されてしまい、小馬鹿にしたように笑われた。
まぁ…確かに和也の言う通り唯斗の考え過ぎな部分もある。ここで男2人で考えたって当然の事ながら答えなど見つからない。1度この話は終わり、最近和也がハマっているゲームの話やらなんやらを聞かされ、帰り際の事だった。
「で?なんて呼んでるんだよ、その架空の彼女さん、とやらは」
玄関先で和也がニヤニヤしながら尋ねてきた。
ここへ来てやっぱり完全に信じて貰っていない事が判明。若干腹を立てならがも、唯斗は緊張の面持ちで口を開いた。
「…まい」
帰り際。彼女に麻衣、と呼んでと言われ、分かった、と了承した唯斗。だが口に出すのは初めてでなんだかむず痒かったのだ。本人がここに居る訳でもないのに。
「まいちゃんかー、あはは!」
和也は終始半笑いでコミュニケーション障害の果てでこじらせた厨二病、とでも言わん目で唯斗を見ていた。
***
翌日。唯斗は大きく深呼吸して自分のクラスに足を踏み入れた。教室には既に数人いたが、1番最初に唯斗の目が辿り着いたのは言うまでもない。茅野麻衣の席だった。
唯斗は彼女の席を横目にスクールバッグを机の横に掛け、席に着く。彼女はまだ来ていなかった。その事に少しばかり安堵してしまっていた。
いつもなら容易く出るはずのあくびが今日は出ない。そう。唯斗は今、緊張していた。
昨日の今日だ。どんな顔で会ったらいいのか、恋愛経験皆無。交友関係も和也くらい。の唯斗がその答えを見つけ出せるはずがなかった。
ともあれ安堵、とは何事だ。とも思っていたのである。
結局、彼女が友人と駆け込み乗車のように着席したのはHRが始まる5分前だった。彼女はもう、このクラスで友達が出来たのか。と関心する半ば、もしや彼女は和也のようにコミュ力お化けの仲間なのだろうか、と考えていた。
考えてみれば初対面同然の唯斗にあんな唐突な告白が出来たのだ。そうなのかもしれない。そして「ねぇーなにそれー」などと友人とじゃれ合いながら教室に入ってきた事からも、コミュ力お化けに加えて、陽キャでもあるのかもしれない、と。日々スクールカーストばかり気にして生きる唯斗は思わざるを得なかった。
別に大して読む気のないブックカバーに包まれた【君が好きだ】というあらすじすら知らない小説を片手に持つ唯斗に隣の席に座った彼女の視線が浴びせられた。
読書をしている(風を装っている)唯斗を気遣っての事だろう。教室内はまだ結構騒がしがったか、小声で「おはよう…っ」と挨拶をしてきた。
唯斗も本から目を離し、「お…おはよう」と返す。
まだぎこちない空気が漂っている気がするが
それは彼女も感じていたようで、胸元で揺れる赤いリボンを照れ隠しのように手でいじっているのが見えた。いじりすぎて結び目がホロホロと崩れていっている。
昨日の事が走馬灯のように脳裏に過ぎる。
唯斗達は今…、いわゆる交際をしている。
そんな事実がお互いに走っているのだろう。
教室に入るまでは友人と割と大きな声で盛り上がっていたにも関わらず、この席へ来て、唯斗と話す時の彼女は昨日に引き続き、どこか遠慮しい。
まだ素が出せていない。
という状態なのかもしれないが唯斗的には昨日でぐん、と上がっていた気もしていた。
「なんでもない!忘れて!」と言われてしまった手前思い出すのも申し訳ないが、昨日、
ーー栗原くんにとっては初めましてだもんね
と、まるで彼女にとっては初めましてではないかのような物言いをされた。でも
彼女にとっても、こうして唯斗と話すのは、やはり初めまして、な気がした。
「ねね。次の時間あれやってもいい?」
次に口を開いた彼女はガタン、と椅子を引きながらある提案をしてきた。やはり遠慮がちな目だ。
「あれ?」
廊下からおそらく担任教師のものであろう足音が聞こえてきたので本を机に押し込みながら尋ねる。
すると、彼女は「ずっとやって見たかったんだけどね」と、言いながら筆箱から可愛らしいメモを取り出して唯斗に見せた。
「授業中こっそりメモ飛ばすやつ」
朝っぱらそんな可愛らしい提案をしてくるんだ?と面を食らい、唯斗は軽く笑いながら「あぁ」と声を漏らしていた。
「席、隣だしね。うん。いいよ」
そのやり取りに和みつつ、唯斗はほんの少しだけ次の時間を待ちわびていた。唯斗も、授業中にこっそりメモを投げるのは密かに憧れていたのだ。男女共通で憧れずにはいられないスリリングな遊びなのかもしれない。
***
次の授業は高校で初めて受ける授業だった。
記念すべき1回目は国語。
「はい、じゃあ、まず教科書読んでくぞー」
名簿順16番の女子生徒が「今日は16日だから」と運悪く当たり、席を立って読み始める。
その隙に唯斗の机には小さな紙くずが飛んできた。
チラリ、と彼女の方を見ると目が合った。
少し体制を低くしながら笑っていて、そんな姿に少しばかりキュンと、してしまう自分がいなくもなかった。
飛んできたのは、花柄が所狭しと散りばめられたメモに【投げたよ】と、女の子らしい丸っこい字で書かれていたものだった。
唯斗は裏面に【投げられたよ】と書いたものを彼女の机に投げる。
投げられたよ、とボールペンを動かしている時にふと思った。なんて初々しいやり取りなのだろうか、と。
唯斗のメモを受け取った彼女の横顔を盗み見る。口角が上がっていて、それを見た唯斗まで思わず口角が上がる。
それからは、アンケートのようなやり取りだった。
【お休みの日は何してるの?】
【好きな動物いる?】
【甘いもの好き?】云々。
唯斗はされる質問に答えつつ、【麻衣は?】と、同様の質問をしたりして、時間が過ぎていった。一限の授業はただ教科書を読んで板書をノートに書くだけだったので、手元がコソコソしていても不審がられる事は無かった。
両者のやり取りは、一見淡々としていたが、授業終了のチャイムが鳴る3分前程に彼女が寄越したメモだけは特別みがあり、唯斗はそのメモの内容を何度か目で追っていた。ずっと唯斗に対する質問続きだったやり取りに終止符が打たれたのだ。
【お花見、行きたい!】
それは質問ではなく、唯一投げ込まれた彼女の願望であった。
お花見…。
今の季節、至る所に桜が咲いている。
もう来週辺りには散り出してしまうだろう。
唯斗が知る限りのお花見スポットを頭に浮かべ、そこで彼女と自分がお花見をしている…。
そんな風景を想像しながら唯斗は裏面にボールペンを走らせた。同じく「!」で締め括る。
【うん。行こう!】
授業終了のチャイムと共に彼女の手元に渡った唯斗の返事を目視するなり、またしても…彼女はエクボを浮かべながら涙を零していた。
え…。
ポタリと、メモの上に落下したその涙に
唯斗は目を見開いた。
泣く意味が分からなかった。
泣く所だっただろうか。
唯斗が泣かせたのだろうか。
「じゃあ終わるぞー、日直ー」
「きりーつ、れいー」
号令によりゾロゾロと立ち上がるクラスメイト。彼女は誰よりも遅く立ち上がった。
唯斗が最後に投げたメモを4つ折りにして筆箱に閉まっていたからだ。1やりとりにつき、彼女は新しいメモを取り出してきていたのだが、唯斗はこの時間、同様に彼女がそうしている光景を見かけた。
彼女の机にちょこんと置かれている筆箱の内ポケット。そこに収納されていっているようだった。だけど最後に交わしたメモは一際…丁寧に折り畳んでいるように見える。まるで何かを噛み締めるかのように。
「麻衣ー、って!あんたなんで泣いてんのよ!」
授業後。唯斗が声をかける間もなく友人の立花彩月が彼女の席を訪れていた。お笑い芸人のように突っ込まれつつ泣いている事を指摘された彼女は慌てた様子で「あくびだよ」と、弁解していた。
あくび……なんてしていただろうか。
そもそもあくびてでこぼれ落ちるほどの水分は目から排出されるだろうか。
なんて涙の真相を一瞬疑いにかかったものの、彩月との会話をすぐに弾ませる彼女を見ていたらそこまで深追いする気にはならなかったのだ。
でも…
2人のそのやり取りを隣で聞き耳立てていると
彼女の唯斗との接し方と友人との接し方。
やはり差がある。縮まりきれていない距離を実感させられた。
それにしても彼女の涙の流し方は昨日も思ったが、なんというか…、ポロン、と本人も気付かぬ間に落ちてしまった、みたいな感じなので、涙の真相が読み取りずらかった。
1限はそうして終わりを迎えた。
小学校時代から唯斗は別に授業に真剣では無く、消しカスをどれだけ繋げて長く出来るかチャレンジを1人静かに開催していたり。複雑な迷路を教科書の隅に落書きしていたり。と、割と授業そっちのけで遊んでいるタイプ。
授業=退屈だという認識なので、その時間定期的に机に投げ込まれるメモには一切鬱陶しい気持ちはなかった。むしろワクワクしていた。バレてはいけない文通。単に彼女の思いつきかもしれないが唯斗は楽しい、と感じていた。
しかしまたしても授業の邪魔をしてはならない、と気を遣われてしまったのかもしれない。
2限の数学が始まる前、彼女が唯斗に「ありがとう、楽しかった」と、まるでそれが終わりの合図かのように言ってきて、メモ飛ばしはあの1限きりで終わってしまった。
「またいつでも」
と、言ったはいいものの…
その返事に彼女も嬉しそうに「うん!」と頷いてくれたはいいものの…
唯斗も彼女の授業の邪魔をしてはならない、と思い、唯斗から積極的に投げたり、などはしなかった。
***
薄暗いコンクリートの階段を1段1段上る。
コツンコツン、と自分の足音がやけに大きく響く。南校舎3階のこの場所は陰キャに適応するかのように人通りが少なかった。
この高校で初めて昼休みを迎えた今日。
唯斗は屋上で1人、弁当を食べようとしていた。
もちろん、友達が居れば一緒に食べたい気持ちはあるが、残念な事に居ない。半日経過したが未だ唯斗に友達なるものは出来ていなかったのである。
教室で食べるとぼっち弁、だとか言われてしまいそうなので屋上を選んだ。屋上は意外にも誰も居なくて、これからここで食べる事になりそうだな。と何となく高校生活における昼時のルーティンを胸の内に収める。
空気も澄んでいて、上を見上げれば空がある。雨の日は難しいかもしれないが、早くも穴場を見つけた唯斗は少し段になっていて座るにはちょうどいい場所に腰掛けた。
と、その時だ。
どこか聞き覚えのある女子生徒の声が近付いてきて、屋上の重たい扉がギー、と開いた。
次に唯斗と目が合ったのは立花彩月だった。
そしてその後ろから麻衣がひょこっと顔を出す。
2人とも手に弁当袋を握っていて、唯斗同様これから食べる所みたいだ。2人がここで食べるのなら、唯斗は場所を変えた方がいいかもしれない。女子には男子に聞かれたくない話がきっと山ほどあるだろうから。
そう思い腰を浮かせた唯斗だったが麻衣が唯斗の元にぴょこぴょこと走ってきた。そして、不思議な質問を唯斗に投げ掛けたのだった。
「ねね。この空、なんか可愛くない?」
「空?」
唐突すぎる話題に、唯斗から素っ頓狂な声が出てしまった。
「うん!分かんない…かな?例えばこの空がメモ帳になったとしたら、可愛いーこのメモ帳!って思わない?」
麻衣が見上げた空を唯斗も見上げた。
今日の空は青い画用紙に白いペンキでモクモク、と描かれているような空。遠くの方は青の彩度が薄まり、綺麗にグラデーションになっていた。
先程唯斗が1人で屋上に来た際、思わず目を奪われ、スマートフォンで写真を数枚撮った程だった。そして麻衣も今この空に目を奪われていて、パシャ、とシャッター音を響かせていた。
「あぁ、ね。可愛いよね」
実際は綺麗だな、と思ったのだが、
可愛い、とも思える空だった。
それに、麻衣がほんの数分前の唯斗と全く同じ行動をしているのがなんだかおもしろ嬉しくて、微笑みながら続けた。
「確かにこの空のメモ帳、あったら欲しいかも」
ーーこの空がメモ帳になったら。
そんな麻衣の例えは唯斗の頭にスっと溶け込んでいった。唯斗が今まで買ってきた歴代のメモ帳はシンプルでモノトーンのものばかりだったが、この空だったら買いたい、と思える。
しかし唯斗の返答を聞くやいなや隣で立花彩月が声を上げた。
「え!?」
ひどく驚いている様子だ。
そんな友人に麻衣は「ほらねー彩月だけだよー分かってくれないの。」と言って眉を下げて笑っていた。
2人が何に盛り上がっているのかサッパリの唯斗を察してか麻衣が口を開く。
「さっきここに来る途中私がこの空可愛い、って言ったら彩月が「空に可愛いもクソもないでしょ~」とか言ってきたの。でも栗原くんも可愛い組だから、これで2対1ー!」
「あーぁ。負けたー男なら分かんない派だと思ったのに」
「男も女も関係ないでしょ?」
「えー」
2人は一体なんの勝負をしているのだろうか。
唯斗がそんな疑問を持っている間にいつの間にやら2人は唯斗の傍に腰掛け、弁当を食べ始めた。
あれ…?
なんか、空の話に釣られているうちに3人で食べる事になってる?
それからは流されるまま麻衣と立花彩月の話に耳を傾けつつ、時々唯斗にも話を振られるのでそれに答えつつ、弁当を食べていた。
右側白米、黒ごま適量。で、左側は卵焼きときんぴらごぼうとトマトが軽く偏って収納されているシンプルな弁当だ。母が作るド定番であった。
そして最近見たドラマの話をしている時。
「栗原くんはこのドラマ見てた?」
唯斗にそう、話を振った麻衣。
見てたよ、と答えようとした唯斗だったが訝しげな顔をした立花彩月が阻む。
「っていうかさ、麻衣って…
栗原の事、名前で呼ばないの?」
「え?」
ボトッ…、と白米の上にミートボールを落とした麻衣は石のように固まってしまった。
そのミートボールをホイッ、と軽快に横から奪った立花彩月はなんて事ないみたいに言う。
「だって彼氏、なんでしょ?」
「彼氏!?」
「彼氏!?」
唯斗と麻衣の声が綺麗にピタリ、と揃う。
「え?彼氏、でしょ?違うの?」
「……」
立花彩月のこの様子だと既に麻衣からあれこれ聞いたに違いない。唯斗と麻衣がただのクラスメイトでは無く、他の関係なのだ、と。故に彼女は今唯斗を当然かの如く「彼氏」と呼んだ。
ーー麻衣は一体、第三者にどのように唯斗との関係を説明したのだろう
そんな事が昨晩から少しばかり気になりつつも、本人に聞く事は出来ずにいた唯斗だったが、今のでハッキリ分かった。別に隠す事無く、「彼氏」と話していたらしい。出会って数時間、初対面同然で告白した件については果たして話しているのだろうか。
まぁ、それはさておき、唯斗はどこか嬉しい気持ちでいた。まだちょっとの時間しか経っていないがこれまでの唯斗は麻衣の要望に答えるばかりで言ってしまえば常に受け身の姿勢。麻衣があの告白を後悔してはいなかっただろうか、と心配していたのだ。
「そう、って言ってもいい?」
麻衣が立花彩月には聞こえない声量で唯斗にそっと耳打ちしてきた。
「…いい、よ。だって…そう、でしょ?」
そう、話したんじゃないの?と思いつつ答えるが思い返せば先程唯斗と声を合わせ「彼氏!?」と驚いていた麻衣。もしかしたら彼氏、とまでは話していなかった可能性が浮上する。
それとも唯斗の前で2人の関係を端的に表す彼氏、というワードが出て動揺してしまったのだろうか。
少々困り顔でそれを聞いてきた麻衣だったが唯斗が頷くとパァッ…、とラメが飛び散ったかのように笑顔になった。そして立花彩月に向き直る。
「そう!」
元気が有り余る程のハリのある声をあげた麻衣。それは麻衣の無邪気さが全て含まれているものだった。そんな彼女を唯斗は自分でも気付かぬ間に可愛い、と思うのであった。
「でしょ?彼氏なのに苗字呼びぃ?」
意地悪そうな笑みを浮かべた立花彩月に麻衣は「あぁ…」と声を漏らす。
「言われてみれば…」
チラリ、と唯斗を見た麻衣。
言われてみれば、唯斗は告白された日に麻衣って呼んで!と言われたが麻衣はずっと唯斗を栗原くん、と苗字呼びしていた。
「あ、僕はなんでも。栗原でも唯斗でも。麻衣が呼びやすい方でいいよ…?」
なんて、サラッと言ってみたはいいものの、女の子から下の名前で呼ばれた事など唯斗の人生に今まであっただろうか。あったにしろそれは保育園の時の記憶だろう。
下の名前で呼ばれたい気持ちと同時にそれは大きな1歩を踏み出すかのようで気が引けて、呼び方は麻衣に一任してしまうような物言いになってしまった。本音を言えば「唯斗」と呼んで欲しかったりするのに。
「はっ……」
そこで麻衣が何故か口元を押え、唯斗を凝視した。「どうしたの?」と首を傾げてみる。すると
「初めて…、麻衣、って呼んでくれた」
麻衣は照れたような表情を浮かべ、そう言った。
「え?そうかな?だって1限の時……」
唯斗はあのメモ飛ばしで何度も【麻衣は?】と質問し返していたのだ。
「いや、直接は初めてだったから…」
嬉しくて……。と付け加えた麻衣の瞳はなんだかうるうるしていてまたしても涙が零れ落ちてしまいそうに見えた。
何度目かだ。こういう……不意に来るちょっと儚げな麻衣の表情を見るのは。
その儚さは今にも手から何か大切なものがすり抜けてしまいそうな程で心配になるレベルだ。
「確かに……そうだ」と返す傍ら、唯斗はそんな麻衣が気がかりだった。そんな2人のやり取りを傍で見ていた立花彩月は「初々しっ!」などと赤面していた。
”初めて”という事は麻衣の指摘で唯斗の中にも特別味が生まれ、なんだか照れくさくなってしまった。
それから、すぐ予鈴が鳴り、
弁当の蓋を閉じた麻衣は唯斗に尋ねた。
「じゃあ…っ、唯斗って呼んでもいい?」
この日。
麻衣は今後、唯斗を……
「唯斗」と呼ぶ、と。
この可愛い空の下、宣言した。
「うん、ぜひ」
2人の距離は今朝、「おはよう」とお互いぎこちなく挨拶した時とは、劇的に、ではないが少しづつ変わり始めているように思う。
1限目。メモを飛ばしまくり、お互いの事を知ったのが功を奏したのかもしれない。
今では麻衣と話す事にそこまで緊張しなくなっていた。
麻衣が立花彩月と話す時と唯斗と話す時。今朝はやっぱり、違うんだなと思ってしまったが、このお昼休み。そうは思わなかった。
素、というものが出せるようになってきたのかもしれない。───お互いに。
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