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不登校
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高校1年 5月
瀬月来未は、不登校になった。
高校へ入学して、1ヶ月も経っていないというのに。
「来未ー、じゃあ行ってくるわね」
月曜日。
母が仕事に行く姿を見送る。
ガチャと、玄関の鍵を開けて、掛けて、車に乗り込む、そんな母の姿をダイニングの窓越しに見ていた来未は
「外へはこうやって出るのよ」
と、まるで手本を見せつけられているかのように感じていた。
玄関の扉が閉まる直前。
「はぁ…」と分かりやすいため息が聞こえたような、そんな気がした来未は少し後ろめたい気持ちになった。
本当に、母がため息を吐き出したのかは定かではないが。
来未は7分丈のさくらんぼのイラストが
散りばめられたパジャマと半ズボンで、
ダイニングのソファにのめり込むようにして「んん」とうめき声を上げながら寝返りを打った。
今の来未は、この世に吐き出されたため息の矛先が全て自分に向いている気がしてならないのだった。
学校に行けない来未に。
みんな、呆れて。
ズキンと痛む胸をさすることもなく、来未も同じようにため息を吐き出す。
「はぁ…」
ため息出るのはこっちだよ……
唇を噛み締めて、真っ白な天井を仰いだ。
テーブルにはお弁当…いや、
どこに持っていくわけでもないので
普通にお皿に少なめに盛り付けられた
来未の好きなオムライスが、ラップで覆われ、置いてあった。
「9時…か」
かち…かち…、と小さいながらもちゃんと主張を施している掛け時計を見て、つぶやく。
本来なら、ホームルーム中。
それに、今さっき起きたけれど、本来ならもっと早く…6時ぐらいには起きていた、はずだった。
そして本来なら弁当を持って学校へ行っていた所だった。
そうやって、
”本来なら”
を考える癖が最近になってようやくついた所だった。
不登校になって今日でちょうど1ヶ月。
きっと、母親からしてみれば、
来未は
”学校で何かあった子”
なんだろう。
まぁ。
そうだけど───────。
テレビにひたすら視線をはわせて特に笑いどころのないバラエティを見る。
けどだんだん退屈になってきて、来未は少し……
目を閉じた。
来未は芝生の上で仰向けに寝っ転がっていた。
どうやら、来未は夢を見ているようだった。
きっと、寝ちゃったんだ。
起きたばっかなのに。
起きて、自分の部屋からダイニングに
降りただけなのに。
どうやらまた、寝てしまったようだ。
多少の罪悪感に苛まれながらも、来未はこの夢を少し
堪能する事にした───────。
柔らかな日差しが来未に照りつける。
起き上がって、辺りをキョロキョロした。
公園…だろうか。いや。
公園と言っても、何か遊具がある訳じゃない。
ただベンチがポツンと1つだけ、
配置された所。
少なくとも来未が行った事がある場所ではなかった。知らない場所だ。見覚えもない。
「んー」
ここには誰も居なさそうで、声を上げて伸びをしてみた。
居心地がいいと、来未は直感で思った。
「こんにちわ!」
その時。
不意をつかれたように真後ろから聞こえた元気の良い挨拶に来未の肩は跳ね上がった。
「わぁ…っ!?」と声が出る。
すぐに自分が素っ頓狂な声を出してしまったのではないか、と途端に恥ずかしくなり赤面した。
赤面しながら、後ろを見る。
そこには、1人の男子が居た。
青いチェックのネクタイを胸元でしっかり締めたブレザーを着ている彼を見て、瞬時に高校生だろう、と思った。
服装的にも。パッと見の来未の判断でも。
男の子だと思うが、女の子みたいな顔立ちをしているとても中性的な男子高校生だった。
目が合う。
眉下でキチッと切りそろえてある前髪のおかげで、彼の表情はよく見えた。
こっちがたじろいでしまいそうな程
パチッとした大きな瞳を彼は
なんの迷いも無さそうに、
真っ直ぐ来未に向けている。
「がっこう。いってきたのー?」
首を傾げて彼は言った。
「えっ?」
なんでそう思ったのだろう。
頭の中で暫し考える。すぐに分かった。
来未が制服を着ていたからだ。
ここ、1ヶ月ぐらい。
ずーっとクローゼットにしまいっぱなしの、高校に入学してから1ヶ月も着れなかった……
赤いリボンが胸元でキュッと結ばれた制服を。新品同然の、何の汚れもない、制服を。
「あ…、うん」
咄嗟に頷いてしまった。
「そうだよ。学校、行ってきたの」
そう、言ってしまった。来未は嘘を、ついた。
清々しい程の
嘘だった───────。
「やっぱりー!たのしかった?」
「うん。楽しかったよ」
嘘、というのは最初の1つをついてしまえば、あとは、付属品のようにポンポンと、なんの罪悪感を感じる事も無く最初の1つに引っ付いてくる。
言い訳かもしれないが、嘘、というか、来未の場合、理想、に近い返事だった。
こう、返事が出来たら、どんなにいいか、と。常日頃思っている、理想だ。
「ともだち、100にんいる?!」
彼は太陽の光を全て凝縮したかのように
キラキラと瞬く汚れのない瞳で来未を見た。
「100人…?」
「うんっ!」
「……」
何それ冗談?本気で聞いてるのかな?
チラッと彼を見ると、
ふざけて、とか、
からかって、とか、
おもしろがって、とか、
そういう感じで来未の返事を待っている感じではなさそうだった。
至って、真剣そのもののような。そんな感じで、来未を見ていた。
まるで覚えたての「まて」を遂行する子犬みたいだな、と思って、つい…
「あははっ」
つい吹き出してしまった。
変な人…
「えっ、なんでわらうのー」
彼は子供がやるみたいにプクッと頬を膨らませて、「なんでなんでー?」と何度も来未に聞いてきた。
「さすがにいないよ…っ」
そこは笑い混じりに正直に言った。
夢は、そこで終わりを迎えた。
ピロン…っ!
お腹の上に置いたスマホが音を出し、震える。祖母からのメールだ。
”明日こちん来るよ 暇だたらおいで”
まだスマホに使い慣れていないのか、節々に小さい”つ”が抜けていた。
おそらく、
”明日こっちゃん来るよ。暇だったらおいで”
が、言いたかったんだろう。
こっちゃん、というのは来未のいとこの琴音ちゃんの事。
翌日。
来未は家から徒歩10分ほどの距離にある
祖母の家に行った。
ガラーー…
古く重たい玄関ドアを開けるとどこから来たのか、来未にゆったりとした風が吹きつける。
玄関を閉めると、さっきまでうるさく泣いていたセミの鳴き声は途端に止んだ。一気に耳が寂しくなるがすぐに「くるみたーん!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
タッタッタッタッタッ…
築50年、3年前に死んだおじいちゃんが
建てたという一軒家を思う存分軋ませて
廊下の奥から小さな女の子が来未目かげて
飛んでくる。
「えいっ!」
ピンク色の花柄ワンピースを可愛らしくばたつかせながら私のお腹にしがみつく小さな女の子。
ふわふわのシュシュで2つ縛りにした髪の毛はまだ毛量が少なくてぴょんぴょんしていた。
ギューっと、抱きしめられるこの感覚は小さくて、軽くて、可愛い。
この子が最近4歳になったばかりのこっちゃんだ。
「あ…っ、こっちゃん!」
来未の口角は一瞬にして上がる。
「みてーこのふく、ままがかってくれたのー」
無邪気な笑顔でくるりと回ってワンピースの裾を掴んだこっちゃん。
「可愛いね」
来未がそう言うと「てへへ」と
照れたように笑って
「ばぁーたーんっ!くるみたんきたー!」と叫びながら家の奥に吸い込まれるようにしてまた狭い廊下を駆けて行ってしまった。
そんな無邪気なこっちゃんの姿を見て、
来未は思った。
絶対に今思う所ではないと思うけれど思ってしまった。
あの頃は良かった
と。
来未にとって、
”良かったあの頃”とは
こっちゃんぐらいの歳の頃。
あの頃は良かった。
本当に、良かった。
人付き合いは家族、たまに親戚、
それだけだったから。
なんにも、余計な事なんて、
考えなくて……
良かったから───────。
「あら~、来未ちゃん、いらっしゃい」
こっちゃんに手を引かれて肩にタオルを掛けた祖母が笑顔を浮かべて廊下を歩いてくる。
「うん…」
私が学校行ってないこと、きっとお母さんから聞いたんだろうな。こんなど平日に高校生に”おいで”と言うぐらいだもんね。
目の前でにこやかに笑う祖母の
本心が気になって仕方がない。
「シソジュース飲む?」
どんな顔をして、どんな返事をしたらいいのか自分でもよく分からなくなってコクリと頷いた。
「こっちゃんものむー!」
「はいはい」
祖母は私に向けた笑顔よりももっとにこやかな笑顔でこっちゃんを見た。
気のせいかも、だけど。
最近はずっと後ろめたい気持ちでいることが多くて、いろんな面で”私よりも”みたいに思ってしまう。
「来未ちゃん痩せた~?、ダメよ、
夏はしっかり食べないと~、夏バテしちゃう」
「そう?食べてるよ。」
こんな風に平日の昼間っからこんな所で
シソジュースを飲んでいていいのだろうかと少し申し訳ない気持ちになりながらも答えた。
「このジューちゅ、ぎゅうにゅうまぜると
おいちくなるよ」
まだ”さ行”が”た行”に
なってなってしまうけれど
必死に言葉を伝えようとしている
こっちゃんを見ていると
自然と笑みが零れてしまう。
一人っ子の来未にとってこっちゃんは
妹みたいで隣にいるだけでほっこりする。
「え~、ほんと~?」
来未がそう言うと
「くるみたんにのまてるー!」と言いながらこっちゃんは冷蔵庫に牛乳を取りに
行ってしまった。
襖や、畳…、昔ながらの感じが取り残されたこの空間に祖母と2人。
少し気まづくて、こっちゃん用に買ったであろううさぎの子供用コップに入れられたシソジュースで喉を潤す。
優しいシソの味が広がり、あっという間に
飲み干してしまった。
「おいし?」
首にかけられたタオルで額の汗を拭いながら祖母は来未に控えめにそう、尋ねた。
「うん」
おしぼりで口を拭いながら頷く。
祖母は「よかった」と呟いて柔らかな眼差しを来未に向けた。
そして「普通でいいでね」と、言った。
「え?」
言っている意味が分からなくて、首を傾げる。
祖母は続けて言う。
「なんも気にせんでいいから、
好きなだけ、いつでも、遊びに来てな?」
祖母はニコッと笑う。
「…」
心がじんわりと、暖かくなった。
だけどその時、ふと思った。
本当に、一瞬だけ。
思ってしまった。
私は、もしかしたら……
迷惑な割れ物かもしれない
と。
祖母は優しい。
何も聞かない。
問い詰めてこない。
でも、それはどこか来未に気を使って、使って、無理矢理作られた笑顔に見えてしまって、人の善意をそんな捉え方しか出来ない自分に嫌気が差しながら「ありがとう」と来未も笑った。
上手く笑えているかどうかばかり気にしながら。
((普通でいいでね))……
祖母の言葉が脳の奥で静かに響く。
”普通”を諭されても
来未には”普通”の概念がこれっぽっちも
分かっていないのだから。
今の来未にとって
”普通”でいる事はきっと不可能に近い。
時々思う。
”普通”って、
──────なんだろう───────
少なくとも、今の来未は決して
普通ではない、と思った。
ろくに学校に行けない、自分なんか。
「あ、お隣さんだ」
シソジュースを飲み終わって、縁側にいた祖母がポツリと言った。
「こんにちは~ぁ」
すぐに玄関の方から甲高い声が聞こえてきた。
「は~い」と小走りで玄関に向かおうとした祖母は、
あ、と何かを思い付いたかのような顔をして、立ち止まった。
「来未ちゃん、ちょっと2階からマスキングテープ持ってきてくれないかな?」
「マスキングテープ?分かった」
隣にはこっちゃんも居たけど、来未は1人、2階へ続く階段を登ろうと足を踏み出す。
と、その時───────。
「ゆっくりでいいでね」
そんな祖母の声が背後から聞こえてきた。
「え?あ、うん。分かった」
来未は2階に上がる。
数分後。
手ぶらで1階に降り、立ち話に花を咲かせている祖母達の姿を来未は少し遠くから眺めていた。
「暑いですね~」
「ねぇ~、ほんとやになっちゃう」
「あ、お孫さん?」
「そうなんですよ~」
「こんにちは」
「…こんにちは」
「あら、可愛い~、おいくつ??」
「4たい!」
「4歳かぁ~!」
「娘の用が済むまで預かってるんですよ」
祖母の背中に隠れるようにしてモジモジしているこっちゃんが居た。そんなこっちゃんに産まれたての小鹿を見つめるような眼差しを向けるお隣さんも、居た。
祖母も、笑っていて、全体的にあの辺りは楽しそうに見えた。
結局。
マスキングテープはどこにもなかった。
そうか…。
隠れていろ、って事だろうか。
お隣さんはよく噂をする、と昔、祖母がボヤいていた事を思い出す。
そりゃそうか。
きっと今、来未が出ていけば、
「おいくつ?」
「16歳です。」
「高校生か~、今日は学校は?」
「…」
──────行ってない──────
こうなる。
”娘の用が済むまで預かってるんですよ”
じゃあ
”こいつはなんだ”って話だよね。
そうだよね。
私は…説明するには少し、
”難しい存在”
なのかもしれない。
もしかしたら。
2階に、ちゃんとマスキングテープはあったかもしれない。
「ゆっくりでいいでね」も、階段が急な作りをしているから気を使って言ってくれだけかもしれない。
決して
しばらく戻ってこなくていいでね。
という意味ではない…とは思う。
でも
あのタイミングで来未を2階に行かせたのは、
私が…
よそ様には自慢出来ない存在
だったからなのかもしれない。
あまり、見られたくない…
存在だったからなのかもしれない。
そう、再確認させられた気がして、
また胸のどこかがズキンと痛んだ。
もし今。
来未の中で聞こえた、
”かもしれない”が
全て、本当だったとしたら。
自分で思ったことなのにこんな事を思うのはお門違いかもしれないが…
もしかしたら…。
私は、今。
”可哀想”なのかもしれない、と
思ってしまった。
自分で言うのもなんだけど……。
なんだか途端に息苦しくなった。
今…
こんなど平日に
のうのうとここに居座る自分自身に、
心底…気持ちが悪くなった。
一瞬にしてここに居たくなくなってしまった。
来未は玄関から聞こえる楽しそうな話し声から遠ざかるように蜘蛛の巣だらけの裏口から物音を立てないように外に出た。
ちょうど近くにあった、洗濯物を干す時に使っているのだろう、ボロボロの草履を履いて。
今日履いてきた靴はまた今度取りに行けばいい。
来未はそう…
1人静かに唇を強く噛み締めながら片意地を張った。
瀬月来未は、不登校になった。
高校へ入学して、1ヶ月も経っていないというのに。
「来未ー、じゃあ行ってくるわね」
月曜日。
母が仕事に行く姿を見送る。
ガチャと、玄関の鍵を開けて、掛けて、車に乗り込む、そんな母の姿をダイニングの窓越しに見ていた来未は
「外へはこうやって出るのよ」
と、まるで手本を見せつけられているかのように感じていた。
玄関の扉が閉まる直前。
「はぁ…」と分かりやすいため息が聞こえたような、そんな気がした来未は少し後ろめたい気持ちになった。
本当に、母がため息を吐き出したのかは定かではないが。
来未は7分丈のさくらんぼのイラストが
散りばめられたパジャマと半ズボンで、
ダイニングのソファにのめり込むようにして「んん」とうめき声を上げながら寝返りを打った。
今の来未は、この世に吐き出されたため息の矛先が全て自分に向いている気がしてならないのだった。
学校に行けない来未に。
みんな、呆れて。
ズキンと痛む胸をさすることもなく、来未も同じようにため息を吐き出す。
「はぁ…」
ため息出るのはこっちだよ……
唇を噛み締めて、真っ白な天井を仰いだ。
テーブルにはお弁当…いや、
どこに持っていくわけでもないので
普通にお皿に少なめに盛り付けられた
来未の好きなオムライスが、ラップで覆われ、置いてあった。
「9時…か」
かち…かち…、と小さいながらもちゃんと主張を施している掛け時計を見て、つぶやく。
本来なら、ホームルーム中。
それに、今さっき起きたけれど、本来ならもっと早く…6時ぐらいには起きていた、はずだった。
そして本来なら弁当を持って学校へ行っていた所だった。
そうやって、
”本来なら”
を考える癖が最近になってようやくついた所だった。
不登校になって今日でちょうど1ヶ月。
きっと、母親からしてみれば、
来未は
”学校で何かあった子”
なんだろう。
まぁ。
そうだけど───────。
テレビにひたすら視線をはわせて特に笑いどころのないバラエティを見る。
けどだんだん退屈になってきて、来未は少し……
目を閉じた。
来未は芝生の上で仰向けに寝っ転がっていた。
どうやら、来未は夢を見ているようだった。
きっと、寝ちゃったんだ。
起きたばっかなのに。
起きて、自分の部屋からダイニングに
降りただけなのに。
どうやらまた、寝てしまったようだ。
多少の罪悪感に苛まれながらも、来未はこの夢を少し
堪能する事にした───────。
柔らかな日差しが来未に照りつける。
起き上がって、辺りをキョロキョロした。
公園…だろうか。いや。
公園と言っても、何か遊具がある訳じゃない。
ただベンチがポツンと1つだけ、
配置された所。
少なくとも来未が行った事がある場所ではなかった。知らない場所だ。見覚えもない。
「んー」
ここには誰も居なさそうで、声を上げて伸びをしてみた。
居心地がいいと、来未は直感で思った。
「こんにちわ!」
その時。
不意をつかれたように真後ろから聞こえた元気の良い挨拶に来未の肩は跳ね上がった。
「わぁ…っ!?」と声が出る。
すぐに自分が素っ頓狂な声を出してしまったのではないか、と途端に恥ずかしくなり赤面した。
赤面しながら、後ろを見る。
そこには、1人の男子が居た。
青いチェックのネクタイを胸元でしっかり締めたブレザーを着ている彼を見て、瞬時に高校生だろう、と思った。
服装的にも。パッと見の来未の判断でも。
男の子だと思うが、女の子みたいな顔立ちをしているとても中性的な男子高校生だった。
目が合う。
眉下でキチッと切りそろえてある前髪のおかげで、彼の表情はよく見えた。
こっちがたじろいでしまいそうな程
パチッとした大きな瞳を彼は
なんの迷いも無さそうに、
真っ直ぐ来未に向けている。
「がっこう。いってきたのー?」
首を傾げて彼は言った。
「えっ?」
なんでそう思ったのだろう。
頭の中で暫し考える。すぐに分かった。
来未が制服を着ていたからだ。
ここ、1ヶ月ぐらい。
ずーっとクローゼットにしまいっぱなしの、高校に入学してから1ヶ月も着れなかった……
赤いリボンが胸元でキュッと結ばれた制服を。新品同然の、何の汚れもない、制服を。
「あ…、うん」
咄嗟に頷いてしまった。
「そうだよ。学校、行ってきたの」
そう、言ってしまった。来未は嘘を、ついた。
清々しい程の
嘘だった───────。
「やっぱりー!たのしかった?」
「うん。楽しかったよ」
嘘、というのは最初の1つをついてしまえば、あとは、付属品のようにポンポンと、なんの罪悪感を感じる事も無く最初の1つに引っ付いてくる。
言い訳かもしれないが、嘘、というか、来未の場合、理想、に近い返事だった。
こう、返事が出来たら、どんなにいいか、と。常日頃思っている、理想だ。
「ともだち、100にんいる?!」
彼は太陽の光を全て凝縮したかのように
キラキラと瞬く汚れのない瞳で来未を見た。
「100人…?」
「うんっ!」
「……」
何それ冗談?本気で聞いてるのかな?
チラッと彼を見ると、
ふざけて、とか、
からかって、とか、
おもしろがって、とか、
そういう感じで来未の返事を待っている感じではなさそうだった。
至って、真剣そのもののような。そんな感じで、来未を見ていた。
まるで覚えたての「まて」を遂行する子犬みたいだな、と思って、つい…
「あははっ」
つい吹き出してしまった。
変な人…
「えっ、なんでわらうのー」
彼は子供がやるみたいにプクッと頬を膨らませて、「なんでなんでー?」と何度も来未に聞いてきた。
「さすがにいないよ…っ」
そこは笑い混じりに正直に言った。
夢は、そこで終わりを迎えた。
ピロン…っ!
お腹の上に置いたスマホが音を出し、震える。祖母からのメールだ。
”明日こちん来るよ 暇だたらおいで”
まだスマホに使い慣れていないのか、節々に小さい”つ”が抜けていた。
おそらく、
”明日こっちゃん来るよ。暇だったらおいで”
が、言いたかったんだろう。
こっちゃん、というのは来未のいとこの琴音ちゃんの事。
翌日。
来未は家から徒歩10分ほどの距離にある
祖母の家に行った。
ガラーー…
古く重たい玄関ドアを開けるとどこから来たのか、来未にゆったりとした風が吹きつける。
玄関を閉めると、さっきまでうるさく泣いていたセミの鳴き声は途端に止んだ。一気に耳が寂しくなるがすぐに「くるみたーん!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
タッタッタッタッタッ…
築50年、3年前に死んだおじいちゃんが
建てたという一軒家を思う存分軋ませて
廊下の奥から小さな女の子が来未目かげて
飛んでくる。
「えいっ!」
ピンク色の花柄ワンピースを可愛らしくばたつかせながら私のお腹にしがみつく小さな女の子。
ふわふわのシュシュで2つ縛りにした髪の毛はまだ毛量が少なくてぴょんぴょんしていた。
ギューっと、抱きしめられるこの感覚は小さくて、軽くて、可愛い。
この子が最近4歳になったばかりのこっちゃんだ。
「あ…っ、こっちゃん!」
来未の口角は一瞬にして上がる。
「みてーこのふく、ままがかってくれたのー」
無邪気な笑顔でくるりと回ってワンピースの裾を掴んだこっちゃん。
「可愛いね」
来未がそう言うと「てへへ」と
照れたように笑って
「ばぁーたーんっ!くるみたんきたー!」と叫びながら家の奥に吸い込まれるようにしてまた狭い廊下を駆けて行ってしまった。
そんな無邪気なこっちゃんの姿を見て、
来未は思った。
絶対に今思う所ではないと思うけれど思ってしまった。
あの頃は良かった
と。
来未にとって、
”良かったあの頃”とは
こっちゃんぐらいの歳の頃。
あの頃は良かった。
本当に、良かった。
人付き合いは家族、たまに親戚、
それだけだったから。
なんにも、余計な事なんて、
考えなくて……
良かったから───────。
「あら~、来未ちゃん、いらっしゃい」
こっちゃんに手を引かれて肩にタオルを掛けた祖母が笑顔を浮かべて廊下を歩いてくる。
「うん…」
私が学校行ってないこと、きっとお母さんから聞いたんだろうな。こんなど平日に高校生に”おいで”と言うぐらいだもんね。
目の前でにこやかに笑う祖母の
本心が気になって仕方がない。
「シソジュース飲む?」
どんな顔をして、どんな返事をしたらいいのか自分でもよく分からなくなってコクリと頷いた。
「こっちゃんものむー!」
「はいはい」
祖母は私に向けた笑顔よりももっとにこやかな笑顔でこっちゃんを見た。
気のせいかも、だけど。
最近はずっと後ろめたい気持ちでいることが多くて、いろんな面で”私よりも”みたいに思ってしまう。
「来未ちゃん痩せた~?、ダメよ、
夏はしっかり食べないと~、夏バテしちゃう」
「そう?食べてるよ。」
こんな風に平日の昼間っからこんな所で
シソジュースを飲んでいていいのだろうかと少し申し訳ない気持ちになりながらも答えた。
「このジューちゅ、ぎゅうにゅうまぜると
おいちくなるよ」
まだ”さ行”が”た行”に
なってなってしまうけれど
必死に言葉を伝えようとしている
こっちゃんを見ていると
自然と笑みが零れてしまう。
一人っ子の来未にとってこっちゃんは
妹みたいで隣にいるだけでほっこりする。
「え~、ほんと~?」
来未がそう言うと
「くるみたんにのまてるー!」と言いながらこっちゃんは冷蔵庫に牛乳を取りに
行ってしまった。
襖や、畳…、昔ながらの感じが取り残されたこの空間に祖母と2人。
少し気まづくて、こっちゃん用に買ったであろううさぎの子供用コップに入れられたシソジュースで喉を潤す。
優しいシソの味が広がり、あっという間に
飲み干してしまった。
「おいし?」
首にかけられたタオルで額の汗を拭いながら祖母は来未に控えめにそう、尋ねた。
「うん」
おしぼりで口を拭いながら頷く。
祖母は「よかった」と呟いて柔らかな眼差しを来未に向けた。
そして「普通でいいでね」と、言った。
「え?」
言っている意味が分からなくて、首を傾げる。
祖母は続けて言う。
「なんも気にせんでいいから、
好きなだけ、いつでも、遊びに来てな?」
祖母はニコッと笑う。
「…」
心がじんわりと、暖かくなった。
だけどその時、ふと思った。
本当に、一瞬だけ。
思ってしまった。
私は、もしかしたら……
迷惑な割れ物かもしれない
と。
祖母は優しい。
何も聞かない。
問い詰めてこない。
でも、それはどこか来未に気を使って、使って、無理矢理作られた笑顔に見えてしまって、人の善意をそんな捉え方しか出来ない自分に嫌気が差しながら「ありがとう」と来未も笑った。
上手く笑えているかどうかばかり気にしながら。
((普通でいいでね))……
祖母の言葉が脳の奥で静かに響く。
”普通”を諭されても
来未には”普通”の概念がこれっぽっちも
分かっていないのだから。
今の来未にとって
”普通”でいる事はきっと不可能に近い。
時々思う。
”普通”って、
──────なんだろう───────
少なくとも、今の来未は決して
普通ではない、と思った。
ろくに学校に行けない、自分なんか。
「あ、お隣さんだ」
シソジュースを飲み終わって、縁側にいた祖母がポツリと言った。
「こんにちは~ぁ」
すぐに玄関の方から甲高い声が聞こえてきた。
「は~い」と小走りで玄関に向かおうとした祖母は、
あ、と何かを思い付いたかのような顔をして、立ち止まった。
「来未ちゃん、ちょっと2階からマスキングテープ持ってきてくれないかな?」
「マスキングテープ?分かった」
隣にはこっちゃんも居たけど、来未は1人、2階へ続く階段を登ろうと足を踏み出す。
と、その時───────。
「ゆっくりでいいでね」
そんな祖母の声が背後から聞こえてきた。
「え?あ、うん。分かった」
来未は2階に上がる。
数分後。
手ぶらで1階に降り、立ち話に花を咲かせている祖母達の姿を来未は少し遠くから眺めていた。
「暑いですね~」
「ねぇ~、ほんとやになっちゃう」
「あ、お孫さん?」
「そうなんですよ~」
「こんにちは」
「…こんにちは」
「あら、可愛い~、おいくつ??」
「4たい!」
「4歳かぁ~!」
「娘の用が済むまで預かってるんですよ」
祖母の背中に隠れるようにしてモジモジしているこっちゃんが居た。そんなこっちゃんに産まれたての小鹿を見つめるような眼差しを向けるお隣さんも、居た。
祖母も、笑っていて、全体的にあの辺りは楽しそうに見えた。
結局。
マスキングテープはどこにもなかった。
そうか…。
隠れていろ、って事だろうか。
お隣さんはよく噂をする、と昔、祖母がボヤいていた事を思い出す。
そりゃそうか。
きっと今、来未が出ていけば、
「おいくつ?」
「16歳です。」
「高校生か~、今日は学校は?」
「…」
──────行ってない──────
こうなる。
”娘の用が済むまで預かってるんですよ”
じゃあ
”こいつはなんだ”って話だよね。
そうだよね。
私は…説明するには少し、
”難しい存在”
なのかもしれない。
もしかしたら。
2階に、ちゃんとマスキングテープはあったかもしれない。
「ゆっくりでいいでね」も、階段が急な作りをしているから気を使って言ってくれだけかもしれない。
決して
しばらく戻ってこなくていいでね。
という意味ではない…とは思う。
でも
あのタイミングで来未を2階に行かせたのは、
私が…
よそ様には自慢出来ない存在
だったからなのかもしれない。
あまり、見られたくない…
存在だったからなのかもしれない。
そう、再確認させられた気がして、
また胸のどこかがズキンと痛んだ。
もし今。
来未の中で聞こえた、
”かもしれない”が
全て、本当だったとしたら。
自分で思ったことなのにこんな事を思うのはお門違いかもしれないが…
もしかしたら…。
私は、今。
”可哀想”なのかもしれない、と
思ってしまった。
自分で言うのもなんだけど……。
なんだか途端に息苦しくなった。
今…
こんなど平日に
のうのうとここに居座る自分自身に、
心底…気持ちが悪くなった。
一瞬にしてここに居たくなくなってしまった。
来未は玄関から聞こえる楽しそうな話し声から遠ざかるように蜘蛛の巣だらけの裏口から物音を立てないように外に出た。
ちょうど近くにあった、洗濯物を干す時に使っているのだろう、ボロボロの草履を履いて。
今日履いてきた靴はまた今度取りに行けばいい。
来未はそう…
1人静かに唇を強く噛み締めながら片意地を張った。
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