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君に溺れてしまうのは僕だから.80

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 そうであればなおさらここから帰りたくなくなってくる。

 しかし、そんな駄々っ子みたいなことを言うわけにもいかず伊織はベッドから出ると身支度を整えた。

 ホテルのレストランで朝食をとりチェックアウトすると、そのまま空港へ向かった。

「あっという間だったな」

「はい…」

 タクシーのなかで武彦がつぶやくように言った。

 伊織もまったく同じ気持ちだった。



 午前中は北海道にいたのに、午後二時現在の今、もう自宅にいることに現実感がまるでない。

 武彦は家に帰るなり書斎に引きこもった。

 旅先でも仕事をしてはいたけれど、やはり集中することは難しかったのだろう。

 夜、編集者の人たちが来るまでは多分食事もとらないだろう。

 伊織は田所さんに買ってきたお土産を渡した。



「まあ!ありがとうございます。このチーズケーキとっても美味しいって以前テレビで見たことありますよ。こんなにたくさんいいんですか?嬉しいわ」

 他にもラベンダーを使った香りグッズや動物園で買ったぬいぐるみなど、ほとんど伊織の趣味だけれどやっぱり一番お世話になっている田所さんにはあげたいものがいっぱいあって、ついつい買い過ぎてしまった。

 女性はお土産を買うのも貰うのも嬉しいものだ。

 田所さんがいてくれて本当によかった。



 旅行から帰って来て、武彦が部屋に入った瞬間から寂しさを感じていた伊織にはとても救いになった。

 自室に戻り、一人になると急に現実に引き戻される。

 家に帰れば武彦には仕事があるということはもちろん分かっていた。

 しかし今ほどそのことを寂しく思ったことはなかった。

 武彦が伊織のことを抱かなくなってからというもの、毎日寂しい夜を過ごした。

 だけど、今回の旅行で再び体を重ね、その喜びを鮮明に焼き付けられた。

 抱くのも抱かないのも武彦次第である限り、これからいったいどうなるのか見当もつかない。

 確かになったのは、武彦が愛美と連絡を取り合っていることと、結婚については前向きに考えているということだけだ。

 伊織にとって嬉しいことなどひとつもない。



 旅行中は坂口から連絡があるとマズいと思って、ずっとスマホの電源を切っていた。 

 電源を入れると案の定坂口からのメッセージが何件も届いていて、着信もあった。

 電源を切っておいて正解だった。

 武彦は今仕事中で一階の書斎にこもっている。

 伊織の部屋は二階だ。

 もし坂口が電話を寄越しても気づくことはないだろう。



「ごめん、ちょっと旅行に行ってたの」

 メッセージを送ると冗談の様にすぐに電話がかかってきた。

 坂口は待つということがとても苦手なようだ。

「もしもし、村井?心配したよ、全然つながらないんんだもん。一回家まで行っちゃったよ。チャイム押しても返事がないから仕方なく帰ったけどさ。旅行に行くならそう言っといてくれよ」

「ごめん、急に決まったもんだから」

 坂口の言うことはもっともで、言い訳のしようがない。

「それにしたって俺何度も連絡入れたのに、電源入ってないし」

「それも、ごめん」

「なんだよ~、まあいいけど。どうしたのか心配だっただけだからさ。無事ならいいんだ」
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