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君に溺れてしまうのは僕だから.63

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「伊織、兄さまにはもったいないくらいの素敵な方だったわよね」

 美紀は武彦にプレッシャーを与えるには伊織を使うのが一番有効だと知っている。

「私はまだ子どもですから、おじさまに相応しいかどうか分かりません」

 これ以上自分のことを巻き込まないで欲しい。 

「あらそう?伊織だって彼氏がいるんだからもう半分大人でしょ」

 こういう時だけ大人呼ばわりするのもやめて欲しい。



 伊織は小さい頃から美紀には世話になっているものの、もういい加減放っておいてほしいと最近は特に思う。

 伊織も黙り込んでしまい、タクシーの中は気まずい空気が流れる。

「もう本当に、お見合いの帰りとは思えないわね。まるでお葬式みたいだわ」

 自分がその原因だとも知らず、美紀はブツブツと文句を言っている。

 武彦の家に着くと、美紀は今週中に返事を聞きにくると告げた。

 そして伊織と武彦を下ろし、美紀だけを乗せたタクシーは走り去っていった。
 


 異様に長く感じられた時間からようやく解放された。

 しかし武彦と二人で家に入るのも、それはそれで気まずいことに変わりはなかった。

 武彦は坂口との外泊して以来、伊織にはほとんど話しかけてこなくなってしまった。

 普段から口数が少ない武彦だが、今の状態はそれとは別の次元だ。

 美紀の言う通り、こんなときあいだに入ってくれる母親の様な存在がいたらどんなにいいだろうかと思う。

 ただしそれは自分にとっての母親が欲しいだけで、武彦にパートナーが出来ることとは全く違うことだ。



 伊織は意識してできるだけ武彦と顔を合わさないように生活した。

 武彦は家にいる時はほとんど書斎に引っ込んでいるし、仕事関係の人が来るときはそもそも伊織は立ち入り禁止状態なので問題ない。

 一番困るのは食事の時だ。

 田所さんが食事を作る時間は決まっているし、武彦が食事をする時間もだいたい決まっている。

 そして武彦に出くわさない時間に食卓に行こうと思うのだが、部活の時間に遅刻しそうになったり、お昼などは丁度部活から帰った時に出くわしてしまったりと、ニアミスが起こる。

 武彦はだんまりを決め込んでいるが、あまり口をきかずにいると田所さんにどうしたのかと聞かれてしまいそうで、伊織だけが気を揉んでいる。

 美紀の言う通り、武彦はこういうところが世間とズレているというか子供っぽいと言えるかもしれない。



「旦那様となにかありましたか?」

 長年毎日顔を合わせている田所さんが、武彦と伊織の不自然な雰囲気に気付かないはずがなかった。

「実はこの間勝手に海へ泊りで行ったことで、おじさまに叱られて…」

「まあ、そうでしたか。旦那様にも困ったものですね。伊織さんもいつまでも子どもじゃないんですから、いい加減子離れしてもらわないとね」

 田所さんは伊織だけでなく武彦のお母さんみたいでもある。



 武彦の両親は高齢だがまだ存命している。

 しかし、武彦が伊織を引き取ったせいで、両親との間がぎくしゃくすることになってしまった。

 それは勘当同然だった伊織の母杏樹のことを両親が許していなかったためだ。

 今ではさすがに昔ほど関係は悪くないけれど、武彦の気難しい性格のせいで結局それほど改善されていない。

 そのため、実の祖父母よりも田所さんの方が伊織にとっても武彦にとっても肉親に近い存在なのだ。

「誰が子離れしてないって」

 リビングのドアがいきなり開いて、武彦がキッチンに入ってきた。
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