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君に溺れてしまうのは僕だから.34

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 家の中は相変わらずシンと静まりかえっている。

 キッチンだけが唯一音を立てている。

 伊織は荷物を自室に運び込むとキッチンへ向かった。



「ただいま」

「おかえりなさい。あ、今日は旦那様は編集者の方とお食事だそうで、夕食は食べていらっしゃるそうですから、伊織さんのお好きなスパゲッティにしましたよ」

「わあ、嬉しい」

 武彦がいる時は、ほとんど純和風のメニューだ。

 こうしてたまに仕事で伊織だけの時は、田所さんが気をきかせて洋風のメニューを作ってくれる。

「おじさま遅くなるのかな」

「さあ、仕事の打ち合わせのついでに食事をしてくるっておっしゃってましたから、あまり早くは帰っていらっしゃらないかもしれませんね」

「そう」

「なにかご用でもあったんですか」

「ええ、実は明日から友達の別荘に泊まりに行くことになって。それも今日決めたもんだから、おじさまにはまだ言ってないの」

「そうですか。でも、伊織さんももう高校生なんですから、そのくらい許してくださいますよ」

「そうだといいんだけど」

「だってせっかくの夏休みなんですし。どうせ旦那様はお仕事で忙しくて伊織さんをどこかに遊びに連れて行くこともできないでしょうからね」

 村井家のことは誰よりも知り尽くしている田所さんだからこそ言える言葉だ。

「おじさまはそういうお仕事なんだから、それは仕方ないわ」



 武彦と普通のカップルの様にどこかに出かけられたらと思わない訳ではない。

 しかし、もし出かけるとしてもあくまで父と娘としてなのであれば、それは魅力的な事ではなかった。

 それならば家のベッドで抱き合っている方が余程ましだ。

 武彦の帰りを待って泊まりに行くことを伝えたかったが、明日は朝一で出発する予定だ。

 伊織は大きめのバッグに荷物を詰め込むと、ベッドに潜り込んだ。



 翌朝6時にタイマーの音で目を覚ました。

 着替えを済ましキッチンに下りていくと田所さんはまだ朝食づくりの真っ最中だった。

「おはようございます」

 伊織は食器棚から食器を取り出しテーブルに並べた。

「おはようございます」

 田所さんは手を動かしながら答える。

「おじさまはまだ起きていらっしゃらない?」

 武彦は毎朝だいたい7時に朝食をとるのだ。

「それが、今朝は朝食はいらないからと言われて、もう出かけてしまわれたんです。なんでも、昨日の打ち合わせが終わらなかったらしくて、夕べもかなり遅かったらしいですよ。着替えに戻った様なものだっておっしゃってました」

「え、そうなの?どうしよう、私、泊まりに行くこと言ってない」

「私からお伝えしておきますから大丈夫ですよ。念のため宿泊先だけメモしといてください」

「わかりました」

 困ったな…、宿泊先は坂口君のおじいさんの別荘なのに…、どうしよう。

 でももう時間が無い。

 伊織は仕方なく坂口に教えられた別荘の住所と無断で泊まりに行くことを詫びる内容の書置きを田所さんに渡した。
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