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29.憂慮
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センの家から特に意味もなく、西に歩いた。
既に太陽は天頂。陽射しは容赦なく照りつける。快晴だった。湿気がない分すごしやすいのはありがたいのだが、体調の思わしくないソウには普段以上に辛い。汗が背中を流れる感覚が不快だし、食べ物を受け付けなくて数日過ごしていたから、体力の低下と疲労感が思っていた以上にソウを苛んだ。しかし帰ることはもうできないと、唇を噛みしめて歩を進めた。
ここは街最大の貧民街だといわれているところだ。
奴隷解放を受けて地方から流れ込んできた亜人たちの中で、職に就けずにあぶれたものたちが一角に住まいをかまえ貧困に苦しむ地域があると聞いたことがあった。そこは秩序がなく治安も良くない。決して西の端には行ってはいけないと何度もセンに言われたところに、ソウは迷い込んでいた。
どこに行けばいいかも分からず、また考えがまとまっていないことでふらふらと歩いた方向が西だっただけなのだが。
今まで暮らして来た周辺とは全く違い、廃墟のような家屋が立ち並ぶ。何かが腐ったような匂いが鼻につき、何をするでもなく立っていたり座っていたりする亜人がそこかしこにいた。人間の姿はなかった。
完全な獣の姿をしたもの、ソウのように耳だけのもの、そしてそれに尻尾を持つもの。姿は違うが全てが亜人で、みすぼらしい衣服に纏い、澱んだ目をしていた。
質素だが清潔感のある装束を着て頭に布を巻きつけて歩くソウの姿は、そこでは場違いなほど綺麗に見えた。
ソウはできるだけ周りに気を配りながら歩いた。入り組んだ道は土地勘のないソウを意地悪くどんどん奥へと進ませる。細くなった道にごみが散乱したそこを、匂いと倦怠感から来る苦痛に眉間に皺を刻んで進んだ。
ここでどうしたら生活ができるんだろうか。そんなことを考えて周りを見ると、ちょうど小奇麗な格好をした亜人が一人立っていた。建物の壁に凭れてあたりに視線を配っている亜人は赤い装束を着ている。ソウと同じ耳――白い耳なので色は違うが――だけが獣で、見た目にも華やかな容姿をしていた。緩く波打つ黒髪は肩につくほどの長さ。大きな目に高い鼻梁、頬は愛らしさを思わせるばら色だ。年はソウよりまだ下であろうと推測できる。少年と言っても良いくらいだった。だけど少年と言うには色香が不釣合いなほど備わっている亜人だった。
緩く着込んだ装束は、肌を露出させるためにわざとそうしているようだった。艶めかしく胸もとを晒し、細く長い脚を装束から見えるようにしている姿は、そういったことに疎いソウでも扇情的に思えた。
そんな亜人が、ソウと視線を結ぶと妖艶に微笑んだ。さわり。とソウの背筋が粟立つほどに黒く大きな瞳に滴る色香が溢れていた。
「遊んでくれる?」
「え……?」
遊ぶ。の意味が分からなくて、ソウは返事に困った。すると少年はゆらりと壁から離れてソウの元に歩み寄ってくる。一歩踏み出すたびに緩く合わせただけの装束から脚が見え、まるで誘い込むように白い大腿部までを露わにした。
「おにーさん、綺麗な顔してるね。人間? 亜人?」
少年はばら色の頬をふんわりと綻ばせてソウを見た、身長はソウのほうが高く、すぐ目の前まで来た少年を見下ろした亜麻色の瞳がますます困惑する。少年の目は黒く宝石のような透明感でソウを見上げた。
「僕ね、お腹すいてるんだ。おにーさんが良いなら、気持ちよくしてあげるから……代わりに少しお金をくれないかな?」
「あ、あの……」
少年はソウの片手を取り、指を絡めた。その仕種は愛らしさを滲ませる少年のそれとは思えないくらい艶があった。
「ねぇ……駄目? 僕。おにーさんとなら、良いよ?」
首を傾げて上目遣いで黒い瞳を瞬いた少年に、ぞくりとするほどの淫猥な気配が増したような気がした。ソウは少年の言いたいことが分かったが、こんなことを言われたのが初めてでどうすれば良いのか全く分からなくなり頭が真っ白になった。それを分かっているのかいないのか、更に少年はソウのもう片方の手を取る。
「いた……っ」
怪我をしている方の手を取られて、ソウの顔が痛みで歪んだ。血は止まったが、むき出しの無数の怪我があるのは変わりない。小さく呻いたソウに少年が問う。
「おにーさん怪我してるの?」
「え……うん……ちょっと、ね」
痛がるソウを見て、少年がその顔と仕種から面白いくらい艶を落とすとキョトンとした。呑まれそうに溢れていたそれが一瞬で抜け落ちると、少年は別人かと思うくらいあどけなく見えた。
「うわ……すごい怪我じゃないこれ。大丈夫?」
ソウの手を上向きにして少年は自分が痛そうに顔を顰めた。
「痛いけど。私が悪かったから、しかたないね……」
「綺麗にしておかないと治りが悪くなるよ」
「でも何も持ってないから……」
上着を掴んで出てきただけのソウは、勿論お金もない。少年を見下ろした瞳が困ったように微笑むだけだった。
少年はそんなソウを見上げながら何かを考え、それからにっこりと笑った。無邪気なほど可愛らしいと思った。
「じゃあさ、シンキさんとこ連れて行ってあげるよ」
「……シンキさん?」
「うん、あの人ならきっと治してくれるはず」
言うが早いか、少年は痛くない側のソウの手を掴んで歩き出そうをする。ソウは戸惑いそれを止めようとしたが、存外に少年の足取りはしっかりとしていて、先ほど誘うように揺れ歩いていたのが嘘のようにソウをひっぱっていった。
「大丈夫、シンキさん優しいから」
「いや。そういう問題じゃなくて……シンキさんって……」
手を引かれて、更に奥まった道を歩く。未知の世界に足を踏み入れるような気がして怖かった。
「ここの薬屋さんだよ、シンキさんは。どんな薬も作ってくれるって、時々人間も買いに来るらしいんだ。あ、僕はシュリって名前。おにーさんは?」
振り返りながらシュリと名乗った少年はにこにこと笑っている。その笑顔のおかげか、ソウは怖い気持ちがなくなりはしなかったが、自然と名乗った。
「ソウって言います」
一体ここがどこなのかもソウは分からなかったが、シュリが連れて行ってくれた先には、レンガ造りの建物があった。それは古いながらもしっかりと存在しており、ここに来るまでに見たどの建物よりも綺麗に見えた。
「ここだよ」
シュリは笑顔でソウを振りかえる。やはりその笑顔は幼く可愛らしい。シュリのおかげで緊張が気持ち和らぐような気がした。
少年は慣れた様子で扉を開けてソウを連れて中に入った。薄暗い廊下の両側にいくつか扉があったが、シュリは真っ直ぐに奥の扉を目指した。
勝手に入っていいのかとソウは驚いたが、シュリに連れられて共に扉の前まで行く。シンキとはいったい人間なのか亜人なのかも分からない。否応なしにまた緊張してしまうのを止められなかった。つながれた手をきゅっと握ると、シュリはそれを感じて安心させるように優しく握り返してくれた。
「シンキさん、いる?」
少年が気軽にまた扉を開けた。奥まった部屋の中は窓が三つほどあり、廊下に比べると格段に明るかった。壁も床も綺麗で、外から見るのとは全く違って清潔感があった。大きなテーブルと、一目で高価だと分かるソファセットに床の大半を占めている絨毯は、踏むのがもったいないほどに美しく色彩を溢れさせていた。
三人は楽に腰掛けるられるだろうソファの上に、一人の男が横になっていた。黒に金糸で刺繍を施された装束を纏った男は、肘掛の部分に頭を乗せて瞼を下ろしていた。明るい部屋の中で更に光り輝く金髪は長く、絨毯に流れ込むほどだ。
転寝でもしていたのだろうか、男はシュリの声にうるさそうに瞼を持ち上げた。下から現れた色に、ソウはハッと息を呑んだ。
芽吹く若葉がそこにあるような、鮮やかな深緑をしていた。ソウの中にいる、あの人と同じ髪と目の色。
「…………なんだ? シュリじゃねーか」
「こんにちは、シンキさん」
眉間に皺を刻んだシンキという男は、身を起こそうとせずシュリを見やった。アマネに比べるとずいぶん粗雑な印象を受けるが、顔立ちは惚れ惚れするほど整っていて精悍だった。
「んで……今日はなんだ? 悪いけど間に合ってるからな。ガキはおとなしく表で遊んでろよ」
「違うよ。ちょっとソウの手を診てあげて」
「ん?」
シュリがソウを示していうと、そこでシンキは初めてソウに気がついたといわんばかりに視線を流した。深緑の瞳は射抜くような強さでソウの亜麻色を捕らえた。
「ソウ?」
「あ、突然申し訳ありません……」
ここまで勝手につれてこられたのだが、ソウは慌てて頭を下げた。威圧的なシンキの瞳に圧倒され、その先は言葉が出なかった。
シンキは大きく欠伸をすると、めんどくさそうにため息まで落としたが、何も言わず身体を起こした。シュリがソウの手を引き部屋の中に入ると、同時にシンキも立ち上がる。アマネほど長身ではなかったが、ソウよりは高い。身体つきも逞しく、シンキの色もあってどうしてもソウはアマネを思い出して仕方がなかった。心臓が緊張しているのとはまた違った意味で速くなる。
シンキはソウの手を取り傷を確認した。「何で怪我をした」とか「いつ」とかいくつか質問をされ、ソウはびくつきながらそれに答えた。人見知りな性格で、初対面の人間はそれだけで苦手意識が働いてしまうからだ。
「ちょっとそこ座っとけ」
ざっくりと傷を確認したシンキは、だるそうに髪をかきあげて言うとソウとシュリをソファに促した。そのまま自分は隣の部屋に入っていく。長い髪はシンキが立っていると腰の下まである。絹糸のように癖がなく、さらさらとシンキの背中を覆っていた。
ソウは緊張した面持ちで、シュリは気楽な様子でソファに腰掛けていくらか待っていると、シンキは両手で桶と何かが入った箱を持ち、脚で乱暴に扉を開けて戻ってきた。
「ほれ、手ぇ出せ」
テーブルの上に桶を置きソウの手を取ったシンキはしゃがみ込むと、手を桶につけた。中には体温くらいの温かさの湯が張られており、何をするのかと目を丸くしたソウの手――傷を綺麗にながし始めた。シンキの手は言葉から想像できないほど優しく丁寧に傷に触れ、柔らかな動物の毛を使った刷毛で、痛くないように加減をしながら汚れを落としてくれた。硝子で切ったと言ったからか、細かい破片を落とすため長い時間をかけてそれを施してくれた。
桶から手を上げると、今度は清潔な布で水分を取り、薄紫色の軟膏を塗る。最後にまた清潔な布を、今度は傷を隠すようにあてがい包帯を巻いてシンキは立ち上がった。
「しばらくここにいろ。診てやるから」
「え……?」
「見ない顔だし、どうせよそから流れてきたんだろ? お前みたいな綺麗な顔してるとここじゃヤられて終わるぞ」
淡々とシンキが言った言葉にソウは驚き、怖くなって身を強張らせた。秩序がないといわれている地域だ。あながち嘘でもないだろうと思う。
「それもそうだよねぇ……僕も綺麗な顔した人だなぁって目が行ったもん。ソウ、このままシンキさんのとこにいなよ。帰るところがあるなら別だけど、ここにいるならシンキさんのほうがよっぽどましだよ」
「ましってどういうことだ。ガキ」
シュリの言い草が気に入らないとばかりに深緑の瞳で睨みつけたシンキに、ソウは何と返せば良いのか困惑した。
確かに帰る場所なんてないのだから、与えてくれることは悪くない。しかしシンキのこともシュリのことも知らないのに、このまま世話になることの不安も大きい。
だからといって外で寝起きすることの方がはるかに不安だろう。ぐるぐると考えて黙り込んだソウに、シュリが不思議そうな顔で覗き込む。
「ソウ? シンキさん口悪いけど怖くないよ? 不安なら僕も少し一緒にいてあげるし」
黒い瞳がソウを見つめ、あどけなく笑った。微塵も疑わしい所のないそれに、ソウは湧き上がってくる不安を押し込めて頷いた。
「行くあてが、ありませんので……少しの間で、かまいません。ここに、置いて、くださいませんか……」
「はなからそう言ってんじゃねーか」
泣いてはいけないと思いながらもここ数日のことが頭を過ぎり、不安と苦しさのあまり我慢できなかった。震える声で何とかそれだけを言ったソウに、シュリは黙って布越しに頭を撫で、シンキは向かい合うソファに腰を下ろしながら、目許をほんの少し和らげて言った。
これからどうなってしまうんだろう。考えることがたくさんありすぎて、それにもまた泣けてきた。
既に太陽は天頂。陽射しは容赦なく照りつける。快晴だった。湿気がない分すごしやすいのはありがたいのだが、体調の思わしくないソウには普段以上に辛い。汗が背中を流れる感覚が不快だし、食べ物を受け付けなくて数日過ごしていたから、体力の低下と疲労感が思っていた以上にソウを苛んだ。しかし帰ることはもうできないと、唇を噛みしめて歩を進めた。
ここは街最大の貧民街だといわれているところだ。
奴隷解放を受けて地方から流れ込んできた亜人たちの中で、職に就けずにあぶれたものたちが一角に住まいをかまえ貧困に苦しむ地域があると聞いたことがあった。そこは秩序がなく治安も良くない。決して西の端には行ってはいけないと何度もセンに言われたところに、ソウは迷い込んでいた。
どこに行けばいいかも分からず、また考えがまとまっていないことでふらふらと歩いた方向が西だっただけなのだが。
今まで暮らして来た周辺とは全く違い、廃墟のような家屋が立ち並ぶ。何かが腐ったような匂いが鼻につき、何をするでもなく立っていたり座っていたりする亜人がそこかしこにいた。人間の姿はなかった。
完全な獣の姿をしたもの、ソウのように耳だけのもの、そしてそれに尻尾を持つもの。姿は違うが全てが亜人で、みすぼらしい衣服に纏い、澱んだ目をしていた。
質素だが清潔感のある装束を着て頭に布を巻きつけて歩くソウの姿は、そこでは場違いなほど綺麗に見えた。
ソウはできるだけ周りに気を配りながら歩いた。入り組んだ道は土地勘のないソウを意地悪くどんどん奥へと進ませる。細くなった道にごみが散乱したそこを、匂いと倦怠感から来る苦痛に眉間に皺を刻んで進んだ。
ここでどうしたら生活ができるんだろうか。そんなことを考えて周りを見ると、ちょうど小奇麗な格好をした亜人が一人立っていた。建物の壁に凭れてあたりに視線を配っている亜人は赤い装束を着ている。ソウと同じ耳――白い耳なので色は違うが――だけが獣で、見た目にも華やかな容姿をしていた。緩く波打つ黒髪は肩につくほどの長さ。大きな目に高い鼻梁、頬は愛らしさを思わせるばら色だ。年はソウよりまだ下であろうと推測できる。少年と言っても良いくらいだった。だけど少年と言うには色香が不釣合いなほど備わっている亜人だった。
緩く着込んだ装束は、肌を露出させるためにわざとそうしているようだった。艶めかしく胸もとを晒し、細く長い脚を装束から見えるようにしている姿は、そういったことに疎いソウでも扇情的に思えた。
そんな亜人が、ソウと視線を結ぶと妖艶に微笑んだ。さわり。とソウの背筋が粟立つほどに黒く大きな瞳に滴る色香が溢れていた。
「遊んでくれる?」
「え……?」
遊ぶ。の意味が分からなくて、ソウは返事に困った。すると少年はゆらりと壁から離れてソウの元に歩み寄ってくる。一歩踏み出すたびに緩く合わせただけの装束から脚が見え、まるで誘い込むように白い大腿部までを露わにした。
「おにーさん、綺麗な顔してるね。人間? 亜人?」
少年はばら色の頬をふんわりと綻ばせてソウを見た、身長はソウのほうが高く、すぐ目の前まで来た少年を見下ろした亜麻色の瞳がますます困惑する。少年の目は黒く宝石のような透明感でソウを見上げた。
「僕ね、お腹すいてるんだ。おにーさんが良いなら、気持ちよくしてあげるから……代わりに少しお金をくれないかな?」
「あ、あの……」
少年はソウの片手を取り、指を絡めた。その仕種は愛らしさを滲ませる少年のそれとは思えないくらい艶があった。
「ねぇ……駄目? 僕。おにーさんとなら、良いよ?」
首を傾げて上目遣いで黒い瞳を瞬いた少年に、ぞくりとするほどの淫猥な気配が増したような気がした。ソウは少年の言いたいことが分かったが、こんなことを言われたのが初めてでどうすれば良いのか全く分からなくなり頭が真っ白になった。それを分かっているのかいないのか、更に少年はソウのもう片方の手を取る。
「いた……っ」
怪我をしている方の手を取られて、ソウの顔が痛みで歪んだ。血は止まったが、むき出しの無数の怪我があるのは変わりない。小さく呻いたソウに少年が問う。
「おにーさん怪我してるの?」
「え……うん……ちょっと、ね」
痛がるソウを見て、少年がその顔と仕種から面白いくらい艶を落とすとキョトンとした。呑まれそうに溢れていたそれが一瞬で抜け落ちると、少年は別人かと思うくらいあどけなく見えた。
「うわ……すごい怪我じゃないこれ。大丈夫?」
ソウの手を上向きにして少年は自分が痛そうに顔を顰めた。
「痛いけど。私が悪かったから、しかたないね……」
「綺麗にしておかないと治りが悪くなるよ」
「でも何も持ってないから……」
上着を掴んで出てきただけのソウは、勿論お金もない。少年を見下ろした瞳が困ったように微笑むだけだった。
少年はそんなソウを見上げながら何かを考え、それからにっこりと笑った。無邪気なほど可愛らしいと思った。
「じゃあさ、シンキさんとこ連れて行ってあげるよ」
「……シンキさん?」
「うん、あの人ならきっと治してくれるはず」
言うが早いか、少年は痛くない側のソウの手を掴んで歩き出そうをする。ソウは戸惑いそれを止めようとしたが、存外に少年の足取りはしっかりとしていて、先ほど誘うように揺れ歩いていたのが嘘のようにソウをひっぱっていった。
「大丈夫、シンキさん優しいから」
「いや。そういう問題じゃなくて……シンキさんって……」
手を引かれて、更に奥まった道を歩く。未知の世界に足を踏み入れるような気がして怖かった。
「ここの薬屋さんだよ、シンキさんは。どんな薬も作ってくれるって、時々人間も買いに来るらしいんだ。あ、僕はシュリって名前。おにーさんは?」
振り返りながらシュリと名乗った少年はにこにこと笑っている。その笑顔のおかげか、ソウは怖い気持ちがなくなりはしなかったが、自然と名乗った。
「ソウって言います」
一体ここがどこなのかもソウは分からなかったが、シュリが連れて行ってくれた先には、レンガ造りの建物があった。それは古いながらもしっかりと存在しており、ここに来るまでに見たどの建物よりも綺麗に見えた。
「ここだよ」
シュリは笑顔でソウを振りかえる。やはりその笑顔は幼く可愛らしい。シュリのおかげで緊張が気持ち和らぐような気がした。
少年は慣れた様子で扉を開けてソウを連れて中に入った。薄暗い廊下の両側にいくつか扉があったが、シュリは真っ直ぐに奥の扉を目指した。
勝手に入っていいのかとソウは驚いたが、シュリに連れられて共に扉の前まで行く。シンキとはいったい人間なのか亜人なのかも分からない。否応なしにまた緊張してしまうのを止められなかった。つながれた手をきゅっと握ると、シュリはそれを感じて安心させるように優しく握り返してくれた。
「シンキさん、いる?」
少年が気軽にまた扉を開けた。奥まった部屋の中は窓が三つほどあり、廊下に比べると格段に明るかった。壁も床も綺麗で、外から見るのとは全く違って清潔感があった。大きなテーブルと、一目で高価だと分かるソファセットに床の大半を占めている絨毯は、踏むのがもったいないほどに美しく色彩を溢れさせていた。
三人は楽に腰掛けるられるだろうソファの上に、一人の男が横になっていた。黒に金糸で刺繍を施された装束を纏った男は、肘掛の部分に頭を乗せて瞼を下ろしていた。明るい部屋の中で更に光り輝く金髪は長く、絨毯に流れ込むほどだ。
転寝でもしていたのだろうか、男はシュリの声にうるさそうに瞼を持ち上げた。下から現れた色に、ソウはハッと息を呑んだ。
芽吹く若葉がそこにあるような、鮮やかな深緑をしていた。ソウの中にいる、あの人と同じ髪と目の色。
「…………なんだ? シュリじゃねーか」
「こんにちは、シンキさん」
眉間に皺を刻んだシンキという男は、身を起こそうとせずシュリを見やった。アマネに比べるとずいぶん粗雑な印象を受けるが、顔立ちは惚れ惚れするほど整っていて精悍だった。
「んで……今日はなんだ? 悪いけど間に合ってるからな。ガキはおとなしく表で遊んでろよ」
「違うよ。ちょっとソウの手を診てあげて」
「ん?」
シュリがソウを示していうと、そこでシンキは初めてソウに気がついたといわんばかりに視線を流した。深緑の瞳は射抜くような強さでソウの亜麻色を捕らえた。
「ソウ?」
「あ、突然申し訳ありません……」
ここまで勝手につれてこられたのだが、ソウは慌てて頭を下げた。威圧的なシンキの瞳に圧倒され、その先は言葉が出なかった。
シンキは大きく欠伸をすると、めんどくさそうにため息まで落としたが、何も言わず身体を起こした。シュリがソウの手を引き部屋の中に入ると、同時にシンキも立ち上がる。アマネほど長身ではなかったが、ソウよりは高い。身体つきも逞しく、シンキの色もあってどうしてもソウはアマネを思い出して仕方がなかった。心臓が緊張しているのとはまた違った意味で速くなる。
シンキはソウの手を取り傷を確認した。「何で怪我をした」とか「いつ」とかいくつか質問をされ、ソウはびくつきながらそれに答えた。人見知りな性格で、初対面の人間はそれだけで苦手意識が働いてしまうからだ。
「ちょっとそこ座っとけ」
ざっくりと傷を確認したシンキは、だるそうに髪をかきあげて言うとソウとシュリをソファに促した。そのまま自分は隣の部屋に入っていく。長い髪はシンキが立っていると腰の下まである。絹糸のように癖がなく、さらさらとシンキの背中を覆っていた。
ソウは緊張した面持ちで、シュリは気楽な様子でソファに腰掛けていくらか待っていると、シンキは両手で桶と何かが入った箱を持ち、脚で乱暴に扉を開けて戻ってきた。
「ほれ、手ぇ出せ」
テーブルの上に桶を置きソウの手を取ったシンキはしゃがみ込むと、手を桶につけた。中には体温くらいの温かさの湯が張られており、何をするのかと目を丸くしたソウの手――傷を綺麗にながし始めた。シンキの手は言葉から想像できないほど優しく丁寧に傷に触れ、柔らかな動物の毛を使った刷毛で、痛くないように加減をしながら汚れを落としてくれた。硝子で切ったと言ったからか、細かい破片を落とすため長い時間をかけてそれを施してくれた。
桶から手を上げると、今度は清潔な布で水分を取り、薄紫色の軟膏を塗る。最後にまた清潔な布を、今度は傷を隠すようにあてがい包帯を巻いてシンキは立ち上がった。
「しばらくここにいろ。診てやるから」
「え……?」
「見ない顔だし、どうせよそから流れてきたんだろ? お前みたいな綺麗な顔してるとここじゃヤられて終わるぞ」
淡々とシンキが言った言葉にソウは驚き、怖くなって身を強張らせた。秩序がないといわれている地域だ。あながち嘘でもないだろうと思う。
「それもそうだよねぇ……僕も綺麗な顔した人だなぁって目が行ったもん。ソウ、このままシンキさんのとこにいなよ。帰るところがあるなら別だけど、ここにいるならシンキさんのほうがよっぽどましだよ」
「ましってどういうことだ。ガキ」
シュリの言い草が気に入らないとばかりに深緑の瞳で睨みつけたシンキに、ソウは何と返せば良いのか困惑した。
確かに帰る場所なんてないのだから、与えてくれることは悪くない。しかしシンキのこともシュリのことも知らないのに、このまま世話になることの不安も大きい。
だからといって外で寝起きすることの方がはるかに不安だろう。ぐるぐると考えて黙り込んだソウに、シュリが不思議そうな顔で覗き込む。
「ソウ? シンキさん口悪いけど怖くないよ? 不安なら僕も少し一緒にいてあげるし」
黒い瞳がソウを見つめ、あどけなく笑った。微塵も疑わしい所のないそれに、ソウは湧き上がってくる不安を押し込めて頷いた。
「行くあてが、ありませんので……少しの間で、かまいません。ここに、置いて、くださいませんか……」
「はなからそう言ってんじゃねーか」
泣いてはいけないと思いながらもここ数日のことが頭を過ぎり、不安と苦しさのあまり我慢できなかった。震える声で何とかそれだけを言ったソウに、シュリは黙って布越しに頭を撫で、シンキは向かい合うソファに腰を下ろしながら、目許をほんの少し和らげて言った。
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