君の瞳が映す華

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14.不義

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 ――アマネ様のお心を煩わすことだけは決して許さない。まして亜人が。
 そう言い残して、カグラは部屋を出て行った。蝋燭の明かりがふわりと風に揺れるのを、ソウは何の感情も宿していない亜麻色の瞳で見つめた。
 そうか。やはりそうなのか。
 カグラの言葉が楔のように心を貫いている。自分の中の何かがそれに抗うようにもがき苦しんでいる。しかしそれを奮い立たせることができないまま、瞳からまた涙が零れた。
 身動ぎしない身体が、手足が凍えるように冷えていく。まるで自分の足元にぽっかりと穴が開いたようで、そこに引き摺られそうだ。
 ソウは声を出すこともなく、ただ涙した。瞬くこともなく、滂沱と流れるそれを止める術さえなくて、呼吸もできないほどに身が震えるのを感じた。
 自分でもこんなことになるなんて思わなかった。人間を好きになるなんてことは考えたこともなかった。
 生まれてこの方、ソウが亜人だからと蔑んできた人間たち。冷たい目で見られ、亜人であるが故に持って生まれた耳を蔑まれ、しかし都合のいいときだけ利用される。自分が買われていった先の家も、他の亜人に比べるとソウに優しくはしてくれたが、しかし亜人であることをひたすらソウの精神に刷り込んだ。呪縛のように何度でも、傷を抉るように自身の出生を忘れることがないよう、決して人間に逆らわないように。徹底して格差を教え込まれた。
 だから、ソウにとって人間とは恐ろしいものであって、こんな感情を持つものではないと思っていたのに。
 なぜ。なぜアマネを好きになったのか。それは昨日からずっと、一時もないくらい考えた。
 特別な出会いでもなかったはずだ。道に迷ったあの人を助けただけだ。なのになぜ。
 端整な顔立ちや、ソウが見上げなければいけないほどの身長も、外見だけで相手を判断することがないソウにとって、それはアマネという命の器に過ぎない。
 では他に何があったのだろう。ただ会って会話をして、笑顔があり笑い声があり、そしてアマネは温かな時間を与えてくれた。字が読めないことがコンプレックスだったソウに、それを克服する機会を与えてくれた。それを優しく見守ってくれ、そして自分のことのように喜んでくれたアマネがいた。ただそれだけ。しかしそれが嬉しかった。
 アマネのために本を読むことが嬉しかった。自分でも何かの役に立つことがある。亜人として奴隷としてではなく、望まぬ色事ではなく、暴力を受けることではなく、役に立つのが嬉しかった。
 そして、羨ましかった。いつも笑顔でいるあの人が。大らかで子供のように笑うことができるあの人が羨ましくて仕方がなかった。人間であることがもう羨ましくて、だけれど、可哀想だと思った。
 あの人もまた、囚われているのだと知った。盲目であるために諦めたことがあったのだろう。可能性を手放したのだろう。そう思ったのはつい最近だが、それから何かが変わったような気がした。
 ソウの思考は霧散していく。結局そんなことを考えても答えなんてないのだ。いつから。なぜ。無意識に芽吹いてしまった感情は、その答えを教えてくれない。
 呆然と、はたりはたりと落ちて行く涙が、ソウの膝に置いた手に落ちていき服に染みこんでいく。
 心の奥が痛くて仕方がない。眩暈すら覚えそうになって、ソウは目を閉じた。閉じた瞼からは呆れるほど涙が零れた。
 ふと、何かがソウの中に燈った。しかし手を伸ばして掴もうとすると逃げていく。そこに何かがあるのは分かっているのに、いくら見ようとしても触れようとしても、それはソウの元には来てくれない。思考の渦の中でちらちらと見えるだけのそれは一体なんなのだろうか。
 どれくらい瞼を閉じていたのか分からないが、ふと部屋の扉が開く音がして、亜麻色の瞳が蝋燭の炎を映し出した。視界を遮っていたせいか、泣きすぎたせいか分からないが、ぼんやりとしたその灯りでさえ眩しく思えた。
「ソウ?」
 ソウが目を開いた先には、扉を開けて立っているアマネがいた。薄紫の装束に黒い長衣を纏ったアマネの、艶を帯びた金髪が柔らかく蝋燭の灯りを纏っていた。
 ゆっくりと、アマネは部屋の中に入ってきた。この部屋は普段カグラが使っている部屋で、狭苦しい。椅子と机くらいしかない、それ以外はとても置けないほどに狭い部屋。大柄なアマネがここにいると、窮屈そうに見えた。
「ソウ。いないのか?」
 明らかに気配を感じるのだろう。アマネは光のない視線を彷徨わせてソウの名を呼んだ。その深緑の瞳を見返しながら、ソウは嗚咽が零れそうになるのを必死で堪えた。
 名を呼んでもらえるだけでこんなに嬉しいことがあるのだと、魂から震える。堪えた嗚咽を抑えこむように、ソウは大きく呼吸をした。一拍置き、ソウは涙の瞳を笑顔に変えて返事をした。
「はい……」
 しかし短い返事でも涙がそこには含まれている、隠しようもないそれにアマネが気付かないわけもなく、声を聞き一瞬怪訝な顔をした。
「どうかしたのか?」
 穏やかな眉間に皺を刻んだアマネは、狭い部屋の中を数歩進み、手探りで机を確認すると立ち止まる。ソウとはその机の分だけしか距離がない。アマネから滲み出る穏やかで優しい空気がソウを浸蝕するようにふわりと踊った。
「いいえ……何でもありません」
 ソウは見上げながら声を発した。
「だが、泣いているような声だ」
 心配そうに声がしたほうに視線をとめてアマネは首を傾げた。ここで嘘をついても仕方がないとは思ったが、やはり泣いた理由を話すことはできない。ソウは見えていないとはいっても、できるだけ笑顔でアマネに言う。
「先ほど読んでいた本が、悲しい内容だったので……恥ずかしいんですけど……」
 見え透いた嘘だった。この人にどれだけ嘘を重ねなければいけないのだろう。自分がまいた種だが、ソウはやり切れない思いがした。
 アマネはソウの言葉を聞き、キョトンとした後、何か思うところがあったのかもしれないが、それ以上は追求しなかった。物言わぬ瞳をやんわりと笑みの形に変えて言った。
「そうか……俺は、悲しい話はあまり好きではない」
「そうなのですか?」
「あぁ、せっかく読むのなら楽しくて幸せになれる話がいい。現実だけで充分だ……」
 最後は独り言のように小さく呟く。ソウにはその真意は分からないが、アマネがそう言うのなら、悲しい本は読まないほうがいいなと、心の片隅で思った。
「カグラはさっさと帰ってしまったのに、ソウがなかなか出てこないから心配したんだ」
 カグラが座っていた椅子を引き、ゆっくりと腰掛けながらアマネは言った。ソウは自分がどれだけの時間ここにいたのか自覚はない。しかし多少なりともアマネを待たせ心配させてしまったことに、座ったままであるが丁寧に頭を下げた。それにアマネは気安く笑い声を零した。
「そんなことで謝る必要はない。それに責めてもいない」
 くつくつと喉の奥で笑いながら、アマネは頬杖をつく。そのまま向かいあう亜人ににっこりと微笑んだ。子供のような邪気のない笑顔は、ソウの心にしっかりと刻まれたものと相違ない。
「ソウは、優しいな」
「……え?」
「優しいなと言ったんだ。それに何でも真面目で一生懸命だ。字を覚えるのは簡単なことじゃないのに、短期間で難しいものでも読めるようになった。俺にも気を遣ってくれているし、頑張って読んでくれている。感謝してもしきれないくらいだ」
 突然まともに褒められて、ソウの頬が赤くなる。そんなことを言われたのは初めてだ。いやセンはよく褒めてくれるが、アマネから言われるとまた違って恥ずかしい。
「そ、そんなことありません……まだまだです……それに優しいなんて……」
 今でも燻る、アマネに対しての羨望と嫉妬は消えはしない。後ろ暗い気持ちでソウは顔を俯けた。だがそれはアマネには見えないし伝わらないものだろう。盲目の男は頬の横に流れる金髪を揺らして首を振った。
「そんなことはない。それに、上手くいえないが……ソウといると落ち着くんだよ」
「おちつく……?」
「あぁ。ソウは俺よりも年が下だろうけど、一緒にいるとなぜか落ち着く。それに知り合ってまだまだ日も浅いが、長く一緒にいた友人のような気がしてならないんだ。俺が言うのもなんだが、きっと目に見えるだけが全てではなく、ソウの中から滲んでくる何かが、俺には心地いい」
 恥ずかしそうにアマネは笑いながらそう言った。言われたことは限りなく嬉しいことなのに、今のソウは素直にそれを受け止められなかった。
 友人のようだ。それがカグラの言葉とは違う意味で心を傷つけていく。そうだ。普通の感情はそうなのだろう。分かっていることを当のアマネから言われてしまった。
 アマネがソウを良く思ってくれているのは本当に嬉しい。しかしそれは自分がアマネに対して抱いている感情とは全く異なる。互いの感情の間には天と地ほどの差があるのだ。
 そしてアマネは、ソウを人間だと思っている。亜人だなんて微塵も考えていない。それが更にソウに追い討ちをかける。
 決して分かり合えない関係。決して実らない感情。通うことがない心と心。
 ――――あぁ、この感情は不義だ。
 先ほど身の内で掴みきれなかった答えが、ふいに掌にすとんと落ちたような気がした。ずっしりと重く、とても持っていられないほどに罪深いそれは、更にソウの足元に落ちて足枷に変わる。アマネにとって不要な感情に、ソウは抵抗できずに囚われた。
 だがソウは、それを手放すことがやはりできない。みっともなく重たいそれを抱えて愛しそうに抱き締める。
 私は決して優しくもありません。あなたの友人でもありません。私は亜人で、あなたに嫉妬じみた感情を抱き、なのにこともあろうかあなたを好きになってしまいました。この罪をお許しくださいますか。
 懺悔にも似た気持ちが、ソウの神経をなぞり上げていく。それは心を満たしていき、行き場がなくなり、再び涙という形で溢れ出た。
 目許を細い指で拭い、ソウは言葉を押し出すことができなくなった。喉が震えて声が言葉に変わらない。黙り込んでしまったソウを、しばらくアマネは透かし見るようにしていたが、肩を震わせて泣いているのを空気の流れで感じたのかそっと机の上に手を差し出した。
「ソウ。何がそんなに悲しいのか分からないけれど、できれば泣いてほしくない。それから、どうしても泣きたければ、一人ではなくて……俺でよければ手を取ってほしい」
 優しく瞳を細めたアマネは、机の上に差し出した手でソウの手を取る。少しだけ怯えたように控えめに触れてきたアマネの手に、ソウは縋りつくようにして指を絡めた。
 この人が好きだ。この人が愛しい。甘く鋭い痛みが繰り返し何度もソウの中で暴れ狂う。しかしそれをもってしても、目の前に差し出された手を断ることはできなかった。
 涙は、壊れたように溢れ出る。それが止まるまで、アマネはずっと手を握ってくれていた。
 神様、この不義をお許しください。これでもう――。
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