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恋は雪解けのように
一話 雪解けの予感
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十二の鐘が鳴り終えた頃、舞踏会場の硝子窓に雪の結晶が叩きつけはじめた。
エステルは氷のように冷えたマーブルの柱に背中を預けながら、黒いレースの扇子で息を白くしていた。
指先に食い込んだダイヤの婚約指輪が、今や嘲笑いの枷のように重い。
「エステル、お前はいつもこうだ」
突然響いた低音に睫毛を震わせた。
縦長の窓辺に立つクロードのシルエットが、蝋燭の灯りで歪んで見える。
彼は婚約破棄を宣告した時と同じく、冷めた琥珀色の瞳でこちらを見下ろしていた。
「薔薇園の手入れに夢中で、政治談義にすら興味を示さぬ。このままでは我々の婚約が、単なる『可愛い人形同士の遊び』で終わると思わぬか?」
エステルの喉元で真珠のネックレスが軋んだ。
温室で育てた冬薔薇の香りが、突然舞踏会場の麝香臭に飲み込まれる。
彼女の足元に散らばった氷砂糖のような雪片が、絹のスリッパを濡らしていた。
「……では、代わりに温室の薔薇と政略を論じます?」
鋭い反問が空中で砕けるより早く、クロードは革手袋を嵌めた右手を挙げた。
彼の薬指に光るのは、確かに先月エステルが贈ったアメジストの指輪ではない。
新たな翡翠が、冷酷なまでに完璧なカットで輝いている。
「今夜のダンスはキャンセルさせてもらう。父上の意向で、モンテスリー侯爵令嬢とパヴァーヌを踊る約束がある」
絹のドレスの裾が氷の床を撫でる音。
エステルは震える膝をレースのペティコートで押さえつけながら、遠ざかる背中に叫んだ。
「それこそ『可愛い人形同士の遊び』ではありませんか!」
返ってきたのは硝子戸の閉ざされる音だけだった。
***********
古びた温室の鉄柵が、月光に青く浮かび上がっていた。
エステルは舞踏会場から持ち出したシャンパングラスを、霜柱の積もったベンチに置いた。
ガラス越しに見える薄紅色の薔薇が、彼女の頬よりも生き生きと赤みを帯びているのが不愉快でたまらない。
「……温室育ちの花なんて」
呟きながら手袋を脱いだ。
鋭いトゲが指腹を刺す痛みに、ようやく自分が生きていることを実感した。
クロードが嫌ったこの手のひらの小さな傷痕――薔薇の世話でできた無数の十字架が、今や唯一の友人のように思えた。
「その花、摘み方がある」
軍靴の踵が雪を軋ませた。
振り向いたエステルの黒髪に、冷たい風が忍び寄る。
鉄骨の影から現れた青年は、貴族には珍しく片耳に銀のピアスを光らせていた。
乱れた金髪の間から覗く瞳は、極北の海で磨かれたサファイアのようだ。
「ヴェルモンド辺境伯の……」
「レオン・ド・ヴェルモンド。だが『辺境の狼の子』と呼ぶ方が早いだろう」
彼は軍服の袖に付いた雪を払いながら近づいてきた。
エステルが警戒して後ずさると、青年は不敵に笑って温室のガラスを叩いた。
その指節には戦場の傷跡が刻まれている。
「温室育ちの薔薇は脆い。本当の強さを知りたければ、北領の冬薔薇を見るがいい。零下二十度の吹雪でも、この拳ほどの花を咲かせる」
「ではなぜ、そんな花がここに?」
問いかけるより早く、レオンは拳を振り下ろした。
ガラスが水晶の雨のように散り、冷気がむき出しの温室に流れ込む。
エステルの叫び声と同時に、彼の手から鮮血が滴り落ちた。
「ほら」
赤いしずくが雪上に咲く中、レオンは砕けたガラス越しに薔薇を摘み取った。
トゲが傷口に食い込んでも平然として、その花をエステルに差し出した。
「本当の赤は痛みを伴うものだ。令嬢の温室でぬくぬく育った偽物とは違う」
震える手で受け取った花弁が、掌で温もりはじめた。
エステルはこの男の血の香りが、なぜか腐敗した舞踏会場の香水より清浄に感じるのに戸惑った。
遠くで再び鐘が鳴る。今度は彼女の胸の奥で、何かが砕ける音と共に。
「……なぜ私に?」
「貴女の瞳に、凍てついた炎があるのを見たからさ」
レオンは傷ついた手でエステルの顎を撫でた。
その触れ方が、クロードの完璧なマナーの何十倍も残酷で、そして優しかった。
突然、温室の外で馬の嘶きが響く。
彼は雪煙を上げながら去り際に呟いた。
「春が来る前に、本当の自分を掘り起こせ。さもなくば――」
残された言葉は夜風に消え、エステルの手の中の薔薇だけが、真紅の証しとして燃え続けていた。
エステルは氷のように冷えたマーブルの柱に背中を預けながら、黒いレースの扇子で息を白くしていた。
指先に食い込んだダイヤの婚約指輪が、今や嘲笑いの枷のように重い。
「エステル、お前はいつもこうだ」
突然響いた低音に睫毛を震わせた。
縦長の窓辺に立つクロードのシルエットが、蝋燭の灯りで歪んで見える。
彼は婚約破棄を宣告した時と同じく、冷めた琥珀色の瞳でこちらを見下ろしていた。
「薔薇園の手入れに夢中で、政治談義にすら興味を示さぬ。このままでは我々の婚約が、単なる『可愛い人形同士の遊び』で終わると思わぬか?」
エステルの喉元で真珠のネックレスが軋んだ。
温室で育てた冬薔薇の香りが、突然舞踏会場の麝香臭に飲み込まれる。
彼女の足元に散らばった氷砂糖のような雪片が、絹のスリッパを濡らしていた。
「……では、代わりに温室の薔薇と政略を論じます?」
鋭い反問が空中で砕けるより早く、クロードは革手袋を嵌めた右手を挙げた。
彼の薬指に光るのは、確かに先月エステルが贈ったアメジストの指輪ではない。
新たな翡翠が、冷酷なまでに完璧なカットで輝いている。
「今夜のダンスはキャンセルさせてもらう。父上の意向で、モンテスリー侯爵令嬢とパヴァーヌを踊る約束がある」
絹のドレスの裾が氷の床を撫でる音。
エステルは震える膝をレースのペティコートで押さえつけながら、遠ざかる背中に叫んだ。
「それこそ『可愛い人形同士の遊び』ではありませんか!」
返ってきたのは硝子戸の閉ざされる音だけだった。
***********
古びた温室の鉄柵が、月光に青く浮かび上がっていた。
エステルは舞踏会場から持ち出したシャンパングラスを、霜柱の積もったベンチに置いた。
ガラス越しに見える薄紅色の薔薇が、彼女の頬よりも生き生きと赤みを帯びているのが不愉快でたまらない。
「……温室育ちの花なんて」
呟きながら手袋を脱いだ。
鋭いトゲが指腹を刺す痛みに、ようやく自分が生きていることを実感した。
クロードが嫌ったこの手のひらの小さな傷痕――薔薇の世話でできた無数の十字架が、今や唯一の友人のように思えた。
「その花、摘み方がある」
軍靴の踵が雪を軋ませた。
振り向いたエステルの黒髪に、冷たい風が忍び寄る。
鉄骨の影から現れた青年は、貴族には珍しく片耳に銀のピアスを光らせていた。
乱れた金髪の間から覗く瞳は、極北の海で磨かれたサファイアのようだ。
「ヴェルモンド辺境伯の……」
「レオン・ド・ヴェルモンド。だが『辺境の狼の子』と呼ぶ方が早いだろう」
彼は軍服の袖に付いた雪を払いながら近づいてきた。
エステルが警戒して後ずさると、青年は不敵に笑って温室のガラスを叩いた。
その指節には戦場の傷跡が刻まれている。
「温室育ちの薔薇は脆い。本当の強さを知りたければ、北領の冬薔薇を見るがいい。零下二十度の吹雪でも、この拳ほどの花を咲かせる」
「ではなぜ、そんな花がここに?」
問いかけるより早く、レオンは拳を振り下ろした。
ガラスが水晶の雨のように散り、冷気がむき出しの温室に流れ込む。
エステルの叫び声と同時に、彼の手から鮮血が滴り落ちた。
「ほら」
赤いしずくが雪上に咲く中、レオンは砕けたガラス越しに薔薇を摘み取った。
トゲが傷口に食い込んでも平然として、その花をエステルに差し出した。
「本当の赤は痛みを伴うものだ。令嬢の温室でぬくぬく育った偽物とは違う」
震える手で受け取った花弁が、掌で温もりはじめた。
エステルはこの男の血の香りが、なぜか腐敗した舞踏会場の香水より清浄に感じるのに戸惑った。
遠くで再び鐘が鳴る。今度は彼女の胸の奥で、何かが砕ける音と共に。
「……なぜ私に?」
「貴女の瞳に、凍てついた炎があるのを見たからさ」
レオンは傷ついた手でエステルの顎を撫でた。
その触れ方が、クロードの完璧なマナーの何十倍も残酷で、そして優しかった。
突然、温室の外で馬の嘶きが響く。
彼は雪煙を上げながら去り際に呟いた。
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