屍山血河の国

水城洋臣

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道士 殷九叔

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 旅の道士・殷九叔いんきゅうしゅくは、物心ついた頃より人ならざる者を見ていた。
 いわゆる幽霊と言う存在。

 あまりに明瞭に見える為、おかしな場所に立ち尽くしていたり、変な行動をしているのに周囲が気にしていないなど、明らかに不自然な事が無ければ、普通の人間と見分けが付かない事も多々ある。
 町の雑踏で人の波を避けて進んだ時、すれ違った多くの人の内、何人が生きた人間で、何人が幽霊だったのか、確認するすべなどない。

 それほどに幽霊と言うのはありふれていて、どこにでもいる。そして大部分は無害である。
 中には危険な奴もいるが、それは大勢の中に紛れたひとりに過ぎず、そうそう出くわす物でもない。そこは人間と同じだ。

 強いて気を付けるべきは、元人間の魔性のうち、の方だ。

 生きた人間には魂魄こんぱくというものが併存している。

 「こん」とは、人の人格、記憶、理性、意識などを司っている。
 「はく」とは、人の肉体の維持、健康、成長などを司っている。

 これら魂魄が両方あって、人は生きている事が出来る。死ぬとはこれを同時に失う事だ。ただ希に、片方だけ先に失ってしまい、もう片方が残留してしまう事がある。

 魄を失い魂だけが残れば、肉体は朽ち果て消え去っても、生きていた頃の記憶や意識がそこに留まり続ける。これが幽霊である。

 逆に魂を失って魄だけが残ってしまうとどうなるか。
 肉体は朽ちず、髪や爪も伸び続けるが、生きていた頃の記憶も理性も失って、ただ野獣のように人を襲う彷徨う死体となる。これが彊屍キョンシーである。

 幽霊は人と同じ意識を持っている上に、実体がない。人に害を与える個体は非常に希だ。
 しかし彊屍は、実体を持っている上に理性が無く、野獣のように人を襲う。これでは存在するだけで人に害を与えてしまうのだ。


 殷九叔は冀州きしゅうに入ってからというもの、そこら中に白骨死体や腐乱死体が転がり、その合間に転々と幽霊と思われる人影が立ち尽くしている所に飽きるほどすれ違っている。
 まるでこの大地そのものが巨大な墓場となっているようだった。

 そんな中、凄まじい陰の気を感知した。道に沿って足跡が続いているが、殷九叔の目には、その足跡が禍々しい黒い煙を放っているように見えた。
 間違いなく彊屍である。そう確信した殷九叔は、その足跡を追った。

 辿り着いた先は曲梁きょくりょう県の県城で、中に入ると通りの先に人だかりが出来ていた。周囲の住人に聞けば、どうやら県尉が殺害されたらしい。既に彊屍の被害が出ているという事だ。

 人だかりを掻き分けて、県尉の死体が運ばれていく様子を覗いていると、そのすぐ近くに若い娘が立っていた。
 服装や顔つきからすると胡人の娘と思われるが、このご時世だというのに誰も気にしていない。しかも人払いがされている殺人現場の死体のすぐ脇で、茫然と死体を見つめている。明らかに幽霊であろう。

 その娘を見つめていると、ふと娘も気づいたのか顔を上げ、殷九叔と目が合った。

 ――見えているの?

 娘はそう言っているかのように驚いた顔で、殷九叔の方へと歩み寄ってきた。彼は目くばせをして、人気のない路地裏へと向かった。娘は後ろから付いてくる。この場合は、とした方が正解であろうか。

「君の名は?」

 ――禰慈ねいじ

「あそこで何をしていた?」

 ――がやった。私には止められない。

「彊屍の事だね……」

 ――彼を止めたい。

「まずは何があったのか、教えてくれる?」

 すると禰慈は手をかざして殷九叔の額に触れた。記憶の断片が頭の中に流れ込んでくる。

 徐翼じょよくという青年と出会って恋仲になった事。
 お上による胡人の抹殺宣言が出された事。
 徐翼と共に街から逃げようとした事。

 そして最も強烈な最後の記憶。

 それは徐翼共々、役人であった周沈しゅうちんとその部下に捕らえられた場面である。周沈は徐翼に穏やかに、しかしどこか小馬鹿にしたような口調で話しかけ、徐翼は怒りに目を血走らせている。

「お前は漢人であろう? なぜ胡人を庇う?」

「胡人だったらなんだって言うんだ…、同じ人間だろうが!」

「おやおや、このままではお前は漢奸かんかんになってしまうぞ? お前の手でその女を殺せ。そうすればお前だけは見逃してやろう」

「ふざけるな……、誰が従うものか……。漢奸だというならそれで構わない。貴様のように真の奸賊になるくらいなら死んだ方がマシだ!!」

 その言葉に、一瞬眉を動かした周沈だったが、一呼吸おいて言い放つ。

「いいや、殺してなどやらん。お前ら、例のやつだ」

 周沈の部下たちは慣れた手つきで徐翼に猿ぐつわを噛ませると、大きな鉄槌で、徐翼の両手両足を潰していった。苦悶の絶叫を上げる徐翼。

「やめてください! お願いします!」

 禰慈が泣いて懇願しても、周沈はまるで聞く耳を持たなかった。
 やがて徐翼の両手両足は、ことごとく骨が砕かれ、動く事も出来なくなった。それでも意識はしっかりと残っている。猿ぐつわを噛まされている為、舌を噛んで死ぬ事も叶わない。

「さぁ、ここからが本番だ」

 ニヤリと笑った周沈は、不気味な笑みを浮かべた。

 周沈の部下は、ひとりが徐翼の頭を押さえつけ、他の部下がふたりがかりで禰慈の処刑を行った。
 それも平時の処刑のように一太刀で首を落としたり、先にトドメを刺してから首を取るわけでもない。彼らはそのようなをかけない。
 後ろ手に縛られている禰慈を跪かせて、背中を踏みつけて固定し、髪の毛を乱暴に掴み上げて顔を上げさせる。
 そしてもう何十人も斬り続けて切れ味の鈍った、ボロボロに刃こぼれした刀を首にあてがうと、鋸挽のこぎりびきで生きたままゆっくりと禰慈の首を斬ったのである。

 禰慈は激痛に悲鳴を上げていたが、それも声帯が切り裂かれるまで。そこから先はゴボゴボと泡の出るような音に変わっていた。それでも残酷な事に、脳が活動を停止するまでの数十秒、禰慈は意識を保ち続けた。
 愛する恋人が目の前で虐殺される様を見せられた徐翼は、猿ぐつわをされてなお悲痛な絶叫を続ける。そして周りで狂った笑いを続ける周沈とその部下たち。それが禰慈が生きている内に見た最後の光景であった。

 その後、禰慈はいつしか幽霊となって同じ場所に立っていた。
 自身の首は周沈らに持ち去られたが、血まみれの体はその場に残されていた。そして手足を砕かれ猿ぐつわを噛まされたまま、動く事も死ぬ事もできない徐翼も、トドメを刺されぬまま放置されていたのである。
 徐翼は恋人の亡骸なきがらを見つめながら、力尽きるまで慟哭し続けていた……。

 殷九叔は、頭に流れ込んできたあまりに壮絶な記憶に、思わず眩暈を覚えた。

「なるほど、あんな負の念が醸成され続けるような死に方、そりゃ彊屍にもなるな……」

 路地の壁にもたれかかりながら、殷九叔は悲し気な目をしている禰慈に語り掛けた。

「僕が何とかしよう。彼を……、あげなきゃね」


 そのすぐ後、街中で黒い思念がまとわりついている男とすれ違った。禰慈の記憶にあった徐翼の義兄・許範きょはんだった。あの様子では徐翼の彊屍と悪い縁が出来ている。早ければ今夜にも徐翼は彼の元に向かうだろう。
 彼は通りすがりに霊符を渡したが、果たしてそれで効くだろうか。

 だがまずは殺された周沈の死体が先だった。
 あの様子では必ず生き返る。

 しかし県庁の敷地内という事で、門前払いを喰らってしまい、仕方なく夜中に出直す事にした。
 夜更けに県庁敷地内に潜入し、陰の気が強い方向に向かう。そこで蘇った周沈が、巡回の兵士を襲おうとしている所に出くわし、間一髪で始末する事に成功。

 助けた巡回兵はそのまま失神してしまったが、傷も負っておらず、夜の冷え込みもなかった。命に別状は無かろうという事で、殷九叔はそのまま次へ向かった。

 街で出会った徐翼の義兄・許範の家に向かうも、そちらは駄目だった。渡した霊符が卓の上に置いたままになっており、無防備に扉を開けたようだった。
 出会った時点で、かなり心が参っていたのが見て取れた。許範はあの時点で既に死を心に決めていたのだと思う。そうなるともう死の運命は固着してしまい、助けようがない。
 殷九叔は弔いの言葉をかけると、燭台と油を使って許範の遺体を火葬にした。

 ここからは許範の家に残っていた陰の気を追跡する。
 気の流れは路地を通り、城壁の上から街の外へ向かっていた。

 向かった先は、どうやら最期を迎えた場所のようであった。

 殷九叔は桃木剣を構え、戦闘に備えた。
 余談であるが、桃の樹は古来より邪を払う力を持っているとされ、道教の退魔においては専ら桃の木を削りだした木剣を使うのである。

 そして辿り着いた最期の地。
 禰慈の亡骸は既に腐り落ちて白骨化していた。
 徐翼はそのすぐ傍で立ち尽くしている。

 彊屍は、魂を失い、結果として記憶も失う。だが果たして本当にそうだろうか。
 はっきりとした明瞭な記憶や理性は確かに無いだろう。だがわずかに、その体のどこかに、残っているのではないだろうか。
 でなければ、生前に縁や恨みのある相手の前に姿を現すわけはないのだから。

「徐小鵬……」

 殷九叔は、桃木剣を構えながらも、穏やかに語り掛けた。今や彊屍と成り果てた徐翼は、ゆっくりと振り向いて唸り声を上げる。

「君の怒りも、悲しみも、その深さは想像を絶する。同情するよ。だがこのまま君を野放しにしておくわけにはいかないんだ……」

 徐翼は大きく慟哭し、獣のように爪を立てながら、殷九叔に飛びかかった。殷九叔は慌てる事もなく、穏やかな最低限の動きでその攻撃を見切ると、桃木剣を徐翼の心臓に、静かに深々と突き刺した。

 苦悶の慟哭。
 その肉体に残留し生かし続けていた魄が解放され、その反動で肉体が一気に朽ちていく。激しく燃えるような黒煙が上がり、その肉体は灰となって崩れ去った。

 天に昇っていく煙の中に、仲睦まじく微笑みあう若い男女の姿が見えた。
 世のしがらみから解放され、ようやく二人は一緒になれたのだろう。
 そして今度生まれてくる時は、どうか平和な世に……。
 殷九叔は、そう願わずにはいられなかった。

 冀州の大地に朝日が差し込む。
 そこには未だ、朽ちる事のない多くの遺体が残されていた。




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