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第七章 訣別の祁山
第五十三集 霧中の開戦
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馬超軍が体勢を整え、漢中を進発した。涼州を落ち延びてから、わずか一月後の事である。
それを迎え撃つ涼州軍は何とか祁山砦を完成させ、各地に援軍を要請していた。
当然ながら馬超の耳にも祁山砦建築の話は入っていたが、漢中からの補給と武都氐の援軍を以って、急造の砦など一気に穿ち抜いてやると言う心持ちであった。
そんな馬超の同盟相手でもある武都氐の族長・千萬は、自身の妹である浥雉が殺害された事に憤っていた。殺害した涼州軍も然る事ながら、同時に妻を守る事が出来なかった馬超に対しても同様に怒りを露わにしており、援軍を出し渋るという不測の事態が起こっていたのだ。
祁山があるのは、正に彼ら武都氐の庭とも言える武都郡であり、その援軍の有無は馬超軍の戦力に大きく関わってしまう。
あくまでも涼州軍の卑劣な策略であったと武都氐を説得する為、龐徳が山岳地帯の奥深く、武都氐の本拠地である仇池へと出向く事になった。
援軍を連れて後から合流するという手筈である。
だがそれは、馬超軍と涼州軍、祁山で向かい合った両軍が、共に後続の援軍を待つという状況となり、先に援軍を得た方が相手の援軍到来前に勝負を決められるかという、大きな賭けのような形になってしまったのである。
そんな馬超に対し、道士である鍾離灼は単身での先行を申し出ていた。敵の砦を孤立させて見せると彼は言う。確かに敵の援軍や補給を断つ事が出来るなら、それこそ容易に打ち破る事は可能である。
「何か策があるのか?」
そう訊いた馬超に対し、紅顔白髪の道士は不敵な笑みを浮かべて応える。
「私とて道士の端くれ。策というより、術ですな」
対する祁山砦には、趙昂、楊阜、姜敍らが詰めていた。
いつもは後方に待機する王異も、この時は鎧を身につけ、夫と共に前線の砦にいた。それは後世の史書にも明記されているほどであり、何か思う所があったのであろう。しかしその理由までは当人が夫らを含め周囲に何も語っていない以上、後世の我々には知る由もない。
その娘である趙英も周辺警備と連絡要員を兼ねて祁山に駐屯していた。
他の者たちは本拠地である冀城の他、西城や歴城と言った中間拠点におり、援軍の誘導や補給などの後方支援に回っていた。
体調の優れぬ呼狐澹、そして緑風子もまた冀城に待機している。
未だ援軍の姿は見えないが、恐らくは今日明日には続々と集うであろう。だが馬超軍の進行はそれよりも早く、恐らくは今日にも到着し、最前線である祁山では戦いが始まるはずである。
その日の祁山周辺は、早朝から深い霧に包まれていた。
山岳地帯であり、現在は冷え込む時期である以上、霧自体は珍しい物では無かったが、その霧が一向に消えぬまま、歴城から祁山に向かった伝令が途絶え、誰一人として戻ってこない。
そのような報告が冀城に届いたのは、既に日が傾きかけていた頃の事である。
報告を聞いた緑風子は、即座にそれが鍾離灼の仕掛けた道術であると悟り、冀城で後方を守っていた尹奉に伝えた。
道術によって発生させられた霧は人を迷わせる結界のような物なのだ。
それは緑風子や鍾離灼の属する求仙道に限らず、黄巾の乱を起こした太平道、漢中の五斗米道も含め、多くの道士が使う術として知られており、その記録は断片的ではあるが、後世に伝わっている史書にも散見される。
余談であるが、手がかりがつかめず見通しが立たない事を指す「五里霧中」という熟語に残る五里霧という物が、正にその霧を発生させる道術の事で、その術中で迷う事を語源としている。
この十数年後に蜀漢と孫呉の間で起きた夷陵の戦い。民間伝承の中で、蜀の軍師・諸葛亮が呉軍の足を止めた石兵八陣という物が語られる。
陣の詳細は定かではないが、それもやはりそうした道術の応用であり、対してそれを破った呉の陸遜もまた道術の知識があったと伝えられている。
いずれにしても、道術の知識が無い素人が下手に迷い込めば、ただ迷ってしまうのみで誰も帰ってこれない。
尹奉が西城や歴城に早馬を出し伝令を止めさせると、緑風子は自分が破ると言って単身で向かう事にしたのである。
霧の正体が道術であると分かった以上、道士に任せるのが得策であるとして尹奉も特に止めるでもなく、丁寧に拱手をして逆に願い出るほどであった。祁山で孤立する友人たちの為に。
そんな緑風子が芦毛の愛馬に跨って出発しようとする頃には、既に日も暮れ夜となっていた。
まだ本調子ではないが動けるようになっていた呼狐澹が彼に同行を申し出ると、緑風子はいつもの笑顔で止めた。
「敵もまた道士で、その術を破る以上は独りの方が良いんだよ。それにこれは僕の因縁だしね。慧玉が心配なのは分かるけど、それならばここで援軍を待って、霧が晴れたら連れてきてくれればいい。それが一番だ。いいね」
黙って頷く呼狐澹だったのだが、単騎で駆け出す緑風子の後姿を、なおも心配そうな瞳で見送った。これを最後にもう会えない。理由は分からないが、不思議とそんな予感がしていたからである。
そんな霧に包まれている祁山砦でも、やはり混乱は起こっていた。谷間に発生した霧が朝からずっと晴れる事もなく、歴城からの伝令も来ず、向かわせた伝令も帰ってきていない。
しかも城壁を境とするように漢中側は綺麗に晴れ渡っているのも、あまりに不自然と言えた。
不穏な物を感じた趙英が、自らが歴城に向かおうかと趙昂に申し出る場面もあったが、いつ馬超軍が到来するか分からぬ現状もあり、ここは様子を見るべきという事で落ち着いた。
「これが道術の類だとしても、冀城に緑風道士がいるのだ。お前はただ友人を信じていればいい」
そう言って笑みを浮かべ、焦燥する娘の肩を叩いた趙昂。そんな父の気遣いに黙って頷く趙英であった。
馬超軍が姿を見せたのは、その直後の事である。
既に日が沈みかけていた事もあり、すっかりと暗くなった谷間に、山道から松明の明かりが次々と現れ広がっていく。
祁山砦に対して半里(二百メートル強)ほどの距離を取って展開した馬超軍。その頃には既に夜となっていた。
総攻撃は朝を待ってから行うにしても、弓の一斉射は勿論の事、城壁内への侵入なども含め、兵士を交代で休ませながら夜の間も断続的に攻撃を仕掛けていく馬超軍。
背後に霧の存在がある以上、迂闊に攻めかかる事も出来ず防戦一方な涼州軍であるが、その霧の存在を既に把握している馬超はあえて敵の疲弊を狙ったのである。
例え牽制と言えど敵がいつ攻め来るか分からない祁山砦では、常に気を緩めずに警戒していなければならない。対する馬超軍は反撃をほとんど受ける事なく、好きな時期に一方的に攻められるのである。
肉体的にも精神的にも、将兵の疲労が蓄積するのはどちらの方か火を見るより明らかであろう。
建安十九年の祁山の戦いは、こうして馬超軍の圧倒的優勢で開始されたのである。
それを迎え撃つ涼州軍は何とか祁山砦を完成させ、各地に援軍を要請していた。
当然ながら馬超の耳にも祁山砦建築の話は入っていたが、漢中からの補給と武都氐の援軍を以って、急造の砦など一気に穿ち抜いてやると言う心持ちであった。
そんな馬超の同盟相手でもある武都氐の族長・千萬は、自身の妹である浥雉が殺害された事に憤っていた。殺害した涼州軍も然る事ながら、同時に妻を守る事が出来なかった馬超に対しても同様に怒りを露わにしており、援軍を出し渋るという不測の事態が起こっていたのだ。
祁山があるのは、正に彼ら武都氐の庭とも言える武都郡であり、その援軍の有無は馬超軍の戦力に大きく関わってしまう。
あくまでも涼州軍の卑劣な策略であったと武都氐を説得する為、龐徳が山岳地帯の奥深く、武都氐の本拠地である仇池へと出向く事になった。
援軍を連れて後から合流するという手筈である。
だがそれは、馬超軍と涼州軍、祁山で向かい合った両軍が、共に後続の援軍を待つという状況となり、先に援軍を得た方が相手の援軍到来前に勝負を決められるかという、大きな賭けのような形になってしまったのである。
そんな馬超に対し、道士である鍾離灼は単身での先行を申し出ていた。敵の砦を孤立させて見せると彼は言う。確かに敵の援軍や補給を断つ事が出来るなら、それこそ容易に打ち破る事は可能である。
「何か策があるのか?」
そう訊いた馬超に対し、紅顔白髪の道士は不敵な笑みを浮かべて応える。
「私とて道士の端くれ。策というより、術ですな」
対する祁山砦には、趙昂、楊阜、姜敍らが詰めていた。
いつもは後方に待機する王異も、この時は鎧を身につけ、夫と共に前線の砦にいた。それは後世の史書にも明記されているほどであり、何か思う所があったのであろう。しかしその理由までは当人が夫らを含め周囲に何も語っていない以上、後世の我々には知る由もない。
その娘である趙英も周辺警備と連絡要員を兼ねて祁山に駐屯していた。
他の者たちは本拠地である冀城の他、西城や歴城と言った中間拠点におり、援軍の誘導や補給などの後方支援に回っていた。
体調の優れぬ呼狐澹、そして緑風子もまた冀城に待機している。
未だ援軍の姿は見えないが、恐らくは今日明日には続々と集うであろう。だが馬超軍の進行はそれよりも早く、恐らくは今日にも到着し、最前線である祁山では戦いが始まるはずである。
その日の祁山周辺は、早朝から深い霧に包まれていた。
山岳地帯であり、現在は冷え込む時期である以上、霧自体は珍しい物では無かったが、その霧が一向に消えぬまま、歴城から祁山に向かった伝令が途絶え、誰一人として戻ってこない。
そのような報告が冀城に届いたのは、既に日が傾きかけていた頃の事である。
報告を聞いた緑風子は、即座にそれが鍾離灼の仕掛けた道術であると悟り、冀城で後方を守っていた尹奉に伝えた。
道術によって発生させられた霧は人を迷わせる結界のような物なのだ。
それは緑風子や鍾離灼の属する求仙道に限らず、黄巾の乱を起こした太平道、漢中の五斗米道も含め、多くの道士が使う術として知られており、その記録は断片的ではあるが、後世に伝わっている史書にも散見される。
余談であるが、手がかりがつかめず見通しが立たない事を指す「五里霧中」という熟語に残る五里霧という物が、正にその霧を発生させる道術の事で、その術中で迷う事を語源としている。
この十数年後に蜀漢と孫呉の間で起きた夷陵の戦い。民間伝承の中で、蜀の軍師・諸葛亮が呉軍の足を止めた石兵八陣という物が語られる。
陣の詳細は定かではないが、それもやはりそうした道術の応用であり、対してそれを破った呉の陸遜もまた道術の知識があったと伝えられている。
いずれにしても、道術の知識が無い素人が下手に迷い込めば、ただ迷ってしまうのみで誰も帰ってこれない。
尹奉が西城や歴城に早馬を出し伝令を止めさせると、緑風子は自分が破ると言って単身で向かう事にしたのである。
霧の正体が道術であると分かった以上、道士に任せるのが得策であるとして尹奉も特に止めるでもなく、丁寧に拱手をして逆に願い出るほどであった。祁山で孤立する友人たちの為に。
そんな緑風子が芦毛の愛馬に跨って出発しようとする頃には、既に日も暮れ夜となっていた。
まだ本調子ではないが動けるようになっていた呼狐澹が彼に同行を申し出ると、緑風子はいつもの笑顔で止めた。
「敵もまた道士で、その術を破る以上は独りの方が良いんだよ。それにこれは僕の因縁だしね。慧玉が心配なのは分かるけど、それならばここで援軍を待って、霧が晴れたら連れてきてくれればいい。それが一番だ。いいね」
黙って頷く呼狐澹だったのだが、単騎で駆け出す緑風子の後姿を、なおも心配そうな瞳で見送った。これを最後にもう会えない。理由は分からないが、不思議とそんな予感がしていたからである。
そんな霧に包まれている祁山砦でも、やはり混乱は起こっていた。谷間に発生した霧が朝からずっと晴れる事もなく、歴城からの伝令も来ず、向かわせた伝令も帰ってきていない。
しかも城壁を境とするように漢中側は綺麗に晴れ渡っているのも、あまりに不自然と言えた。
不穏な物を感じた趙英が、自らが歴城に向かおうかと趙昂に申し出る場面もあったが、いつ馬超軍が到来するか分からぬ現状もあり、ここは様子を見るべきという事で落ち着いた。
「これが道術の類だとしても、冀城に緑風道士がいるのだ。お前はただ友人を信じていればいい」
そう言って笑みを浮かべ、焦燥する娘の肩を叩いた趙昂。そんな父の気遣いに黙って頷く趙英であった。
馬超軍が姿を見せたのは、その直後の事である。
既に日が沈みかけていた事もあり、すっかりと暗くなった谷間に、山道から松明の明かりが次々と現れ広がっていく。
祁山砦に対して半里(二百メートル強)ほどの距離を取って展開した馬超軍。その頃には既に夜となっていた。
総攻撃は朝を待ってから行うにしても、弓の一斉射は勿論の事、城壁内への侵入なども含め、兵士を交代で休ませながら夜の間も断続的に攻撃を仕掛けていく馬超軍。
背後に霧の存在がある以上、迂闊に攻めかかる事も出来ず防戦一方な涼州軍であるが、その霧の存在を既に把握している馬超はあえて敵の疲弊を狙ったのである。
例え牽制と言えど敵がいつ攻め来るか分からない祁山砦では、常に気を緩めずに警戒していなければならない。対する馬超軍は反撃をほとんど受ける事なく、好きな時期に一方的に攻められるのである。
肉体的にも精神的にも、将兵の疲労が蓄積するのはどちらの方か火を見るより明らかであろう。
建安十九年の祁山の戦いは、こうして馬超軍の圧倒的優勢で開始されたのである。
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