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第四章 西風を裂く剣
第三十一集 赤罌村の密談
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赤罌村の廟に閻行が現れたのは、朝日が昇って間もなくの事である。最低限の鎧は付けているが、従者も連れず馬に乗って単身で現れると、廟のすぐ目の前で下馬した。趙英らは、近づいてきていた馬蹄の音で既に目を覚ましており、廟の入り口まで出迎える。
閻行は鎧の上からでも分かる大柄な男で、白髪交じりの顎鬚を蓄えた強面の将であったが、その眼光は思慮深い印象を相手に与える穏やかな物であった。
「お初にお目にかかる。私が閻行、字は彦明という」
そうして互いに包拳しながら自己紹介を済ませると、廟の奥で密やかに話し合いの場が設けられた。
「ところで、一応伺っておきたいのですが、今回の馬超軍との戦は、どのような経緯で始まったかはご存じで?」
緑風子のその質問に、閻行は穏やかな口調のままに答える。
「私が聞いたのは、馬超との停戦交渉を申し込んだ後、その会談の場所へ向かった使者が誰一人戻ってこず、間もなく馬超軍からの攻撃が始まった、との事だな。会談が決裂して斬られたのかとも思ったが……」
その答えに嘘を言っている雰囲気は感じず、緑風子と顔を見合わせた趙英は、やはり第三者が糸を引いていると確信するに至る。片方の攻撃に見せかけてもう一方を攻撃する事で、相互に争わせて黒幕の第三者が利益を得る触媒戦争という策略である。
特に元より仲の悪い者同士ほど、この策にかかりやすく、現に馬超は何者かの策である可能性を楊阜らに進言されていながらも、それを退けて韓遂との開戦に持ち込んでいた。
その会談の現場にいた趙英の口から、馬超軍側で起こった経緯を説明すると、閻行も苦々しい表情で首を振って溜息を吐いた。
「やはりな……。馬超も韓遂も踊らされておるか」
その言葉に一同は目を見開いた。主君であるはずの韓遂の諱を平然と口にしている。中華の文化に於いて、諱とは魂に直結する物とされ、直接口に出して呼んでいいのは父母や主君などの目上の者だけ、それも命令したり叱ったりする時だけであって、それ以外の者が諱を口に出す事は、それ自体が非常に失礼な事とされていたのだ。
勿論その場にいない目上の者を指して陰口を叩いたりする時などは平然と呼ぶ事も多々あるが、面と向かって諱を呼ぶという事は「自分はお前より上だから跪け」という意思表示になってしまうわけである。
それを呼ばずに済む為に、字という呼び名を別に用意するという文化が生まれたわけである。だが字もまた呼んでいいのは親密な間柄のみという不文律があり、目下の者や赤の他人が呼びかける場合、姓に加えて爵位や地位で呼ぶのが一般的である。
例えば、今この時に荊州にいる劉備であるなら「劉備」と口に出して問題が無いのは、亡き両親を除けば皇帝のみであり、彼の配下は勿論の事、曹操や孫権らが「備」を口にして呼んでしまえば、それは敵対心を表に出した挑発行為となる。
彼の字である「玄徳」もまた、親しい友人のみが許され、そうでない者が呼べば、少なくとも彼の配下が許しておかないだろう。
その為、公的な場で劉備に呼びかける場合、「劉将軍」や「皇叔(皇帝の叔父の意味)」などと呼ぶわけである。
とにかくその一言で、やはり閻行は韓遂を既に見限っていると確信できたと同時に、話してみれば馬超の短絡的な行動にも苦言を呈している。
また龐淯が雍州での反乱鎮圧で世話になった礼を述べ、これから曹操に仕える身である為、直接口添えする事が可能だと伝えると、閻行は素直に喜んでいる様子であった。
出発前に王異が予想していた通り、涼州解放の協力者として盟を結ぶ事が出来そうな流れだったが、閻行はその首を縦に振る事をどこか躊躇していた。
そうした反応も予想していた緑風子が閻行に訊ねる。
「やはり西平内部の事ですね。特に韓夫人の」
その言葉に閻行は黙って頷く。彼の妻は韓遂の娘であり、字は阿琳という。元より父の韓遂とは孫ほども離れた年齢であった事もあり、ともすれば親子ほど年の離れた閻行の行動監視の為に半ば強引に婚姻を結ばされている。いわば最初から敵同士とも言える関係であり、夫に対して自身の諱を明かしてすらいないのである。夫婦仲は最悪と言ってよかった。
阿琳は西平内部の韓遂派と連携して、陰に陽に夫の行動を調べ上げ、顔を合わせれば試すような言動で失言を引き出そうとするなど、行動に抜け目がない。
逆に言えば、そうした妻の行動が閻行の忠義を日に日に削いでいると言えるのであるが、そこが父である韓遂と娘の阿琳の差となっており、韓遂にとっては大きな誤算と言えたのである。
韓遂はあくまでも閻行を繋ぎ止める為に娘をあてがったわけであるが、阿琳としてはそのような関係は一日も早く壊して自由になりたいといった所なのであろう。
今こうして趙英らと会うに当たっても、予め早朝から狩りに行くと言った上で閻行の兜を被せた囮を使い、阿琳を始め韓遂派の目を欺いた上での事である。護衛もなくただ一騎で現れたのはそうした事情であった。
「西平に於いて、韓遂派はやはり根強いと見ますか?」
そんな緑風子の質問に、閻行は苦笑する。
「ここで強く否定できぬのがお恥ずかしい限り。だが私自身に忠を尽くしてくれている者となると限られてくるのは確かだ。一方で何があっても韓遂に忠を尽くそうという者もそこまでは多くないはずだが……、それ故に時勢次第、としか言えんのだ。時を誤れば完全に失敗する。かと言って阿琳の件もある。表立って準備する事も出来ぬでな」
そこで龐淯が発言する。
「監視の目をかいくぐって味方を増やす手勢はいるのですか?」
「当てがあるとまでは断言できぬのだが、曹操への帰順を熱心に勧めてきていた者ならば一人おるな。付き合いは長くはないが、鍾離灼という男がおる」
その名前を聞いた緑風子が手を挙げて話を制した。思わず振り返った趙英の目に映った彼からは、いつもの微笑みが消えていた。どんな苦境でも、それこそ不謹慎なほどに微笑みを絶やさなかった男がだ。
「その鍾離という男…、道士ではありませんか? 私と同じような」
「道家かどうかは知らんが、確かに武人と言う雰囲気では無いな。いつも黒染めの深衣を着ている、紅顔白髪(顔は若々しいが、老人のような白髪頭)の優男だ」
すると緑風子は途端に声高に笑い始め、一同は何事かと彼を見つめたまま黙り込んでしまった。しばらくの後、笑い止んだ緑風子が再びいつもの微笑みを浮かべながら続ける。
「これは失礼いたしました。ですがその男、信用はしない方がよろしいかと思いますぞ。勿論ながら協力はしてくれると思うのですが、それは恐らく、あなたと韓遂の仲を裂く事で利を得る為の物です。用が済めばどうなるかは全く保証できませんな」
「知っておるのか?」
閻行の問いに緑風子は黙って頷いた。趙英や呼狐澹は、それが恐らくは緑風子の目的なのだと察した。
「こうしましょう、私が西平に残って、将軍のお手伝いを致します」
そう言った緑風子が、趙英に目を向けた。
「龐大人の護衛と冀城への報告は、君に任せるよ。時が来たら閻将軍と共に僕も合流する」
恐らくは、それまでに自身の因縁と決着をつけるのだろうという覚悟を感じ取った趙英は何も言わずに口元を緩めて受け入れた。
「やっぱそいつってアンタの敵なんだろ? どんな奴なんだ?」
そう無邪気に訊いた呼狐澹に、緑風子は大袈裟に頭を抱えて見せる。
「それはもう酷い奴だよ。いつも人を馬鹿にしたようにニヤついててさ。訳知り顔で隠し事をしては人を騙す。面倒な事は他人を誘導してやらせて、自分の手は汚さない。人の皮をかぶった鬼畜生だね、あれは」
趙英と呼狐澹は無言のまま「それはお前では」とばかりに冷たい視線を送っているが、それを気づかぬ振りをしながら閻行へと会話を戻した。
「とにかく、そんな相手ですので油断なさらぬよう。私も目を光らせますので。それとご心配なく。確かに私自身にとっても因縁のある相手ですが、事が成就するまでは迂闊な事をするつもりはありませんし、恐らくは向こうも同様でしょう」
こうして、趙英と呼狐澹は龐淯の護衛をしながら冀城へと戻り、一方で緑風子は閻行と共に西都城へと出向く事になったのである。
閻行は鎧の上からでも分かる大柄な男で、白髪交じりの顎鬚を蓄えた強面の将であったが、その眼光は思慮深い印象を相手に与える穏やかな物であった。
「お初にお目にかかる。私が閻行、字は彦明という」
そうして互いに包拳しながら自己紹介を済ませると、廟の奥で密やかに話し合いの場が設けられた。
「ところで、一応伺っておきたいのですが、今回の馬超軍との戦は、どのような経緯で始まったかはご存じで?」
緑風子のその質問に、閻行は穏やかな口調のままに答える。
「私が聞いたのは、馬超との停戦交渉を申し込んだ後、その会談の場所へ向かった使者が誰一人戻ってこず、間もなく馬超軍からの攻撃が始まった、との事だな。会談が決裂して斬られたのかとも思ったが……」
その答えに嘘を言っている雰囲気は感じず、緑風子と顔を見合わせた趙英は、やはり第三者が糸を引いていると確信するに至る。片方の攻撃に見せかけてもう一方を攻撃する事で、相互に争わせて黒幕の第三者が利益を得る触媒戦争という策略である。
特に元より仲の悪い者同士ほど、この策にかかりやすく、現に馬超は何者かの策である可能性を楊阜らに進言されていながらも、それを退けて韓遂との開戦に持ち込んでいた。
その会談の現場にいた趙英の口から、馬超軍側で起こった経緯を説明すると、閻行も苦々しい表情で首を振って溜息を吐いた。
「やはりな……。馬超も韓遂も踊らされておるか」
その言葉に一同は目を見開いた。主君であるはずの韓遂の諱を平然と口にしている。中華の文化に於いて、諱とは魂に直結する物とされ、直接口に出して呼んでいいのは父母や主君などの目上の者だけ、それも命令したり叱ったりする時だけであって、それ以外の者が諱を口に出す事は、それ自体が非常に失礼な事とされていたのだ。
勿論その場にいない目上の者を指して陰口を叩いたりする時などは平然と呼ぶ事も多々あるが、面と向かって諱を呼ぶという事は「自分はお前より上だから跪け」という意思表示になってしまうわけである。
それを呼ばずに済む為に、字という呼び名を別に用意するという文化が生まれたわけである。だが字もまた呼んでいいのは親密な間柄のみという不文律があり、目下の者や赤の他人が呼びかける場合、姓に加えて爵位や地位で呼ぶのが一般的である。
例えば、今この時に荊州にいる劉備であるなら「劉備」と口に出して問題が無いのは、亡き両親を除けば皇帝のみであり、彼の配下は勿論の事、曹操や孫権らが「備」を口にして呼んでしまえば、それは敵対心を表に出した挑発行為となる。
彼の字である「玄徳」もまた、親しい友人のみが許され、そうでない者が呼べば、少なくとも彼の配下が許しておかないだろう。
その為、公的な場で劉備に呼びかける場合、「劉将軍」や「皇叔(皇帝の叔父の意味)」などと呼ぶわけである。
とにかくその一言で、やはり閻行は韓遂を既に見限っていると確信できたと同時に、話してみれば馬超の短絡的な行動にも苦言を呈している。
また龐淯が雍州での反乱鎮圧で世話になった礼を述べ、これから曹操に仕える身である為、直接口添えする事が可能だと伝えると、閻行は素直に喜んでいる様子であった。
出発前に王異が予想していた通り、涼州解放の協力者として盟を結ぶ事が出来そうな流れだったが、閻行はその首を縦に振る事をどこか躊躇していた。
そうした反応も予想していた緑風子が閻行に訊ねる。
「やはり西平内部の事ですね。特に韓夫人の」
その言葉に閻行は黙って頷く。彼の妻は韓遂の娘であり、字は阿琳という。元より父の韓遂とは孫ほども離れた年齢であった事もあり、ともすれば親子ほど年の離れた閻行の行動監視の為に半ば強引に婚姻を結ばされている。いわば最初から敵同士とも言える関係であり、夫に対して自身の諱を明かしてすらいないのである。夫婦仲は最悪と言ってよかった。
阿琳は西平内部の韓遂派と連携して、陰に陽に夫の行動を調べ上げ、顔を合わせれば試すような言動で失言を引き出そうとするなど、行動に抜け目がない。
逆に言えば、そうした妻の行動が閻行の忠義を日に日に削いでいると言えるのであるが、そこが父である韓遂と娘の阿琳の差となっており、韓遂にとっては大きな誤算と言えたのである。
韓遂はあくまでも閻行を繋ぎ止める為に娘をあてがったわけであるが、阿琳としてはそのような関係は一日も早く壊して自由になりたいといった所なのであろう。
今こうして趙英らと会うに当たっても、予め早朝から狩りに行くと言った上で閻行の兜を被せた囮を使い、阿琳を始め韓遂派の目を欺いた上での事である。護衛もなくただ一騎で現れたのはそうした事情であった。
「西平に於いて、韓遂派はやはり根強いと見ますか?」
そんな緑風子の質問に、閻行は苦笑する。
「ここで強く否定できぬのがお恥ずかしい限り。だが私自身に忠を尽くしてくれている者となると限られてくるのは確かだ。一方で何があっても韓遂に忠を尽くそうという者もそこまでは多くないはずだが……、それ故に時勢次第、としか言えんのだ。時を誤れば完全に失敗する。かと言って阿琳の件もある。表立って準備する事も出来ぬでな」
そこで龐淯が発言する。
「監視の目をかいくぐって味方を増やす手勢はいるのですか?」
「当てがあるとまでは断言できぬのだが、曹操への帰順を熱心に勧めてきていた者ならば一人おるな。付き合いは長くはないが、鍾離灼という男がおる」
その名前を聞いた緑風子が手を挙げて話を制した。思わず振り返った趙英の目に映った彼からは、いつもの微笑みが消えていた。どんな苦境でも、それこそ不謹慎なほどに微笑みを絶やさなかった男がだ。
「その鍾離という男…、道士ではありませんか? 私と同じような」
「道家かどうかは知らんが、確かに武人と言う雰囲気では無いな。いつも黒染めの深衣を着ている、紅顔白髪(顔は若々しいが、老人のような白髪頭)の優男だ」
すると緑風子は途端に声高に笑い始め、一同は何事かと彼を見つめたまま黙り込んでしまった。しばらくの後、笑い止んだ緑風子が再びいつもの微笑みを浮かべながら続ける。
「これは失礼いたしました。ですがその男、信用はしない方がよろしいかと思いますぞ。勿論ながら協力はしてくれると思うのですが、それは恐らく、あなたと韓遂の仲を裂く事で利を得る為の物です。用が済めばどうなるかは全く保証できませんな」
「知っておるのか?」
閻行の問いに緑風子は黙って頷いた。趙英や呼狐澹は、それが恐らくは緑風子の目的なのだと察した。
「こうしましょう、私が西平に残って、将軍のお手伝いを致します」
そう言った緑風子が、趙英に目を向けた。
「龐大人の護衛と冀城への報告は、君に任せるよ。時が来たら閻将軍と共に僕も合流する」
恐らくは、それまでに自身の因縁と決着をつけるのだろうという覚悟を感じ取った趙英は何も言わずに口元を緩めて受け入れた。
「やっぱそいつってアンタの敵なんだろ? どんな奴なんだ?」
そう無邪気に訊いた呼狐澹に、緑風子は大袈裟に頭を抱えて見せる。
「それはもう酷い奴だよ。いつも人を馬鹿にしたようにニヤついててさ。訳知り顔で隠し事をしては人を騙す。面倒な事は他人を誘導してやらせて、自分の手は汚さない。人の皮をかぶった鬼畜生だね、あれは」
趙英と呼狐澹は無言のまま「それはお前では」とばかりに冷たい視線を送っているが、それを気づかぬ振りをしながら閻行へと会話を戻した。
「とにかく、そんな相手ですので油断なさらぬよう。私も目を光らせますので。それとご心配なく。確かに私自身にとっても因縁のある相手ですが、事が成就するまでは迂闊な事をするつもりはありませんし、恐らくは向こうも同様でしょう」
こうして、趙英と呼狐澹は龐淯の護衛をしながら冀城へと戻り、一方で緑風子は閻行と共に西都城へと出向く事になったのである。
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