30 / 75
第三章 西涼の錦
第二十二集 いつか来る日の為に
しおりを挟む
「士朧を南鄭に!?」
趙英は思わず声を張り上げた。
それは馬超から趙昂への要請であった。馬超の長男である馬秋が、張魯の治める漢中の大都市・南鄭に学びに行くので、趙昂の嫡子である趙月を供とさせたいというのである。馬秋と趙月は同世代であり、共に学ぶ良い機会であると。
しかし現在の張魯は反曹操で利害の一致した馬超の同盟者であり、体の良い人質であると誰の目にも明らかであった。
「断れないのか、それ」
怒りを滲ませた趙英の言葉に、王異が即座に、淡々と答える。
「ここで断っては馬超に本心を晒すも同じ。それでは冀城が陥落してから今日までの忍従が水泡に帰します。そんな事すら分からないのですか?」
己の息子が人質に取られるというのに冷徹に言い放ち、更に余計な挑発まで交える母に反感を覚えつつも、その言わんとしている事は趙英とて理解できる。事は趙家だけの問題ではない。この冀城の、更に言えば涼州全体の今後を左右する局面である。
そんな趙英を見かね、当の本人である趙月が笑顔を見せた。
「大丈夫ですよ、姉上。殺されると決まったわけではありませんし、外で学ぶ事が出来るというのもまた事実です」
趙月本人の意思が示された時点で、それまで黙っていた趙昂が大きく頷いた。
「それでいい。だが遠くない内にその時が来る。それまでは可能な限り話を合わせ、必要とあらば馬超軍に降るのだ」
「はい!」
まだ十二歳とは思えぬ聡明さを見せる趙月は、父に拱手をして力強く応えた。
こうして趙昂の嫡子・趙月は、馬超の長子・馬秋と共に漢中へと向かう事となったのである。
趙英は胸に蟠りを抱えたまま、包拳をして部屋を辞した。どんなに屈辱的であろうと現状に於いては馬超に恭順の意を示すしか手が無いのも事実である。それは趙家の全員、いや投降した冀城の役人全員の総意であったろう。
趙英も他の手を考えなかったわけではない。例えば藍田で梁興に使った手である。適当な理由を付けて単身で近づき、馬超を暗殺せしめる……。
だが馬超は梁興などとは別格の猛将だ。その武名は関中のみならず涼州にまで轟いており、趙英も敵わぬやも知れなかった。しかも今この現状で暗殺を警戒していないわけはない。
もし失敗すれば、趙英自身が死ぬ事は勿論の事、それこそ族誅(一族全員皆殺し)の口実になってしまう。それを考えれば迂闊な手段を取る事は出来なかった。
趙英と趙月が部屋から去った後、趙昂は横に佇む妻に訊ねる。
「しかし本当に良いのか? 或いは士朧は……」
夫の煮え切らない言葉に溜息を吐くと、王異は毅然とした口調で言い放った。
「あなたはそれでも忠孝を旨とする漢朝の臣ですか? 君父の仇を報ずる為ならば、己が首とて惜しくはないはずでしょう。子の命を惜しんで義を果たせぬとならば後世に残る恥辱となります」
趙昂はその言葉に腹を決めた。
そして同時に、この場に趙英がいる時でなくてよかったと心底から思った。
儒教倫理の、特に命を軽々しく捨てる事を極端に嫌う趙英にとって、それは最も嫌悪する言葉であると趙昂はよく分かっていたからだ。
不機嫌なまま庭へと出た趙英は、笑顔で駆けよって来る呼狐澹に一瞬戸惑った。興奮した様子で捲し立てるその内容を聞いてみれば、呼法のコツを掴めたという。
後ろで微笑んだまま目配せしてくる緑風子の様子を見ると、どうやら何かしらの後押しがあったようだと察する事が出来た。
正直な話、いつまでも腹を立てていても仕方がないと自分でも理解していた趙英は、努めて笑顔で呼狐澹を褒めてやった。そして呼狐澹に対して弟・趙月を無意識に重ねている自分を自覚し、これでは二人に失礼だなと自嘲もした。
「だがな澹兒、内力を生み出すコツは掴めても、それはまだ全身に散ってしてしまってる状態なんだ。攻撃にしろ防御にしろ、その内力を狙った瞬間に体の一部分に集中させるって事を覚えなきゃならない。
更に言うと、その呼法をもっと自分なりに効率化して、内力をより大きく生み出すという修練も続けなきゃならない。
この二つは俺だって勿論の事だが、到達点なんてない。内功を学ぶ者にとって生涯高め続ける物なんだよ。要するに、本当に大変なのはここからだ」
呼狐澹は同じ事を緑風子からも言われ、半ば覚悟は決まっていた事もあり、笑顔のまま大きく頷いた。
「でも集中させるって、具体的にどういう練習をしたらいいんだろ」
そう問いを投げてくる呼狐澹に、趙英はかつて自分が行った訓練に思いを馳せながら庭を見回すと、庭の隅に生えている低木が目に入った。
少し待っていろと言って家の中に入った趙英は、細い撚糸を持ってくる。両手に握って勢いよく引っ張るだけで千切れる程度の物だ。それを地面に垂れ下がるように低木の枝に結び付けると、呼狐澹の方に振り向く趙英。
「これを手刀で切れるか?」
呼狐澹は意気揚々と近づいて、掌を伸ばして固定し力強く薙ぎ払う。しかし撚糸は手刀が当たっても共に動いてしまい、ただ大きく揺れるだけで全く切れる様子が無い。
最初は誰でもこうなると分かっていた趙英は、微笑みながら呼狐澹を制止し、撚糸の揺れが収まるのを待って、自らが手本を見せた。
趙英は手刀ではなく、人差し指の一本だけ。それを音もなく払っただけに見えた。
しかしその指が通過した途端、撚糸は全く揺れる事も無く、垂れ下がった先端がポトリと落ちたのである。
動きそのものは、傍から見れば武術の修練と言われても納得できないほど地味である。ただ無作為にどこかを指差しただけのようにも見えた。しかしその指先には、極限の内力が込められているのである。
外功……つまり筋力や、勢いに頼っては、先ほど呼狐澹がやったように撚糸そのものが動いてしまうだけで全く切る事は出来ない。刃物ではなく素手であるから、切れ味という物も本来はない。
撚糸に当たる瞬間、その打点に、正確に内力を集中できた時のみ、撚糸を切る事が出来るという修練方法である。
趙英は短くなってしまった撚糸を撤去して新しい撚糸を結び付けると、呼狐澹に振り返って涼しい顔で言い放つ。
「次はこれを出来るようにするんだ」
非常に難しいという事を体感で理解している呼狐澹であったが、呼法の時も今回も、こうして明確に目標を与えてくれる師がいる事を本当に感謝した。独力では現在の場所まですら全く辿り着けなかったであろうと分かっていたからだ。
決意を新たに力強く頷いた呼狐澹は、いつか来る報仇の日に向けて修練を続けるのであった。
趙英は思わず声を張り上げた。
それは馬超から趙昂への要請であった。馬超の長男である馬秋が、張魯の治める漢中の大都市・南鄭に学びに行くので、趙昂の嫡子である趙月を供とさせたいというのである。馬秋と趙月は同世代であり、共に学ぶ良い機会であると。
しかし現在の張魯は反曹操で利害の一致した馬超の同盟者であり、体の良い人質であると誰の目にも明らかであった。
「断れないのか、それ」
怒りを滲ませた趙英の言葉に、王異が即座に、淡々と答える。
「ここで断っては馬超に本心を晒すも同じ。それでは冀城が陥落してから今日までの忍従が水泡に帰します。そんな事すら分からないのですか?」
己の息子が人質に取られるというのに冷徹に言い放ち、更に余計な挑発まで交える母に反感を覚えつつも、その言わんとしている事は趙英とて理解できる。事は趙家だけの問題ではない。この冀城の、更に言えば涼州全体の今後を左右する局面である。
そんな趙英を見かね、当の本人である趙月が笑顔を見せた。
「大丈夫ですよ、姉上。殺されると決まったわけではありませんし、外で学ぶ事が出来るというのもまた事実です」
趙月本人の意思が示された時点で、それまで黙っていた趙昂が大きく頷いた。
「それでいい。だが遠くない内にその時が来る。それまでは可能な限り話を合わせ、必要とあらば馬超軍に降るのだ」
「はい!」
まだ十二歳とは思えぬ聡明さを見せる趙月は、父に拱手をして力強く応えた。
こうして趙昂の嫡子・趙月は、馬超の長子・馬秋と共に漢中へと向かう事となったのである。
趙英は胸に蟠りを抱えたまま、包拳をして部屋を辞した。どんなに屈辱的であろうと現状に於いては馬超に恭順の意を示すしか手が無いのも事実である。それは趙家の全員、いや投降した冀城の役人全員の総意であったろう。
趙英も他の手を考えなかったわけではない。例えば藍田で梁興に使った手である。適当な理由を付けて単身で近づき、馬超を暗殺せしめる……。
だが馬超は梁興などとは別格の猛将だ。その武名は関中のみならず涼州にまで轟いており、趙英も敵わぬやも知れなかった。しかも今この現状で暗殺を警戒していないわけはない。
もし失敗すれば、趙英自身が死ぬ事は勿論の事、それこそ族誅(一族全員皆殺し)の口実になってしまう。それを考えれば迂闊な手段を取る事は出来なかった。
趙英と趙月が部屋から去った後、趙昂は横に佇む妻に訊ねる。
「しかし本当に良いのか? 或いは士朧は……」
夫の煮え切らない言葉に溜息を吐くと、王異は毅然とした口調で言い放った。
「あなたはそれでも忠孝を旨とする漢朝の臣ですか? 君父の仇を報ずる為ならば、己が首とて惜しくはないはずでしょう。子の命を惜しんで義を果たせぬとならば後世に残る恥辱となります」
趙昂はその言葉に腹を決めた。
そして同時に、この場に趙英がいる時でなくてよかったと心底から思った。
儒教倫理の、特に命を軽々しく捨てる事を極端に嫌う趙英にとって、それは最も嫌悪する言葉であると趙昂はよく分かっていたからだ。
不機嫌なまま庭へと出た趙英は、笑顔で駆けよって来る呼狐澹に一瞬戸惑った。興奮した様子で捲し立てるその内容を聞いてみれば、呼法のコツを掴めたという。
後ろで微笑んだまま目配せしてくる緑風子の様子を見ると、どうやら何かしらの後押しがあったようだと察する事が出来た。
正直な話、いつまでも腹を立てていても仕方がないと自分でも理解していた趙英は、努めて笑顔で呼狐澹を褒めてやった。そして呼狐澹に対して弟・趙月を無意識に重ねている自分を自覚し、これでは二人に失礼だなと自嘲もした。
「だがな澹兒、内力を生み出すコツは掴めても、それはまだ全身に散ってしてしまってる状態なんだ。攻撃にしろ防御にしろ、その内力を狙った瞬間に体の一部分に集中させるって事を覚えなきゃならない。
更に言うと、その呼法をもっと自分なりに効率化して、内力をより大きく生み出すという修練も続けなきゃならない。
この二つは俺だって勿論の事だが、到達点なんてない。内功を学ぶ者にとって生涯高め続ける物なんだよ。要するに、本当に大変なのはここからだ」
呼狐澹は同じ事を緑風子からも言われ、半ば覚悟は決まっていた事もあり、笑顔のまま大きく頷いた。
「でも集中させるって、具体的にどういう練習をしたらいいんだろ」
そう問いを投げてくる呼狐澹に、趙英はかつて自分が行った訓練に思いを馳せながら庭を見回すと、庭の隅に生えている低木が目に入った。
少し待っていろと言って家の中に入った趙英は、細い撚糸を持ってくる。両手に握って勢いよく引っ張るだけで千切れる程度の物だ。それを地面に垂れ下がるように低木の枝に結び付けると、呼狐澹の方に振り向く趙英。
「これを手刀で切れるか?」
呼狐澹は意気揚々と近づいて、掌を伸ばして固定し力強く薙ぎ払う。しかし撚糸は手刀が当たっても共に動いてしまい、ただ大きく揺れるだけで全く切れる様子が無い。
最初は誰でもこうなると分かっていた趙英は、微笑みながら呼狐澹を制止し、撚糸の揺れが収まるのを待って、自らが手本を見せた。
趙英は手刀ではなく、人差し指の一本だけ。それを音もなく払っただけに見えた。
しかしその指が通過した途端、撚糸は全く揺れる事も無く、垂れ下がった先端がポトリと落ちたのである。
動きそのものは、傍から見れば武術の修練と言われても納得できないほど地味である。ただ無作為にどこかを指差しただけのようにも見えた。しかしその指先には、極限の内力が込められているのである。
外功……つまり筋力や、勢いに頼っては、先ほど呼狐澹がやったように撚糸そのものが動いてしまうだけで全く切る事は出来ない。刃物ではなく素手であるから、切れ味という物も本来はない。
撚糸に当たる瞬間、その打点に、正確に内力を集中できた時のみ、撚糸を切る事が出来るという修練方法である。
趙英は短くなってしまった撚糸を撤去して新しい撚糸を結び付けると、呼狐澹に振り返って涼しい顔で言い放つ。
「次はこれを出来るようにするんだ」
非常に難しいという事を体感で理解している呼狐澹であったが、呼法の時も今回も、こうして明確に目標を与えてくれる師がいる事を本当に感謝した。独力では現在の場所まですら全く辿り着けなかったであろうと分かっていたからだ。
決意を新たに力強く頷いた呼狐澹は、いつか来る報仇の日に向けて修練を続けるのであった。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
要塞少女
水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。
三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。
かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。
かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。
東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。
富嶽を駆けよ
有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
北宮純 ~祖国無き戦士~
水城洋臣
歴史・時代
三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。
そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。
そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。
その名は北宮純。
漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる