西涼女侠伝

水城洋臣

文字の大きさ
上 下
23 / 75
第二章 孤立の城

第十七集 押し寄せる絶望

しおりを挟む
 藍田らんでんでの戦いは終わり、趙英ちょうえい一行は夏侯淵かこうえん率いる官軍と共に軍営を引き払って長安ちょうあんに戻った。
 用意されていた客桟やどやに戻っても、趙英は浮かない顔で塞ぎこんでいる。

 あのまま緑風子りょくふうしの策を実行していなければ、人質は今でも解放されておらず犠牲者はもっと増えたかも知れない。また梁興りょうこうに命の保証を確約しなければ、そのまま乱戦となるは必定で、やはり被害は広がっただろう。時には善悪だけで測れない事象が起こるのも、戦争の常である。

 ひたすらに修行に明け暮れ剣の腕は磨いたものの、今まではほとんどが荒野の野盗が主だった相手であった。明確な善悪だけがそこにあり、己の腕と義侠心のみで駆け抜ける事が出来た。

 しかし戦争という物に主体的に参加したのは趙英にとっても今回が初めての事。要するに初陣だったと言っていい。

 己の手を汚すという事。その業を背負う事。
 多くの将兵が思い悩む壁に、今まさにぶつかっていたわけである。

 しかし割り切れていないとはいえ、周囲が気を使っている事も感じ取っている趙英は、両手で頬を叩いて気持ちを切り替える。とにかくこれで城への援軍は数日中に出発できるのだ。
 そんな趙英の様子を見て、安堵の笑みを漏らして顔を見合わせる緑風子と呼狐澹ここたんであった。


 床に就いた趙英は、いつしか夢を見ていた。

 黄白色の砂が広がる涼州の砂漠を、黒鹿毛に乗って駆ける趙英。その手には抜き身の剣が握られていた。その駆けていく先には、逞しい栗毛の馬に乗った将がいた。
 顔はぼやけていて見えないのだが、夢というのは不思議なもので、顔を知らない人物が夢に出てきても、不思議とその者であると明確に認識するものである。

 龍が彫られた鎧兜を身に纏い、槍を手にしたその姿は、冀城包囲の時に目に焼き付けた物。馬超ばちょうその人である。
 
 剣を構えて馬で駆ける趙英に対し、馬超もまた趙英に向けて馬を走らせる。

 全速力で駆け抜ける双方の愛馬がすれ違う瞬間、互いに振るった武器が火花を散らす。趙英はすぐさま馬首を返すが、そこに馬超の姿はない。
 困惑する趙英の背後から声が聞こえた。

「降伏しろ! さもなくば人質の命はない!」

 振り返った趙英の視線には、馬上から槍を構える馬超と、跪いている父・趙昂ちょうこうの姿があった。その首筋には槍の切っ先が当てられている。

「おのれ卑怯者め!」

 その罵倒を聞いた馬超は呵々大笑して言い放つ。

「貴様にそんな事を言う資格があるのか?」

 そしてそれまで俯いていた趙昂が顔を上げて恨みがましい視線を向けた。

「お前を信じていたのに……。信じて託したのに……」

 その言葉に狼狽うろたえた趙英は、慌てて言葉を紡ごうとする。

「父上……、違います! わたくしは……」
「嘘つきめ!!」

 遮るように叫んだ趙昂の言葉に、趙英は何も発せなくなった。馬上にいる馬超はニヤリと笑うと、その槍を力任せに振るう。
 目の前で、趙昂の首が飛んだ。

「父上!!」

 趙英は夢から飛び起きた。客桟の部屋の壁が見える。

 呼吸は乱れて全身から汗が吹き出し、内衣ないえが肌に張り付いている。趙英は深呼吸をしながら頭を落ち着かせる。

 母と険悪になっても、父は常に見守ってくれていた。
 家を出て剣の修行をすると決めた時も、行く宛ても師事する相手もないまま無謀に飛び出そうとした娘を気遣い、酒泉しゅせん郡の親戚に文を送って、住み込む先や剣の師まで用意してくれた父。

 例え夢とは言え、そんな父に突き放すような恨み言を言われるというのは辛い事であった。

 呼吸を整えた趙英は、改めて部屋を見回した。
 窓から差し込む陽光から判断するに、もう昼を過ぎていると見えた。他の二人は部屋に姿が無い。休ませてやろうと起こさなかった気遣いが見て取れた。

 衣服を整えて表に出ると、長安の通りが何やら騒がしい。あちこちで兵士たちが慌てた様子で駆けまわっており、不穏な気配を漂わせていた。

 胸騒ぎがした。その理由は分からない。
 とにかく良からぬ事が起きている気がする。

 趙英は政庁に向かって駆け出すと、兵士たちの出入りが激しく、報告が飛び交っていた。

陳倉ちんそうからにかけてはもう駄目だ!」
「もう槐里かいりまで迫っているんだぞ!」
「ここまでくるのも時間の問題だ!」

 一体何の事か。何が迫っていると言うのか。
 趙英は焦燥する気持ちを抑え、周囲から聞こえてくる報告を整理しようとしていた。何やら敵軍と思われる相手が関中全域に攻め込んでいるようだった。その口ぶりから相当の大軍である事が伺える。一体相手は何者なのか。
 だが相手が誰であれ、ひとつだけ確かな事があった。冀城への援軍の望みは完全に断たれてしまったという事だ。少なくともこの事態を解決するまでは。

 混乱する趙英は、行きかう群衆の中に緑風子と呼狐澹を見つけた。声をかける前に二人は趙英に気づき、どこか気まずそうな表情で俯く。
 歩み寄った趙英は、努めて冷静に質問を投げかける。

「何があった……?」

 呼狐澹は俯いたまま呟いた。

てい族だよ……」

 ただ一言だけで答えた呼狐澹に、緑風子がそれを補足する。

武都ぶと郡の氐族が大軍で秦嶺しんれい山脈を抜けて関中かんちゅうに攻め込んだんだ。その数は明確じゃないが、数万にもなるだろう。
 それも特定の戦略目標を目指している動きじゃない。各地に散って略奪を繰り返してる。明らかに馬超の意を受けた時間稼ぎだろうね。
 決戦を挑めば相手は逃げを打つだろうし。無視して涼州に向かえば背後を突かれるか、長安が落とされるか……、いずれにしても兵站は完全に切られる。
 相手が兵を引くのは馬超が目的を達した時、すなわち冀城が陥落した時だ。その時まで長安の駐留軍は無為な消耗戦をするしかなく完全に動けなくなった……。悔しいが絶望的だよ……」

 あまりに無力だった。どれだけ武功を磨こうと、独りの力ではこの状況を覆すには足りなかった。全く打開策が見い出せない絶望で頭が真っ白になった趙英は膝から崩れ落ちる。呼狐澹が咄嗟にその腕を支えた。

 趙英の頭の中に、先ほどの夢の内容が渦巻く。

 馬上で勝ち誇った笑いを上げる馬超。恨めしそうな父の視線。そして飛ばされる父の首。己の恐れを凝縮したかの如き悪夢。

 先ほどまでただの夢として振り払えていたその全てが、覆す事の出来ぬ現実となってこれから押し寄せてくるというのか。

 趙英はボロボロと涙を流した。
 歯を食いしばって耐えようとしても、目の前の現実を心が受け止めきれず、溢れ出す感情を止める事ができなかった。

 緑風子と呼狐澹の前では強く気丈な女侠として振る舞っていた趙英が、二人の前で初めて見せた涙であった。




しおりを挟む

処理中です...