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第三部

14,キリルの婚約の余波

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 ゲームの中でキリルがビーストン国の王女を娶ることが既定事項だったとしたら、アベル王子の置かれている立場はどうだったのか、想像に想像を重ねて整理をしてみよう。
 アベル王子が王族の中でも優秀なこと、同母の姉のカトリーナ王女が大国であるカラルド国に嫁いだこと、ソーランド公爵家の娘であるアリーシャと婚約したこと、現状ではこの3点がアベル王子の強さである。他にもカーサイト公爵家のシーサスやマース侯爵家のベルハルトと懇意にしているのも強みである。
 ただ、ゲーム内の王が今の主体的な姿とは異なってゲス・バーミヤンの傀儡であった可能性を考え合わせると、アベル王子が次の王になることが可能だったかというと、そう簡単なことではなさそうだ。

 ここにヒロインがアベル王子と結ばれることを加味すると、アベル王子は光の精霊との契約者を獲得したことになり、さらにアポロ教会をも味方につける、こう考えてもいいように思う。
 落ちぶれたソーランド公爵家との婚約を破棄してまでも、その力を得ることには十分に意味があるということである。しかし、その場合、何らかの理由で教会を嫌っているカーサイト公爵家のザマスがどう動くかはわからない。

 アベル王子の心労はそれなりのものだったのではないかと思う。
 ただ、それは王子の心根が善良である限りにおいてである。善人ほど罪の意識は強かろう。
 その世界ではアリーシャに婚約破棄をするのだろうから、同情はしない。おそらく、アベル王子はソーランド公爵家の力を利用するだけ利用して、最終的にはアリーシャを捨てたのだろう。その王子に人の心があるとは私には思えないし、あったとしても私は認めるわけにはいかない。


 個別の貴公子の攻略がどういったものか、それはわからないが、ヒロインがアベル王子を選んだ場合にはやはりアベル王子は王になる結末なのだろうと思うし、ヒロインは正妃になるのだと思う。
 シーサスがポーションを改良したり、ノルンがアリ商会を盛り上げていくのと同じように、アベル王子には乗り越えるべきいくつかの壁があるのだと考えられる。
 しかもシーサスとノルンがこの世界では私の存在によってその壁が強固なものになっているのだから、アベル王子もゲームの時よりも苦戦するのだろう。

 王になるためには第一王子派の力をそぎ落とし、バーミヤン公爵家やワルイワ侯爵家を叩きつぶす、そういうことをしなければならない。
 先ほどアポロ教会を味方につけるといったが、ゲームではアベル王子はアポロ教会のあのメフィスト大司教と手を組んだ、そんな可能性はあるように思う。清濁併せ呑む、そんなアベル王子の姿が想像される。清らかな王子がそのまま王になるわけではないのだろう。


 この世界でアベル王子がアリーシャと婚約破棄をしてヒロインと結ばれるかというと、その可能性は低いように思う。だから、教会はすぐに王子の味方にはならない。
 というより、現状ではバーミヤン公爵家、ワルイワ侯爵家、アポロ教会、ビーストン国が敵対勢力である。王都に流行った薬の件でもわかるように、ビーストン国がちょっかいを出してきている。バハラ商会の残党も気がかりである。

 この勢力図に加えてもう一つの懸念事項は、カイン王子の動向である。この王子がもし王になって、しかもカラルド国とビーストン国が手を結ぶようなことがあったら、ますます不利である。
 これがゲームのシナリオ通りというのか。なんというかゲームの時よりもハードな現実になっているのではないか。
 仮にヒロインがカーティスやノルンと結ばれることになったら、他の貴公子たちの人生にも影響を与えていくのだろうが、その時にもアベル王子は王になり、しかもアリーシャを妻としたのだろうか。

 ヒロインが誰と親密になっていくのか、他の貴公子たちの人生に影響を与えていくのか、はっきりとわからないのが苛立たしいことである。
 少なくとも、ヒロインがアベル王子と結ばれればアリーシャが、シーサスと結ばれればエリザベスが、ベルハルトと結ばれればローラが婚約破棄されることになるのだと思う。その意味ではカーティス、ノルンと結ばれた方が周囲の被害は少ないように考えられるが、カイン王子と結ばれるとかなり危うい。

 偶然かと思っていたが、前に魔道具屋でもらった種のすべてに蕾がつき、残る一つの色が白銀だった。あの婆さんは貴公子のカラーの花の種を私に渡したのである。
 生長している順番は、緑が一番で、その後に青、赤、それからやや離れて金、紫、さらに遅れて白銀である。この事実は見過ごせない。

 魔道具屋の婆さんはもう王都内から姿を消していた。婆さんの替わりに別の女性が店員だった。婆さんはいつの間にかどこかへ行ってしまったらしく、弟子を名乗る店員だけが残っていたが、この種については知らないということのようである。


 キリルの婚約の報を受け取った次の日、誰もいない時を見計らって王に問うた。

「陛下、キリル王子殿下の婚約ですが、容認なさったのですか?」

 国王にまずは確認をしたのだが、この婚約がこのバラード王国にとって良いことかというと、大いに疑問があったからである。

「ふむ、数年前からその話はあったのだが、しばらく遅らせておいた。だが、どうにも突き返すことが難しくてな。それに、キリルもあれで婚約者に好意を抱いているのだ」

 あの馬鹿王子にそんな愛情を傾ける人間が存在していたことの方が衝撃である。
 まあ、第二王子であるアベル王子に早い段階からアリーシャという婚約者がいて、第一王子にいなかったというのは疑問に思っていた。
 年頃はアリーシャの一つ上で、名はイシス。ビーストン国には第一王子と第二王子、そしてこのイシスという王女が存在している。情報によれば、ゲスが仲介したという。王の言葉から判断するとゲームではもっと早くに婚約をしていたのかもしれない。

「イシス王女とはどのようなお方なのでしょうか?」

 私のもとにも情報はあるが王から見た王女の姿を知っておきたい。

「善人だ、というのが特徴だな。人を疑わず、信用する。この点については確信をもっている。ただし、政治に携わる人間としては心許ない」

 温室育ちのお姫様、そういうことになるだろうか。
 実際、私が集めた情報でもそれに近いことはあった。孤児院に寄付したり、慈善活動を行っている、そんな評判がある。それを偽善だと不平を漏らす民もいるようだが、人柄としては悪くはないようである。

 だからこそあの馬鹿王子にはもったいないような気もするし、王女のこれから先の人生も暗いように思う。まあ、こうなってしまった以上は仕方ない。粛々と話を進めていくしかない。

「それはそうと、カトリーナの出産だが、そなたが抱えておる医師たちが派遣されると聞いたが」

「はい。そちらはお任せください」

 カトリーナ王女が12月に出産予定である。
 カラルド国では待望の王家の子が誕生することになっている。あのじゃじゃ馬が母親になるというのはちょっと信じられない。
 出産に関してはアーノルドたちが助産師と共同して安全な出産方法について知らしめているのだが、カラルド国の王から打診があって、「医師を派遣してくれまいか?」とあった。
 関係を保つためにもそれには快諾した。
 ただ、カミラと同じ時のようにはいかず、男性医師の派遣は見送ることになり、女性の医師を派遣することになった。あの出産から女性の医師が王都内の助産師たちと粘り強く交渉をして、この者たちが出産時に支援をすることが多くなった。
 助産師としてもやはり医師がいてくれて安堵しているところがあると報告を受けている。助産師の中から産婦人科医として専門に学びたいと考える人間もいるようだ。こういう人々が増えるともっと安全に出産ができるだろう。喜ばしいことだ。
 カトリーナ王女の出産後には外交の一環として私が表敬訪問をすることになっている。


 王宮内では第一王子派が息を吹き返したかのように、また馬鹿王子にすり寄る人間が増えた。これはゲス・バーミヤンに対しても同じである。
 イシス王女は来年度からバラード学園の一般コースに編入をして最高学年になるということである。一般コースなので魔法は使えないが、ビーストン国のことだ、もしかしたら隠しているという可能性もあることを考慮しないといけない。
 なかなかこちらの思い通りにいかない人生である。



 王都から数時間離れた場所にはドジャース商会やアリ商会などの工場がある。それは村というよりは町の大きさであり、いくつかの町があるが、たいてい2000、3000人近くの人間が生活をしている。町としては規模は大きい。
 あまり足を運ぶことはできないが、なるべく定期的に視察をするようにしている。
 いつもは私一人だが、今回はケビンもついてきた。

「ここは?」

「アリ商会の薬草栽培の場所ですかね。結構警戒度高めですよ」

 町の一角に整然と薬草が植えられている。
 カーサイト家も無からポーションが生み出せるわけではないので、こうした薬草が中級ポーションの材料となっている。半年前を最後に来ていなかったので、その間に作られた場所なのだろう。
 その場所に背景の植物よりも濃い緑色の髪の色の青年がいた。ノルンだった。
 
「よく会いますね、バカラ様」

「また君か。本当によく出会うものだ」

 ノルンが薬草の管理をしているのだろう。

「これは薬草か? いや、ちょっと違うな。香辛料か」

「よくおわかりですね。そうです、ここはカレーの香辛料を育てている場所なんです」

「君は土魔法が使えるのだろう?」

「!?」

 図星だったようだ。

「まあ、私の勘なのだがな」

 前にアリ商会の商品を開発した人間はヒロインが考案者だと言った時のような表情になった。ノルンが貴公子の一人だと私は考えているし、土の精霊との契約も済んでいるはずである。植物全般に詳しかったり、栽培が上手なのもそういう力と無縁ではあるまい。同じ土魔法が使える者同士、ノルンに対しては商売敵以上になんとなく親近感がある。

「いえ、正直驚きました。知っている人間はほんの一握りなので。もしかしてバカラ様は誰が契約をしているかがわかる発明品でも持ってるんですか?」

「まさか。そんなものがあればいいと思うのだがな」

 カイン王子が契約者だと確定できる、そんな発明品があれば、もう少し彼との話にも詰めていけるのだが、今はまだその糸口すら見つけていない。いや、糸口くらいはあるか。ある程度時間が経てば、それが可能になるかもしれない。一縷《いちる》の望みにかけている。

 ノルンとケビンはあまり面識がなかったようなのだが、商人同士いろいろなことを話しているようだった。この世界についてはこの二人の方が詳しいだろう。
 二人が話終えて、ノルンが話しかけてきた。

「この2、3年でここもすっかり大きくなっちゃいましたね」

「そうだな。まだまだ広くなっていくかもしれんな。いっそのこと、別の場所に町を作った方がよいか。アリ商会でもそんな話はしないのか?」

「手狭になってますから、そっちの方がいいかもしれませんね。母ともそんな話をしています」

 アリ商会も扱う品数も増えてきた。ドジャース商会もそうである。人口も増えてきたのでバランス良く分散をさせたい気持ちはある。そのためには工場ばかりだと味気ないものだ。何らかの宣伝をして特産品なども生まれると良いだろう。
 ヘビ男の情報ではこの辺りには深く掘れば温泉も湧き出る。ソーランド領の温泉はへんぴな場所にあるから難しいが、王都近くにこうした場所を観光地化させてもよいだろう。


 ここに来るのは次は数か月後か、そう思っていた。しかし、数日後に再び来ることになった。
 ドジャース商会とアリ商会の工場が何者かによって燃やされたのである。
 急遽、私とケビンが訪れることになった。

 工場は全焼は免れているとはいえ、しばらくは復旧できそうにはない。おそらく、1月か2月は時間を要する。
 これはアリ商会もそうである。

「も、申し訳ありません!」

 工場長やこの町の責任者が私の前にやってくるや、土下座をするかのように深く謝ってきた。責任をとって自害を、そんな勢いである。この空気はよくない。

「よい。怪我はなかったか? 人に被害が出ていないことがせめてもの救いだ」

 そうは言ったものの、働く場所をなくした人々にとっては絶望でしかない。

「バカラ様、詳しい話を訊いてきました」

「ふむ、どうだったのだ?」

 ケビンが集めた情報では、深夜にドジャース商会とアリ商会の工場から一斉に火が放たれた、そういう話である。目撃者はいない。この町の警備が決して手ぬるかったわけではないが、24時間監視ということでもなかった。だが、それに近いくらいの警備だった。
 そういうのを見越した犯人ということになるだろう。だとしたら、かなり厄介な犯人だということになる。犯人は一人ではあるまい。

「在庫は王都の商会にあるとはいえ、物流に影響を与えてしまいますね」

「仕方のないことだ。それよりもこの町の人々の生活の方に尽力してくれ。むろん、ドジャース商会の人間ばかりではないぞ」

「わかりました」

 もうすぐ冬である。幸いにして工場に隣接した場所に人家はないので住居を失ったわけではない。
 それぞれの働き手には一時金を支給し、3ヶ月分の給与を支払った。

「それにしてもこの臭いは、何なんだろうな」

 工場跡から漂ってくる臭いが気になる。

「火が出てから一挙に燃え広がったって話です。そんな可燃性の液体なんてあるんでしょうか?」


 ある、と答えたいが、灯油とかガソリンの類だろうか。灯油やガソリンの臭いと言われればそうかもしれないし、そうではないかもしれない。私は地球で火事を間近で見たことはないのではっきりとはわからない。
 ただ、これらの燃える液体についてはバラード王国にはなかったはずである。これは何度も調査したから間違いない。蒸留して利用するほどの技術はないと思う。もしかしたら他国にはあるのだろうか。流通している油よりは火が回るのが早かったようなので、そういうものではないのだろう。

 他にはアルコール度数の高い酒の可能性はある。
 だが、ドジャース商会ではたとえばスピリタスのような度数の高い酒は売りに出してはいない。せいぜい高くても20度、30度くらいである。一部、それ以上の度数の酒は造っているのだが、これは本当にごくわずかな顧客用であるし、大量に造っているわけでもない。誰に売ったかも一つひとつ記録にしてあるが、そんな利用をする人間はいないと思う。
 アリ商会も酒を売っているがそこまでのものではないし、他の商会も同じである。

 最悪の可能性としては、学会に所属している研究者が自力でそういう類の液体を生み出すことである。市販の教科書を読んでもその作り方はわからないし、器材や設備もないだろうから心配はないが、研究者ならば可能性として考えられる。

「今はわからないが、少なくともドジャース商会とアリ商会を目の敵にしている奴らだ。しかも複数人いることは確実だ。警備強化をするしかないか」

 こうなると王都の商会や他の町の工場の心配もせねばなるまい。至急、他の場所にも24時間の監視体制にして警戒レベルを高めにしておいた。
 ありがたいことに王からも「最大限の支援はする」と言葉があった。ドジャース商会とアリ商会が国家運営に関わるほどの影響力を持っていることからすれば当然といえば当然である。ドジャース商会の補償とは別に国からも援助金が出された。

 
 アリ商会が栽培している香辛料の畑に足を運ぶと、ノルンが一人たたずんでいた。ここは火事ではなかったが、踏み荒らされている形跡があるのは間違いないことだった。工場から離れた場所にあるので火事の混乱に乗じて、動物などを率いて荒らしたのかもしれない。

「大丈夫か?」

「はい。ですが、さすがにここまでのことをされたら、へこみますね」

 踏まれても雑草のように這い上がっていくことが人間には可能であるが、傷つかないわけではないし、みなが這い上がっていくわけでもない。
 今のノルンには心を整理する時間が必要なのだろうと思う。しかし、必ずや立ち上がっていくことだろう。
 こうして私は王都に戻ってきた。
 王都に戻ってきたらきたで、嫌な報も聞くことになった。

「宰相は聖女様を独占している」

 王宮内にそんな噂が流れているのを部下のコーディーが教えてくれたことがあった。私には直接言わず、部下たちの耳に聞こえるように誰かが言っているということだ。問い詰めても白状はしないだろう。

 もとより批判は覚悟の上であり、そのことでこの世界の医療のレベルが上がるのだったら痛みすら感じない。しかし、部下たちには迷惑をかける。

 そのヒロインだが、つい先日こんなことがあった。
 ヒロインと薬の効果を試していたのだが、急患がやってきた。病院も兼ねている場所にいたのだが、なるべくそういう患者とヒロインを会わせないように配慮をしていた。

 ただ、その日は連携が上手くいかず、私たちのいる場所まで医師を求めにやってきた。難度の高い外科手術が必要だということなのだろう。外科手術のレベルではアーノルドよりも上の者がおり、その人物はグレイと言う。30代半ばの人間であり、その時は私たちの部屋にいた。グレイを呼びに来たのだった。

「何があった?」

「工事中に高所から落下して、その、胸に……」

 後は訊かなくてもわかる。胸に何かが突き刺さったか強打した、そういうことなのだろう。
 病院にはカーサイト公爵家のものではなく、妖精のレシピから作った中級ポーションは置いてあるが、それでは効果がないのだ。

「すぐに行きます。それではバカラ様、私は上に向かいます」

「うむ、任せた。だが、難しいだろう」

 グレイはこくりと頷いて部屋から出て行った。やりとりを見ていたヒロインが言った。

「バカラ様、私にも治療をさせてください!」

「駄目だ。それは君の仕事ではない」

 これについてははっきりと言った。
 ヒロインは一瞬怯んだが、なおも興奮気味に食い下がってくる。

「なぜでございますか? 難しい手術なのでしょう? だとしたら私だって力になれるはずです」

「何でも魔法で治癒ができると思うな。人にはできることとできないことがある」

「その魔法でどこまで治癒ができるかを検証しているのではありませんか?」

「それはそうだが……」

 痛いところを突いてくる。どうなだめたらよいか考えあぐねていたところ、まだヒロインが詰め寄ってくる。

「一刻も争うのでしょう? すぐに向かいます」

「待て! ……そうだな。治癒魔法の効果を知らねばならないか。だが、本当に覚悟はあるのか?」

「覚悟? そりゃありますよ」

 けろんとした態度で答えた。これが若さか。

「……わかった」

 そう言うと、すぐにヒロインと一緒に手術室に向かった。廊下にまで血の痕があった。大量出血をしているということだろう。
 輸血はこの世界にはまだない。時間は本当にない。
 そして、おそらく希望も、ない。

 急いで着替えて殺菌をして手術室に向かった。グレイが患者を診ている。運ばれた者は20代半ばの男のようである。男にはまだ息がある。

「替わります」

 グレイの向かい側に立つと、すぐにヒロインは治癒魔法を使った。
 鉄の棒のようなものが胸に突き刺さったのだろう。血の跡で見えづらいが、胸の傷は一瞬で回復をしたようだった。
 だが、男はそのままだんだんと動きが小さくなっていった。あちらの世界に足を踏み入れている。

「え!? なんで、どうして元に戻らないの?」

 誰に問うとでもなくヒロインは問うている。
 それから何度も何度も治癒魔法を使い続けた。
 私はヒロインの両肩に手を置いた。

「もうよい。これ以上は君が倒れてしまう……この者は、もう死んでいる」

 治っているのは表面的な部分で、心臓は復元せずに損傷したままだった。これは死後に解剖をして明らかになったことである。

「うそ!? そんな……」

 こういうことになるだろうと思っていた。だからこの場に向かわせたくはなかった。
 治癒魔法でも急所の治療は難しい、そういう仮説が皮肉にもこの時になって明らかになった。頭や心臓を必要以上に傷つけられると、それは上級ポーションでも治癒魔法でも治らない、過去にそういうデータはあったし、ヒロインが駆けつけたところで無理だろうと思った。グレイもそう診ただろう。

 ヒロインがその場に崩れそうになるのを支え、私はヒロインを抱えて手術室の外に出た。

「知ってらっしゃったんですか?」

 ようやく落ち着きを取り戻して会話ができるようになった。

「いや、確定ではなかった。だが、治癒魔法にも限界はあるのだ」

 それから私の知っている情報についてヒロインに説明をした。

「だから、心臓を貫かれたらもうその者は死ぬしかない。それがこの世の摂理だ。死者は蘇らない」

「でも……」

 納得はしていないようだ。悔しいのか哀しいのか怒っているのか、それらがない交ぜになった表情を浮かべている。その気持ちは痛いほどわかる。治癒魔法は万能ではないかと思った私も、この時ばかりは推測が外れてくれたらよいと思っていた。しかし、事実は事実だ。

「君は自分を万能か何かだと勘違いをしていないか? 何度も言う、死者は蘇らない」

「あの人はまだ息がありました。何らかの方法で生存させることはできたでしょう」

「今の医療水準では不可能だ。ああなったら、最後は苦痛を取ってやるくらいしかない」

 実際、グレイが行った処置も痛み止めくらいだ。
 この世界の人々の研究スピードが指数関数的に上がっているといっても、現代の地球ほどの外科手術などまだまだ遙か先のことだ。20年30年を1年そこらでやり遂げたとしても、200年300年を1年でできるわけではない。悔しいがそれが現実なのだ。上級ポーションで治せないものは治せない。


 この日の出来事はヒロインが真の意味で自分の力と向き合うきっかけになったのだと思う。
 彼女には驕りがあった。治癒魔法が使えるから何でも治せる、そう思っていた。私にだって淡い期待がなかったかと問われれば嘘になる。
 治癒の効果はそんなに知られているわけではないから、彼女は思い違いをしていたのだ。
 こんなことなら、私ももっと早くに説明をしてやればよかった。だが、仮説の段階で説明をするのも気が引けたのは事実だ。どうすればよかったのか、今でもわからないでいる。

 ただ、この日から、ヒロインはめげずに本当に自分の力がどこまで通用するのか、それを確認しようという強い意志を持つようになった。どんなに凄惨な場に直面したとしても、同じく重体の人間がいても治癒魔法を使った。
 その結果、明らかになったのは心臓が傷ついたとしてもある程度までの傷であれば治癒魔法の効果がある、そういうことだった。

 たとえば、心臓の一部が損傷しても治癒魔法を使うと元通りになった。これが一つの成果である。
 だから、心臓がある段階まで傷つくと治癒魔法で復元はされないが、一部だけ傷ついていたら完全に復元がなされる。治癒魔法の質にもよるのか、回数によるのか、これについてはまだわからないが大きな一歩である。

 私は少しでもかすっていたらもう治らないと思っていたが、そうではなかった。これはヒロインの執念の結果だ。実際何人かの人間を死の淵から救ったこともあった。


「本当に人は蘇らないのでしょうか?」

 恐ろしい質問をヒロインがしていたことがある。

「ああ。それに人は蘇らない方がよいだろう」

「では、アリーシャ様やカーティス先生が亡くなったら、バカラ様は生き返らせたいとは思わないのですか?」

「そりゃ、思うさ。だが、思ってもできないことはできない。それが真理だ」

 そう言いながら、納得できない自分がいる。そんな真理を覆したいと思う。だが、それは受け止めなければならないものなのだ。乗り越えることはできないだろうが。

「私は、嫌です」

 きっぱりと言い放った。

「ははっ、君は欲張りだな」

「そうです。欲張りなんです。人間なんて欲望が具現化したようなものじゃないですか」

 ヒロインはそう言って笑った。この子は前向きな子だ。

 フランスの思想家だったか、太陽と死は直視できない、そんな言葉があることを妻から教えてもらったことがある。自分の死も、他者の死も直視できない。
 そうだな、アリーシャたちが亡くなったらどんなことをしても蘇らせたいと思うだろう。この世界だからこそ不可能なことも可能にできることだってあるだろう。諦めるのは早いのかもしれない。

 こうして私とヒロインはまた別の決意を新たにしたのだが、そういう態度が傍から見てヒロインを利用していると勘ぐられたのだろう。どうやら私とヒロインの仲を単に私が利用しているだけではなく、男女の仲として噂する者も出てきた。
 このことをヒロインに伝えると「私だってバカラ様を利用しています」と両手でピースサインをしてくにゃっと曲げて言った。
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