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第三部
11,魔物の活性化
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「みなさま、大変驚いていたご様子でした」
アリーシャがソーランド領にアベル王子たちを案内した時のことを話してくれた。なんだかんだで10日の間もゆったりと過ごしていたようである。10日も休みがあるというのは正直うらやましいものだ。
命令通り、あっちではロータスがいろいろと世話をしてやったそうだ。
「そんなに驚くことがあったのか?」
「はい。特に村々を囲う塀などには驚嘆されていました」
ソーランド領の中心街以外の場所もアベル王子たちは視察をしたという。そういえば、何年か前にはアベル王子もソーランド領へは来たことはあったが、あまり隅々まで見学をしたことはなかった。ソーランド領の技術を王家が利用する可能性を考え、そんなに重要な施設へは案内しなかったのだ。どうやら、今回もそういう場所へは案内しなかったようだ。
「ああ。それはそうだろう。手抜かりがあったら魔物に襲われてしまうからな。仕事というのは常に全力でできればいいが、人間はそんなにタフではない。だから、仕事には自然と優先順位をつけなければならない。領主としては何よりも民の命が最優先だ。具体的には脅威から守る壁だな。お前もいつか人の上で指示を出す立場になるだろう。それだけは忘れるんじゃない」
「はい」
象が体当たりをしてもびくともしないほどの壁である。
他国では稀に空を飛ぶ魔物もいるというが、ソーランド領にはそういう魔物が生息していないのは幸いのことである。
地上しか移動できないのであれば、魔物の大軍がやってきても広い落とし穴を作るだけでも十分な足止めになる。
なお、通常の土魔法であれば、テニスコートの半分くらいの範囲で、深さもせいぜい1、2mくらいしか穴が掘れない。
私の場合は魔法の素がすぐになくなるのでそう何度も使えないが、モグラの力があれば一回でサッカー、いや野球のスタジアムくらいまでなら比較的容易に範囲を広げられる。数百頭の魔物たちを足止めできるだろう。新たに土を生み出すよりも穴のように空間を作る方が消費が少ない。
土や火、水などの魔法は実際には魔法の素の消費量は異なるようだ。私にはわからないのでカーティスに訊いたら、土を生み出すよりも水を生み出すことの方が消費が圧倒的に少ないということである。生成する元素と消費量には相関があるのだろうと思う。
試したことはないが、水の大精霊の力であれば、王都に大洪水を起こして丸呑みするほどのことができるのではないか、そういう話である。
一度だけソーランド領でかなり広い湖が枯渇したことがあった。それこそ野球のスタジアム程度の広さである。しかし、カーティスが水魔法を使ったらその湖が戻っていた。相当な水量を発生させることができるのだろうと思う。
たぶん、モグラの力も本気を出したら数発で王都を壊滅状態に追い込めるはずである。これは簡単で下水道をぶち抜く大穴を作ればいい。
ソーランド公爵領が王都から離れた地にあることはそういうことと関係があるのかもしれない。ソーランドの人間に代々野心家と快楽殺人者がいなかったのはこの王国にとって僥倖である。
一応、魔法の発動を阻害する魔道具というものはあるが、大精霊クラスの魔法だと防げない。
ところで、今の私は先代や先々代よりも魔法の素が多い。
単純に数値化できないのではっきりしたことは言えないが、1年目にソーランド領の村々に土壁や堤防などを生み出す魔法を使って枯渇するまで使っていた。
枯渇するほど魔法の素を消費して回復すると魔法の素の上限が上がる、そういう話がまことしやかにささやかれている。あるいは使う回数によって上限が上がる、冒険者や魔法を使える護衛たちにはそういう話が伝わっている。
実際、最初は5、6発でバテていて、時には1日ではなく2、3日ほど滞在したが、最後あたりには10発くらいの特大の土魔法を使ってもスタミナ切れになることはなかった。
ヒロインがマナポーションを呑まずに治癒魔法を使っていたのは、おそらくこの理由だろう。
そういう事実があるので、カーティスやアリーシャが魔法の練習をする時にはヘトヘトになるまで魔法を使用することが多い。
バテるといっても長い階段を登り終えて疲れたなんてレベルではなく、相当頭痛が酷かったり倦怠感があったりして、あまり味わいたくない感覚なのだが、二人はそれすらも受け入れている。この痛みや倦怠感には個人差はあるらしいので、私の痛みと二人の痛みは異なるものなのかもしれない。
何か違う扉でも二人は開いたんじゃあるまいかと親としてはとても心配である。
まことしやかにささやかれているのに試そうとする魔法使いが少ないのは、こういう事情があるからなのだと思う。
他に試しているのを聞いたのはマース侯爵家の人間たちである。特にファラとベルハルトはストイックに修行をしているようだ。予想だが、飄々としていながらもアベル王子、シーサスあたりもそういうことをやってそうである。おそらく、エリザベスやローラもそうだろう。ただ、ノルンやカイン王子はどうだろうか。
なお、これは重要な事実なのだが、魔法の素が枯渇しても魔法は使える。
だが、それは寿命を縮めると言われている。生命エネルギーのようなものが魔法の素に変換される、そう考えられている。これは以前に雇った神秘主義者たちと魔法研究者たちの共通した見解である。
場合によっては大精霊に近いレベルの魔法も1回か2回は使えるという。
しかし、何事もリスクはあるものだ。実際に過去にはそれで命を落とした者もいる。よほどのことだったのだろう。割に合わない。
魔法使いが他の人間よりも寿命が長いのは、こういう事情が神に加味されているのかもしれない。
もし私がそういう状態になったらどの程度の威力を生み出せるのだろうか。
過去に魔物の大量発生があった時代があったようだが、こういう時は風や火よりも土の魔法の方が役に立つ。かつてのソーランド家の人間は王都の防波堤のような役割を担っていたようである。
アリーシャもカーティスほどではないが、土魔法を上手に使いこなしている。
なお、アリーシャの水魔法については国王にのみ打ち明けて二属性魔法が使えることを伝えている。カーティスの人気を考えた上での判断だったし、国王もそれがよいと言ったので、アリーシャは学園では土魔法のみの練習をしている。
水魔法については家でカーティスから手解きを受けている。いつかは二属性魔法を使えることが知れ渡っていくだろうが、今はできる限り静かに生活をさせてやりたい気持ちもあった。
「他国では魔物が活性化しているという話を聞きました」
「そうだな。かなり苦戦をしているようだ。アリ商会のマナポーションや中級ポーションなどが売れているようだから、対応に苦慮しているんだろう」
カーティスも学園内で聞いたのだろう、私の方にも他国で魔物が人里に出没する件数が多いことが耳に入ってきている。このため、来年にはカラルド国との合同軍事演習が行われるが、どこも忙しい。
ドジャース商会のポーションも需要が高まってきて、一時的に生産量を増やしているのだが、それだけではどうにもならない怪我が多いようである。
「ダンジョンから這い出てくる魔物が多いようですね」
「ああ、そのダンジョンだが、いったいあのダンジョンというのは何なのだろうな。この国にもダンジョンはあるが、今は監視を強化している」
不思議なダンジョンというのは、単なる洞穴でもなく、なぜか灯りがあり、それはまるで人が手を加えたような印象を受けるのだが、そこから魔物が出てくることがよくある。どういう原理なのかわからないが、魂や魔法の存在と同じく、このダンジョンの性質もかなり掴みづらい。このダンジョンはある日突然出現する。
一応、ダンジョン研究者とでも呼ぶべき人間がいるのだが、この世界の各地にあって、しかも天然の洞穴のようなものから、人工的な施設や要塞のようなタイプまであるのだという。
天然ダンジョンでもところどころにある鉱石が発光し、しかしその鉱石を取り外すと発光を止めるため灯りとして使うことができないが、少し手を加えると使えるようになる。そして、取り外してもいつの間にか復元しているという。
一説にはかつて神々が生み出して、それは人々の試練のために、あるいは褒美として、ダンジョンを作ったのだと言われている。何らかの意思がありそうな場所である。
褒美というのは、最奥部には宝箱のようなものが出現するからである。そこへ至るまでにも宝箱が出てくる。
その中には武器や防具、薬草や雑貨や、さらにはレシピなどもある。魔物自体も一つの素材とみなせるが、宝箱は持って帰れないという。床にへばりついているようである。個人的にはその宝箱がどういう素材でできているのかが気になる。空の宝箱はいつの間にか消滅するようだ。
何やら胡散臭いものに思えるが、地下や奥には凶暴で大きな魔物がいる部屋や空間があって、それを討伐すると宝箱が出てくるというのだから、どういう仕組みになっているのか、いろいろな仮説を立ててみるもさっぱりわからない。
バカラはまだそんなにダンジョンに入ったことはないので、私も時間のある時に迷いの森と同じようにダンジョン探索をしようと考えている。
ダンジョンはポーションと同じように、初級者、中級者、上級者ダンジョンとレベル分けされており、しかも階層もあって地下に行くほど強力な魔物がいる。地下ではないタイプもあって奥に進んでいく場合もある。
たいていはダンジョン内部の地図が過去の探索者たちによって作られているが、ダンジョンは生き物のように内部を変えていくことがある。そんなに極端な変化はないようだが、あまりに古すぎる地図を使うと大変なことになるという。
ダンジョンは一種の魔法で作られた疑似空間のようなものである、そういう話もあるが、仮説の域に留まっている。
ただ、その裏付けではないが、ダンジョンによっては地下や最奥部に奇妙な光を放つ球体や魔方陣のようなものがあって、それに触れると入り口まで戻ってこられるというのだから、瞬間的に移動をしているということになる。
原子や分子、さらに細かい電子や素粒子というミクロな世界を研究する分野を量子力学という。
人間を構成するそれらの粒子は、絶えず集合離反しているから、ある瞬間においては人間は細かい粒子として存在しており、もしかしたら壁を通り抜けるのではないかという有名な話がある。
自転や公転の影響を考えた上で魔方陣の座標とダンジョンの入り口の座標に占める空間の情報を同じものにして、つまりその瞬間の空間情報を漏らさずにコピーをして再現して、入り口に戻っていると錯覚している、そんな可能性なんかもあるのだろうか。
だとしたら、それは移動ではなく、魔方陣に触れた人間Aは存在が消去され、入り口に人間Bが新たに存在するということにもなる。もしそれが本当ならなかなか恐ろしい事実である。オリジナルが消えてコピーが残ってしまい、オリジナルとして振る舞う。
ただ、その人間Aと人間Bの同一性を確保するために魂という存在を取り入れたら、などとそんなことばかり考えてしまう。
川上さんや娘からは「バトル」という言葉は聞いたことがあったが、このダンジョンについては話はなかった。当初は単に学園内の武闘大会のことのようにも思えたが、武闘大会にヒロインが出場するとは思えないので、魔物とのバトルの可能性が高い。ゲームの世界でもヒロインや貴公子たちはダンジョンの中に入ったのかもしれない。
魔物は普通の動物と同じく交配して生まれてくるが、どうもダンジョンの場合は自然と生まれてくるケースもある。だから、定期的にダンジョン内の魔物も間引く必要がある。
過去の例では、間引きされずにダンジョン内で増殖した魔物たちが一挙にダンジョンの外に出てきた事例がある。なんらかの予兆があって、その予兆に気づかずに魔物の大群が発生して村がなくなった歴史も過去にはあった。したがって、ダンジョンの監視はどの国も怠らない。
ダンジョンにはあらかじめ種のデータベースのようなものがあって、魔物を生み出していくということだろうか。そのシステムに異常があった時に突然魔物が増殖する、そういう可能性もあるのだろう。宝箱やその中身についても、3Dプリンターみたいな機能があるのかもしれない。
精霊にも訊いたが、ダンジョンについてはノータッチらしい。だが、これはちょっと怪しい。
きっとこの世界には大精霊よりも上位の存在がいるか、大昔に高度な知的生命体が存在して、それらが作ったシステムが現在まで自律的に稼働しているか、どちらかなのだろう。
バラード王国ではマース侯爵領にある初心者と中級者のダンジョンが有名で、マース家は代々そこの管理をしている。
ドナンもファラもベルハルトも、定期的に仲間とともにダンジョンに行っており、そこで採れた魔物の肉や毛皮などの素材がマース領の収入源の一つになっている。
したがって、マース領にはマース家に限らず庶民の中に猛者が多い。逆にソーランド領やカーサイト領には少ない。
私が来てすぐにソーランド領の魔物討伐で雇ったのはマース領のこうした人間たちだった。ダンジョンも悪くはないが、ソーランド領の待遇を気に入ってくれたようだった。戦えない人間が集まっていた集落にこうした猛者が来たのだから、ソーランド領の民たちはみな感謝した。その心が伝わったのか、マース領に戻らずにソーランド領に居続けてくれている者たちも存外多かった。この世界は決して心のない世界ではないのだ。
なお、ドジャース商会のポーションの売り上げはバラード王国内ではマース領が上位にある。いろいろ思うところがあって、マース領では値引きをしている。
「そういえば、ハートはダンジョンには潜ったりしなかったのか? 結構な儲けになると聞いているが」
「うーん、これは人によると思うんですけど、俺の場合狭い空間が嫌というか、開放的な迷いの森みたいなところの方が安心できるというか……」
前にハートに訊いたらそういう答えが返ってきた。
クリスやハートも、ダンジョンよりは外の世界の方が好きだという。危機管理能力というのか、ダンジョンだと命の危険に迫るものが多いからなのだろうと思う。
冬になったらマース領に行ってみるのがいいかもしれない。
「またあんたかい。いい加減にしな」
スラム街へは定期的に行ってミーナと交渉を続けているが、最初は取り合ってくれないことが多かった。それでも話を聞いてくれることの方が徐々に増えていった。ここに来る度に少しずつ景観を変えているのだが、思い切って大工事をしたいものだといつも思う。
「私以外の人間は門前払いらしいじゃないか。私だと態度が違うのか」
「ふん」
そう言いながらも、今後のスラム街については多少の意見を交わせる程度には態度を軟化させてきた。粘り強い交渉というのはなかなかしんどいことであるが、成果が見られるのは嬉しいことである。
一応手土産のようなものも用意をしているのも効果的なのだろう。ソーランド領のスラム街でも手ぶらでは何の反応もなかった。
「ちょっと調べてもらいたいものがあるんだが、いいか?」
そう言うと、私は王都で流行っている麻薬を机の上に出した。
ミーナはそれを一瞥すると、またしてもふんという感じである。
だが、次第に表情が変わっていった。
「これは……」
「ああ、今出回っている薬なんだが、どうもビーストン国でかつて販売されていた薬らしい。別にお前たちを疑うわけではないのだが、どうにもタチの悪い薬だ。一掃したいと考えている」
「バハラ商会だよ」
「何!? どういうことだ?」
「あのバハラ商会はね、元はビーストン国の商人なんだ。その薬の製法も知ってるよ」
「だが、バハラ商会は……」
「ああ、あんたが潰したようなもんだ。けど、捕まってないんだろう?」
「そうだな」
ミーナの言うように、バハラ商会のトップはまだ姿を隠している。もう1年近くになるというのに情報がないのである。
本人には言えないが、というかミーナは気づいているだろうが、その薬の密売にスラム街の人間が関わっている可能性は考えた。ただ、反応を見る限りではミーナはあまり良いものだとは思っていないようである。
こうしていくつかの情報を交換していくのだが、正直心が重くなることがたいてい待ち受けている。
「あんたのせいで、俺たち家族はこんな場所で生活をしなくちゃいけなくなったんだ!」
20歳手前と思しき男女二人が言い放ってきたことだった。二人は兄妹だった。
スラム街に来て3回目の時だった。ミーナとの話を終えて帰っていたら、スラム街の入り口近くになってハートが「バカラ様!」と言って前をふさいだ。そこでこの二人の男女が現れた。
「お前たちは……?」
スラム街の住人だということはわかるが面識はない。しかし、二人とも怒りに満ちた表情で私だけを睨んでいる。
「あんたがバハラ商会をつぶしたせいで父さんは……」
悔しそうな表情になり、しかし詰る目つきは変わらなかった。
後日、何のことか、調べてみたら、どうやらバハラ商会の傘下にあった店の子たちのようで、父親がバハラ商会と関係の深い人物であった。効果がないと知っていながらあの劣悪な化粧水などを売ったのである。
おそらく、その事実をこの二人の父親は知っていた。
バハラ商会が解体された後にはドジャース商会やアリ商会などが引き取ったが、引き取れなかったところもある。
そして、そういう店は賠償金を背負う義務もあった。もちろん、支払い能力や機会がもはやないので、その場合は一種の罪人として長期間肉体労働をする義務を負うことになる。この場合は、二人の父親がそうなった。
まあ、賠償金自体はバーミヤン公爵家の方に回されたが、悪質な犯罪に加担した者たちは強制的な労働をすることになっている。
母親は精神的なショックで寝込んでおり、この二人の子どもが母と3人でこのスラム街に寓することになったのである。信用を失った家に手を貸す人間もいないことはないが、この家族の場合はそうではなかったということなのだろう。
「ふざけんな、お前らの父親だって加担してたんだろうが!」
ハートが勇ましく二人に言い返したが、無駄である。私に対しての怒りしかないのである。さまよう刃は私の胸に向かうのだ。
「何が宰相だ! 市民の生活をぐちゃぐちゃにしやがって」
「そうよ、父さんだってバハラ商会に脅されてやっただけじゃないの! なんで、どうして私たちがこんな目に遭わなきゃならないの」
こういう叱責が、このスラム街に来る度に二人から寄せられる。
そして、どうやらこの二人以外にもバハラ商会とつながりがあったせいでバラバラになった家族たちがここに住んでいることがわかった。時には石を投げつけられたこともあった。
クリスやハートたちがその者たちを捕まえようとしたが、「よい」とだけ言った。捕まえてしまえば相応の処罰をしなくてはならなくなる。
どういう理由や事情があれ、私が彼らの生活を壊したのは事実であるし、私にはそういう事実が待ち受けていることはある程度わかっていた。
もちろん、私は一種の正義の行い、つまりバハラ商会の商品が健康を害するものであり、それを知りながら売っていた人間も同罪であり、賠償金を払ったり罪を償う必要はある、そう断罪して言い返すことはできた。が、彼らの姿を目の前にしてそんな言葉は吐けなかった。
日本にいた為政者たちにはあまり良い記憶はないが、どんな批判があっても表情一つ変えない神経の図太さには、この時ばかりはうらやましいと思った。ある程度の感覚が麻痺していなければ為政者は務まらない。これは王も同じなのだと思う。
こういう日にはげんなりしてしまって、もう王宮には戻ることはなく、すぐに邸に戻って部屋にこもって短い睡眠を取る。寝るだけで少し気持ちが薄らぐ。忘却なのか感情の整理なのかはわからないが、こういう能力が人間に備わっているのは防衛本能や生存本能なのだろう。
「お父様、ご気分は大丈夫ですか?」
「ああ、心配かけた。問題ない」
アリーシャやカーティスと食事を摂っている時に、毎回といっていいほど、声をかけられる。あまり仕事のことで不安な表情は見せなくなかったが、ついに隠しきれなくなってきたか。しばらくスラム街に行かない方がいいか、いや今やめたら元の木阿弥である。やはり通い続けなければならない。しかし、足が重い。
そんなある日のことだった。
いつものように何人かの者たちを従えてスラム街に入ったら、30名くらいの人間に囲まれた。これまでにない人数である。
「お前たち、何の真似だ!」
この集団の代表者はあの二人の男女だった。私が今日ここに来ることをどこかで知ったのだろう。2週間に一度、たいてい同じ時間帯に来ているので、予想していたのだと見える。
みな手に武器を持っている。
男の方が言う。
「お前らに生活を壊された者たちだ!」
そして、怨嗟の声が聞こえ、怒号を飛ばし、中には泣いている者たちもいた。みな、だいたい20代だったが、中には40代、50代の女性たちもいた。おそらく、夫がそういうことをしたのだろう。
「さすがにこれほどの規模になったら、もはや取り返しがきかんぞ。今ならまだ間に合う。引き返せ!」
「黙れ! 俺たちにはもう失うものなんてないんだ。お前さえ、お前さえいなくなれば」
相手は一般市民である。
人数が多いとはいえ、私の護衛たちに敵うはずもない。しかし、玉砕の覚悟をもって、この者たちは私をつぶそうとしているのだ。このままでは手加減もできず命の危険がある。
こうなったら、大規模な土魔法で、そう思った次の瞬間、聞き覚えのある声がその場に響いた。
「みなさん、どうか落ち着いてください!」
後ろの方を振り返ると、驚くべきことにアリーシャの姿があった。
どうしてこのスラム街にアリーシャがいるのか。
いや、アリーシャだけではなく、隣にはカーティスと、カミラ、そしてアリ商会のノルンが立っていた。その後ろには顔は見えないが20名程度の人々がいた。援軍には見えない。
「アリーシャ、なぜここにいるのだ! ここは危険だ。すぐに戻りなさい!」
しかし、アリーシャは私の方を一顧だにせず、二人の男女のもとへと向かって行く。カミラも横に付いていった。赤子のミモザは連れてこなかったらしい。
二人を止めようと足を踏み出したら、いつの間にか近くに来ていたカーティスに身体を抑えられた。
「離せ、カーティス。何をしているかわかっているのか。何をしているクリス、ハート、カーティスを私から離せ」
「いいえ、離しません。お前たちも何もするんじゃない」
毅然としてカーティスが二人に言った。だから、クリスたちは私とカーティスの命令のどちらに従えばいいのか、それにアリーシャをどうすればいいのか、判断に迷っている。
そうこうしている間に私の前を通りすぎ、アリーシャとの距離は10mにも満たないが、すでに二人の男女の前まで近寄っていた。
「あなた方はバカラ・ソーランド宰相がなさったことに納得ができていないようですが、なぜですか?」
顔色を変えずにアリーシャが言った。
「なっ、何を馬鹿なことを言っている。あいつさえいなければ家族が」
男の方がアリーシャに激昂しながら答えた。
「それではその家族には何も罪はないのです?」
待て、アリーシャ。その言葉では相手を怒らせるだけだ。
「ふ、ふざけるな!」
女の方がアリーシャの頬を叩くしぐさをとった。アリーシャなら、避けられる。
が、あろうことか、アリーシャは回避せずにそのままもろに頬をぶたれた。鈍い音だった。
叩いた女の方が動揺している。
しかし、私はそれどころではなかった。
「お、お前!」
身体の中に力がこもる。アリーシャが殴られた光景に我を忘れてしまったかのようだった。
しかし、これをもカーティスは止めようとした。
「そのような状態で使われたら、ここが壊れてしまいます! 父上はそういう暴力を振るう方ではないはずです」
「だ、黙れ!」
目の前で娘を殴られてそのまま黙っているほど私はできた親ではない。
「お父様! 私は大丈夫です」
アリーシャの声で少しだけ我に返ったが、それでもカーティスの力は強く込められて、依然として私を縛ったままである。
「人を殴ったのは初めてですね?」
アリーシャは、自分をぶった女に問いかけた。
女は何も答えなかったが、おそらくそうなのだろう。人を直接に傷つける行為など無縁だったのだ。アリーシャを殴ったその手を信じられないとでもいうように見つめている。ましてや15歳の、しかも貴族の娘を殴るなど、考えたことはなかったのだろう。
「今あなたが私を叩いたことで、私は頬が赤くなり、口の中も切れてしまいました」
淡々と事実を並べてアリーシャは言った。
「しかし、このポーションを使えば」
アリーシャは持っていたポーションを口に入れて飲み干した。
「じきに治ってしまいます。あなたが叩いた傷はすぐになくなるでしょう」
アリーシャの言う通り、殴られた傷であれば数分経てば元通りになる。だが、問題はそんなことではない。
「お、お前は何を言っている」
何も答えられない女に替わって、男がアリーシャに問うた。
アリーシャは男の方を向いて毅然として言った。
「傷は癒えます。しかし、あなたたちの罪は完全には消えません。そして、こういう暴力については、このバラード王国の宰相バカラ・ソーランドの娘であるアリーシャ・ソーランドは完全に否定したいと考えていますし、それは私にとっての何よりの誇りです」
その言葉を聞いて、力が抜けていった。
ああ、私は子どもたちの見ている前で何をしようと考えていたのか。
アリーシャの言葉とともにカーティスの力も緩まっていった。
「な、何が罪は消えないだ。お前たちの罪だって消えていないじゃないか! 綺麗事を言うな。お前たちがいったい何をしたのか、本当に理解できているのか! お前たちが家族を、めちゃくちゃにしたんじゃないか!」
女がアリーシャの言葉で蘇ったのか、アリーシャを威嚇した。
「あなた方だけが被害者ではありません。バハラ商会の商品で被害者も出ました」
「そんなの、一部だけだ。被害だって誇張だ。そんな傷、もう治ってるだろ! 私たちは今でも苦しんでいるんだ」
その言葉を聞いて、哀しそうな表情を浮かべたアリーシャは、手を上に上げた。
すると、後ろに控えていたノルンたちが集団でぞろぞろとアリーシャの近くに寄っていった。
異様な光景である。顔を隠した人間が何十人もいる。
一人が素顔を見せた。
「ひっ!?」
その顔を見て、二人の男女はぎょっとした反応を見せた。周りの人間たちも一様に驚いていた。
顔を隠していた者たちがみな素顔を見せていく。
アレルギー性接触皮膚炎、脱色素斑など、顔以外にも頭皮や首、腕に酷い皮膚炎の症状がある。ストレスからだろうか、円形脱毛症の者もいる。
ここからでもわかる。年齢は10代から20代、30代、みな女性たちである。
あのバハラ商会の商品を使った被害者たちだ。何人か見知った顔がある。
「これがバハラ商会のしたことです」
アリーシャはぴしっとした姿勢を保ち、そして男女の方を真正面から見て一切の容赦なく言い放った。私も、そしておそらくバカラも初めて聞く娘の冷たい声である。
以前に軽度の皮膚炎であればドジャース商会のポーションである程度治療ができたことはあって、さらに治療効果の高いものとしては、たとえば中級ポーションでは治る可能性があるのではないかと予想をしていた、
しかし、それでも2、3割程度しか皮膚は改善されなかった。あのカーサイト公爵家の新作ポーションであってもそうだった。そして中級ポーションは裕福な家ならまだしも、手軽に買えるものではない。
だから、彼女たちは自然治癒などがあったとはいえ、少なくともこの2年間はこの皮膚のまま過ごさざるをえなかったことになる。
まともなかゆみ止めもない世界である。おそらく、我慢できずに引っ掻いてさらに悪化させた者もいるのだろう。場合によっては、最悪なことにこの皮膚の状態で化粧をした者もいよう。
その苦しみは決して余人には計り知れない。
「わ、私は……」
一人の少女が前に出て言った。アリーシャよりも2、3つほど年上だろうか。さる子爵家の令嬢である。彼女にも酷い傷がある。
「こ、婚約を、解消されました」
一言だった。
まだ述べたい言葉はある、魂を振り絞ってでも聞いてもらいたい切なる言葉が、恨みや怒りや深い悲しみがある。
しかし、それ以上は彼女は言葉を何も続けられずに泣き崩れた。その一言を出すためにいかばかりの勇気をふるい、人前に出るために自尊心を捨てたのだろうか。そしてこれは言わなくても良かった世界で幸せに生きている自分を夢想しながら、その世界をもう二度と手に入れることができないと事実を突きつけられて諦めざるをえなかった絶望の嘆きのほんの一部である。
静かに「ありがとうございます」と言ってその肩にそっとアリーシャは手を置いた。
後に聞いたら、小さい頃から仲良くしていた子が婚約者だったらしい。元婚約者はそれでもいいと言ってくれたが、相手の親が反対したのだという。この国の貴族なら、それはするだろうと思った。
彼女の嗚咽に続くように、他の者たちもバハラ商会の商品を使ったことでこれまでどのような地獄を味わったのか、説明をしていった。
周囲からは奇異の目で見られ、場合によっては不義をなしただとか呪われた子だとか、そういう根も葉もない、いわれもない、無責任で非情な言葉を浴びせられた子もいた。
淡々と話す者もいたが、手が震えていた。やがて声も震えてきた。語りながら怒りが蘇ってきたのだろう、必死に片手で押さえつけていた。しかし両腕の震えどころか、全身が震えている。見かねた別の子がその子を全身で抱きしめていた。
最後に一人の少女が声を発した。おそらく、アリーシャと同じくらいの年である。
「なぜ、いったいなぜ私がこのような目に遭わなければならなかったのでしょうか」
誰も答えられるはずはなかった。そしてこれは疑問でもない。
あえていえば、バハラ商会の責任であるし、被害を知りつつも売り続けた者たちである。そして、さかのぼればそもそもそういうものを作った私にも遠因はある。
「バカラ・ソーランド宰相はこういう方たちを生み出さないよう、すぐに知らしめました。バハラ商会は危険な商品を売っているのだと。その行いを、あなた方は本当に理不尽なものだと判断されるのですか」
「そ、それは……」
認めたくはないが、認めなければならない。そして、なぜ罪を償う必要があるのか、今ほど思い知ったことはないだろう。
「もうよい、アリーシャ」
みな戦意も殺気もなくなっている。喧嘩両成敗ではなく、明らかにバハラ商会が悪い。
だが、それを認めるには今しばらくの時間も必要だろう。これ以上追い詰めても、不幸な結末しか待ち受けていない。
こうしてスラム街での争いは終結した。
それでは、と私に言って、アリーシャは被害者の女性たちとともに去って行った。場合によっては「馬鹿者」とビンタする父親があり得たかもしれないが、今回ばかりはアリーシャに助けられた。だが、決して褒められたやり方ではない。
「これは一つ貸しってことで」
「ああ、そうだな。君にも感謝しなければならないな」
アリ商会のノルンがここに来たのも、おそらく被害者の女性たちを集めるために奔走したからなのだろう。アリーシャとノルンに接点があったとは思えないが、シーサスたちに助力を得たのだろう。
「これを使うといい」
そう言ってカーティスにポーションを渡した。すでに私の身体から離れている。
「私に?」
「ああ、気づいていないと思ったか。お前も耐えていてくれたんだな。損な役回りをさせてしまった」
カーティスの掌には血が滲み出ている。私と同じように、カーティスもアリーシャの行く末を何も感じないではいられるはずはなかったのだ。
私は子どもたちになんてことをさせてしまったのだろう。そう思うと胸が痛くなる。
一人の男がその場からすっと抜け出した。私は気づかなかったが、「うわぁ」という声がして、見てみるとミーナたちが男を捕まえていた。
「なあ、あんた。この薬に見覚えがあるだろう?」
「し、知らない」
40代の男である。一緒になって私たちに襲い掛かろうとしていたようである。ただ、いつでも逃げ出せるように集団からやや距離をとっていた。
「調べはついてるんだよ。ええ、あんた、吐いちまいな」
私も間に入って話そうとしたが、ミーナが「ここは私の領分だよ」と言って、私たちはスラム街から出ていくことになった。
後日、その男から聞き出した話をミーナから聞いた。
やはり男はわざとけしかけて私を襲わせようとしたようだ。
それよりも重要なことは、薬はバハラ商会の残党とでも呼ぶべき人間たちがこの王都に流行らせているものだということが判明したことだ。
そして、バハラ商会の裏にはビーストン国があった。
ただ、この関係は明らかではないが、ビーストン国が直接この国に薬をばらまいたという証拠は見つけきれなかった。しかし、その仲介役にカルメラの生家、ワルイワ侯爵家の関与があったことが疑われた。
すべて疑惑で終わってしまったが、この日を境にして王都で薬物中毒になる人間はほとんど見えなくなっていったのである。
アリーシャがソーランド領にアベル王子たちを案内した時のことを話してくれた。なんだかんだで10日の間もゆったりと過ごしていたようである。10日も休みがあるというのは正直うらやましいものだ。
命令通り、あっちではロータスがいろいろと世話をしてやったそうだ。
「そんなに驚くことがあったのか?」
「はい。特に村々を囲う塀などには驚嘆されていました」
ソーランド領の中心街以外の場所もアベル王子たちは視察をしたという。そういえば、何年か前にはアベル王子もソーランド領へは来たことはあったが、あまり隅々まで見学をしたことはなかった。ソーランド領の技術を王家が利用する可能性を考え、そんなに重要な施設へは案内しなかったのだ。どうやら、今回もそういう場所へは案内しなかったようだ。
「ああ。それはそうだろう。手抜かりがあったら魔物に襲われてしまうからな。仕事というのは常に全力でできればいいが、人間はそんなにタフではない。だから、仕事には自然と優先順位をつけなければならない。領主としては何よりも民の命が最優先だ。具体的には脅威から守る壁だな。お前もいつか人の上で指示を出す立場になるだろう。それだけは忘れるんじゃない」
「はい」
象が体当たりをしてもびくともしないほどの壁である。
他国では稀に空を飛ぶ魔物もいるというが、ソーランド領にはそういう魔物が生息していないのは幸いのことである。
地上しか移動できないのであれば、魔物の大軍がやってきても広い落とし穴を作るだけでも十分な足止めになる。
なお、通常の土魔法であれば、テニスコートの半分くらいの範囲で、深さもせいぜい1、2mくらいしか穴が掘れない。
私の場合は魔法の素がすぐになくなるのでそう何度も使えないが、モグラの力があれば一回でサッカー、いや野球のスタジアムくらいまでなら比較的容易に範囲を広げられる。数百頭の魔物たちを足止めできるだろう。新たに土を生み出すよりも穴のように空間を作る方が消費が少ない。
土や火、水などの魔法は実際には魔法の素の消費量は異なるようだ。私にはわからないのでカーティスに訊いたら、土を生み出すよりも水を生み出すことの方が消費が圧倒的に少ないということである。生成する元素と消費量には相関があるのだろうと思う。
試したことはないが、水の大精霊の力であれば、王都に大洪水を起こして丸呑みするほどのことができるのではないか、そういう話である。
一度だけソーランド領でかなり広い湖が枯渇したことがあった。それこそ野球のスタジアム程度の広さである。しかし、カーティスが水魔法を使ったらその湖が戻っていた。相当な水量を発生させることができるのだろうと思う。
たぶん、モグラの力も本気を出したら数発で王都を壊滅状態に追い込めるはずである。これは簡単で下水道をぶち抜く大穴を作ればいい。
ソーランド公爵領が王都から離れた地にあることはそういうことと関係があるのかもしれない。ソーランドの人間に代々野心家と快楽殺人者がいなかったのはこの王国にとって僥倖である。
一応、魔法の発動を阻害する魔道具というものはあるが、大精霊クラスの魔法だと防げない。
ところで、今の私は先代や先々代よりも魔法の素が多い。
単純に数値化できないのではっきりしたことは言えないが、1年目にソーランド領の村々に土壁や堤防などを生み出す魔法を使って枯渇するまで使っていた。
枯渇するほど魔法の素を消費して回復すると魔法の素の上限が上がる、そういう話がまことしやかにささやかれている。あるいは使う回数によって上限が上がる、冒険者や魔法を使える護衛たちにはそういう話が伝わっている。
実際、最初は5、6発でバテていて、時には1日ではなく2、3日ほど滞在したが、最後あたりには10発くらいの特大の土魔法を使ってもスタミナ切れになることはなかった。
ヒロインがマナポーションを呑まずに治癒魔法を使っていたのは、おそらくこの理由だろう。
そういう事実があるので、カーティスやアリーシャが魔法の練習をする時にはヘトヘトになるまで魔法を使用することが多い。
バテるといっても長い階段を登り終えて疲れたなんてレベルではなく、相当頭痛が酷かったり倦怠感があったりして、あまり味わいたくない感覚なのだが、二人はそれすらも受け入れている。この痛みや倦怠感には個人差はあるらしいので、私の痛みと二人の痛みは異なるものなのかもしれない。
何か違う扉でも二人は開いたんじゃあるまいかと親としてはとても心配である。
まことしやかにささやかれているのに試そうとする魔法使いが少ないのは、こういう事情があるからなのだと思う。
他に試しているのを聞いたのはマース侯爵家の人間たちである。特にファラとベルハルトはストイックに修行をしているようだ。予想だが、飄々としていながらもアベル王子、シーサスあたりもそういうことをやってそうである。おそらく、エリザベスやローラもそうだろう。ただ、ノルンやカイン王子はどうだろうか。
なお、これは重要な事実なのだが、魔法の素が枯渇しても魔法は使える。
だが、それは寿命を縮めると言われている。生命エネルギーのようなものが魔法の素に変換される、そう考えられている。これは以前に雇った神秘主義者たちと魔法研究者たちの共通した見解である。
場合によっては大精霊に近いレベルの魔法も1回か2回は使えるという。
しかし、何事もリスクはあるものだ。実際に過去にはそれで命を落とした者もいる。よほどのことだったのだろう。割に合わない。
魔法使いが他の人間よりも寿命が長いのは、こういう事情が神に加味されているのかもしれない。
もし私がそういう状態になったらどの程度の威力を生み出せるのだろうか。
過去に魔物の大量発生があった時代があったようだが、こういう時は風や火よりも土の魔法の方が役に立つ。かつてのソーランド家の人間は王都の防波堤のような役割を担っていたようである。
アリーシャもカーティスほどではないが、土魔法を上手に使いこなしている。
なお、アリーシャの水魔法については国王にのみ打ち明けて二属性魔法が使えることを伝えている。カーティスの人気を考えた上での判断だったし、国王もそれがよいと言ったので、アリーシャは学園では土魔法のみの練習をしている。
水魔法については家でカーティスから手解きを受けている。いつかは二属性魔法を使えることが知れ渡っていくだろうが、今はできる限り静かに生活をさせてやりたい気持ちもあった。
「他国では魔物が活性化しているという話を聞きました」
「そうだな。かなり苦戦をしているようだ。アリ商会のマナポーションや中級ポーションなどが売れているようだから、対応に苦慮しているんだろう」
カーティスも学園内で聞いたのだろう、私の方にも他国で魔物が人里に出没する件数が多いことが耳に入ってきている。このため、来年にはカラルド国との合同軍事演習が行われるが、どこも忙しい。
ドジャース商会のポーションも需要が高まってきて、一時的に生産量を増やしているのだが、それだけではどうにもならない怪我が多いようである。
「ダンジョンから這い出てくる魔物が多いようですね」
「ああ、そのダンジョンだが、いったいあのダンジョンというのは何なのだろうな。この国にもダンジョンはあるが、今は監視を強化している」
不思議なダンジョンというのは、単なる洞穴でもなく、なぜか灯りがあり、それはまるで人が手を加えたような印象を受けるのだが、そこから魔物が出てくることがよくある。どういう原理なのかわからないが、魂や魔法の存在と同じく、このダンジョンの性質もかなり掴みづらい。このダンジョンはある日突然出現する。
一応、ダンジョン研究者とでも呼ぶべき人間がいるのだが、この世界の各地にあって、しかも天然の洞穴のようなものから、人工的な施設や要塞のようなタイプまであるのだという。
天然ダンジョンでもところどころにある鉱石が発光し、しかしその鉱石を取り外すと発光を止めるため灯りとして使うことができないが、少し手を加えると使えるようになる。そして、取り外してもいつの間にか復元しているという。
一説にはかつて神々が生み出して、それは人々の試練のために、あるいは褒美として、ダンジョンを作ったのだと言われている。何らかの意思がありそうな場所である。
褒美というのは、最奥部には宝箱のようなものが出現するからである。そこへ至るまでにも宝箱が出てくる。
その中には武器や防具、薬草や雑貨や、さらにはレシピなどもある。魔物自体も一つの素材とみなせるが、宝箱は持って帰れないという。床にへばりついているようである。個人的にはその宝箱がどういう素材でできているのかが気になる。空の宝箱はいつの間にか消滅するようだ。
何やら胡散臭いものに思えるが、地下や奥には凶暴で大きな魔物がいる部屋や空間があって、それを討伐すると宝箱が出てくるというのだから、どういう仕組みになっているのか、いろいろな仮説を立ててみるもさっぱりわからない。
バカラはまだそんなにダンジョンに入ったことはないので、私も時間のある時に迷いの森と同じようにダンジョン探索をしようと考えている。
ダンジョンはポーションと同じように、初級者、中級者、上級者ダンジョンとレベル分けされており、しかも階層もあって地下に行くほど強力な魔物がいる。地下ではないタイプもあって奥に進んでいく場合もある。
たいていはダンジョン内部の地図が過去の探索者たちによって作られているが、ダンジョンは生き物のように内部を変えていくことがある。そんなに極端な変化はないようだが、あまりに古すぎる地図を使うと大変なことになるという。
ダンジョンは一種の魔法で作られた疑似空間のようなものである、そういう話もあるが、仮説の域に留まっている。
ただ、その裏付けではないが、ダンジョンによっては地下や最奥部に奇妙な光を放つ球体や魔方陣のようなものがあって、それに触れると入り口まで戻ってこられるというのだから、瞬間的に移動をしているということになる。
原子や分子、さらに細かい電子や素粒子というミクロな世界を研究する分野を量子力学という。
人間を構成するそれらの粒子は、絶えず集合離反しているから、ある瞬間においては人間は細かい粒子として存在しており、もしかしたら壁を通り抜けるのではないかという有名な話がある。
自転や公転の影響を考えた上で魔方陣の座標とダンジョンの入り口の座標に占める空間の情報を同じものにして、つまりその瞬間の空間情報を漏らさずにコピーをして再現して、入り口に戻っていると錯覚している、そんな可能性なんかもあるのだろうか。
だとしたら、それは移動ではなく、魔方陣に触れた人間Aは存在が消去され、入り口に人間Bが新たに存在するということにもなる。もしそれが本当ならなかなか恐ろしい事実である。オリジナルが消えてコピーが残ってしまい、オリジナルとして振る舞う。
ただ、その人間Aと人間Bの同一性を確保するために魂という存在を取り入れたら、などとそんなことばかり考えてしまう。
川上さんや娘からは「バトル」という言葉は聞いたことがあったが、このダンジョンについては話はなかった。当初は単に学園内の武闘大会のことのようにも思えたが、武闘大会にヒロインが出場するとは思えないので、魔物とのバトルの可能性が高い。ゲームの世界でもヒロインや貴公子たちはダンジョンの中に入ったのかもしれない。
魔物は普通の動物と同じく交配して生まれてくるが、どうもダンジョンの場合は自然と生まれてくるケースもある。だから、定期的にダンジョン内の魔物も間引く必要がある。
過去の例では、間引きされずにダンジョン内で増殖した魔物たちが一挙にダンジョンの外に出てきた事例がある。なんらかの予兆があって、その予兆に気づかずに魔物の大群が発生して村がなくなった歴史も過去にはあった。したがって、ダンジョンの監視はどの国も怠らない。
ダンジョンにはあらかじめ種のデータベースのようなものがあって、魔物を生み出していくということだろうか。そのシステムに異常があった時に突然魔物が増殖する、そういう可能性もあるのだろう。宝箱やその中身についても、3Dプリンターみたいな機能があるのかもしれない。
精霊にも訊いたが、ダンジョンについてはノータッチらしい。だが、これはちょっと怪しい。
きっとこの世界には大精霊よりも上位の存在がいるか、大昔に高度な知的生命体が存在して、それらが作ったシステムが現在まで自律的に稼働しているか、どちらかなのだろう。
バラード王国ではマース侯爵領にある初心者と中級者のダンジョンが有名で、マース家は代々そこの管理をしている。
ドナンもファラもベルハルトも、定期的に仲間とともにダンジョンに行っており、そこで採れた魔物の肉や毛皮などの素材がマース領の収入源の一つになっている。
したがって、マース領にはマース家に限らず庶民の中に猛者が多い。逆にソーランド領やカーサイト領には少ない。
私が来てすぐにソーランド領の魔物討伐で雇ったのはマース領のこうした人間たちだった。ダンジョンも悪くはないが、ソーランド領の待遇を気に入ってくれたようだった。戦えない人間が集まっていた集落にこうした猛者が来たのだから、ソーランド領の民たちはみな感謝した。その心が伝わったのか、マース領に戻らずにソーランド領に居続けてくれている者たちも存外多かった。この世界は決して心のない世界ではないのだ。
なお、ドジャース商会のポーションの売り上げはバラード王国内ではマース領が上位にある。いろいろ思うところがあって、マース領では値引きをしている。
「そういえば、ハートはダンジョンには潜ったりしなかったのか? 結構な儲けになると聞いているが」
「うーん、これは人によると思うんですけど、俺の場合狭い空間が嫌というか、開放的な迷いの森みたいなところの方が安心できるというか……」
前にハートに訊いたらそういう答えが返ってきた。
クリスやハートも、ダンジョンよりは外の世界の方が好きだという。危機管理能力というのか、ダンジョンだと命の危険に迫るものが多いからなのだろうと思う。
冬になったらマース領に行ってみるのがいいかもしれない。
「またあんたかい。いい加減にしな」
スラム街へは定期的に行ってミーナと交渉を続けているが、最初は取り合ってくれないことが多かった。それでも話を聞いてくれることの方が徐々に増えていった。ここに来る度に少しずつ景観を変えているのだが、思い切って大工事をしたいものだといつも思う。
「私以外の人間は門前払いらしいじゃないか。私だと態度が違うのか」
「ふん」
そう言いながらも、今後のスラム街については多少の意見を交わせる程度には態度を軟化させてきた。粘り強い交渉というのはなかなかしんどいことであるが、成果が見られるのは嬉しいことである。
一応手土産のようなものも用意をしているのも効果的なのだろう。ソーランド領のスラム街でも手ぶらでは何の反応もなかった。
「ちょっと調べてもらいたいものがあるんだが、いいか?」
そう言うと、私は王都で流行っている麻薬を机の上に出した。
ミーナはそれを一瞥すると、またしてもふんという感じである。
だが、次第に表情が変わっていった。
「これは……」
「ああ、今出回っている薬なんだが、どうもビーストン国でかつて販売されていた薬らしい。別にお前たちを疑うわけではないのだが、どうにもタチの悪い薬だ。一掃したいと考えている」
「バハラ商会だよ」
「何!? どういうことだ?」
「あのバハラ商会はね、元はビーストン国の商人なんだ。その薬の製法も知ってるよ」
「だが、バハラ商会は……」
「ああ、あんたが潰したようなもんだ。けど、捕まってないんだろう?」
「そうだな」
ミーナの言うように、バハラ商会のトップはまだ姿を隠している。もう1年近くになるというのに情報がないのである。
本人には言えないが、というかミーナは気づいているだろうが、その薬の密売にスラム街の人間が関わっている可能性は考えた。ただ、反応を見る限りではミーナはあまり良いものだとは思っていないようである。
こうしていくつかの情報を交換していくのだが、正直心が重くなることがたいてい待ち受けている。
「あんたのせいで、俺たち家族はこんな場所で生活をしなくちゃいけなくなったんだ!」
20歳手前と思しき男女二人が言い放ってきたことだった。二人は兄妹だった。
スラム街に来て3回目の時だった。ミーナとの話を終えて帰っていたら、スラム街の入り口近くになってハートが「バカラ様!」と言って前をふさいだ。そこでこの二人の男女が現れた。
「お前たちは……?」
スラム街の住人だということはわかるが面識はない。しかし、二人とも怒りに満ちた表情で私だけを睨んでいる。
「あんたがバハラ商会をつぶしたせいで父さんは……」
悔しそうな表情になり、しかし詰る目つきは変わらなかった。
後日、何のことか、調べてみたら、どうやらバハラ商会の傘下にあった店の子たちのようで、父親がバハラ商会と関係の深い人物であった。効果がないと知っていながらあの劣悪な化粧水などを売ったのである。
おそらく、その事実をこの二人の父親は知っていた。
バハラ商会が解体された後にはドジャース商会やアリ商会などが引き取ったが、引き取れなかったところもある。
そして、そういう店は賠償金を背負う義務もあった。もちろん、支払い能力や機会がもはやないので、その場合は一種の罪人として長期間肉体労働をする義務を負うことになる。この場合は、二人の父親がそうなった。
まあ、賠償金自体はバーミヤン公爵家の方に回されたが、悪質な犯罪に加担した者たちは強制的な労働をすることになっている。
母親は精神的なショックで寝込んでおり、この二人の子どもが母と3人でこのスラム街に寓することになったのである。信用を失った家に手を貸す人間もいないことはないが、この家族の場合はそうではなかったということなのだろう。
「ふざけんな、お前らの父親だって加担してたんだろうが!」
ハートが勇ましく二人に言い返したが、無駄である。私に対しての怒りしかないのである。さまよう刃は私の胸に向かうのだ。
「何が宰相だ! 市民の生活をぐちゃぐちゃにしやがって」
「そうよ、父さんだってバハラ商会に脅されてやっただけじゃないの! なんで、どうして私たちがこんな目に遭わなきゃならないの」
こういう叱責が、このスラム街に来る度に二人から寄せられる。
そして、どうやらこの二人以外にもバハラ商会とつながりがあったせいでバラバラになった家族たちがここに住んでいることがわかった。時には石を投げつけられたこともあった。
クリスやハートたちがその者たちを捕まえようとしたが、「よい」とだけ言った。捕まえてしまえば相応の処罰をしなくてはならなくなる。
どういう理由や事情があれ、私が彼らの生活を壊したのは事実であるし、私にはそういう事実が待ち受けていることはある程度わかっていた。
もちろん、私は一種の正義の行い、つまりバハラ商会の商品が健康を害するものであり、それを知りながら売っていた人間も同罪であり、賠償金を払ったり罪を償う必要はある、そう断罪して言い返すことはできた。が、彼らの姿を目の前にしてそんな言葉は吐けなかった。
日本にいた為政者たちにはあまり良い記憶はないが、どんな批判があっても表情一つ変えない神経の図太さには、この時ばかりはうらやましいと思った。ある程度の感覚が麻痺していなければ為政者は務まらない。これは王も同じなのだと思う。
こういう日にはげんなりしてしまって、もう王宮には戻ることはなく、すぐに邸に戻って部屋にこもって短い睡眠を取る。寝るだけで少し気持ちが薄らぐ。忘却なのか感情の整理なのかはわからないが、こういう能力が人間に備わっているのは防衛本能や生存本能なのだろう。
「お父様、ご気分は大丈夫ですか?」
「ああ、心配かけた。問題ない」
アリーシャやカーティスと食事を摂っている時に、毎回といっていいほど、声をかけられる。あまり仕事のことで不安な表情は見せなくなかったが、ついに隠しきれなくなってきたか。しばらくスラム街に行かない方がいいか、いや今やめたら元の木阿弥である。やはり通い続けなければならない。しかし、足が重い。
そんなある日のことだった。
いつものように何人かの者たちを従えてスラム街に入ったら、30名くらいの人間に囲まれた。これまでにない人数である。
「お前たち、何の真似だ!」
この集団の代表者はあの二人の男女だった。私が今日ここに来ることをどこかで知ったのだろう。2週間に一度、たいてい同じ時間帯に来ているので、予想していたのだと見える。
みな手に武器を持っている。
男の方が言う。
「お前らに生活を壊された者たちだ!」
そして、怨嗟の声が聞こえ、怒号を飛ばし、中には泣いている者たちもいた。みな、だいたい20代だったが、中には40代、50代の女性たちもいた。おそらく、夫がそういうことをしたのだろう。
「さすがにこれほどの規模になったら、もはや取り返しがきかんぞ。今ならまだ間に合う。引き返せ!」
「黙れ! 俺たちにはもう失うものなんてないんだ。お前さえ、お前さえいなくなれば」
相手は一般市民である。
人数が多いとはいえ、私の護衛たちに敵うはずもない。しかし、玉砕の覚悟をもって、この者たちは私をつぶそうとしているのだ。このままでは手加減もできず命の危険がある。
こうなったら、大規模な土魔法で、そう思った次の瞬間、聞き覚えのある声がその場に響いた。
「みなさん、どうか落ち着いてください!」
後ろの方を振り返ると、驚くべきことにアリーシャの姿があった。
どうしてこのスラム街にアリーシャがいるのか。
いや、アリーシャだけではなく、隣にはカーティスと、カミラ、そしてアリ商会のノルンが立っていた。その後ろには顔は見えないが20名程度の人々がいた。援軍には見えない。
「アリーシャ、なぜここにいるのだ! ここは危険だ。すぐに戻りなさい!」
しかし、アリーシャは私の方を一顧だにせず、二人の男女のもとへと向かって行く。カミラも横に付いていった。赤子のミモザは連れてこなかったらしい。
二人を止めようと足を踏み出したら、いつの間にか近くに来ていたカーティスに身体を抑えられた。
「離せ、カーティス。何をしているかわかっているのか。何をしているクリス、ハート、カーティスを私から離せ」
「いいえ、離しません。お前たちも何もするんじゃない」
毅然としてカーティスが二人に言った。だから、クリスたちは私とカーティスの命令のどちらに従えばいいのか、それにアリーシャをどうすればいいのか、判断に迷っている。
そうこうしている間に私の前を通りすぎ、アリーシャとの距離は10mにも満たないが、すでに二人の男女の前まで近寄っていた。
「あなた方はバカラ・ソーランド宰相がなさったことに納得ができていないようですが、なぜですか?」
顔色を変えずにアリーシャが言った。
「なっ、何を馬鹿なことを言っている。あいつさえいなければ家族が」
男の方がアリーシャに激昂しながら答えた。
「それではその家族には何も罪はないのです?」
待て、アリーシャ。その言葉では相手を怒らせるだけだ。
「ふ、ふざけるな!」
女の方がアリーシャの頬を叩くしぐさをとった。アリーシャなら、避けられる。
が、あろうことか、アリーシャは回避せずにそのままもろに頬をぶたれた。鈍い音だった。
叩いた女の方が動揺している。
しかし、私はそれどころではなかった。
「お、お前!」
身体の中に力がこもる。アリーシャが殴られた光景に我を忘れてしまったかのようだった。
しかし、これをもカーティスは止めようとした。
「そのような状態で使われたら、ここが壊れてしまいます! 父上はそういう暴力を振るう方ではないはずです」
「だ、黙れ!」
目の前で娘を殴られてそのまま黙っているほど私はできた親ではない。
「お父様! 私は大丈夫です」
アリーシャの声で少しだけ我に返ったが、それでもカーティスの力は強く込められて、依然として私を縛ったままである。
「人を殴ったのは初めてですね?」
アリーシャは、自分をぶった女に問いかけた。
女は何も答えなかったが、おそらくそうなのだろう。人を直接に傷つける行為など無縁だったのだ。アリーシャを殴ったその手を信じられないとでもいうように見つめている。ましてや15歳の、しかも貴族の娘を殴るなど、考えたことはなかったのだろう。
「今あなたが私を叩いたことで、私は頬が赤くなり、口の中も切れてしまいました」
淡々と事実を並べてアリーシャは言った。
「しかし、このポーションを使えば」
アリーシャは持っていたポーションを口に入れて飲み干した。
「じきに治ってしまいます。あなたが叩いた傷はすぐになくなるでしょう」
アリーシャの言う通り、殴られた傷であれば数分経てば元通りになる。だが、問題はそんなことではない。
「お、お前は何を言っている」
何も答えられない女に替わって、男がアリーシャに問うた。
アリーシャは男の方を向いて毅然として言った。
「傷は癒えます。しかし、あなたたちの罪は完全には消えません。そして、こういう暴力については、このバラード王国の宰相バカラ・ソーランドの娘であるアリーシャ・ソーランドは完全に否定したいと考えていますし、それは私にとっての何よりの誇りです」
その言葉を聞いて、力が抜けていった。
ああ、私は子どもたちの見ている前で何をしようと考えていたのか。
アリーシャの言葉とともにカーティスの力も緩まっていった。
「な、何が罪は消えないだ。お前たちの罪だって消えていないじゃないか! 綺麗事を言うな。お前たちがいったい何をしたのか、本当に理解できているのか! お前たちが家族を、めちゃくちゃにしたんじゃないか!」
女がアリーシャの言葉で蘇ったのか、アリーシャを威嚇した。
「あなた方だけが被害者ではありません。バハラ商会の商品で被害者も出ました」
「そんなの、一部だけだ。被害だって誇張だ。そんな傷、もう治ってるだろ! 私たちは今でも苦しんでいるんだ」
その言葉を聞いて、哀しそうな表情を浮かべたアリーシャは、手を上に上げた。
すると、後ろに控えていたノルンたちが集団でぞろぞろとアリーシャの近くに寄っていった。
異様な光景である。顔を隠した人間が何十人もいる。
一人が素顔を見せた。
「ひっ!?」
その顔を見て、二人の男女はぎょっとした反応を見せた。周りの人間たちも一様に驚いていた。
顔を隠していた者たちがみな素顔を見せていく。
アレルギー性接触皮膚炎、脱色素斑など、顔以外にも頭皮や首、腕に酷い皮膚炎の症状がある。ストレスからだろうか、円形脱毛症の者もいる。
ここからでもわかる。年齢は10代から20代、30代、みな女性たちである。
あのバハラ商会の商品を使った被害者たちだ。何人か見知った顔がある。
「これがバハラ商会のしたことです」
アリーシャはぴしっとした姿勢を保ち、そして男女の方を真正面から見て一切の容赦なく言い放った。私も、そしておそらくバカラも初めて聞く娘の冷たい声である。
以前に軽度の皮膚炎であればドジャース商会のポーションである程度治療ができたことはあって、さらに治療効果の高いものとしては、たとえば中級ポーションでは治る可能性があるのではないかと予想をしていた、
しかし、それでも2、3割程度しか皮膚は改善されなかった。あのカーサイト公爵家の新作ポーションであってもそうだった。そして中級ポーションは裕福な家ならまだしも、手軽に買えるものではない。
だから、彼女たちは自然治癒などがあったとはいえ、少なくともこの2年間はこの皮膚のまま過ごさざるをえなかったことになる。
まともなかゆみ止めもない世界である。おそらく、我慢できずに引っ掻いてさらに悪化させた者もいるのだろう。場合によっては、最悪なことにこの皮膚の状態で化粧をした者もいよう。
その苦しみは決して余人には計り知れない。
「わ、私は……」
一人の少女が前に出て言った。アリーシャよりも2、3つほど年上だろうか。さる子爵家の令嬢である。彼女にも酷い傷がある。
「こ、婚約を、解消されました」
一言だった。
まだ述べたい言葉はある、魂を振り絞ってでも聞いてもらいたい切なる言葉が、恨みや怒りや深い悲しみがある。
しかし、それ以上は彼女は言葉を何も続けられずに泣き崩れた。その一言を出すためにいかばかりの勇気をふるい、人前に出るために自尊心を捨てたのだろうか。そしてこれは言わなくても良かった世界で幸せに生きている自分を夢想しながら、その世界をもう二度と手に入れることができないと事実を突きつけられて諦めざるをえなかった絶望の嘆きのほんの一部である。
静かに「ありがとうございます」と言ってその肩にそっとアリーシャは手を置いた。
後に聞いたら、小さい頃から仲良くしていた子が婚約者だったらしい。元婚約者はそれでもいいと言ってくれたが、相手の親が反対したのだという。この国の貴族なら、それはするだろうと思った。
彼女の嗚咽に続くように、他の者たちもバハラ商会の商品を使ったことでこれまでどのような地獄を味わったのか、説明をしていった。
周囲からは奇異の目で見られ、場合によっては不義をなしただとか呪われた子だとか、そういう根も葉もない、いわれもない、無責任で非情な言葉を浴びせられた子もいた。
淡々と話す者もいたが、手が震えていた。やがて声も震えてきた。語りながら怒りが蘇ってきたのだろう、必死に片手で押さえつけていた。しかし両腕の震えどころか、全身が震えている。見かねた別の子がその子を全身で抱きしめていた。
最後に一人の少女が声を発した。おそらく、アリーシャと同じくらいの年である。
「なぜ、いったいなぜ私がこのような目に遭わなければならなかったのでしょうか」
誰も答えられるはずはなかった。そしてこれは疑問でもない。
あえていえば、バハラ商会の責任であるし、被害を知りつつも売り続けた者たちである。そして、さかのぼればそもそもそういうものを作った私にも遠因はある。
「バカラ・ソーランド宰相はこういう方たちを生み出さないよう、すぐに知らしめました。バハラ商会は危険な商品を売っているのだと。その行いを、あなた方は本当に理不尽なものだと判断されるのですか」
「そ、それは……」
認めたくはないが、認めなければならない。そして、なぜ罪を償う必要があるのか、今ほど思い知ったことはないだろう。
「もうよい、アリーシャ」
みな戦意も殺気もなくなっている。喧嘩両成敗ではなく、明らかにバハラ商会が悪い。
だが、それを認めるには今しばらくの時間も必要だろう。これ以上追い詰めても、不幸な結末しか待ち受けていない。
こうしてスラム街での争いは終結した。
それでは、と私に言って、アリーシャは被害者の女性たちとともに去って行った。場合によっては「馬鹿者」とビンタする父親があり得たかもしれないが、今回ばかりはアリーシャに助けられた。だが、決して褒められたやり方ではない。
「これは一つ貸しってことで」
「ああ、そうだな。君にも感謝しなければならないな」
アリ商会のノルンがここに来たのも、おそらく被害者の女性たちを集めるために奔走したからなのだろう。アリーシャとノルンに接点があったとは思えないが、シーサスたちに助力を得たのだろう。
「これを使うといい」
そう言ってカーティスにポーションを渡した。すでに私の身体から離れている。
「私に?」
「ああ、気づいていないと思ったか。お前も耐えていてくれたんだな。損な役回りをさせてしまった」
カーティスの掌には血が滲み出ている。私と同じように、カーティスもアリーシャの行く末を何も感じないではいられるはずはなかったのだ。
私は子どもたちになんてことをさせてしまったのだろう。そう思うと胸が痛くなる。
一人の男がその場からすっと抜け出した。私は気づかなかったが、「うわぁ」という声がして、見てみるとミーナたちが男を捕まえていた。
「なあ、あんた。この薬に見覚えがあるだろう?」
「し、知らない」
40代の男である。一緒になって私たちに襲い掛かろうとしていたようである。ただ、いつでも逃げ出せるように集団からやや距離をとっていた。
「調べはついてるんだよ。ええ、あんた、吐いちまいな」
私も間に入って話そうとしたが、ミーナが「ここは私の領分だよ」と言って、私たちはスラム街から出ていくことになった。
後日、その男から聞き出した話をミーナから聞いた。
やはり男はわざとけしかけて私を襲わせようとしたようだ。
それよりも重要なことは、薬はバハラ商会の残党とでも呼ぶべき人間たちがこの王都に流行らせているものだということが判明したことだ。
そして、バハラ商会の裏にはビーストン国があった。
ただ、この関係は明らかではないが、ビーストン国が直接この国に薬をばらまいたという証拠は見つけきれなかった。しかし、その仲介役にカルメラの生家、ワルイワ侯爵家の関与があったことが疑われた。
すべて疑惑で終わってしまったが、この日を境にして王都で薬物中毒になる人間はほとんど見えなくなっていったのである。
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