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8章 絶望

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「お言葉を返すようですが、香以外に秋好を継げる者などおりません。香は秋好の若宗家になる人間です。どうか考え直してはいただけませんか」
「伝統ある神林の十五代目の宗家になるのに何の不服があるのか」
「そっ、そういうわけではございませんが……」
「いいですか桜也さん、この話を蹴って香が秋好へ戻るのなら、さぞや恩知らずな振る舞いになりますな。十年世話になった神林へ、後足で砂を掛けるも同然ですぞ」
 これは脅しだった。師に仇をなす不義理な弟子、そんな評判を流されたら、香が日舞の世界で生きていくのは難しくなる。昭月の言葉の裏には、それがある。
 さすがにそれは、桜也にも分かった。故に、顔色を失った。
「そのような……ただ秋好も香がいないと継ぐ者がいないので……」
「あなたはまだ若い。これからしかるべき弟子を育てる時間はいくらでもある。勿論、香はいつでも客演の形で協力できる」
 桜也はもう何も言えない。反論する言葉も見つからない。絶望を胸に神林を後にした。
 深い後悔が胸を占める。十年前香を神林へ行かせたのが間違いだったのか……。あの時は、父の言葉に己も引きずられた。しかし、自分でもそれしか道はないとも思った。ただ、幼い香が不憫だった。それも、秋好のためと己に言い聞かせた。
 それがこのような結果になろうとは。秋好を継ぐ者は香以外に考えられない。それは当たり前の事実だったのだ。それを今更、他の弟子など……どうすればいいのか。
 桜也の苦悩は深まるばかりであった。

 新しい年を迎えた。
 秋好では喪中でのため新年の祝い事全て無かったが、それ以上に各人の心は暗かった。
 神林での新年祝賀の行事に出席できない香は、神林へ行って初めての年末年始を我が家で過ごしたが、気持ちは沈んだままだった。
 その香や秋好には、決定的な事が起こった。神林が、今回のことを大々的に公表したのだ。

 神林流十三代宗家引退。十四代宗家には、現若宗家の神林秋月が就任。そして次期若宗家には秋好香を養子に迎え、神林香月として将来の十五代目の宗家にする。

 一躍香は時の人になった。今までも注目の若手舞踏家ではあった。美貌と才能に恵まれた日舞会期待の踊り手と言われた。
 今回の発表は、それを更に高めることになったのだ。何せ神林には、東月という直系の後継者がいるのだ。それを押しのける形で次期宗家になるのは、大きな驚きを呼んだ。
 神林の決断も驚くが、それだけ香の才能が際立つのか……世間の見方はそうだった。

 才能と美貌に恵まれた稀有な人との評判……しかし、当の本人香の心は暗い。これでは、逃れる術はない。
 自分は籠の鳥だと思ってきた。その籠は益々強固に檻のようになっている。逃げることはできないのか……。

 三月の下旬、香は大学を卒業した。
 神林に来てから、大学の卒業は楽しみにしていた。籠から解放される時と思っていたから。しかし、今は違う。
 来月、涼子と正式に婚約。そして、祖父の一周忌を終えたらすぐに結婚式。その後、神林の新宗家のお披露目公演。無論、それは神林香月のお披露目にもなる。
 香は、神林という、頑丈な檻に入れられるのだ。
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