皇帝陛下のお妃勤め

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第二部

18 青春は秘湯にて

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「さ、猿……でしたね」
「そのようだな」

 素流はまだ一応は極力声を低めた。一翔も。

「ええと、もしかして幽霊騒動は全部あの猿が原因でしょうか?」
「断言はできぬ……が、その可能性は十分あるな」
「紗を被っている姿でなら、湯気にゆらめく人影そのものですし、湯の中を泳いでいましたし、呻き声というのも、もしかしたら……」

 猿の消えた方を見やり、素流は息を吸い込むと唐突に「誰だ!」と誰何した。
 すると湯気の向こうから先の猿と思しき威嚇声が聞こえた。
 そのすぐ後に、湯に張り出した枝葉がガサガサと揺れる音も聞こえてきたので、きっと人間に露見したと思った猿が慌てて岩を登って枝から逃げていった音だろう。

「ええと、唸り声も呻き声もまあ聞き様によっては似たようなものですし、昨日一昨日なんかの幽霊は、あの猿をそうと見間違えたんじゃ……?」

 素流の結論に一翔も異論はないようで、湯気の向こうの揺れる木々を見ようとでもするかのように目を細くしている。

「そのようだな。いくら見回りをしようと木の枝を伝ってやって来たのなら、護衛たちもわかるまい」
「まさかただの野生の猿じゃなく布を被った猿だったなんて予想外でした」
「まあ、ろくでもないものでなくて幸いだったと言うべきか」
「確かにそうですね。また来ると思いますけども、そうなるとまた幽霊だの何だのと騒ぎになるのでは?」

 安堵と共に呟いた素流の台詞には一翔もやや悩んだような声を出す。

「しかし猿となると、捕まえるのも難しいな」
「じゃあこの際、運が良ければちょっと変わった猿とも入れますって周知させちゃったらどうでしょう」
「そなたは野生の猿と温泉に入りたいと思うのか?」
「まあここは大自然からの賜り物ですし、そういうのも風情があっていいかなーとは思いますよ」

 普通の令嬢なら悲鳴の一つでも上げて嫌がりそうだが、実にけろりとしている素流へと一翔は苦笑を向けた。
 この国の後宮の歴史上でもこんな剛毅な妃はきっと彼女以外にいないだろう。

「とりあえず宿の方には、猿の話をしておくとしよう。事前の理解が得られれば多少なりとも心構えが出来て幽霊だと見間違えることもなくなるだろうしな」

 同感と頷いた素流は自分がまだ抱きしめられていると思い出し、「ちょっとすみません」としゃがんでするりと腕から抜け出すと、なみなみとして揺れる湯面へと伸ばした指先を浸した。少し掻き混ぜるように動かせば、滑らかな水面は微かな音を立てて周囲の光を乱反射する。

「うん、良い湯ですね」

 ほくほくとした面持ちを顔を上げれば、何故だか一翔は両手を中途半端に曲げたまま不服そうにしている。
 どこか解放的な気分になれる秘湯だからか素流は悪戯心が湧いてきて、掌で掬った湯を彼へと掛けた。

「……素流」
「あ……ご、ごめんなさい。目測を誤ったと言いますか、思った以上に水を掬っていたみたいで。ええと、水も滴る良い男ですよ~……なんて?」

 頭からポタポタポタと水を滴らせる一翔は、気まずそうに愛想笑いを貼り付ける妃へと半眼を送って、仕返しに自分も身を屈めて掬った湯を掛け返した。

「ちょっ……これは酷いです」
「……す、すまぬ」

 素流以上に目測を誤ったのか、一翔からの水掛けは可愛い悪戯レベルを超していて、素流は頭からポタポタではなくボタボタダラダラと水を流した。
 着ている衣服も肩までぐっしょりだ。

「一応着替えも持ってきてますから良いですけど」

 自分からちょっかいを掛けておいて何だが少々立腹した素流は腰を上げ脱衣所の方へと歩き出す。
 しかし刹那、油断していた足元がつるりと滑った。

「あ」

 床は石なのでうっかり後頭部でも打ち付けようものなら大変だ。打ち所によっては命に関わる。転倒とはかくも危険を伴うのだ。
 されどそこは武芸を嗜む女、景素流。
 彼女は持ち前の反射神経で受け身を取ろうとして、けれども予想外にその必要はなかった。

「入る時に気を付けよと言ったであろうに」

 一翔の腕から抱き止められたのだ。

「あ、ありが…」

 安堵したのも束の間。

「む!」
「へ?」

 素流の勢いが思った以上だったのか、今度は一翔が足を滑らせた。
 素流を再び不意の浮遊感が襲う。
 バシャンではなく、ドボンと水飛沫が上がった。
 ドミノ倒しも同然に、二人はもろとも背後の湯の中に落ちたのだった。

「げほっごほっ」
「大事ないか素流?」

 大事ない、と首をふるふると横に振る素流は、予期せぬ落水のせいでお湯が鼻から入って激しく噎せていた。涙目にもなっていたが生憎全身ずぶ濡れなのでどれが涙なのか判別もつかない。
 一方、一翔の方は何事もなかったように湯から立ち上がってそんな素流の背を摩っていた。

「済まないな。咄嗟にそなたを受け止められたと思ったのだが、うっかり気を抜いてしまった」

 少ししてようやく呼吸が落ち着いた素流へと、一翔は依然として気遣う顔で謝罪の言葉を口にする。

「私は大丈夫ですよ。それにむしろ石の上に転ばなくて済んで良かったんですから、本当にそんなに申し訳なさそうにしないで下さいよ」

 それでも一翔は表情を渋いものにしている。

「もう陛下ったら、心配性はどっちですか」

 そんな風に気遣われれば、素直に嬉しさと有難さが込み上げて彼女は笑った。

「助けて頂いてありがとうございます」

 まだ一翔は落ち込んでいる。

「ありがとうございますってば陛下!」

 そんな空気を払拭しようと彼女は両手でお湯を掬って夫へと勢いよく掛けた。
 最早これ以上濡れ鼠度は上がらないが、見事に正面からお湯を食らった彼は反射的に瞑ったのだろう目をそのまましばし閉じ、何か思う所があるような無言を貫いた。

「折角楽しみに来たんですよ。辛気臭い顔をなさらないで下さいね」

 確信犯的な素流の言葉にようやくゆるりと目を開けた一翔は、片手で顔の水分を拭うとふっと口角を持ち上げた。

「朕にこうも無体を働けるのはこの国広しと言え、そなただけだ」
「あはは無体ってそんな大袈裟な…」

 素流が口を開けて笑った所にお湯が飛んできた。しかもたった今自分が掛けた量よりも随分と多かった。更に言えばまた鼻から入りそうになった。

「ちょっと陛下!」
「そなたから始めたことだ。降参するか?」
「…………しません!」

 喧嘩上等とばかりに啖呵を切って、切り合って、この夜秘湯にはバシャバシャと激しい水音と共に無数の飛沫が宙を舞った。




「はあ、はあ、はあっ、陛下中々やりますね」
「そなたもな」

 秘湯の湯気の中、湯に佇む二つの影がある。
 素流と一翔だ。
 相変わらずのずぶ濡れのままの二人だが、湯に入ったままなのと、周囲の空気も冷たくはないので風邪を引く心配は極めて低い。
 二人はしばらく童心返ったように二人だけで水掛け合戦をしていたのだ。
 変な所で真面目な素流にしろ根っから生真面目な一翔にしろ、普段後宮ではこんな風に騒いだ事はない。
 しかし護衛が外に居るとは言え、このどこか現実から隔絶されたような場所では心が解れていたようだ。
 ただまあ、若さ故にできるきゃっきゃうふふである事も間違いなかった。彼らがそれぞれ何十年と後に己の人生を回顧する時があるのなら、きっと「あの頃は若かった」と微笑ましさの中に苦笑いも浮かべる事だろう。

「正直、陛下がこんな遊びに付き合ってくれるとは思いませんでした。川遊びでよく弟や妹たちとはしてましたけど」
「朕とて、そなたとでなければこのような児戯はせぬよ」

 自然体の一翔から微笑まれて素流は内心ドキリとして瞠目する。

「希少な体験であるぞ?」

 妙に偉そうに語尾を上げられて、素流は淑妃としてのお淑やかな笑い方で返そうかと思ったがそうはせず、普通にあははと素で笑った。

「これはこれは光栄の極みにございます」

 そのくせ、口調は慇懃に努めた。
 この場面だけを見れば、そして二人の顔を知らなければ、これが皇帝陛下とその淑妃だとはきっと誰も思わないだろう。

「これが雪合戦でも陛下は好敵手になりそうです」
「雪合戦か。ではそれも楽しみに取っておこう。改めて思ったが、日頃から体を動かしているだけあって体力があるな」
「ふふっ当然です。だって私はそれだけが取り柄で後宮に入ったんですよ」

 服の張り付く胸を張って素流が得意気にすれば、一翔は少し目線をズラした。服の生地は薄くはないが、さすがに水に濡れてしまえば多少なりとも体の線が露わになる。

「そなたはまだそのような戯言を申しておるのか? 取り柄がそれだけと言うことはあるまいよ。朕はそうだと知っているからな」

 何気なく言われた台詞と柔らかな声にドキリとした素流は「あ、ありがとうございます」と素直に受け取った。
 この男は急にこうやってさりげに嬉しい言葉を振って来るから心臓に悪いのだと素流は常々思う。
 自分では他の取り柄など思い付かないが、彼の目に映る自分は自分で思うよりもきっと少しはマシなのだろう。そう思いたい。
 頬がカッカとして熱い。
 頭の中さえも嬉しい言葉に翻弄されたようにくらくらする。

(何だかのぼせたみたいに照れるなあ……)

 妙に落ち着かなくて髪の毛を触ったり服を直したりしていると、一翔が湯の中を歩いて素流のすぐ傍に立った。

「素流」

 声に手などないが、まるで優しく撫でられたように感じて素流は変に緊張を募らせる。

「は、はい?」

 声にそれを滲ませてしまってから少し空気を読まな過ぎたと後悔の念が湧いた。

 何故なら、自分を見下ろす一翔の表情がとても甘く熱っぽかったからだ。

 自分たちはそういう目的も兼ねてここに来ているのだと改めて思い出して嬉しいような恥ずかしいような気持ちに満たされる。
 既に速かった心臓の鼓動が余計に速さを増す。
 目の前の彼からそっと手を伸ばされて、額に張り付いている前髪をそっと避けられてそこに口付けを落とされた。
 おでこは初めてではないのに、たったそれだけでどうにもこうにも気恥ずかしく、ドキドキし過ぎたためか手足に上手く力が入らない。

(どどどうしよう、何か、何だか緊張し過ぎて……意識、が……)

 彼女は体が傾いでバシャンと自分が湯に沈んだのを感じた。
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