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第一部

9、中庭での襲撃

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 不自然な沈黙の後、気を取り直すように天を仰いだ一翔が眉間を揉みながら素流を見やった。

「淑妃よ、そなたは皇后と昼間からそのような話をしているというのか? よりにもよって皇后と?」
「……そ、そうですけど」

 ここは宮女や宦官たちの耳目があるので、一翔は皇后の性別には言及できない。
 素流は皇后が男であると知らないと思っている彼は、故に素流に皇后の本当の性別を告げることもできない。
 元より告げる気はなかったが、しかしこの話を聞いてさすがに唖然としてしまった。

「皇后さまはさすが男心にはお詳しくて、色々と教えて下さります。私は陛下との子作りのためにも、皇后さまから男性目線からのあれやこれやを教わっているのです。例えばこれです!」

 素流はそう言って上目遣いに一翔を見つめた。

「これ、とは一体何だ?」
「え、陛下はこうされてグッときませんか? 近距離からの女子の上目遣いにドキッ……って、皇后さまお墨付きだったんですけど」
「……。淑妃よ、そういうことを知りたいのなら皇后ではなくもっと専門の者から教われば良い。手始めに古参の宮女たちを手配しておこう」

 いい加減皇后を警戒しろと言いたかったが、下手に秘密をバラせないために一翔としては目を瞑らざるを得ない。二人があくまでも女性同士としての節度で仲良くしているのだとはわかったが、きゃっきゃうふふの場面を想像すれば猛烈に面白くなかった。
 景素流という娘は武人気質なせいか、びることをしない。
 そこが一翔が先帝の後宮で見てきた女たちとは一線を画していて、一翔にはとても新鮮だったし、共に過ごすうちに彼女の竹を割ったような性格もわかってきて好感を持った。
 自分はこう言う女性が好みなのかもしれないと初めて感じもした。
 鍛錬時の凛々しさは美しく、対照的に春画本を手に頑張って迫ってくる姿は可愛いと思う時もある。
 ただ空回りしている自覚があるのかないのか、一翔は何とか平静を装って毎回躱わしていた。

 博風には、彼女に余計な小技を教えるなと言いたかった。

(上目遣い……効いた)

 一翔の気など知る由もない素流は恐縮した。

「いえいえそこまでは必要ありません。これまでのお話だけでも十分でしたし、元来春画本で鍛えた知識がありますし。ですので、今夜こそ頑張りましょう!」

 素流がまた皇后直伝の方法で見上げれば、何故か一翔はうぐっと咽を詰まらせてたじろいだ。

「……善処する」

 そう言うと彼はすっと顔を背け「残った公務を片付ける」と言い置くと、素流にも顔なじみの宦官と共に足早に去って行った。




 その夜、皇帝の来訪はいつもより遅いようだった。

「仕事が溜まってるなら仕方がないよね。疲れてる所を無理に押し倒してもあれだし、今日は来ても催促は無しかな」

 実は初夜からこっち、夫をもう何度か寝台に押し倒してみた素流だったが、一翔はそう言う時は余計頑なに気分じゃないと言って部屋の長椅子に不貞寝する。
 初夜に素流の寝室を出たことで不仲を疑われた時期もあったので、それを踏まえ朝までは部屋からは出ないように努めているようだった。
 事実、一翔は生まれた時からここで育ったせいなのか、宮中の噂一つにも敏感だった。
 時に身に覚えのない噂が身の破滅を招くことを知っているのだ。
 素流としては臣下や宮女たちの噂を気にするくらいなら、さっさと子供を作ってしまえと思うのだが、未だ一度も男女間という意味での共寝はしていない。
 やはり一日でも早く子を産みたいと思うが、博風から男にも色々あるので大目に見てやってくれと言われれば、仕方がなくも文句は控えていた。

 そんな夫一翔はまだ来ない。

 卓子で春画本をパラ見していた素流は、ちょっとした気分転換に庭先に出ることにした。

(来ないって報せはないから多分来るのよね。ついでにこのまま待ってようかな)

 後のことは自分で出来るからと、いつものように侍女たちは既に控え室に下がらせている。
 頬に触れる夜風は、秋口に近いのもありやや涼しい。

(明日こそは……)

 そんな想像をすればかあっと頬が熱くなる。
 風が少し冷涼で良かったと思う。熱を逃がしてくれるから。
 素流は念には念をと毎晩一翔の訪れ前に春画本を眺める度、羞恥に悶絶していた。一翔の前では平気なように装っているだけだ。
 実際に初夜は、本当は心臓が張り裂けるかと思った程に激しい動悸の連続だった。まあ運よく悟られることはなかったが。
 理性では割り切っているとは言え、こんな自分が果たして本当に世継ぎなど産めるのか、ふと不安になる時がある。

 だが引き受けたからには、弱音は吐かない。

 素流はそう決めている。

 この件に限らず、彼女は常日頃から彼女自らの気質が弱音を吐くことを許さない。

 実家でも、父親が亡くなり素流が大黒柱となってからは、我慢我慢と言い聞かせ、弱音なんて吐かなかった。
 一番頼れる自分が泣いたり嘆いたりすれば弟妹たちが不安がるからだ。
 だからどんな時も、笑顔は無理でも凛々しく気丈には振る舞った。
 報酬目当ての遠征の時だって、男装して軍の末席に飛び込んで初めて野戦場に出た時も泣き言は言わなかった。
 剣を振り回すのは小さい頃から詩句の暗記や裁縫よりも慣れていたので、農民上がりの多かった敵国の素人兵士相手に、自らの身を護ることはほとんど苦もなかったが、さすがに目の前で見知らぬ兵士たちが命を失っていく様を見るのは忍びなかった。

 しかし誰にも、その当時も家に帰ってからも、怖じ気付きそうだった胸中を吐露することはなかった。

 人だって斬った。

 幸か不幸か直後に敵軍に退却の太鼓が鳴ってとどめを刺す前に戦は終わり、その敵兵は死にはしなかったが、仲間に引きずられながらもいつまでも素流を睨んでいた怨嗟の眼差しは忘れられない。

「……嫌なことを思い出しちゃった」

 石の敷かれた夜の中庭に佇み、所々に植えられた樹木を眺めながら自嘲の声を落とした刹那、ぞわりと背筋が粟立った。
 武芸者の勘と言うのか、本能が警鐘を鳴らしたのだ。

 自身の上に殺気が注がれている。

(まさか私に刺客が? どうして? 逆恨みされないように調整付けてくれたんじゃなかったわけえっ!?)

 各名家や有力官吏たちの誰も大きく得も損もなかったから、素流はこれと言った波風もなく側室になれたのではなかったのか。
 そう説明されていた。
 なのに話が違う。

 しかし、殺気を無視はできない。

 素流は的確に、この中庭を囲む建物の一つの屋根上に、何者かの気配を感じ取っていた。
 素流からすると背後に位置している屋根だ。
 下手に騒いで関係のない宮女を巻き込むのは本意ではなかったので、しばし気付かないふりをして一人庭先に出たまま気持ちを引き締める。
 敵の力量は知れないが、迎え撃つしか選択肢はないだろう。

(皆、姉さんはこんな所で死んだりしないからね!)

 家で帰りを待っているだろう弟妹たちの顔を思い浮かべれば、何だってできる気がした。
 怖くなんてない。

 ――と、刺客の気配が動いた。

 卑怯にも背後から襲いかかってくるつもりの相手になど負けるものかと、自らを叱咤する。
 素流は敵が間合いに入るのを見計らって、不意打ち宜しく自らの羽織っていた上着を取り払うと、バサリと大きく広げて敵の視界一面を遮った。
 案の定予想外に標的を見失った刺客は焦ったように腕を振り、四苦八苦と自らに被さってきた布を剥ぐ。
 部屋から漏れる明かりに薄ら照らされる相手は体格から見て男で、覆面をし、武器は片刃の剣だ。
 一撃で人を斬り重傷以上を負わせるには適している。

 つまり確実に素流を殺そうとしているのだとわかれば、素流の方も僅かに残っていた遠慮はなくなった。

 覆面の男が冷静さを取り戻す前に体当たりを食らわせ武器を手から叩き落とす。
 そこに加えて地面に沈む男を後ろ手にねじ伏せようとしたが、皇帝の訪れに合わせて宮女たちから着飾らせられた服が動きづらく、思うように拘束できずみすみす絶好の機会を逃してしまう。
 歯噛みしていると、体勢を整えた刺客が尚もしつこく自分を狙うようにして、足にでも仕込んでいたのか隠し武器を手に取った。暗器としてもよく使われるヒしゅと呼ばれる短刀だ。
 対する素流に武器はない。
 それでも体術の心得もある素流は勇敢にも身構えた。

「人を呼ぶわよ?」

 ここに来てもまだ他者を危険に晒すことを躊躇ためらう素流は、低く抑えた声を出す。
 刺客は動じた風もなく鼻で嗤った。

「呼ぶならさっさとそうすればいい。ただなあ、俺が捕まればあんたの家族に危害が及ぶようになっている」
「なっ、どういう意味!?」
「言葉通りさ。あんたが大人しく殺されてくれれば、あんたの家族が血を見る心配はないってのが、雇い主からの言伝だ」

 素流は愕然と刺客を見つめた。

「まさか、家に人をやったの? あの子たちに怖い思いをさせてるの?」
「さてなあ、俺はあんた担当だからそこまでは知らねえよ。まあ、つーわけであんたに個人的な恨みはねえが、潔く死んでくれ」

 男が石畳を蹴った。
 応戦して出来ないこともない。

 でも、もしも、この男の話通りなら、自分のせいで大切な弟妹たちに危険が及ぶ。

 そう思ったら、足が動かなかった。

 ここにいるのも誰より大切な家族のためなのだ。彼らを犠牲にするなど本末転倒だった。

「……っ」

 短刀が振り下ろされるのを悟り、素流は無念の胸のうちを堪えてギュッと目を瞑った。
 きっとそうすれば少しは怖いものも怖くなくなると、そう信じた。

 ――素流、今日も鍛練するぞ。
 ――阿流や、私の可愛い娘。

 かつて自分を慈しんでくれた、今は亡き懐かしい声たちが鼓膜の奥に蘇る。

(父さん、母さん、命を投げ出すみたいなことをして、ごめんなさい。でも私は私に出来る最大で弟たちを護りたいの)

 自分は戦場での敵兵のような酷い怪我を負い……いやそれ以上に酷いありさまで死ぬのかもしれない。
 痛みが来るはずだ。
 きっと激痛が。

「――うぐっ……うううっ!」

 そう、こんな風に無様に呻く羽目になるのだ、自分は……。

(……………ぁ…れ?)

 しかし、衝撃は来ず、声にしても無意識の自分が痛みに呻くものではなく、男の声だ。
 何故か未だ自分の身には何も変化がなかった。
 素流は訝りと不審に駆られて薄らと両のまぶたを持ち上げる。
 見れば目の前で刺客の男が地面に這いつくばっていて、手足を活きの悪いカニのように動かして呻いている。

 彼の背中にはどこから飛んで来たのか深々と短剣らしきものが刺さっていた。

 素流は驚いたままに目を大きく開いて男を見つめ下ろした。

「――素流!」

 その時、急ぐような靴音と共に庭先から姿を現したのは、皇帝楊一翔だった。
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