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7護り護られ男装令嬢

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 この日もいつものように男装して公爵家を三人で出発した。
 レティシアは相変わらず真珠みたいに美しく、クラウスさんは妹と同じくシャイニーな麗しい顔を私へと向けている。
 馬車内はレティシアと私が同じ側、クラウスさんが向かい側だ。これも大体いつもの席順。
 だけどいつもと違って緊張するのはクラウスさんに微笑ましい目で見つめられているせいだ。あーうん、実物は心に砂糖菓子を塗り込められるような彼の手紙よりも更に糖分過多だねー。

「クラウスさん、外の景色を見て下さいよ。こっちを見てなくていいですから」
「何だよ釣れないな。月並みだけど俺の目はエマを見るためだけにあるんだってのに」
「そんなわけありますか」
「ある。それに目だけじゃない。俺の鼻はエマの匂いを嗅ぐためにあるし」
「はいい!?」
「俺の耳はエマの声を聞くために存在する」
「ちょっクラウスさん!」

 この人はまた、レティシアもいる前で恥ずかしげもなく……っ。一方レティシアは後光さえ見えそうな聖母の微笑みでわたくしには全てわかっていますって穏やかな空気を放っている。一瞬誰だこれって思ったよね。でもさ、その方がかえって恥ずかしさ倍増なんだけど……。
 クラウスさんは器用にも組んだ両脚の上に頬杖を突いてにんまりとした。それでも優しく爽やかな雰囲気は微塵も損なわれないから不思議というか美形はお得。

「それにさ、俺の口は」

 言葉を止めたので私が怪訝にすると、彼はトントンと自身の首を指先で示して更には可愛く首を傾げるようにする。

「エマをかじるためにある?」
「なっ……!」

 思い出して瞬時に耳まで真っ赤になると、彼はそれを計算ずくだったように笑みを深めた。

「エマにこんな顔をさせられるのは、この先も俺だけだって信じてもいい?」
「こっ、こんな顔って、こっちはすごく恥ずかしいんですけどね!」
「……言っとくけど、俺だって恥ずかしいんだよ」
「全然余裕そうですけど。女の子慣れしている遊び人みたいですよっ」
「あ、遊び人!? 俺はエマ一筋だ!」

 私が気分を害したような声をぶつければ、彼は慌てたように抗弁した。だけどすぐにその表情は全て柔らかいものに変わる。私の大好きな見慣れた微苦笑に。

「何であれ、気持ちを言葉にするのはやっぱり勇気が要るよ。俺はさ、いつかは言葉なんてなくても自然と甘い空気になれる、そんな関係に君となりたい。寄り添って手を繋いで、目と目を合わせて幸せを感じて、微笑んで口付けて……って。エマと一つ一つ積み上げていきたい」

 空のように涼しい色をした熱い眼差しにいやが上にも胸が高鳴る。

「エマは?」

 クラウスさんとどうしたいか。

「私は……」

 どう、したいか。
 レティシアにはまだ私の意向を彼には言わないって方向で話がついていたけど、それはいつまで? いつかは必ず知られる。曖昧なままでいるのは誠実じゃないんじゃないの? 私はレティシアとの約束を考え直さないといけない。できるだけ早く。
 私の目は一度レティシアを見つめ、目顔で彼女に訴えた。意図を的確に察した彼女は僅かにはっとしたけど止めようとはしなかった。
 クラウスさんをがっかりさせるのはやっぱり悲しいよ。でも意を決して再び彼へと姿勢を正す。

「私は…」
「エマの家の継承問題ならどうとでもできる」

 息を吸い込んでの発言は、機先を制される形で遮られた。

「どうとでもなんて言うと言い方が悪いけど、結婚しても男爵位が夫の俺に属するんじゃなくてエマがエマの財産として引き継ぐとか、エマの産んだ子供に継がせるなんて方法もある」

 この国の法律だと爵位継承は基本的に男性オンリーで、後継者が女性のみの場合はその結婚相手の男性が爵位を冠するのが普通だ。他家に嫁いでしまえば一切はそちらの家の財産にだってなる。相手が爵位持ちなら女性も夫の家名を名乗るから、実質結婚前の爵位や家名は消えるも同然だ。
 うちの親はそれをよしとしない。
 おそらくいくら公爵家に嫁ぐのが世間一般的には大変光栄な事でも、私が公爵家の二人ととても仲が良くても、反対されるだろうね。

「必要なら国王陛下に許可だって求めるよ。爵位も家名もそのままで存続させる最善策を俺も一緒に模索するから、安心してほしい」
「クラウスさん……」

 彼がうちの事情を考えてくれていたのには驚いた。レティシアを見たら視線を合わせてこない。あーこれは彼女から聞いたな?
 でもそう簡単な話なの?

「俺は必要なら説得でも根回しでもプレッシャーをかけるでも何でもするつもりだよ。相手が誰であれな」
「……」

 プレッシャーってハッキリ言ったけど、ええとそれは言い換えれば脅すって意味? 相手が誰……たとえ王家でも。貴族の襲爵問題に手を出せるとすればそれは王家くらいだ。
 でも強引な真似をしてクラウスさんが牢屋に入れられでもしたらどうしよう。
 青くなった私の顔を見た彼はふっと憂うように半分目を伏せる。

「俺の性格の悪さに幻滅した?」
「へ? 幻滅って、何を見当違いなことを。クラウスさんを心配したんですよ。あなたが酷い目に遭うのは嫌です。大体……私のために悪い男にもなってくれようとする人を幻滅なんてしません。クラウスさんだから余計にあり得ません」

 目を軽く見開いた彼の瞳が明るく煌めいて、蕩ける。

「キスしていい?」

 急に来た!?

「だっ駄目ですレティだっているのに」
「あらわたくしは気にしないわよ~。でも今のはわたくしがいなければキスしていいって意味ね?」
「えっ、そっ、そんなつもりじゃな……っ」

 一気に馬車の中の空気が和んで兄妹はくすくすとよく似た顔を綻ばせる。キスだなんて大胆発言をしたクラウスさん本人の頬も赤いけど、全く以て揶揄われたみたいだね私ってば。

「……二人共ホントいい性格してるよ!」
「そうかな? ははっ俺達と違ってエマはいい子だからなあ」
「いい子って、子供扱いですか」
「まさか。子供じゃないからこっちは色々と困るんだよ」
「なっ」
「エマは俺が唯一生涯を共にしたい魅力的な女性だよ。正式に結婚の申し込みをしたら受けてくれる?」
「えっ」

 嬉しそうに表情を緩めているクラウスさんが右手を差し伸べてくる。
 私が家柄の差とは別に結婚相手に無意識に彼を除外していた理由は、どうにか方法を見つけられるかもしれない。アドレア公爵家の後継者の意向なら私の爵位継承も特例として認められる可能性が高い。
 家格云々にしても、私の努力とクラウスさんの言う根回しや何かで押し通せると考えていいかな。

 憂慮すべき問題がなくなったとしたら、私はすんなり彼の胸に飛び込んでいけるんだろうか。

 霧の中にあった答えがぼんやりとした形を取り始めて、急速に望みが凝縮する。
 ほとんど会話の邪魔をしなかったレティシアが横から私の腕を抱き込んで、瞬きの瞳の中に一際眩しい激励の光が散らばった。

「レティ……」

 私は彼女からクラウスさんへとまつげの先を動かした。そして彼の差し出す掌にも。
 本音を言えば、この人に頼るだけは嫌だ。
 私は私の足元を自分自身で強固なものにして彼の隣に立ちたい。
 それまで待っていてくれるだろうか。それでも同じ答えをくれるだろうか。この愛さずにはいられないクラウス・アドレアという男は……。

「クラウスさん私は…」

 膝の上の手を浮かせかけた刹那、馬車が停止した。
 まるで夢から覚めたかのような心地で我に返ったけど、紡ぐはずの言葉が舌の付け根辺りで滞ってしまった。拍子が抜けちゃったんだ。
 もうこの会話を打ち切らないといけないかのように、小窓の先の御者が夜会会場に到着したと告げた。




 がやがやと夜会会場は今夜も例に漏れず賑やかしい。
 結局やっぱり会話の続きはしなかったものの、私は夢見るようなふわふわした心地のまま馬車を降りた。先に出ていたクラウスさんからレディ扱いで手を貸された時は自分が騎士の男装をしているのをうっかり忘れそうになったっけ。だって何だかいつも以上に甘く感じる。主観の問題なんだろうけど。
 他の招待客達からの注目を浴びると自然と気が引き締まった。レティシアの傍に立って呼吸を整え気合いを入れる。
 よーし、今夜もカッコいい騎士に徹するぞー!

「お嬢様段差がありますので足元にお気を付け下さい。お手を」
「ええありがとうエド」

 会場入口へと続く階段を上る間、レティシアが転ばないように手を貸し導く。

「エド、躓くと危ないよ」
「え、あ、ありがとうございます?」

 クラウスさんは私が転ばないよう私の別の方の手を取る。公衆の面前だしBL演技の一環なんだろうから振り払うわけにもいかずそのまま繋いでいるしかない。
 クラウスさん、私、レティシア、と並んで階段を上がった。真ん中が私なんだけど……いやもう何これ? 傍から見たら公爵家の兄妹に両脇を固められている図にしかならない。両手にめちゃ綺麗な花。
 建物に入ると早々に会場係が公爵家二人の到着を声高に告げた。二人と手を繋いでいた私は慌ててレティシアの護衛として控える位置まで引っ込もうとしたけど、クラウスさんが手を離してくれずちゃんと下がれなかった。

「ちょっとクラウスさん!」

 小声で窘めると彼は何が問題なのかって空とぼけた顔でにこりとしてくる。
 レティシアはあらあらって呆れたようにしたけど、その目はキラキラと輝いている。あー、来たばっかりではあはあしないでね?
 いつまでも会場入口でもたもたしている方が目立つから、これ以上の抗議を諦めて彼と共に進んだ。

 幸いクラウスさんがレティシアの専属少年騎士エドウィンを溺愛しているって噂はとっくにもう広がっているから、私達を見て驚く招待客はほとんどいなかった。

 この夜会は上流階級達の娯楽の面もあるけど、側面では新たな人脈や商機を掴むためって狙いもある。今夜の面子達はゴシップを掘り下げるより利己を掴むための情報や縁を重視するだろうから、若者の個人的な恋愛事情には興味が薄いって理由もあるかもね。
 むしろ公爵家の息子の趣味に難癖を付けてそれが後々自分達に悪い影響を与えても困るので言及しないって人もいるだろう。アドレア公爵家は各方面への影響力が強い。
 この国の貴族や資産家は商売を片手間にしている者がほとんどで、中には領地経営の主軸に据えている家もあるからね。
 実は領地の狭い我がロビンズ家もそのタイプ。

 好奇の目が少ないと感じていたからか、私はいつもよりは気を抜いてしまっていた。

 しかしここは時に欲望と陰謀渦巻く社交界。

 こっちが予期していない形で敵が現れたりもする。

 三人で会場を奥に進んでいくと、壁際で立って談笑している一団の中に見知った顔を見つけた。

「ん? あそこにいるのって、ステファン?」

 所属する騎士団の黒い制服姿の彼は同じ黒服の王宮騎士仲間とリラックスした様子でいる。へえ、仕事中でも小難しいような顔ばっかりしているわけじゃないんだ。まあそりゃそうか。
 あれ? でも仕事中ならフレデリック王子はどこだろう?

「レイブン騎士団がいるってことは、第二王子殿下もいらっしゃるってわけか。大方二人三人だけ護衛を連れて会場内をぶら付いているんだろう」

 隣のクラウスさんが遠くのステファンへと好意的じゃない眼差しを送りつつどこか冷たい声を出す。まあこういう場で騎士をぞろぞろ連れて歩くのは些か邪魔だけど、前回見た際はずらりといたような?

「同感だわ。女漁りに大人数で移動したら悪目立ちして近付く前に逃げられるものね。また顔を合わせて引き留められても煩わしいし、今夜は主催者ホストに挨拶だけしてさっさと帰りましょ、お兄様。で、エマと我が家で寛ぎましょ、ね?」

 前半部分は同様の声でレティシアも。
 ええと、前も思ったけど第二王子って二人からそこまで嫌われてるんだ?

「そうしよう。ここには日頃の付き合いで顔を出しただけだし、厄介な相手と顔を合わせるのは精神衛生上よくないもんな」
「じゃあ決まりね。エド、そういうわけだから」
「はい、私はお嬢様に従います」

 さっさと帰ると予定を決めたものの今夜もBL演技観賞を楽しみにしていたらしいレティシアはやや残念そうだ。でも王子回避の方が彼女にとっては優先されるみたい。
 クラウスさんがちょっと身を屈めて私の耳元に顔を寄せた。

「折角こうして可愛い男装してくれたのにごめんな」
「……ぜ、全然ですよ」

 可愛い男装って何だ。そんな内容が彼からの手紙にもあったっけ。男装中の私はレティシアや彼女の腐仲間達からはクールって評価されてるんだけど、彼にかかれば違うらしい。

「それじゃあ主催者を探さないとな。俺が挨拶すればまあ十分だろうから、二人は待っていてくれ、端の方で軽食でも食べていれば目立たないだろ」

 クラウスさんがようやく手を放してくれて一人で人混みに紛れた。彼が一時的に不在になったせいか私は警戒心を上昇させる。何しろ私は今レティシアの専属騎士だ。パートナーがいるくせに美人な彼女をチラチラと見てくる中身は紳士じゃなさそうな紳士達は、鋭く睨みを利かせてシャットアウト。
 知り合いなのに声も掛けないでいるなんてステファンには悪いけど、私の優先はレティシアだから勘弁してもらおう。因みにパーティーで彼を見かけたのは決闘を申し込まれた日以来だ。

「お嬢様、私達もあちらの方へ行きましょうか」

 軽食が置いてあるテーブルを恭しく示して、同意するレティシアを凛々しい立ち居振舞いを心掛けエスコートする。
 今夜の会場たる貴族屋敷はとても広くて、招待客だって多い。話が弾めば個人的な商談もできるように大小幾つかの休憩部屋も用意してあるらしい。庭先にも出られるし、軽食が置いてある場所は会場の外れに近い小さなスペースだ。トレーを手に会場を回っている給仕係に声を掛ければその場で給仕してもらえるし、招待客達の目的はほとんどが食事じゃないからわざわざ料理を食べにくる人間も多くない。そんなわけで無難に過ごせそうな場所なんだよね。

 人の流れを抜けてもう少しでテーブルって時だ。

「おおっ! 奇遇にもレティシア嬢じゃないか!」

 背後からどこかで聞いた事のある声が聞こえた。でも私にとっては慣れ親しんだものじゃない。レティシアの端麗なかんばせが微かに不愉快の色を宿した。

 一体誰?

 振り向けば第二王子フレデリックだった。

 フレデリック殿下だった。

 レティシア運ないな、うん。この広い会場で見つかるなんてさ。よりにもよって避けようとした相手にね、うん。
 王子はレティシアに会えたからか上機嫌に懐を広げて近寄ってくる。

「ハハハやっと会えたな。パーティーに行く度にレティシア嬢の姿がないかと期待していたんだぜ。でも派閥が違うと中々被んなくてなー」

 貴族や王族には出席すべく集まりが多く招待が重なる事もしばしばだ。どこのパーティーに出るかは王宮での派閥も関係してくる。アドレア公爵家と第二王子は派閥的には異なっていた。

「思ったより早く会えたのも俺達の運命だな。レティシア嬢、是非一曲俺と踊ってくれ」

 片手を差し出す王子の逸る声にも社交スマイルを張り付けたレティシアの眼差しは寒々しい。目は笑ってないってやつね。

「申し訳ございませんが、気分が優れずそろそろ帰る予定でしたので、殿下のご期待には沿えそうにありませんわ。それではわたくしお兄様を待たなければなりませんので。ごきげんよう王子殿下」

 品よく微笑みつつも優雅にお辞儀してさっさと踵を返したレティシアに、王子と長々と会話する気がないのは明らかだ。私も倣って小さくお辞儀をしてから背中を向ける。
 にべもなく断られて押し黙った王子はけれどすぐに気を取り直した。

「待てレティシア嬢、そんな釣れない所も貴女の魅力だな。軽食を食べるつもりだったのに気分が優れないなどと、そんな見え透いた嘘をついてまで俺の気を引こうとしたんだろ? やはり今夜俺は貴女とダンスをする運命にあるようだ」

 自国の王子に待てと言われたからには立ち止まらないわけにもいかず足を止めたレティシアは、周りに悟られない程度に苛立ちの余り肩で息をした。彼女はゆっくりと王子を振り向く。私も。
 レティシアの笑顔が極めて怖い。物凄く綺麗だけどだからこそ私にはわかる。綺麗な薔薇にはトゲがある。うん、ホント殺気に溢れまくってるーっ。今にもてめえこのボンクラとっとと失せろって言い放ちそうでヒヤヒヤだ。私不敬罪で連座は御免だからね。

「申し訳ございません。今夜はどうしても都合が悪いのです。殿下、どうかご容赦下さい」

 指先でドレスの裾をつまんで改めて楚々と淑女の挨拶をするレティシアの姿を目を細めて見つめた王子は、何を思ったか近寄ってくる。
 念のため私が少しレティシアの前に出ると、王子はこれ見よがしな横柄な態度で私の肩に肩で強くぶつかってきて「邪魔だどけ」と乱暴な声を出す。別に怖いとは感じなかったけど、レティシアが「エドウィン!」と心から私を案じる声を出す。

「高貴な貴女がこんな野良なんぞに執心するな」

 はは、王子様はレティシアが私を心配するのがどうにもこうにも気に食わないらしいねー。しっかりと睨まれた。
 百歩譲ってそこまではいいとしても、次の行動は見過ごせなかった。
 彼は何と強引にも失礼にもレティシアの手首を掴んでぐいぐいと引っ張って行こうとするんだもの。

「放して下さいませ殿下」
「いいから俺と踊れよ」

 ダンスホールはこんな会場の外れになんてない。足を踏ん張るレティシアだけど、華奢な彼女の力じゃ曲がりなりにも男の標準は腕力のありそうな王子に対抗なんてできない。私だって力のいなし方流し方を熟知しているから男とも渡り合えるけど、単純に腕相撲じゃ勝てないだろう。こんのフレデリックソ王子めええ~っ!
 それでも私はレティシアを引っ張る王子の腕を掴んで制止してやった。

「お嬢様をお放し下さい殿下!」
「小僧、お前が放せ」

 人数を絞っているんだろうってクラウスさんの推測通り王子に同行の王宮騎士は二人で、彼らは任務の性質上「殿下!」と気色ばんでその殿下を掴んでいる私を警戒して進み出る。隙を見て捕まえようとしているのは明らかだ。何なんだこの理不尽はって腹が立つ。

「既にお嬢様は返答を致しました。何卒ここはご容赦下さい」
「嫌だな。これは王族命令だ」
「なっ」

 王族命令!? それをされたら断れないじゃないかーっ! こんっの横暴王子いいーっ。クラウスさんとレティシアが避けたがるのもわかる。悔しさが込み上げて思わず歯噛みした。

 だけど、今の私は表向きだけであってもレティシアの騎士なんだ。

 横暴王子が彼女を放さないならこっちだって手から力を緩めてやらないよ。

「お前……っ」

 こっちの態度にとうとう王子は青筋を浮かべた。護衛二人は機を窺っているのかまだ飛び掛かっては来ない。馬鹿王子からの命令もないからだろう。私も一辺に相手にするのは大変だから是非ともそのままでいてほしいね。
 レティシアも外では常だった社交スマイルを消して王子へとあからさまな非難の目を向けた。それがまた彼の神経を逆撫でしたのかもしれない。彼の神経質そうな金の眉が痙攣したのが見えた。
 その憤りは口説こうとしている相手じゃなく、どこの馬の骨かわからない少年騎士に向く。言うなれば女の嫉妬が女に向くのと理屈は一緒だ。男の嫉妬は男にってね。

 また憎々しげに睨まれるかと思った矢先ふっと王子が歪んだ笑みを浮かべる。

 え、なに?

「お前、王族にその態度だと? 不敬罪だな。王族に傷を負わせようとした傷害及び侮辱の罪も視野に入れるべきか。おいこのガキを縛って王宮まで連行しとけ」

 既に騒動になっていた私達は周囲から注目の的になっていて、ざわりとそんな周囲からどよめきが上がる。王宮って言うけどどうせきっと王宮にある地下牢の事だよね。やり過ぎだとか可哀想にって囁きが届いた。とは言え聞こえたのか王子が外野を睨めば皆そそくさと視線を逸らした。とばっちりは御免ってわけだよね。

 王子の護衛二人は今度こそ私へと手を伸ばす。

 ああもうっ、叩きのめしてもいいの?

 騒ぎに気付いて近くに来ていたステファンが私達へと一歩を踏み出そうとしたのが見えた。

 表情からしてたぶん止めようとしてなんだろうけど、レティシアの方が僅かに行動が早かった。何と王子の手を振り払った。その反動で私も王子の手を放した。

「殿下! エドウィンはわたくしの騎士ですわ! 彼は相手が誰であれわたくしを護ると誓った者。殿下が急にわたくしを引っ張ったので彼は彼の仕事をしただけです。いくら殿下でもこのような暴挙は許されません」

 最低王子に臆さないレティシアの勇敢さには感動だよ。くう~っ美少女の勇ましさに痺れるう~っ。さすがは我らのレティシア~っ!
 まさか意中の相手から手を振り払われるとは思っていなかったがために余計に憤りも倍増なのか、王子はいきり立った。

「はっ、暴挙だあ? 王族に反逆した者には相応の罰が必要だ!」
「反逆だなんて……っ、誤解です殿下!」
「堂々と俺の邪魔をしただろうが、それで十分だ」
「わたくしの護衛だから当然の行動をしたまでです! どうか彼らへのご指示を撤回下さい!」
「当然の、だと? 王族の俺を害するのがか? ははっつまりそのガキは俺に明確な敵意があるのか、そうなんだな。これでより反逆の罪が濃厚になった」
「そうではありません殿下!」
「無駄だ、命令は変えない。さっさと捕まえろ」

 騎士達に命じつつ「でもなあ」と王子はどこか下卑た笑みを作った。でっち上げもいい言い種に表情を更に険しくするレティシアに顔を近付けて、彼は周りには聞こえない声で言った。

「レティシア嬢が今夜ずっと献身的に俺の世話をしてくれるっつーんなら取り下げてもいい」
「――っ」

 憤慨の余り愕然と目を見開くレティシアは黙って唇をわななかせた。
 そして、王子の卑劣な条件は私にも聞こえた。
 こんっのクズ王子いいいーって内心じゃ炎を吐いて憤ったけど、レティシアの様子に私の背筋には同時に冷たいものが滑り落ちる。

 ねえ、どうして拒否しないの?

 まさか、レティシアは……?

「ん? どうなんだレティシア嬢?」

 王子がいやらしくレティシアに顔を寄せる。彼女は両目をきつく閉じて小さな唇を震わせながら開く。

「わ、かりまし…」

 ハイもう駄目ねこれ。

「――お嬢様にそのクッサイ息をかけるな。脳みそだけじゃなく歯茎も腐ってんですか?」
「臭っ!? 腐っ!? っっっぬわぁんだとおぅ!?」

 私も周りに聞こえないように声量を絞った。後々もしもああ言った言わないって幼稚な展開になった時に証言者が出ないように念のためねー。あと自分でもこんな低い声が出るのかってどこか他人事のように感心もする。
 レティシアの肩を抱いて引き寄せて王子から遠ざけた。彼女を背にして私が堂々として一歩前に出ると、王子はビビったのか後ろへと多々良を踏んでよろけた。へっカッコ悪う~。あ、もろに感情が顔に出ちゃったかも。
 彼は慌てて駆け寄った王宮騎士に支えてもらって何とか転ばずに済んだ。
 騎士二人は危険と判断したのか威嚇のための剣を抜く。

「おっおっお前ええっ!」

 だけど騎士達が更に動くより先に怒り狂った王子が私の胸ぐらに手を伸ばした。私は敢えて避けなかったから掴まれて、身長差から爪先を浮かされる。
 反撃はしない。レティシアの騎士としてってよりも友として彼女が事なきを得るためなら殴られても我慢するつもりだから。

 王子が拳を振り上げた。

 私は目をすがめて痛みに構える。

 刹那、ドゴッと鈍い音が上がった。

 ……ん? 私は痛くないぞ?

「ってレティ!?」

 ハッとして思わず素で呼んじゃったけど、そこは誰も気にしなかったと思う。

 何しろ予想外にもレティシアが横から思い切り王子の顔をグーで殴ったからだ。

 皆の意識はそっちに向いていた。

 反撃などあり得ないと思っていた相手からの不意討ち、しかもグーパンされた王子は二歩三歩とよろけてとうとうバランスを崩した。レティシアのはお嬢様パンチだし決して彼が吹っ飛ぶ強さじゃなかった。
 でも精神的には大打撃だったのか受け身もなしに斜め後ろに倒れ込んでいく。騎士団の面々は、彼らもレティシアの行動に度肝を抜かれていたらしく反応が遅いからサポートは期待できなそう。

 このまま下手に頭を打って死なれでもしたら、それこそレティシアが断罪されかねない。

 咄嗟に私は身を躍らせた。

 王子のクッションになるように下方にダ~イブ。

 そりゃ当たり前だけど受け身は取った。だから床に倒れ込んでも王子が上から乗っかっても私が大怪我をする不安はない。
 しん、とその場は静まり返った。

「う……」

 呻いて身を起こした王子の声にあたかも夢から覚めたように皆が息を呑む。

「殿下ご無事ですか!?」

 傍の二人とステファン以外の王宮騎士達が慌てて王子の元に集まったが、目眩を散らすように頭を振り振り下に手を突いて身を起こした王子は何故かギョッとしたように瞠目して手を跳ね上げると見下ろした、私を。

 まるで全く予期せずゲテモノにでも触った人みたいな反応だ。

 失礼なとは思いつつ、私も半ば想定外な展開に気まずい思いしかない。

「「…………」」

 王子と嫌だけど見つめ合っちゃったよ。

「お、お前……? 今の、お前、それ、その胸…………ぉ」

 彼の口が「お」の発言を形作った所で私はくわっと両目を見開いて鍛えた腹筋力を披露してやった。

 フンッと強い鼻息と共に勢い良く上半身を起こして彼の顔面に頭突きする。

「ごはあっ……!」
「殿下! 貴様何をする!」

 レイブン騎士団の一人、この時点で私には彼が団長だとはわからなかったけど、とにかく屈強な騎士の男性から鼻先に剣の切っ先を向けられた。顔面に攻撃なんて、王子を故意に害したんだから当然だ。

 だけどどうして頭突きなんてしたか?

 直近、王子は意図せずも私の胸の上に手を突いた。

 掌にダイレクトに感触が伝わって彼は悟った、私の性別を。

 私もまさか胸を揉まれるなんて思ってもみなかったからちょっとフリーズしたよね。
 だけど羞恥心を感じる以前に危機感増し増し。

 私が女だってバレたら、それ即ちレティシアの嘘もバレる。

 レティシアの立場が悪くなる。
 見栄を張ったなんて陰口を叩かれる。まあ事実はそうなんだけど、親友として共犯者としてレティシアを悪く言われるのは我慢ならない。

 で、王子が「女」だか「おっぱい」だかって言いそうだったから言わせるかーって口封じをしたってわけ。

 でもこの先どうすればいい? 強制的に誤魔化し続ける? でもできるかな……。

 一人床の上を転げ回って悶絶していた王子が痛みが治まってか涙目をこっちに向けてきた。これで降参してくれたら良かったのに、彼はその顔にふと人の悪い笑みを浮かべた。

「何だよ。ははっ道理で。よくよく見ればそうだよな。よくもまあ騎士の真似事を。その長い髪もまさにお前がおん…、――っ!?」

 床に鮮血が散った。

「あははっ私の髪が何か? なっにっかっ!? いやー自分でも前々から女臭いなーっと思っていたんですよねー、さっぱりしたかったんですよねえーあはははは」

 私の手から遅れてパサリパサパサと長い黒髪が滑り落ちる。

「エド!」
「お、お前正気か!?」

 レティシアが悲鳴を上げ王子は青くなった。
 私は王子にまた女って言わせないよう、またもや咄嗟の判断で動いたんだ。

 王宮騎士から突きつけられていた剣の刃を素手で握って長かった自毛をバッサリ切って落とした。

 女っぽい要因を一つ減らしたってわけ。
 レティシアのためならこれくらい何て事ない。髪はほっといてもまたすぐ伸びるもの。
 でも一度レッテルとかイメージが付いちゃうと簡単には変わらない。そんなものでレティシアには苦しんでほしくない。

「ええ、はい正気です。何か文句でも?」

 女って言ったら殺す女って言ったら殺す女って言ったら殺すって暗黒オーラを放って威圧する。王子は的確に私の決意を理解したようで蒼白な顔で瞬時に口をつぐんだ。あはは、グッドボーイ。

「殿下、冗談抜きにこれ以上言えばどうなるかおわかりですよね……?」

 念のため、こう、と首を横に切る仕種をしてやれば、彼は心胆から戦慄した面持ちで凍り付いた。

「わ、かった」
「男同士の約束ですよ? オトコ、同士の」
「わわわわかったよ!」

 とうとう完全に怯んだ王子が誓った所で、レティシアが抱き付いてきた。涙を浮かべて訴える。

「エド! どうしてこんな無茶をするの! わたくしのために髪の毛も手もこんな……っ。早く手当てしないと!」

 彼女も私がどうしてこんな風にしたのかってわかっているみたい。

「はい、手当てしに行ってきますね」
「一緒に行くわ。けれどその前に」

 レティシアは涙を拭うと王子をキッと睨み付けた。

「ホントふざっっっけんなよお前、フレデリック殿下様よお! もううんざりなんだよ。殿下の無神経な横暴さで今までどれだけイラつかせられたかわかってんの!? え!? お前と違って公明正大な陛下の事は大好きだからお前の暴挙にも今まで波風立てないように大人しくしてきたけど、それも今日で終わりな!」
「レ、レティシア嬢……?」

 予想外な公爵令嬢の言葉に王子は怯むと言うより完全に半口を開けてポカンとなった。彼があんまりにも間抜け面だったせいで冷静さを取り戻したのか、レティシアは咳払いすると冷めた目で続けた。

「金輪際わたくしに話し掛けないで下さいませ、ビッチ王子殿下」

 ふんと鼻を鳴らして顔を背けた彼女は私に寄り添うようにして歩くのを促してくる。
 王子は幸い追いかけてこなかった。刺激的過ぎる展開と塩対応に心が折れたみたい。たぶん今まで相手から脅されたり拒絶されたり、他者の特大の憤怒に触れた経験がなかったんじゃないのかな。実は横柄な人間程メンタル弱かったパターンだ。これで改心してもうレティシアを煩わせない事を願いたい。

 でも、良かった。

 皆に女だってバレなくてホッとした。




 公爵令嬢とその騎士が手当ての箱と休憩部屋に消えてから、会場内は言うまでもなくざわめきに包まれていた。
 血を見る騒動にまでなったのにはさしもの目撃者達も動揺していたようだ。
 しかし、仕える令嬢を身を挺して護ろうとした少年騎士の姿は称賛を以て囁かれている。少年騎士が倒れ込む王子を庇った点も、敵に情けをかけられる寛容な人間として好意的に受け止められているようだ。

 王宮騎士達に囲まれ怪我の有無をチェックされている第二王子は、ばつの悪そうな面持ちで帰りたそうにしている。

 一団の中にはステファンの姿もあった。

 彼はエマが敢えて女である事実を隠し通した理由を察している。レティシアと彼女の周囲の令嬢達のいざこざの話を耳にしていたからだ。ただ、大事な友人の名誉を優先したエマの優しさを思って気持ちが温かくなる反面、この場は運良く治まったがこの先彼女に不利に働かないかが心配でもあった。

 とは言えそこは自分も全力でサポートするつもりだし、公爵家の二人もエマをとことん気に掛けるだろうとして彼もそこまで憂慮してはいない。

 エマの手の怪我も心配だが、レティシアがいるので大丈夫かと彼はここに留まっていた。エマの綺麗な黒髪にしてもとても残念だった。本人も落ち込むだろうとは思うも、そこも女同士のレティシアが付いてくれているので少しは安心できた。

「とんだ騒ぎだったみたいですね、殿下」

 案じてやる気にもならない第二王子からやや離れて控えるステファンが、仕事の早い会場係がエマの髪の毛の掃除を始めたのを苦い心地で眺めていると、ようやくクラウスが姿を現した。
 大事な時に傍にいないで今までどこで何をやっていたんだと責めたい気持ちをステファンは寸でのところで呑みこんだ。

 何故なら、クラウスのその声は穏やかだったが大いに寒気を感じさせたからだ。

 クラウスの顔を見ても彼は微笑を浮かべている。しかしその微笑みがまた薄ら寒さをステファンにもたらした。

 完全完璧にクラウスが怒髪天なのに彼は気付いた。

 道理だろう。
 妹と好きな女の両方を傷付けられて怒らない男などいない。ステファンだって王子を殴りたかったが直接の関係者ではなかったし、少女二人は存外に勇敢だったので結局出る幕がなかったのだ。
 ステファンはクラウスが何を話すのか気になって黙って耳を傾けた。ぶっちゃけ王子を殴るならそれでもいい。自分は止めないから存分に殴れとも思いながら。

「殿下のその頬、うちの妹が大変に申し訳ありませんでした」

 兄として公爵子息として深々と謝罪するクラウスの銀髪がさらりと揺れる。
 彼が頭を下げるまではどこか恐々とした硬い表情でいたフレデリックだったが、従順な態度に触れてちょっと呆気に取られたような顔をした。しかも身分の優位を思い出して反省なくも往生際悪くクラウスを脅そうと思ったのかもしれない。口元に彼独特の嫌な笑みを作った。
 処置なしだなとステファンは心底白けた。もう第二王子の護衛任務から外れるのもいいかもしれない、とも。
 しかし王子にエマやレティシアの件でマウントを取られるだろうクラウスを気の毒には思わなかった。

「はははいやまあ、レティシア嬢を赦してやらないこともないぞ。彼女とのデートでもお膳立てしてくれればそれでいい。ああ心配せずとも二人きりってわけじゃない。あの専属騎士も同伴でな。どうだ?」

 王子は何か悪知恵でも働いたようにクラウスへと身を寄せ内緒話をするようにする。その口元は彼のそこそこの美形を完全に損なうレベルでだらしなく弛んでいた。

 ――そうすればあの男装女の秘密をバラさないでやるよ。レティシア嬢ともまた違って男装女も中々だ。脱げばきっといい体をしてるぜ。胸も案外あったしな。

 ステファンには生憎何と言ったのか聞き取れなかったが、クラウスの逆鱗に触れたのは確信した。

 会場内のワイングラスにほぼ同時にヒビが入り、窓ガラスにも同様の亀裂が走った。

「は!? え!? ななな何が起きた!?」

 会場内からも驚きと悲鳴が上がり、大きく動転する王子はぺたんと無様に尻餅をついた。急に腰が抜けたのはクラウスの殺気にあてられたからだが、よくわかっていなそうだ。
 王宮騎士達も固唾を呑んで動けないでいる。
 ステファンにはクラウスから黒いオーラが立ち上る幻覚が見えた。爽やかに青いはずの瞳が禍々しく底光りしている。王子は起こしてはいけない地獄のドラゴンの尾を踏んだのだ。
 アドレア公爵家は魔法使いの家系でクラウスも魔法使いだと公表されている。今のは彼の魔法が生み出した現象だった。
 しかしこの場ではステファン達騎士以外その真実に気付いた者はいないだろう。世間一般の人間は一個人の魔法能力がここまで強大だとは誰も思わない。
 微笑を浮かべているクラウスは傍目には決して怒っているようには見えないのもあるだろう。

「殿下……一つ長寿のためのアドバイスをして差し上げましょうか」
「え、あ、ああ」

 にこやかに見下ろす公爵令息と愕然と見上げる第二王子。
 クラウスが案じる言葉一つなく、すっと介助の手を差し出した。
 クラウスが王子から何を言われるにせよステファンが同情しないのは、恋敵だからではない。そもそもその必要がないからだ。
 人当たりの良い笑みが板についている公爵令息のクラウス。しかし彼の本質はその限りではないのをステファンは薄々いや結構濃厚に感じ取っている。実に手強い恋敵だ。
 立ち上がる王子へ手を貸したクラウスは「とても簡単なことですよ」と一見愛想良く振る舞った。

「――口を慎むだけです」

 穏やかな声にナイフが潜む。
 ヒクッと王子の頬が引きつった。クラウスが笑みを深める。
 もう心配はないかとステファンは小さく息をついた。
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