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第二十八話 この上なくも、相思相愛2
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「――待ってエレノア、ごめん待ってってば!」
エレノアはどんぐりをいっぱい詰め込んだリスのように頬を膨らませて、ピンカートン家の廊下を強行軍よろしくズンズカズンズカ進んで行く。
「エレノア!」
部屋を飛び出してから無視していたジュリアンの声がいよいよ迷惑な大きさになって、ピタリと足を止め振り返る。幸い廊下には他に誰もいなかった。彼が宛がわれた部屋は賓客室で、この廊下にはそういう部屋が並んでいる。ジュリアン以外の客人は現在おらず、呼ばれない限りは使用人もほとんど立ち寄らないからだろう。
立ち止まったエレノア同様足を止めた彼はつい先程まで病人(ただし仮病)だったので、前で合わせて腰帯で留めるだけの薄い病人服姿だ。
「エレノア、ええとその……」
普段あまり声を荒らげない彼は廊下に響いた自身の声の大きさを自覚したのか、エレノアと目を合わせるとどこか気まずげな顔をした。もちろんその表情の理由はそれだけではなかった。
言葉を迷うようにして口を開こうとする……がその前にエレノアが叫んだ。
「ああっその手!」
「手?」
ジュリアンは包帯が巻かれた方の手に目をやって「ああ」と小さなささくれでもあったかのような反応を見せた。
白かった包帯には少し滲んだ赤が見える。
「ジュリアンの大馬鹿っ! 無理して使ったから傷口開いちゃったんじゃないのそれ! 折角綺麗に巻いたばっかりなのに……知らないっ。自分で消毒して巻き直してよね!」
「あっ」
エレノアはぷいっと再び前を向くと荒い足取りで離れた。
再開された追いかけっこ。
いくら呼びかけてもより頑なに耳を貸さないのに業を煮やしたのか、ジュリアンに追い抜かれ通せんぼされる。
睨んで横を通り過ぎようとしたら、やんわりとだが腕を摑まれ引き留められた。
「待って。その…さ、君の気持ちを考えてなかった、ごめん」
何も答えずにいると困ったように見つめられる。
「……そんなに嫌だった?」
「……っ、い、嫌とかそういうのじゃなくて!」
何か文句をぶつけたいのをエレノアは必死に堪えた。
というのも、口に出したらそれこそ文句にはならない気がした。
(反省の色は見えるけど、その顔に弱いって知っててやってるの? その手には乗らないんだから)
絆されそうになって慌てて目を逸らす。
エレノアはジュリアンの知らなかった一面を……いや二面三面くらいを目の当たりにして、彼への認識を改めつつあった。ミレーユが知ったらきっと「ざまあっ」と諸手を上げて大喜びした事だろう。
(ジュリアンって目的のためには無理を通すし手段を選ばないかもって思ったけど、私を甘やかす時もそれって、もう何なのーッ! 私たち今は婚約者同士じゃないのにーッ、また婚約させて下さいってクレイトンのおじ様とおば様に謝ってもいないのにーッ)
嬉しいけれど腹立たしい。
エレノアの胸中にはそんな感情が渦巻いていた。
ここは一度きっちり釘を刺しておこうと息巻いた時だ。
「あらエレノアにクレイトン様、どうしたんですのこんな廊下で? クレイトン様はもう起きて歩いて平気なんですの? 今部屋に行こうと思っていたのですけれど」
「アメリア……、クレマチス……」
行儀指導のレッスンが終わったのか、ジュリアンの肩の向こうからこちらへと歩いて来る親友と乳母の姿を認め、エレノアは手を振り払って駆け出した。
「アメリアーーーーッ!」
胸に飛び込むようにして抱き付くと何だか安心して、我慢していたものが一気に溢れた。
一方、自分に縋りつき目を潤ませるエレノアのただならぬ様子に、アメリアはいつになく目を白黒させた。
「い、一体どうしたんですの!?」
事情を知るのであろうジュリアンを見やると、彼は不自然に目を泳がせた。
アメリアは閃くものがあった。
「ちょっとクレイトン様、まさかエレノアに酷い事を言ったんですの? 彼女なりにずっとあなたに詫びる気持ちを抱き続けてたんですのよ。ご自身だけが辛いからって過去の事で彼女を責め立てたんですの?」
「えっ、いや……」
「ジュリアン様、ご説明いただけますか? その件につきましてはわたくしにも咎があります。お嬢様お一人だけが責められるべきではないのです」
事の顛末を聞かされているクレマチスも難しい顔付きで彼に詰め寄った。
「アメリア、クレマチス、違うの、ジュリアンはその事では全然私を責めずに赦してくれたの」
「んまあ、さすがはクレイトン様ね。けれど、でしたら何があったんですの?」
鼻を啜るエレノアは言葉を詰まらせ中々話そうとしない。
「ええと、悪いけどこれはプライベートな問題だから」
と言葉を挟んだジュリアンだったが、好きな子の友人とその乳母から「だから?」というような目で一瞥されただけだった。切ない。
「エレノア、言ってくれないと何か力になろうと思ってもなれないですわ」
「そうですよ、エレノアお嬢様」
「ううぅ、でも……」
「エレノア」
「お嬢様」
「だけど……」
「大船に乗ったつもりで遠慮なく言って頂戴! 力になりますわ!」
「これまでのように、微力ながらお支え致します」
「ありがとう二人共おぉ……」
何度かそんなやり取りを繰り返し、エレノアはついに小さな声で白状した。
「二人にだから言うのよ。その、ジュリアンがね……」
それでも羞恥から声が小さい彼女の口元にアメリアとクレマチスは耳を近付ける。
「その、ね、ジュリアンが……無理やり挿れてくるんだもの」
「「…………」」
大事な少女からの蚊の鳴くような訴えに、アメリアとクレマチスは無言でジュリアンの服装に目をやった。病人だから……寝間着。脱ぐのは簡単過ぎるほどに簡単そうだ。
視線の種類と温度が極寒地獄並みに厳しくなる。
「や、誤解だよ。まだそこまでしてないから!」
ジュリアンの弁明は最早完全にノイズだ。
「クレイトン様……人ん家で何をおヤりになったんですの?」
「……ジュリアン様、わたくしの目がない間に何をヤっていたのです?」
ジュリアンに究極の槍のような視線が突き刺さる。これはもう何を言っても無駄そうで、本物のナイフで脅された時の方がマシだったかもと彼は諦めの境地で密かに思った。
「あっそうだわ、心配しなくてもジュリアンの毒は大丈夫だから。本当は解毒薬で治ってたみたい」
「「…………」」
「それ、火に油だよ……」
親切心が逆効果などとは微塵も気付かないエレノアだ。
頭を抱えたそうな面持ちのジュリアンの前で、黙りこんでいたアメリアが「クッククク…」と不気味に肩を揺らした。
「大層手の込んだ芝居でしたわね、クレイトン様。憐れな姿で同情を誘った上にエレノアの後ろめたさにつけ込んで腕力に任せた……と」
「ちょっ本当に違うから!」
「最ッッッ低ですわね! 万一子供が出来てたらどうするんですの?」
「――すぐにエレノアを正式な妻にする!」
アメリアの低い詰問に、冷や汗を滲ませていたジュリアンは天晴な程に即答した。しかも力説もいい所だった。この場にヴィセラスがいたなら「こいつアホだな」とげんなりしたかもしれない。
「その態度には感心ですけれど、相手が望まない行為を無理強いするのはやっぱり感心できませんわ! 既成事実を作ればエレノアが即結婚に応じると思っているのでしたら、このピンカートン家の総力を挙げてお邪魔虫に徹しますので肝に銘じておいて下さいませね」
いつもなら巷の恋愛小説を読みながら「きゃああ破廉恥展開ですわ! でも何でそこで押し倒さないんですの!」なんて騒ぐ彼女も、現実的な深刻さの前では冷静さの方が上回るようだ。
「お嬢様、わたくしは何があってもあなたの味方ですよ」
クレマチスまでが労わりの優しい双眸で語りかけてくる。
「ほら、アメリアだってクレマチスだってこんなに怒ってくれてるわ。やっぱり順序ってものがあるのよ。あんなエロエロなのまだ駄目って言ったのに」
真っ赤になって必死に訴えるエレノアの様子に、ジュリアンは無理して渋いような顔付きでいたが、とうとう我慢できなくなって噴き出した。
慌てて弛む口元を手で隠して誤魔化す。
「ジュリアンってばどうして笑うのよ!」
「そうですわよクレイトン様、何にやけているんですの?」
「同感です。笑い事ではないでしょうに」
淑女三人から睨まれて、この場で唯一の紳士はやっぱりどうあっても漏れてしまう嬉しさを隠し切れずに、含み笑いのまま最愛の少女を見つめた。
「だってさ、――ディープキス一つでここまで狼狽えるって……可愛すぎ」
アメリアとクレマチスが拍子抜けしたような顔付きになった。
またもや奇妙な空白が生まれる。
「……エレノア、挿れられたというのは、その……口に舌を?」
「そっそうなの。どうしようアメリア~、あんなの…あんなのおおぉ~~~~っ」
どこかホッとしたようにも思える空気が流れるのも気付かずに、エレノアだけは恥ずかしさに耳まで染めてぎゅうっと友人に抱き付く腕に力を入れる。
「ジュリアン様、早とちりしてしまい申し訳ありませんでしたね。そちらだったとは……。ですがそれでもエレノアお嬢様からすれば十分過激でしょうけれど」
「私も勘違いして申し訳なかったですわ。けれどエレノアの気持ちを蔑ろにしたらただではおきませんわよ? 世界一大事にしないと……他の殿方をエレノアに沢山紹介しますわね」
「ハハ……それは嫌だなあ」
アメリアの本気を感じ、乾いた笑いを浮かべるジュリアンだ。
エレノアはアメリアの思いやりにジーンときた。
そして、自分の中に培われた恋愛についての常識を思い出す。
「ジュリアン、父様からはいつも『男女交際は清く正しくゆっくりと』って言われてたわ」
最後が多少おかしな標語に、ジュリアンはそこはかとなく嫌な予感がした。
「だからそれをきちんと実践して婚約復活までは、ベ、ベ、ベロチュー禁止!」
「そんな……」
衝撃を受けて一歩よろめくジュリアン。
アメリアもクレマチスも同情的……ではなく酷く冷めた目で彼を見ていた、
「クレイトン様、白々しいですわよその演技」
「ジュリアン様ならディープキス一つ禁止された所で支障などないでしょうに」
そこは否定しないジュリアンは、ふとエレノアの様子に目を止めた。
「ところでエレノア、足腰ぷるぷるしてるみたいだけど?」
「――ッ!」
少し引いていた頬の赤みが瞬時にMAXになった。
言われて気付いたアメリアもクレマチスも不思議そうに見てくる。
「どうしたんだい? まさか気分が?」
「ち、違っ。大丈夫これはその……っ、口に出したらさっきのキスを思い出しちゃったの! あああもう私ってこんなに破廉恥な人間だったなんて恥ずかしい~ッ」
自分で「ベロチュー」と発言して腰砕けな甘い記憶がリアルに蘇ったらしい。アメリアにずっと抱きついたまま離れないのは気を抜けばヘタり込みそうだったからだ。
「…………いやもうホント、辛い」
目を逸らし口元に手をやったジュリアンがどうしようもない衝動を堪えるように大きな息を吐く。アメリアとクレマチスが今度は同情的な目になった。
そのまましばし沈黙していたが、彼は腹を括ったような顔でスッと歩み寄ると軽々とエレノアを横抱きにする。侍女用の控えめなドレスの裾がふわりと風を齎した。
「なっ、ジュリアン!? 手に響くわよ!」
「大丈夫、手首で押さえてるから」
「でもっ」
「だって僕のせいだし? 転ばれても不本意だ。君の部屋まで運んでいくよ」
からりと笑む余裕にエレノアは怨ずるような眼差しを向けた。
「ひ、人の気も知らないで」
「……それはこっちの台詞」
怪訝にしたエレノアだったが、やっぱり気になるのはジュリアンの手の怪我だ。
仕方がないと我知らず小さな嘆息が出る。結局自分は冷淡にはなれない。
(惚れた弱みって言われればそうなのかしらね)
「ジュリアン、あなたの部屋に戻って。包帯巻き直すから」
「いいの?」
「怒ってないわけじゃないんだから。また変な事したらもう知らないし」
状況の収束を予期してやれやれと顔を見合わせる友人と乳母。
ジュリアンが喜んだようにはにかんで、擦り寄るようにおでこをくっ付けて来た。
至近で眼差しが絡み合う。
「うん、強引にして、ごめん」
「……馬鹿……」
その声にさっきまでの非難の色は一つもなかった。
エレノアはどんぐりをいっぱい詰め込んだリスのように頬を膨らませて、ピンカートン家の廊下を強行軍よろしくズンズカズンズカ進んで行く。
「エレノア!」
部屋を飛び出してから無視していたジュリアンの声がいよいよ迷惑な大きさになって、ピタリと足を止め振り返る。幸い廊下には他に誰もいなかった。彼が宛がわれた部屋は賓客室で、この廊下にはそういう部屋が並んでいる。ジュリアン以外の客人は現在おらず、呼ばれない限りは使用人もほとんど立ち寄らないからだろう。
立ち止まったエレノア同様足を止めた彼はつい先程まで病人(ただし仮病)だったので、前で合わせて腰帯で留めるだけの薄い病人服姿だ。
「エレノア、ええとその……」
普段あまり声を荒らげない彼は廊下に響いた自身の声の大きさを自覚したのか、エレノアと目を合わせるとどこか気まずげな顔をした。もちろんその表情の理由はそれだけではなかった。
言葉を迷うようにして口を開こうとする……がその前にエレノアが叫んだ。
「ああっその手!」
「手?」
ジュリアンは包帯が巻かれた方の手に目をやって「ああ」と小さなささくれでもあったかのような反応を見せた。
白かった包帯には少し滲んだ赤が見える。
「ジュリアンの大馬鹿っ! 無理して使ったから傷口開いちゃったんじゃないのそれ! 折角綺麗に巻いたばっかりなのに……知らないっ。自分で消毒して巻き直してよね!」
「あっ」
エレノアはぷいっと再び前を向くと荒い足取りで離れた。
再開された追いかけっこ。
いくら呼びかけてもより頑なに耳を貸さないのに業を煮やしたのか、ジュリアンに追い抜かれ通せんぼされる。
睨んで横を通り過ぎようとしたら、やんわりとだが腕を摑まれ引き留められた。
「待って。その…さ、君の気持ちを考えてなかった、ごめん」
何も答えずにいると困ったように見つめられる。
「……そんなに嫌だった?」
「……っ、い、嫌とかそういうのじゃなくて!」
何か文句をぶつけたいのをエレノアは必死に堪えた。
というのも、口に出したらそれこそ文句にはならない気がした。
(反省の色は見えるけど、その顔に弱いって知っててやってるの? その手には乗らないんだから)
絆されそうになって慌てて目を逸らす。
エレノアはジュリアンの知らなかった一面を……いや二面三面くらいを目の当たりにして、彼への認識を改めつつあった。ミレーユが知ったらきっと「ざまあっ」と諸手を上げて大喜びした事だろう。
(ジュリアンって目的のためには無理を通すし手段を選ばないかもって思ったけど、私を甘やかす時もそれって、もう何なのーッ! 私たち今は婚約者同士じゃないのにーッ、また婚約させて下さいってクレイトンのおじ様とおば様に謝ってもいないのにーッ)
嬉しいけれど腹立たしい。
エレノアの胸中にはそんな感情が渦巻いていた。
ここは一度きっちり釘を刺しておこうと息巻いた時だ。
「あらエレノアにクレイトン様、どうしたんですのこんな廊下で? クレイトン様はもう起きて歩いて平気なんですの? 今部屋に行こうと思っていたのですけれど」
「アメリア……、クレマチス……」
行儀指導のレッスンが終わったのか、ジュリアンの肩の向こうからこちらへと歩いて来る親友と乳母の姿を認め、エレノアは手を振り払って駆け出した。
「アメリアーーーーッ!」
胸に飛び込むようにして抱き付くと何だか安心して、我慢していたものが一気に溢れた。
一方、自分に縋りつき目を潤ませるエレノアのただならぬ様子に、アメリアはいつになく目を白黒させた。
「い、一体どうしたんですの!?」
事情を知るのであろうジュリアンを見やると、彼は不自然に目を泳がせた。
アメリアは閃くものがあった。
「ちょっとクレイトン様、まさかエレノアに酷い事を言ったんですの? 彼女なりにずっとあなたに詫びる気持ちを抱き続けてたんですのよ。ご自身だけが辛いからって過去の事で彼女を責め立てたんですの?」
「えっ、いや……」
「ジュリアン様、ご説明いただけますか? その件につきましてはわたくしにも咎があります。お嬢様お一人だけが責められるべきではないのです」
事の顛末を聞かされているクレマチスも難しい顔付きで彼に詰め寄った。
「アメリア、クレマチス、違うの、ジュリアンはその事では全然私を責めずに赦してくれたの」
「んまあ、さすがはクレイトン様ね。けれど、でしたら何があったんですの?」
鼻を啜るエレノアは言葉を詰まらせ中々話そうとしない。
「ええと、悪いけどこれはプライベートな問題だから」
と言葉を挟んだジュリアンだったが、好きな子の友人とその乳母から「だから?」というような目で一瞥されただけだった。切ない。
「エレノア、言ってくれないと何か力になろうと思ってもなれないですわ」
「そうですよ、エレノアお嬢様」
「ううぅ、でも……」
「エレノア」
「お嬢様」
「だけど……」
「大船に乗ったつもりで遠慮なく言って頂戴! 力になりますわ!」
「これまでのように、微力ながらお支え致します」
「ありがとう二人共おぉ……」
何度かそんなやり取りを繰り返し、エレノアはついに小さな声で白状した。
「二人にだから言うのよ。その、ジュリアンがね……」
それでも羞恥から声が小さい彼女の口元にアメリアとクレマチスは耳を近付ける。
「その、ね、ジュリアンが……無理やり挿れてくるんだもの」
「「…………」」
大事な少女からの蚊の鳴くような訴えに、アメリアとクレマチスは無言でジュリアンの服装に目をやった。病人だから……寝間着。脱ぐのは簡単過ぎるほどに簡単そうだ。
視線の種類と温度が極寒地獄並みに厳しくなる。
「や、誤解だよ。まだそこまでしてないから!」
ジュリアンの弁明は最早完全にノイズだ。
「クレイトン様……人ん家で何をおヤりになったんですの?」
「……ジュリアン様、わたくしの目がない間に何をヤっていたのです?」
ジュリアンに究極の槍のような視線が突き刺さる。これはもう何を言っても無駄そうで、本物のナイフで脅された時の方がマシだったかもと彼は諦めの境地で密かに思った。
「あっそうだわ、心配しなくてもジュリアンの毒は大丈夫だから。本当は解毒薬で治ってたみたい」
「「…………」」
「それ、火に油だよ……」
親切心が逆効果などとは微塵も気付かないエレノアだ。
頭を抱えたそうな面持ちのジュリアンの前で、黙りこんでいたアメリアが「クッククク…」と不気味に肩を揺らした。
「大層手の込んだ芝居でしたわね、クレイトン様。憐れな姿で同情を誘った上にエレノアの後ろめたさにつけ込んで腕力に任せた……と」
「ちょっ本当に違うから!」
「最ッッッ低ですわね! 万一子供が出来てたらどうするんですの?」
「――すぐにエレノアを正式な妻にする!」
アメリアの低い詰問に、冷や汗を滲ませていたジュリアンは天晴な程に即答した。しかも力説もいい所だった。この場にヴィセラスがいたなら「こいつアホだな」とげんなりしたかもしれない。
「その態度には感心ですけれど、相手が望まない行為を無理強いするのはやっぱり感心できませんわ! 既成事実を作ればエレノアが即結婚に応じると思っているのでしたら、このピンカートン家の総力を挙げてお邪魔虫に徹しますので肝に銘じておいて下さいませね」
いつもなら巷の恋愛小説を読みながら「きゃああ破廉恥展開ですわ! でも何でそこで押し倒さないんですの!」なんて騒ぐ彼女も、現実的な深刻さの前では冷静さの方が上回るようだ。
「お嬢様、わたくしは何があってもあなたの味方ですよ」
クレマチスまでが労わりの優しい双眸で語りかけてくる。
「ほら、アメリアだってクレマチスだってこんなに怒ってくれてるわ。やっぱり順序ってものがあるのよ。あんなエロエロなのまだ駄目って言ったのに」
真っ赤になって必死に訴えるエレノアの様子に、ジュリアンは無理して渋いような顔付きでいたが、とうとう我慢できなくなって噴き出した。
慌てて弛む口元を手で隠して誤魔化す。
「ジュリアンってばどうして笑うのよ!」
「そうですわよクレイトン様、何にやけているんですの?」
「同感です。笑い事ではないでしょうに」
淑女三人から睨まれて、この場で唯一の紳士はやっぱりどうあっても漏れてしまう嬉しさを隠し切れずに、含み笑いのまま最愛の少女を見つめた。
「だってさ、――ディープキス一つでここまで狼狽えるって……可愛すぎ」
アメリアとクレマチスが拍子抜けしたような顔付きになった。
またもや奇妙な空白が生まれる。
「……エレノア、挿れられたというのは、その……口に舌を?」
「そっそうなの。どうしようアメリア~、あんなの…あんなのおおぉ~~~~っ」
どこかホッとしたようにも思える空気が流れるのも気付かずに、エレノアだけは恥ずかしさに耳まで染めてぎゅうっと友人に抱き付く腕に力を入れる。
「ジュリアン様、早とちりしてしまい申し訳ありませんでしたね。そちらだったとは……。ですがそれでもエレノアお嬢様からすれば十分過激でしょうけれど」
「私も勘違いして申し訳なかったですわ。けれどエレノアの気持ちを蔑ろにしたらただではおきませんわよ? 世界一大事にしないと……他の殿方をエレノアに沢山紹介しますわね」
「ハハ……それは嫌だなあ」
アメリアの本気を感じ、乾いた笑いを浮かべるジュリアンだ。
エレノアはアメリアの思いやりにジーンときた。
そして、自分の中に培われた恋愛についての常識を思い出す。
「ジュリアン、父様からはいつも『男女交際は清く正しくゆっくりと』って言われてたわ」
最後が多少おかしな標語に、ジュリアンはそこはかとなく嫌な予感がした。
「だからそれをきちんと実践して婚約復活までは、ベ、ベ、ベロチュー禁止!」
「そんな……」
衝撃を受けて一歩よろめくジュリアン。
アメリアもクレマチスも同情的……ではなく酷く冷めた目で彼を見ていた、
「クレイトン様、白々しいですわよその演技」
「ジュリアン様ならディープキス一つ禁止された所で支障などないでしょうに」
そこは否定しないジュリアンは、ふとエレノアの様子に目を止めた。
「ところでエレノア、足腰ぷるぷるしてるみたいだけど?」
「――ッ!」
少し引いていた頬の赤みが瞬時にMAXになった。
言われて気付いたアメリアもクレマチスも不思議そうに見てくる。
「どうしたんだい? まさか気分が?」
「ち、違っ。大丈夫これはその……っ、口に出したらさっきのキスを思い出しちゃったの! あああもう私ってこんなに破廉恥な人間だったなんて恥ずかしい~ッ」
自分で「ベロチュー」と発言して腰砕けな甘い記憶がリアルに蘇ったらしい。アメリアにずっと抱きついたまま離れないのは気を抜けばヘタり込みそうだったからだ。
「…………いやもうホント、辛い」
目を逸らし口元に手をやったジュリアンがどうしようもない衝動を堪えるように大きな息を吐く。アメリアとクレマチスが今度は同情的な目になった。
そのまましばし沈黙していたが、彼は腹を括ったような顔でスッと歩み寄ると軽々とエレノアを横抱きにする。侍女用の控えめなドレスの裾がふわりと風を齎した。
「なっ、ジュリアン!? 手に響くわよ!」
「大丈夫、手首で押さえてるから」
「でもっ」
「だって僕のせいだし? 転ばれても不本意だ。君の部屋まで運んでいくよ」
からりと笑む余裕にエレノアは怨ずるような眼差しを向けた。
「ひ、人の気も知らないで」
「……それはこっちの台詞」
怪訝にしたエレノアだったが、やっぱり気になるのはジュリアンの手の怪我だ。
仕方がないと我知らず小さな嘆息が出る。結局自分は冷淡にはなれない。
(惚れた弱みって言われればそうなのかしらね)
「ジュリアン、あなたの部屋に戻って。包帯巻き直すから」
「いいの?」
「怒ってないわけじゃないんだから。また変な事したらもう知らないし」
状況の収束を予期してやれやれと顔を見合わせる友人と乳母。
ジュリアンが喜んだようにはにかんで、擦り寄るようにおでこをくっ付けて来た。
至近で眼差しが絡み合う。
「うん、強引にして、ごめん」
「……馬鹿……」
その声にさっきまでの非難の色は一つもなかった。
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