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第二十七話 この上なくも、相思相愛1
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相手がそこらの男なら、エレノアはきっとめったんめったんのぎったんぎったんに罵られて反吐を掛けられていただろう。
なのに元婚約者からは嫌な言葉一つ聞こえてきた試しはない。
正体を隠していた時でさえ、彼は悪意のある言葉を吐かなかった。
一度でも二度でも三度でもそれ以上でも、エレノアはジュリアンに心からの謝罪を告げなければならない。いや義務ではなく希望だ。告げたかった。
――そういうわけで、只今エレノアは床に絶賛土下座中だったりする。
話をしようと促して向こうも同意するや、彼女は「今までごめんなさい!」とこの通り謝意を表したのだ。
「エレノア……」
じっとエレノアのつむじを見つめたままのジュリアンは、それ以上何も言わない。
度肝を抜かれ掛ける言葉が浮かばないのかもしれない。
顔を伏せたエレノアには見えないが、何でこうなったと言わんばかりの唖然とした表情である。
(ううぅ、沈黙が痛い……っ)
ジュリアンは優しいからきっと自分を責めない。けれどそれでは駄目なのだ。そんな甘やかされてしまっては。
「はあ、気持ちはよくわかったから顔を上げて。床じゃ汚れるよ」
絨毯敷きの床は毎日綺麗に清掃されていて塵一つないが、ジュリアンが促してくるのでおずおずとそうした。
(声が固いのはさすがに気分を害してるから――へ?)
エレノアは一瞬自分の認識を疑った。
彼は堪えるように口元に拳を当てて小刻みに肩を震わせていた。
「ええと、ジュリアン……?」
「い、いきなり土下座って……ハハッ。僕が何かやらかして君に赦しを乞う姿なら想像もつくけど、まさか君から土下座をされようとは思わないじゃないか」
くすくすと笑う様に、気が抜ける。
立ち上がってベッド脇の椅子にトスンと腰かけた。
「何だ、椅子に行っちゃうの?」
まだ笑いの余韻を残す彼は手当て時よりも距離が開いたのを残念そうにした。
エレノアは思わず溜息を零した。
「ジュリアン、私は今までの事を本当に悪いと思ってるわ。だからそうやってわざと茶化してくれても罪悪感は拭えない。だけど、ありがとう」
「……過ぎた話は本当にいいんだ。君ばかりが僕に謝罪する必要はないよ。僕は君と偶然にもあんな形で再会する前に、もっと能動的に動くべきだった。ごめん」
「ジュリアンがそんな風に自分まで悪いみたいに言うのは違うわ。元は私の未熟な決断が招いた事態だもの。今だから言えるわ、私は絶対的に間違ってた。無責任で身勝手だったの」
悔恨に俯くエレノアの耳に、そっと顔を上げさせるような声が届く。
「本当に、もういいんだよエレノア。僕の望みの一つは、これからの君が今みたいな顔をしない事だから」
変わらない柔らかな声音に切なさが込み上げる。
どこまでも優しくて、自分を甘やかす人。
そんな人をこんな目に遭わせてしまっている現状が酷く苦しい。
嫌になる。
逃げたい。
「あなたがそう言ってくれるなら……わかったわ。じゃあそうする」
エレノアは大きく息を吸って背筋を伸ばした。
過去への謝罪とは異なる点で、エレノアにはジュリアンに言わなければならない「ごめん」があるのだ。
「ジュリアン、私をずっとあなたの心に留めてくれてありがとう。正直愛想を尽かされてるかなって思ってたからとても驚いたし嬉しかった」
自分の胸の上に両手を重ねて形のない温かなものに触れるようにした。
「ただ、正体を隠したのもあなたが怪我を負ったのも心苦しく思ってる。全部全部、私のせい。本当の本当にあなたを危険な目になんて遭わせたくない、これはわかってね」
重ねた両手に僅かに力を込めて真っ直ぐひたむきな目を向ける。
彼は、何らかの意図を汲み取ったかのようにハッとして大きく目を瞠った。
「だから――ごめんなさい、ジュリアン。私はあなたに…」
「――嫌だ」
声を荒らげたわけでもないのに強い口調だった。
俯いての拒絶の言葉に、台詞を遮られたエレノアはパチパチと瞬いた。
「それ以上は、聞かない。そんな話は、聞かない」
痛みでも堪えるように低く押し殺された声音に、まさかどこか具合が悪くなったのかとエレノアは青くなる。
慌てて椅子から腰を上げ、まだ表情の隠れるジュリアンを覗き込む。
「大丈夫? どこか痛む…」
エレノアの言葉は、今度は何も言われずとも途切れた。
顔を上げた彼からの熱いような眼差しに心を絡め取られて動けなかった。伸びてきた手に驚いたのも束の間、視界は反転し天井が見えた。背中には柔らかな寝具の感触。
(……え?)
自分を覗き込むジュリアンの青い瞳は、何か特別な魔力でも秘められたかのようにより鮮やかで、こちらが一ミリでも逸らす事を許さない気がした。
見つめられているだけなのに心臓が高鳴ってエレノアの緑瞳が大きく揺れる。
状況の急転に頭が追い付かない。
「あ、あのジュリアン、そんな急な動きして体調は大丈夫なの? 具合無理しない方が」
何か言わなければと焦って口を開けば、彼はちょっと困ったように微笑んだ。
「君はこんな状況でも僕の心配をしてくれるんだね」
「そんなの当然…」
「――嘘だよ」
「へ?」
「まだ毒が抜けないなんてのは大嘘。もうあの晩の解毒薬で翌日の朝にはすっかり良くなってた」
にっこりとするその確信犯な笑みにエレノアはぽかんとした。
つまりジュリアンの体調はもう何ともないという事だ。
緊張していた体から力が抜ける。
「よ…かった……それなら、良かったぁ……」
本当はここ数日彼にどこか不調が残ったらどうしようと心配で堪らなかったエレノアは、ホッとし過ぎて薄ら涙を滲ませた。
自分を見下ろすジュリアンが瞳を揺らす。
「君はホントに……」
彼は項垂れるようにしてエレノアの肩口に額を埋めてくるや、心底悔やむような囁きを零した。
「自分の幼稚さが嫌になる。ちょっとした意趣返しのつもりで軽く考えてたのに、ごめん」
エレノアは苦笑を浮かべた。
「いいの。これでお相子って事にしましょ? なんて図々しいかしら」
「……怒らないんだ?」
不安そうな眼差しがごく近い距離にある。
「怒れないわ。だってこれでチャラだったら、正直私の方が大目に見てもらってるもの」
「ふっ、はは、確かにそうかも」
「それに何より、あなたが良くなってたのが何よりも嬉しいから」
小さくはにかむと、向こうも釣られたように笑った。
どこか鋭かった雰囲気が和らいで内心安堵が湧く。
(でも絆される前に言うこと言わないと!)
恥ずかしさに耐えて真っ直ぐに見据える。
「あのジュリアン、私は…」
「嫌だ。話の続きなら、聞かない」
まただ。
「お願い、大事な事なの」
すると彼は眉根を寄せて責めるような目をした。
「前振りで何となく察しが付いてるよ。君は性懲りもなくまた僕から距離を置くつもりだろう? 僕を君の危険に巻き込まないように。けどね、そんなのは真っ平御免なんだよ」
「えっ」
「僕のために良かれと思ってるんだろうけど、切り捨てられるのと一緒だよ」
「あの、ジュリアン…」
「贅沢は言わない、どんな形でも我慢する……つもりだった。でも友人としてさえも傍にいられないなら、僕は今すぐ君の全てを奪って、君から他の縁談の道を全て取り上げて僕しかいないようにする事だって厭わないし、鍵をかけてずっと部屋に閉じ込めてしまうのだって出来る」
冗談には聞こえない凄味があってエレノアはギョッとして息を呑んだ。
「僕が怖い? 酷い男に見える? ……いいよ、軽蔑しても。それでも君を手放す気はないから」
彼はそんな自分自身を持て余しどうしようもなく幻滅するような顔で、ふっと泣きそうに微笑した。
過ぎた事はもういいからと柔らかく笑ったのと同じ人の、その見た事もない悲しげな表情に、本当はこんなにも追い詰めていたのだと悟った。
優しい心をズタズタに引き裂いて、手当てもせずにエレノアは放置していたのだ。
胸が張り裂けそうで涙が溢れた。
泣くなんて卑怯だと思うのに、止まらない。
泣かせてごめん、とジュリアンが涙を指で拭ってくれる。そんな優しさが痛い。
「僕はね、君の事で蚊帳の外に置かれるのも、失いそうになるのももう沢山なんだ」
「失い…そう……?」
「二度と誰かを庇って銃口の前に立とうなんてしないでくれ」
「あ……」
宰相からフォックスを庇った時だ。あの時は咄嗟の行動で危険なんて考えていなかった。
「心臓が止まるかと思ったよ。無事だったのは幸運に過ぎない。もし君が撃たれていたら……僕は君なしじゃ生きていけないってわかってる? 恋人じゃなくても、君がこの同じ空の下に居てくれてるって思うから僕はこの世界を信じてられるんだよ。会えない間だってそうだった」
熱烈な愛の告白。
エレノアも彼の想いの深さに胸が締め付けられた。
だが反面で言いようのない恐れも感じた。
(この人は愛情深い人。でも、それゆえに危いのかもしれない)
ナイフの刃を摑んだのも、その表れだろう。彼は目的のためなら時に体面や常識すらも無視する。そして時に自分自身の安全すらも。
それは一歩踏み間違えれば奈落の底の、宰相グレーウォールと同じ所に堕ちてしまうだろう危うさだ。
実際にそんな事態になってしまう日が来たらと思うと、とても怖かった。
無防備に背を丸め、あったかもしれなかった喪失の恐れを堪えるジュリアンの僅かに震える背中に腕を回した。
彼の歯止めは、楔は、きっとエレノアだ。
「追い詰めて、ごめんなさい」
ピクリと一度小さく痙攣しただけで、彼は何も言わない。
エレノアの抱擁に身を任せてくれるのか、ベッドに突いていた腕から力を抜き体重を預けてきた。
「ごめんなさい、あなたにここまで酷い言葉を言わせたのは私だわ。だからジュリアン……本当にごめんね……?」
彼が絶望してしまわないように、そして大切な人だからこそ傍に居たい、護りたいと思う。
我知らず、エレノアの腕に力が籠っていた。
「お願いジュリアン、私の決意をちゃんと聞いて」
窓からの光度が少しさっきよりも下がっている。
日が暮れゆく部屋の静けさが耳に沁みるくらいの間があった。
辛抱強く待っていると「わかった……」とようやく受け入れてくれた。小さな呟きと彼にとっては大きな譲歩に感謝した。
「じゃあ、聞いて……ううん聞いて下さい」
温もりを抱きしめたまま、エレノアは少し呼吸を計った。
「私に、これからのジュリアンの時間を分けて下さい。私はこの瞳のせいであなたの平穏を壊すかもしれない。だけどこれから先、それを承知で私の人生に巻き込まれて下さい!!」
「…………えっ!?」
素っ頓狂な声を上げると同時にがばりと身を起こし、両腕で自身を支えるような格好に戻ったジュリアンがこちらを見下ろした。その顔には超絶予想外という文字しかない。
エレノアは彼の思い違いをすぐに訂正しなかったのを申し訳なく思うものの、本当の心の裡を知れて良かったと思う。
そうでなければ彼は笑顔の仮面の奥にきっと隠してしまっただろうから。
「どうせ一度きりの人生なら、後悔してでもあなたと一緒にいたい」
「だからの、ごめん?」
「そうよ」
「……はっ……はははっ、何だそっか……そういう意味か、ああもう」
すっかり不穏な雰囲気を解いたジュリアンは、腹の底から可笑しいとでも言うように相好を崩すと、エレノアの隣でごろんと横になった。こういう時広いベッドはいい。
そんなホッとしたような笑顔を向けられているのが奇跡のようで、涙がまた目尻に滲む。
「ちゃんと私も好きよ。ジュリアン、あなたが好きなの。傍にいて」
ずっとずっと会えない間も変わらなかった気持ち。
この先もきっとずっと続く気持ち。
彼は蕩けるように甘く両目を細めた。
「うん、傍にいるよ」
少し身を起こしたジュリアンのくすぐったい息が耳元にかかって首を竦めると、囁くような笑みを含んだ声が滑り込む。
「愛してる。……君がいなくて君の幻に堕落する程に」
それは多くの身代わりを求めたという意味だろうか。エレノアが何とも言えない顔をすると、ジュリアンはちょっと申し訳なさそうに、そして幸せそうに笑った。
指先でエレノアの涙をそっと掬いながらついついと言うように額に口付けが落ちる。真っ赤になったエレノアを愛しむようにその唇は瞼に落ち頬を伝う。
「え、あのっちょちょちょっと待ってジュリアンッ」
エレノアの焦りをからかうようにちゅっと吃音を立てて頬から唇を離した彼は、額を合わせ拗ねたように上目遣いで見つめてきた。
「これくらいは許して。今までずっと待ったんだから」
「えっ……――――」
反則技の甘える艶めいた視線にドキリと跳ねる心臓。
二度目の待ったを発する間もなくエレノアの唇は押し切られた。
なのに元婚約者からは嫌な言葉一つ聞こえてきた試しはない。
正体を隠していた時でさえ、彼は悪意のある言葉を吐かなかった。
一度でも二度でも三度でもそれ以上でも、エレノアはジュリアンに心からの謝罪を告げなければならない。いや義務ではなく希望だ。告げたかった。
――そういうわけで、只今エレノアは床に絶賛土下座中だったりする。
話をしようと促して向こうも同意するや、彼女は「今までごめんなさい!」とこの通り謝意を表したのだ。
「エレノア……」
じっとエレノアのつむじを見つめたままのジュリアンは、それ以上何も言わない。
度肝を抜かれ掛ける言葉が浮かばないのかもしれない。
顔を伏せたエレノアには見えないが、何でこうなったと言わんばかりの唖然とした表情である。
(ううぅ、沈黙が痛い……っ)
ジュリアンは優しいからきっと自分を責めない。けれどそれでは駄目なのだ。そんな甘やかされてしまっては。
「はあ、気持ちはよくわかったから顔を上げて。床じゃ汚れるよ」
絨毯敷きの床は毎日綺麗に清掃されていて塵一つないが、ジュリアンが促してくるのでおずおずとそうした。
(声が固いのはさすがに気分を害してるから――へ?)
エレノアは一瞬自分の認識を疑った。
彼は堪えるように口元に拳を当てて小刻みに肩を震わせていた。
「ええと、ジュリアン……?」
「い、いきなり土下座って……ハハッ。僕が何かやらかして君に赦しを乞う姿なら想像もつくけど、まさか君から土下座をされようとは思わないじゃないか」
くすくすと笑う様に、気が抜ける。
立ち上がってベッド脇の椅子にトスンと腰かけた。
「何だ、椅子に行っちゃうの?」
まだ笑いの余韻を残す彼は手当て時よりも距離が開いたのを残念そうにした。
エレノアは思わず溜息を零した。
「ジュリアン、私は今までの事を本当に悪いと思ってるわ。だからそうやってわざと茶化してくれても罪悪感は拭えない。だけど、ありがとう」
「……過ぎた話は本当にいいんだ。君ばかりが僕に謝罪する必要はないよ。僕は君と偶然にもあんな形で再会する前に、もっと能動的に動くべきだった。ごめん」
「ジュリアンがそんな風に自分まで悪いみたいに言うのは違うわ。元は私の未熟な決断が招いた事態だもの。今だから言えるわ、私は絶対的に間違ってた。無責任で身勝手だったの」
悔恨に俯くエレノアの耳に、そっと顔を上げさせるような声が届く。
「本当に、もういいんだよエレノア。僕の望みの一つは、これからの君が今みたいな顔をしない事だから」
変わらない柔らかな声音に切なさが込み上げる。
どこまでも優しくて、自分を甘やかす人。
そんな人をこんな目に遭わせてしまっている現状が酷く苦しい。
嫌になる。
逃げたい。
「あなたがそう言ってくれるなら……わかったわ。じゃあそうする」
エレノアは大きく息を吸って背筋を伸ばした。
過去への謝罪とは異なる点で、エレノアにはジュリアンに言わなければならない「ごめん」があるのだ。
「ジュリアン、私をずっとあなたの心に留めてくれてありがとう。正直愛想を尽かされてるかなって思ってたからとても驚いたし嬉しかった」
自分の胸の上に両手を重ねて形のない温かなものに触れるようにした。
「ただ、正体を隠したのもあなたが怪我を負ったのも心苦しく思ってる。全部全部、私のせい。本当の本当にあなたを危険な目になんて遭わせたくない、これはわかってね」
重ねた両手に僅かに力を込めて真っ直ぐひたむきな目を向ける。
彼は、何らかの意図を汲み取ったかのようにハッとして大きく目を瞠った。
「だから――ごめんなさい、ジュリアン。私はあなたに…」
「――嫌だ」
声を荒らげたわけでもないのに強い口調だった。
俯いての拒絶の言葉に、台詞を遮られたエレノアはパチパチと瞬いた。
「それ以上は、聞かない。そんな話は、聞かない」
痛みでも堪えるように低く押し殺された声音に、まさかどこか具合が悪くなったのかとエレノアは青くなる。
慌てて椅子から腰を上げ、まだ表情の隠れるジュリアンを覗き込む。
「大丈夫? どこか痛む…」
エレノアの言葉は、今度は何も言われずとも途切れた。
顔を上げた彼からの熱いような眼差しに心を絡め取られて動けなかった。伸びてきた手に驚いたのも束の間、視界は反転し天井が見えた。背中には柔らかな寝具の感触。
(……え?)
自分を覗き込むジュリアンの青い瞳は、何か特別な魔力でも秘められたかのようにより鮮やかで、こちらが一ミリでも逸らす事を許さない気がした。
見つめられているだけなのに心臓が高鳴ってエレノアの緑瞳が大きく揺れる。
状況の急転に頭が追い付かない。
「あ、あのジュリアン、そんな急な動きして体調は大丈夫なの? 具合無理しない方が」
何か言わなければと焦って口を開けば、彼はちょっと困ったように微笑んだ。
「君はこんな状況でも僕の心配をしてくれるんだね」
「そんなの当然…」
「――嘘だよ」
「へ?」
「まだ毒が抜けないなんてのは大嘘。もうあの晩の解毒薬で翌日の朝にはすっかり良くなってた」
にっこりとするその確信犯な笑みにエレノアはぽかんとした。
つまりジュリアンの体調はもう何ともないという事だ。
緊張していた体から力が抜ける。
「よ…かった……それなら、良かったぁ……」
本当はここ数日彼にどこか不調が残ったらどうしようと心配で堪らなかったエレノアは、ホッとし過ぎて薄ら涙を滲ませた。
自分を見下ろすジュリアンが瞳を揺らす。
「君はホントに……」
彼は項垂れるようにしてエレノアの肩口に額を埋めてくるや、心底悔やむような囁きを零した。
「自分の幼稚さが嫌になる。ちょっとした意趣返しのつもりで軽く考えてたのに、ごめん」
エレノアは苦笑を浮かべた。
「いいの。これでお相子って事にしましょ? なんて図々しいかしら」
「……怒らないんだ?」
不安そうな眼差しがごく近い距離にある。
「怒れないわ。だってこれでチャラだったら、正直私の方が大目に見てもらってるもの」
「ふっ、はは、確かにそうかも」
「それに何より、あなたが良くなってたのが何よりも嬉しいから」
小さくはにかむと、向こうも釣られたように笑った。
どこか鋭かった雰囲気が和らいで内心安堵が湧く。
(でも絆される前に言うこと言わないと!)
恥ずかしさに耐えて真っ直ぐに見据える。
「あのジュリアン、私は…」
「嫌だ。話の続きなら、聞かない」
まただ。
「お願い、大事な事なの」
すると彼は眉根を寄せて責めるような目をした。
「前振りで何となく察しが付いてるよ。君は性懲りもなくまた僕から距離を置くつもりだろう? 僕を君の危険に巻き込まないように。けどね、そんなのは真っ平御免なんだよ」
「えっ」
「僕のために良かれと思ってるんだろうけど、切り捨てられるのと一緒だよ」
「あの、ジュリアン…」
「贅沢は言わない、どんな形でも我慢する……つもりだった。でも友人としてさえも傍にいられないなら、僕は今すぐ君の全てを奪って、君から他の縁談の道を全て取り上げて僕しかいないようにする事だって厭わないし、鍵をかけてずっと部屋に閉じ込めてしまうのだって出来る」
冗談には聞こえない凄味があってエレノアはギョッとして息を呑んだ。
「僕が怖い? 酷い男に見える? ……いいよ、軽蔑しても。それでも君を手放す気はないから」
彼はそんな自分自身を持て余しどうしようもなく幻滅するような顔で、ふっと泣きそうに微笑した。
過ぎた事はもういいからと柔らかく笑ったのと同じ人の、その見た事もない悲しげな表情に、本当はこんなにも追い詰めていたのだと悟った。
優しい心をズタズタに引き裂いて、手当てもせずにエレノアは放置していたのだ。
胸が張り裂けそうで涙が溢れた。
泣くなんて卑怯だと思うのに、止まらない。
泣かせてごめん、とジュリアンが涙を指で拭ってくれる。そんな優しさが痛い。
「僕はね、君の事で蚊帳の外に置かれるのも、失いそうになるのももう沢山なんだ」
「失い…そう……?」
「二度と誰かを庇って銃口の前に立とうなんてしないでくれ」
「あ……」
宰相からフォックスを庇った時だ。あの時は咄嗟の行動で危険なんて考えていなかった。
「心臓が止まるかと思ったよ。無事だったのは幸運に過ぎない。もし君が撃たれていたら……僕は君なしじゃ生きていけないってわかってる? 恋人じゃなくても、君がこの同じ空の下に居てくれてるって思うから僕はこの世界を信じてられるんだよ。会えない間だってそうだった」
熱烈な愛の告白。
エレノアも彼の想いの深さに胸が締め付けられた。
だが反面で言いようのない恐れも感じた。
(この人は愛情深い人。でも、それゆえに危いのかもしれない)
ナイフの刃を摑んだのも、その表れだろう。彼は目的のためなら時に体面や常識すらも無視する。そして時に自分自身の安全すらも。
それは一歩踏み間違えれば奈落の底の、宰相グレーウォールと同じ所に堕ちてしまうだろう危うさだ。
実際にそんな事態になってしまう日が来たらと思うと、とても怖かった。
無防備に背を丸め、あったかもしれなかった喪失の恐れを堪えるジュリアンの僅かに震える背中に腕を回した。
彼の歯止めは、楔は、きっとエレノアだ。
「追い詰めて、ごめんなさい」
ピクリと一度小さく痙攣しただけで、彼は何も言わない。
エレノアの抱擁に身を任せてくれるのか、ベッドに突いていた腕から力を抜き体重を預けてきた。
「ごめんなさい、あなたにここまで酷い言葉を言わせたのは私だわ。だからジュリアン……本当にごめんね……?」
彼が絶望してしまわないように、そして大切な人だからこそ傍に居たい、護りたいと思う。
我知らず、エレノアの腕に力が籠っていた。
「お願いジュリアン、私の決意をちゃんと聞いて」
窓からの光度が少しさっきよりも下がっている。
日が暮れゆく部屋の静けさが耳に沁みるくらいの間があった。
辛抱強く待っていると「わかった……」とようやく受け入れてくれた。小さな呟きと彼にとっては大きな譲歩に感謝した。
「じゃあ、聞いて……ううん聞いて下さい」
温もりを抱きしめたまま、エレノアは少し呼吸を計った。
「私に、これからのジュリアンの時間を分けて下さい。私はこの瞳のせいであなたの平穏を壊すかもしれない。だけどこれから先、それを承知で私の人生に巻き込まれて下さい!!」
「…………えっ!?」
素っ頓狂な声を上げると同時にがばりと身を起こし、両腕で自身を支えるような格好に戻ったジュリアンがこちらを見下ろした。その顔には超絶予想外という文字しかない。
エレノアは彼の思い違いをすぐに訂正しなかったのを申し訳なく思うものの、本当の心の裡を知れて良かったと思う。
そうでなければ彼は笑顔の仮面の奥にきっと隠してしまっただろうから。
「どうせ一度きりの人生なら、後悔してでもあなたと一緒にいたい」
「だからの、ごめん?」
「そうよ」
「……はっ……はははっ、何だそっか……そういう意味か、ああもう」
すっかり不穏な雰囲気を解いたジュリアンは、腹の底から可笑しいとでも言うように相好を崩すと、エレノアの隣でごろんと横になった。こういう時広いベッドはいい。
そんなホッとしたような笑顔を向けられているのが奇跡のようで、涙がまた目尻に滲む。
「ちゃんと私も好きよ。ジュリアン、あなたが好きなの。傍にいて」
ずっとずっと会えない間も変わらなかった気持ち。
この先もきっとずっと続く気持ち。
彼は蕩けるように甘く両目を細めた。
「うん、傍にいるよ」
少し身を起こしたジュリアンのくすぐったい息が耳元にかかって首を竦めると、囁くような笑みを含んだ声が滑り込む。
「愛してる。……君がいなくて君の幻に堕落する程に」
それは多くの身代わりを求めたという意味だろうか。エレノアが何とも言えない顔をすると、ジュリアンはちょっと申し訳なさそうに、そして幸せそうに笑った。
指先でエレノアの涙をそっと掬いながらついついと言うように額に口付けが落ちる。真っ赤になったエレノアを愛しむようにその唇は瞼に落ち頬を伝う。
「え、あのっちょちょちょっと待ってジュリアンッ」
エレノアの焦りをからかうようにちゅっと吃音を立てて頬から唇を離した彼は、額を合わせ拗ねたように上目遣いで見つめてきた。
「これくらいは許して。今までずっと待ったんだから」
「えっ……――――」
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