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第二十四話 悪意の巡る夜2
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フォックスは決して触れないようにしながら、指先でその刃の形をなぞるようにして傲然と顎を上げた。
「こいつにはな、ちょっとした毒が塗ってあったんだ」
毒という単語に、エレノアの脳裏に一人の男が過る。
「まさかクマ男の……」
「ああそうだ。あいつからちょいとわけてもらったんだよ」
キヒヒと嫌な感じに笑う男にジュリアンが憎々しげな眼差しを向けた。
「……麻痺毒、か」
「ご名答。どうだ力が入らないだろ。刃を摑まれた時はびっくりだったが、手間が省けて良かったぜ」
「……それは感謝して欲しいね」
気分が悪いだろうに口元は薄く笑むジュリアンへと男は優越を滲ませる。
「時間が経てば抜けるらしいから死にゃあしないぜ。まあ、生きてられたらの話だがな」
仲間たちは未だに動けないようだが、状況は逆転している。
ナイフを誇示する相手の害意に、エレノアは手の中の短銃を正眼に構えた。撃鉄を起こす。
「ジュリアンには手を出させないわ! 大人しく自首して!」
銃口を向けられ一瞬動じたフォックスだったが、エレノアが及び腰でカタカタと震えるのを見て嘲りを浮かべた。
「威勢だけはいいな」
「やめるんだエレノア。危ないからそれを僕に渡して。今ならまだ撃てる」
額に汗を浮かせ端正な眉を寄せ、じわじわと全身を侵す麻痺毒に必死に抗うジュリアンに、エレノアは首を振った。
「これは私の責任で私が腹を決めなきゃいけない事だわ」
エレノアは改めて気合いを入れ直して銃を握りしめる。
大切な人を護りたい。胸を満たす強い想いが彼女の一対のエメラルドをより美しく輝かせる。
仄かに光る不思議な瞳に射すくめられて、フォックスはたじろいだ。
「あんたのその目、やっぱ綺麗だな。だから宰相様はご執心なのか? まあ報酬さえもらえれば何でもいいが、撃てるんなら撃ってみろっての。お嬢様に人殺しなんて無理だろ」
いくら銃口が定まらないとはいえ、この距離で引き金を引けばさすがにエレノアでもどこかには当てられる。それは向こうも承知だが、エレノアの躊躇いをなぶるように挑発的な言動を繰り返した。
現にエレノアは構えたものの引き金を絞れないでいる。
「それを渡して。君が誰かを傷付ける必要なんてないんだよ」
「……っ」
優しい言葉に揺らぎそうになる。
引き金を引くのは怖い。
誰かを傷付けるのは怖ろしい。
それはきっとずっと生きていく上で変わらない。
(でも私は……もっともっと怖くて嫌な事があるの)
「あなたの気持ちは嬉しいけど、無理よ」
「エレノア!」
血を散らして手を伸ばすジュリアンから横に逃げて距離を取った。
彼の掌の傷が乾いていないのは、麻痺毒に抗うために強く握り締めているせいだ。
ポタポタと滴る新たな赤がより痛々しい。
「わかってるのか、当たり所が悪ければ人を死なせてしまう、それはそういう代物なんだ」
「そっちこそよ! あなたを人殺しになんてさせない! ……それにね、あなたが死んじゃったらって思ったら、すごく、怖くなった。本当は優劣なんて付けたらいけないけど、私はこの人よりあなたの命の方が大切なの!!」
本気の目に、余裕の態度でいたフォックスの顔に狼狽が走る。
「お願い、自首すると誓って」
「おい待て、マジで撃つつもりか?」
エレノアは答えない。
「おいっ?」
真剣な顔で、さも苦痛を堪えるような眼差しで奥歯を食い縛って、エレノアはトリガーに掛けていた指をゆっくりと曲げて行く。
「くそっ捕まるわけにいかねえ! 勿論撃たれるわけにもな!」
殺られる前に殺れ的な意思なのかフォックスがナイフを突き出して飛びかかって来た。
瞬きさえ忘れてエレノアは正面を凝視する。
(私にもジュリアンにも手を出させないッ! 負けないっ!)
血が沸くのにも似た攻撃的な感情が体中を駆け抜けた。
時にその感情は勇敢を生み、或いは蛮勇を生み、或いは覇道の礎となった。
他者に銃口を向けるなら自分も死を覚悟しろ、とは誰の言葉だったか。
どこか妙に冷静な部分で迫る男を見据えるエレノアの、その躊躇のない銃口が吼えようかという時だ。
「やめろエレノア!」
ジュリアンの悲痛な声が上がったその時だ。
引き金が軋む音が聞こえたその時だ。
ガアアアン……と、夜のしじまに一発の銃声がこだました。
エレノアの目の前でフォックスがゆっくりと前のめりに倒れた。
「え……?」
自分の呆然とした声の前にある銃口は、ギリギリで沈黙したままだった。
ならば今の銃声はどこから来たのか。
(あの人、背後から撃たれた……?)
「エレノア、気を付けて」
ジュリアンは立てないながらも膝で体を引きずって傍にくる。
(誰……?)
フォックスは無力化された。
だが安心はできない。
闇向こうに居る何者かは銃を所持している。敵ならまた撃ってくるかもしれない。
エレノアは蛇に睨まれた蛙のように強張った面持ちで息を詰めた。
時間感覚が麻痺したように一心に見つめる中、自らの心音だけが時が流れているのを実感させてくれている。
パン、パン、パン、と暗闇の向こうから観劇の終わりに送る称賛の拍手のような、ゆっくりと手を叩く音が聞こえた。
「良いものを見せて頂いた。その威勢なら王家で潰される事もあるまい」
続いて満足げな男の声が響く。
不規則な靴音の他、コツリ、コツリ、と硬い何かで石畳を叩く音も一緒に近付いてくる。
「やれやれ、怪我ひとつ負わせるなと言い含めてあったのに、その矮小な身で尊き至宝を害そうとするとは。これだから育ちの悪い人間は嫌いなのだよ」
まるで闇に沁み入るようなとても静かな声だった。
エレノアは一瞬虚を突かれたような顔をしてそちらを見つめた。
(この声、つい最近どこかで聞いたわ)
必死に記憶を手繰り寄せる。
エレノアもジュリアンも黙って注視する先、街灯の光が届く境目に、よく磨かれた上等な革靴の先と杖が現れた。
(杖……?)
全容を現した相手は、予想外にも夜会用の盛装に仮面という出で立ちだった。
記憶がよみがえる。
――お嬢さんは一人かな?
――確かに見ての通りのこの足だがね、一曲程度はさもないよ。
(あ……)
「ジュリアン、この人今夜の舞踏会にいた人よ。ほら覚えてない? 私にダンスを申し込もうとした……」
「……そうだね」
ジュリアンも覚えていたらしい。
「因みに彼は、この国の宰相閣下だ」
「え? そんな偉い人だったの?」
エレノアがまじまじと見ていると、「バレているのでは隠す意味もないか」と宰相は仮面を外した。
そこにいたのは新聞か何かで見た覚えのある五十路絡みの男性。
まさにこの国の宰相の顔だ。
実際の素顔を目にしても、夜会場で感じたように四十前後にしか思えない壮健さだった。
(……やっぱりイケオジだったわ。イケオジって生き物は基本的に若々しいのかしら)
なんて場違いにもエレノアが考えてしまった傍ではジュリアンが慎重な声で呟いた。
「案の定、仕込み杖か」
「仕込み杖? あれが?」
「今の銃声は、宰相閣下の仕業だろう」
「えっ」
膝をついたままのジュリアンを護るようにエレノアは一歩前に出た。
エレノア、と苦しそうなジュリアンからの咎め声には応じない。
背中に血を滲ませ痛みに脂汗を掻くフォックスは、急激にやつれたような薄い目で現れた相手を苦労して見上げた。
「さ、宰相様……こりゃ、ない…ですよ……。そりゃ、間違った相手…を仲間が攫って来は、しましたが……でもちゃんと…こうして本物を追って来……っ…ててて……」
宰相は地面で呻く男を侮蔑とも憤りとも失望ともつかない目で黙って見下ろした。
会話さえ嫌悪するかのように、仕込み杖の先を男へと向ける。
(まさか……)
「待って! もう撃たないで!」
「エレノア!?」
ジュリアンが目を剥く前で、エレノアは地に伏す男を庇うように杖の前に飛び出していた。
「おっと危ないではないか」
宰相は銃口をひょいと上げてエレノアを面白がるように見つめてくる。
「その下劣な悪党を庇うのか? 君を害そうとしたのだぞ? 君も今撃とうとしていたではないか」
「それでも、いたずらに命は奪っていいものじゃないわ! ……私が言ったって説得力はないですけど。もうこの人は動けないし警察に突き出せば済みます。それに悪党ならあなただって同じです。言っておきますけれど私は至宝の在り処なんて知りません。だからお引き取りを」
「くふふ、その至宝なら私の目の前にあるのだよ。先程報告を受けた時には私も驚いたがね」
口元に笑みを刷き、宰相はエレノアを指差しした。
(私……? ええと私が至宝ってどういう事?)
「君の輝く緑の瞳こそ、覇王の緑なのだよ。歴史の中でも突出した覇王たちもその持ち主だったとされていたが、しかしその詳しい記述がなく、てっきり宝石や宝剣、或いは玉璽のような何かだと思っていたのだが」
「私がその瞳の持ち主だとして、王家とどう関係があるんですか? 屋敷を燃やされ没落させられる謂れはなかったはずです……!」
今までずっと燻ぶっていた疑問を口にしてしまえば、それは堰を切ったように感情を逆なでした。灰になった思い出の屋敷、暇を出した使用人たちとの惜別。その地を離れ王都に移る際の寂寥感。当時の全てが鮮明に胸に去来する。
「どうしてですかっ!」
「覇王の緑、その至宝は古来より権力の象徴なのだよ。手に入れた者は栄誉栄光を約束されるというね。神託にも数百年ぶりにその存在についての言及が表れたのだ。つまりは王家のために手に入れろという意味だろう。それで占ったところ至宝はメイフィールド家にあると出た」
つまりは君だ、と宰相グレーウォールは嬉しそうにエレノアを見つめ、興奮を抑え切れないような目をした。
「そのメイフィールド家が万が一至宝を使って覇道を進もうとすれば、現状求心力の低下が著しい王家の脅威となり得る。だから事前に力を殺ぐ必要があったのだ」
「……ッ、うちの誰もそんな大それた野心なんて持ってないわ! そんな定かじゃない神託だか迷信のために、人の家を燃やしたり財産を騙し取ったりしたんですか?」
「王家のためのご神託を迷信などど一緒くたにするなっ!」
人が変わったように激昂した宰相の声に、エレノアは体を強張らせた。その様を見て宰相も我に返ったようだった。軽く咳払いする。
「きっとグレーウォール卿は、王家に深い忠誠を誓ってるんだ。他家とは違って、王家の権力基盤は神殿なんだよ。だからその言葉には、影響力がある。中には解釈を誤る者が居ても、おかしくはないだろうね」
ジュリアンの言い草に宰相は「失礼な」と顔を歪めた。
「全て、あなたの立案なんですか?」
「無論。国の安定のためには必要な犠牲もあるのだよ。私が戴く方のためにも君には一緒に来てもらうぞ」
「嫌ですと言ったら……?」
刹那、乾いた銃声が再び響いた。
「ジュリアン!」
「だ、大丈夫。頬を掠っただけだから」
「――次は真ん中に当てる」
屈んだエレノアが傷を確かめるようにすれば、弾が掠めた頬には一筋の赤い傷が出来ていた。エレノアを狙わず大事な人間を人質にする辺り、交渉を良くわかっている。
何て腐った宰相なのかとエレノアは今日何度目かは忘れたが、歯噛みした。
「大人しく私に従うのだ。心配しなくても体を傷付ける真似はしない。君はただ次期国王に寄り添ってその瞳で微笑んでいればいいのだよ」
王子の傍の女性が単なる召使いという事はないだろう。
やはり、自分は腹を決めなければならないとエレノアは手に握る短銃の存在を意識する。
「お断りします!」
言ってジュリアンの真ん前に立って彼を完全に自分の背に隠すと、真っ直ぐに銃口を構えた。
「宰相閣下、どうかお引き取りを!」
「どうしても?」
「お引き取りを!」
「……そうか。仕方がないな」
宰相はふうと一つ息をついた。
「他の者に利用されるおそれがある以上、君を野放しにはできない」
宰相の銃口が自分へと擡げられていく様が妙にゆっくりと見えた。
命を取るのか、それとも身動きが取れないようにでもするつもりなのかはわからない。
しかし確実に撃たれる、と思った。
自らが息を呑み大きく瞠目しているのさえ意識に上らず、エレノアはただ感情のまま緑の瞳を美しく燃え上がらせた。
トリガーを引かなければ、引かれる。
自分が倒れればジュリアンもきっと無事では済まない。
そんな瀬戸際だった。
(だから……っ)
逡巡一瞬。
の、後――――……それ自体は無情な銃声がまた一発、夜の静寂に上がった。
涙が溢れた。
「……うっ……ううっ、ジュリアン……っ」
エレノアの銃口からは白い煙が立ち昇っている。
彼女は引き金を引いたのだ。
しかしその向けられた先は虚空。
寸前でジュリアンから後ろに引かれ腕が宙を向いてしまったためだ。ペタンと尻餅を搗いて呆然と涙するエレノアをジュリアンがぎゅうううっと、けれど麻痺毒のせいでほとんど力の入らない両腕で抱きしめてくれる。
覚悟だ何だと決めた所でやはり人を害するなど、心の奥底では抵抗があった。
恐ろしいものは恐ろしかったのだ。
まだカタカタと腕が震える。
「エレノア、泣かないで」
「ジュリアン~、でも、私、引き金を引いたの、あなたがいなかったらきっと今頃は……」
「だから、泣かないで。僕がいただろう? 君がもしもこの先、どんな酷い選択をしても、大丈夫、僕が傍で、君をきっと繋ぎ止めるから」
エレノアが宰相を撃つ事はなかった。
エレノアと違って躊躇なく引き金を引こうとした宰相の仕込み杖から弾が放たれる事も。
そしてその彼は地に伏している。
白目を向いてピクリとも動かない。
外傷らしい外傷は見当たらないのにだ。
だが、彼は倒れた。
ジャスティンが昏倒した時と同じように。
そう見えた。
「――脅した挙句婦女子を撃とうとするとはな。貴様を測るために懐に入ってはみたが、やはりこういう男だったか、グレーウォール」
「だ、誰!?」
またもや闇の中からの声にハッとして前方を凝視していると、程なく相手が姿を現した。
エレノアは大きく焦燥を浮かべた。
「あ、あなたさっきのクマ男! まさかこれもあなたが?」
「まあな。吹き矢で寝てもらった」
「そ、そんな器用な攻撃までできるのね。でも何しにここへ? 私を捕まえるため? だとしたらどうして仲間を攻撃なんて……?」
クマ男は面倒なのか寡黙なのか、問いには答えずに宰相の傍にしゃがみ込んだ。
「フォックス共々そっちのゴロツキはくれてやるが、グレーウォールの方はこちらで回収させてもらうぞ」
(ええと、宰相を呼び捨てにした……?)
そんな人間は単なる礼儀知らずか身内か或いは……。
「その銀の瞳。それにその顔立ち……あなたは、誰だ?」
それまで固唾を呑むようにして状況を睨んでいたジュリアンの声には、警戒や敵愾心もあったが、その裏には慎重な敬意も孕んでいるようだった。彼がどうしてそんな様子なのかエレノアにはまだわからない。
つい油断したようにキョトンとしてジュリアンを見つめていると、何か笑い所でもあったのかクマ男がくっくっと咽の奥で愉快そうにした。
「なるほど恋人、か。先程フォグフォードの養女が言っていた事はハッタリではなかったのか」
クマ男が自らの頭に手をやった。
何をするのかと思っていると、次の瞬間、さらりとした銀糸が夜の空気に揺らめいた。
「こいつにはな、ちょっとした毒が塗ってあったんだ」
毒という単語に、エレノアの脳裏に一人の男が過る。
「まさかクマ男の……」
「ああそうだ。あいつからちょいとわけてもらったんだよ」
キヒヒと嫌な感じに笑う男にジュリアンが憎々しげな眼差しを向けた。
「……麻痺毒、か」
「ご名答。どうだ力が入らないだろ。刃を摑まれた時はびっくりだったが、手間が省けて良かったぜ」
「……それは感謝して欲しいね」
気分が悪いだろうに口元は薄く笑むジュリアンへと男は優越を滲ませる。
「時間が経てば抜けるらしいから死にゃあしないぜ。まあ、生きてられたらの話だがな」
仲間たちは未だに動けないようだが、状況は逆転している。
ナイフを誇示する相手の害意に、エレノアは手の中の短銃を正眼に構えた。撃鉄を起こす。
「ジュリアンには手を出させないわ! 大人しく自首して!」
銃口を向けられ一瞬動じたフォックスだったが、エレノアが及び腰でカタカタと震えるのを見て嘲りを浮かべた。
「威勢だけはいいな」
「やめるんだエレノア。危ないからそれを僕に渡して。今ならまだ撃てる」
額に汗を浮かせ端正な眉を寄せ、じわじわと全身を侵す麻痺毒に必死に抗うジュリアンに、エレノアは首を振った。
「これは私の責任で私が腹を決めなきゃいけない事だわ」
エレノアは改めて気合いを入れ直して銃を握りしめる。
大切な人を護りたい。胸を満たす強い想いが彼女の一対のエメラルドをより美しく輝かせる。
仄かに光る不思議な瞳に射すくめられて、フォックスはたじろいだ。
「あんたのその目、やっぱ綺麗だな。だから宰相様はご執心なのか? まあ報酬さえもらえれば何でもいいが、撃てるんなら撃ってみろっての。お嬢様に人殺しなんて無理だろ」
いくら銃口が定まらないとはいえ、この距離で引き金を引けばさすがにエレノアでもどこかには当てられる。それは向こうも承知だが、エレノアの躊躇いをなぶるように挑発的な言動を繰り返した。
現にエレノアは構えたものの引き金を絞れないでいる。
「それを渡して。君が誰かを傷付ける必要なんてないんだよ」
「……っ」
優しい言葉に揺らぎそうになる。
引き金を引くのは怖い。
誰かを傷付けるのは怖ろしい。
それはきっとずっと生きていく上で変わらない。
(でも私は……もっともっと怖くて嫌な事があるの)
「あなたの気持ちは嬉しいけど、無理よ」
「エレノア!」
血を散らして手を伸ばすジュリアンから横に逃げて距離を取った。
彼の掌の傷が乾いていないのは、麻痺毒に抗うために強く握り締めているせいだ。
ポタポタと滴る新たな赤がより痛々しい。
「わかってるのか、当たり所が悪ければ人を死なせてしまう、それはそういう代物なんだ」
「そっちこそよ! あなたを人殺しになんてさせない! ……それにね、あなたが死んじゃったらって思ったら、すごく、怖くなった。本当は優劣なんて付けたらいけないけど、私はこの人よりあなたの命の方が大切なの!!」
本気の目に、余裕の態度でいたフォックスの顔に狼狽が走る。
「お願い、自首すると誓って」
「おい待て、マジで撃つつもりか?」
エレノアは答えない。
「おいっ?」
真剣な顔で、さも苦痛を堪えるような眼差しで奥歯を食い縛って、エレノアはトリガーに掛けていた指をゆっくりと曲げて行く。
「くそっ捕まるわけにいかねえ! 勿論撃たれるわけにもな!」
殺られる前に殺れ的な意思なのかフォックスがナイフを突き出して飛びかかって来た。
瞬きさえ忘れてエレノアは正面を凝視する。
(私にもジュリアンにも手を出させないッ! 負けないっ!)
血が沸くのにも似た攻撃的な感情が体中を駆け抜けた。
時にその感情は勇敢を生み、或いは蛮勇を生み、或いは覇道の礎となった。
他者に銃口を向けるなら自分も死を覚悟しろ、とは誰の言葉だったか。
どこか妙に冷静な部分で迫る男を見据えるエレノアの、その躊躇のない銃口が吼えようかという時だ。
「やめろエレノア!」
ジュリアンの悲痛な声が上がったその時だ。
引き金が軋む音が聞こえたその時だ。
ガアアアン……と、夜のしじまに一発の銃声がこだました。
エレノアの目の前でフォックスがゆっくりと前のめりに倒れた。
「え……?」
自分の呆然とした声の前にある銃口は、ギリギリで沈黙したままだった。
ならば今の銃声はどこから来たのか。
(あの人、背後から撃たれた……?)
「エレノア、気を付けて」
ジュリアンは立てないながらも膝で体を引きずって傍にくる。
(誰……?)
フォックスは無力化された。
だが安心はできない。
闇向こうに居る何者かは銃を所持している。敵ならまた撃ってくるかもしれない。
エレノアは蛇に睨まれた蛙のように強張った面持ちで息を詰めた。
時間感覚が麻痺したように一心に見つめる中、自らの心音だけが時が流れているのを実感させてくれている。
パン、パン、パン、と暗闇の向こうから観劇の終わりに送る称賛の拍手のような、ゆっくりと手を叩く音が聞こえた。
「良いものを見せて頂いた。その威勢なら王家で潰される事もあるまい」
続いて満足げな男の声が響く。
不規則な靴音の他、コツリ、コツリ、と硬い何かで石畳を叩く音も一緒に近付いてくる。
「やれやれ、怪我ひとつ負わせるなと言い含めてあったのに、その矮小な身で尊き至宝を害そうとするとは。これだから育ちの悪い人間は嫌いなのだよ」
まるで闇に沁み入るようなとても静かな声だった。
エレノアは一瞬虚を突かれたような顔をしてそちらを見つめた。
(この声、つい最近どこかで聞いたわ)
必死に記憶を手繰り寄せる。
エレノアもジュリアンも黙って注視する先、街灯の光が届く境目に、よく磨かれた上等な革靴の先と杖が現れた。
(杖……?)
全容を現した相手は、予想外にも夜会用の盛装に仮面という出で立ちだった。
記憶がよみがえる。
――お嬢さんは一人かな?
――確かに見ての通りのこの足だがね、一曲程度はさもないよ。
(あ……)
「ジュリアン、この人今夜の舞踏会にいた人よ。ほら覚えてない? 私にダンスを申し込もうとした……」
「……そうだね」
ジュリアンも覚えていたらしい。
「因みに彼は、この国の宰相閣下だ」
「え? そんな偉い人だったの?」
エレノアがまじまじと見ていると、「バレているのでは隠す意味もないか」と宰相は仮面を外した。
そこにいたのは新聞か何かで見た覚えのある五十路絡みの男性。
まさにこの国の宰相の顔だ。
実際の素顔を目にしても、夜会場で感じたように四十前後にしか思えない壮健さだった。
(……やっぱりイケオジだったわ。イケオジって生き物は基本的に若々しいのかしら)
なんて場違いにもエレノアが考えてしまった傍ではジュリアンが慎重な声で呟いた。
「案の定、仕込み杖か」
「仕込み杖? あれが?」
「今の銃声は、宰相閣下の仕業だろう」
「えっ」
膝をついたままのジュリアンを護るようにエレノアは一歩前に出た。
エレノア、と苦しそうなジュリアンからの咎め声には応じない。
背中に血を滲ませ痛みに脂汗を掻くフォックスは、急激にやつれたような薄い目で現れた相手を苦労して見上げた。
「さ、宰相様……こりゃ、ない…ですよ……。そりゃ、間違った相手…を仲間が攫って来は、しましたが……でもちゃんと…こうして本物を追って来……っ…ててて……」
宰相は地面で呻く男を侮蔑とも憤りとも失望ともつかない目で黙って見下ろした。
会話さえ嫌悪するかのように、仕込み杖の先を男へと向ける。
(まさか……)
「待って! もう撃たないで!」
「エレノア!?」
ジュリアンが目を剥く前で、エレノアは地に伏す男を庇うように杖の前に飛び出していた。
「おっと危ないではないか」
宰相は銃口をひょいと上げてエレノアを面白がるように見つめてくる。
「その下劣な悪党を庇うのか? 君を害そうとしたのだぞ? 君も今撃とうとしていたではないか」
「それでも、いたずらに命は奪っていいものじゃないわ! ……私が言ったって説得力はないですけど。もうこの人は動けないし警察に突き出せば済みます。それに悪党ならあなただって同じです。言っておきますけれど私は至宝の在り処なんて知りません。だからお引き取りを」
「くふふ、その至宝なら私の目の前にあるのだよ。先程報告を受けた時には私も驚いたがね」
口元に笑みを刷き、宰相はエレノアを指差しした。
(私……? ええと私が至宝ってどういう事?)
「君の輝く緑の瞳こそ、覇王の緑なのだよ。歴史の中でも突出した覇王たちもその持ち主だったとされていたが、しかしその詳しい記述がなく、てっきり宝石や宝剣、或いは玉璽のような何かだと思っていたのだが」
「私がその瞳の持ち主だとして、王家とどう関係があるんですか? 屋敷を燃やされ没落させられる謂れはなかったはずです……!」
今までずっと燻ぶっていた疑問を口にしてしまえば、それは堰を切ったように感情を逆なでした。灰になった思い出の屋敷、暇を出した使用人たちとの惜別。その地を離れ王都に移る際の寂寥感。当時の全てが鮮明に胸に去来する。
「どうしてですかっ!」
「覇王の緑、その至宝は古来より権力の象徴なのだよ。手に入れた者は栄誉栄光を約束されるというね。神託にも数百年ぶりにその存在についての言及が表れたのだ。つまりは王家のために手に入れろという意味だろう。それで占ったところ至宝はメイフィールド家にあると出た」
つまりは君だ、と宰相グレーウォールは嬉しそうにエレノアを見つめ、興奮を抑え切れないような目をした。
「そのメイフィールド家が万が一至宝を使って覇道を進もうとすれば、現状求心力の低下が著しい王家の脅威となり得る。だから事前に力を殺ぐ必要があったのだ」
「……ッ、うちの誰もそんな大それた野心なんて持ってないわ! そんな定かじゃない神託だか迷信のために、人の家を燃やしたり財産を騙し取ったりしたんですか?」
「王家のためのご神託を迷信などど一緒くたにするなっ!」
人が変わったように激昂した宰相の声に、エレノアは体を強張らせた。その様を見て宰相も我に返ったようだった。軽く咳払いする。
「きっとグレーウォール卿は、王家に深い忠誠を誓ってるんだ。他家とは違って、王家の権力基盤は神殿なんだよ。だからその言葉には、影響力がある。中には解釈を誤る者が居ても、おかしくはないだろうね」
ジュリアンの言い草に宰相は「失礼な」と顔を歪めた。
「全て、あなたの立案なんですか?」
「無論。国の安定のためには必要な犠牲もあるのだよ。私が戴く方のためにも君には一緒に来てもらうぞ」
「嫌ですと言ったら……?」
刹那、乾いた銃声が再び響いた。
「ジュリアン!」
「だ、大丈夫。頬を掠っただけだから」
「――次は真ん中に当てる」
屈んだエレノアが傷を確かめるようにすれば、弾が掠めた頬には一筋の赤い傷が出来ていた。エレノアを狙わず大事な人間を人質にする辺り、交渉を良くわかっている。
何て腐った宰相なのかとエレノアは今日何度目かは忘れたが、歯噛みした。
「大人しく私に従うのだ。心配しなくても体を傷付ける真似はしない。君はただ次期国王に寄り添ってその瞳で微笑んでいればいいのだよ」
王子の傍の女性が単なる召使いという事はないだろう。
やはり、自分は腹を決めなければならないとエレノアは手に握る短銃の存在を意識する。
「お断りします!」
言ってジュリアンの真ん前に立って彼を完全に自分の背に隠すと、真っ直ぐに銃口を構えた。
「宰相閣下、どうかお引き取りを!」
「どうしても?」
「お引き取りを!」
「……そうか。仕方がないな」
宰相はふうと一つ息をついた。
「他の者に利用されるおそれがある以上、君を野放しにはできない」
宰相の銃口が自分へと擡げられていく様が妙にゆっくりと見えた。
命を取るのか、それとも身動きが取れないようにでもするつもりなのかはわからない。
しかし確実に撃たれる、と思った。
自らが息を呑み大きく瞠目しているのさえ意識に上らず、エレノアはただ感情のまま緑の瞳を美しく燃え上がらせた。
トリガーを引かなければ、引かれる。
自分が倒れればジュリアンもきっと無事では済まない。
そんな瀬戸際だった。
(だから……っ)
逡巡一瞬。
の、後――――……それ自体は無情な銃声がまた一発、夜の静寂に上がった。
涙が溢れた。
「……うっ……ううっ、ジュリアン……っ」
エレノアの銃口からは白い煙が立ち昇っている。
彼女は引き金を引いたのだ。
しかしその向けられた先は虚空。
寸前でジュリアンから後ろに引かれ腕が宙を向いてしまったためだ。ペタンと尻餅を搗いて呆然と涙するエレノアをジュリアンがぎゅうううっと、けれど麻痺毒のせいでほとんど力の入らない両腕で抱きしめてくれる。
覚悟だ何だと決めた所でやはり人を害するなど、心の奥底では抵抗があった。
恐ろしいものは恐ろしかったのだ。
まだカタカタと腕が震える。
「エレノア、泣かないで」
「ジュリアン~、でも、私、引き金を引いたの、あなたがいなかったらきっと今頃は……」
「だから、泣かないで。僕がいただろう? 君がもしもこの先、どんな酷い選択をしても、大丈夫、僕が傍で、君をきっと繋ぎ止めるから」
エレノアが宰相を撃つ事はなかった。
エレノアと違って躊躇なく引き金を引こうとした宰相の仕込み杖から弾が放たれる事も。
そしてその彼は地に伏している。
白目を向いてピクリとも動かない。
外傷らしい外傷は見当たらないのにだ。
だが、彼は倒れた。
ジャスティンが昏倒した時と同じように。
そう見えた。
「――脅した挙句婦女子を撃とうとするとはな。貴様を測るために懐に入ってはみたが、やはりこういう男だったか、グレーウォール」
「だ、誰!?」
またもや闇の中からの声にハッとして前方を凝視していると、程なく相手が姿を現した。
エレノアは大きく焦燥を浮かべた。
「あ、あなたさっきのクマ男! まさかこれもあなたが?」
「まあな。吹き矢で寝てもらった」
「そ、そんな器用な攻撃までできるのね。でも何しにここへ? 私を捕まえるため? だとしたらどうして仲間を攻撃なんて……?」
クマ男は面倒なのか寡黙なのか、問いには答えずに宰相の傍にしゃがみ込んだ。
「フォックス共々そっちのゴロツキはくれてやるが、グレーウォールの方はこちらで回収させてもらうぞ」
(ええと、宰相を呼び捨てにした……?)
そんな人間は単なる礼儀知らずか身内か或いは……。
「その銀の瞳。それにその顔立ち……あなたは、誰だ?」
それまで固唾を呑むようにして状況を睨んでいたジュリアンの声には、警戒や敵愾心もあったが、その裏には慎重な敬意も孕んでいるようだった。彼がどうしてそんな様子なのかエレノアにはまだわからない。
つい油断したようにキョトンとしてジュリアンを見つめていると、何か笑い所でもあったのかクマ男がくっくっと咽の奥で愉快そうにした。
「なるほど恋人、か。先程フォグフォードの養女が言っていた事はハッタリではなかったのか」
クマ男が自らの頭に手をやった。
何をするのかと思っていると、次の瞬間、さらりとした銀糸が夜の空気に揺らめいた。
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