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第十五話 別れの仮面舞踏会
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ピンカートン家主催の仮面舞踏会が始まり、ドレスも仮面も万全のエレノアはもやもやした心の内を整理するのに努めていた。
今夜でジュリアンとは本当にお別れだ。彼の順調な人生を望むならこれ以上関わらないのがベストだろう。
それでも噂に聞くように、会わない間にエレノア以外の女性の手を取っていたのだと思うと、恨み節をぶつけたくはなる。
(ふああまた嫉妬おぉ! もう自己嫌悪しかないよぉ……)
ダンスの始まる時間に少し余裕を持ってアメリアと共に舞踏会会場に入ると、既にジュリアンが来ているのがわかった。
ほとんど顔を隠していないマスク姿の彼は、他の客たちと歓談している。周囲を囲む面々は総じて女性の方が多い。
「あらまあクレイトン様ったら大人気ですわね」
「わぁーモテてるー……」
目元も隠れる仮面の奥でどこか投げやりな目になるエレノアは、
「ううん、人気者なのは喜ばしいじゃないの、ね!」
と自分の思考修正に頑張った。
「エリーも難儀な性分ですわね。やっぱり何もかもしがらみを放り出して飛び込んでみたらどう?」
「……もう言わないで」
因みに当然ながらこの会場内ではエレノアではなくエリー呼びにしてもらっている。
ジュリアンからは自分の居場所は見ればすぐわかると思うので、エレノアから声を掛けてと言われていた。
確かにあの人だかりでは見落としようがない。
「そういえばエリーどうかしら、この会場の出来栄えは。業者と打ち合わせを何度もして頑張りましたのよ」
それ自体が大きな宝石のようなシャンデリアが幾つも天上から吊り下げられ、見栄えのための壁際の垂れ幕もふんだんに使われている。床は鏡のように磨き上げられまさに豪華絢爛だ。壁に沿って置かれた椅子も特注なのか凝っていて、リボン系の装飾が多めなのはアメリアの好みだろう。
そこに集う色鮮やかで妖しげな仮面の人々。一角に盛り付けられた軽食は妖精の国のお菓子のようだ。
舞踏会に相応しい幻想的な夢の中と言われればその通りだった。
「想像以上で褒める所しかないわ」
「ホント! 良かったですわ!」
両手を叩き合わせて得意になるアメリアは、喜びと満足を表現した。
「じっくり見て行って頂戴ね? 私は面倒ですけれど挨拶回りして来ますわ」
「わかったわ。行ってらっしゃい」
両親の姿を見つけたアメリアは歩き出そうとして、けれど一度足を戻した。エレノアに向き直る。
「エリー、色々とあなたが納得のいく結末になるよう祈ってますわ。悲しくなっても、今日のために飾り付けたこの明るい会場がちょっとでも慰めになってくれたら本望よ」
それだけを大真面目に告げると、長男たる兄とは違ってそれほど縛りのきつくないアメリアは、「愛想笑いするのって面倒ですわ」と気乗りしない様子で招待客で賑わう中へと姿を消した。
(ありがとう、アメリア)
本当に彼女は良い子だ。失う物の多かった中、この出会いは幸運だった。
(ダンスまでもう少しあるし、心の準備も必要だし、ジュリアンに話しかけるのはまだいいかな)
アメリアの背中を見送っていた視線を人垣の先に見え隠れするジュリアンへと向け、そんな事を思っていたら唐突に声を掛けられた。
「お嬢さんは一人かな?」
「はい?」
コツリと音がして、振り返れば年上だろう仮面の紳士がこちらを見据えている。
黒々とした頭髪や腰の伸びた姿勢からしてまだそこまで歳を重ねてはいなそうだったが、杖を突いていた。
醸す雰囲気から歳は四十前後に思われたが、単に若い印象を受けるだけで実はもっと上なのかもしれない。
声は理知に満ち、低く、一度聞いたら忘れられないような印象的な響きだった。
口元の見える仕様の仮面なので相手が微笑んでいるのはわかった。
(物腰が洗練されているし、貴族かしらこの人。惜しいわ、イケオジっぽいからアメリアがいたら大喜びしたのに)
「そろそろダンスの始まる頃合いだね。お相手がいないのならどうだね。是非私と一曲踊ってはもらえまいか?」
「ええと……」
踊る以前に足が悪いのではないのだろうか。ダンスは優雅に見えて案外動きが激しい。
エレノアのそんな逡巡と懸念を読み取ったのか、男性はくつくつと笑う。
「確かに見ての通りのこの足だがね、一曲程度はさもないよ」
それが見栄なのか本音なのかはわからないが、エレノアにはジュリアンがいる。断るしかなかった。
その旨を告げようとした所で、ぐいと肩を抱かれて男性から離されるように後ろに引かれた。
「申し訳ない。彼女は僕の専属なんですよ」
ジュリアンだった。
(い、いつの間にこっちに来たの?)
てっきり談笑に興じるのに忙しくて自分には気付いていないと思っていた。
仮面だってしているのだ。
(い、犬並み! でも良かった。喋った所は聞かれてなかったみたいね)
「ほう。君は? ……と、ああいや失礼、今日のこの場は皆名もなき者たちなのだったな」
「お気になさらず」
「既にお相手がいたとは、野暮な横やりを入れてしまったようだね。だが悪く思わないでくれたまえ。邪魔者は退散するとしよう」
「ええ、会場にはまだまだ沢山の美しい花たちがいますので、きっと貴殿のお眼鏡に適う相手と出会えるでしょう。この僕のように」
おそらく歳上の人間だとわかったのかジュリアンは丁寧に応対している。
ただ、見せつけるようにエレノアを自分へと抱き寄せはした。
(ジ、ジュリアンったら!)
二人の様子を見てか、男性はどこか可笑しそうに短く笑うと、あっさりと踵を返して人の合間に紛れた。
コツリ、コツリと杖の音が遠ざかる。
「……あの音、仕込み杖?」
ジュリアンが真面目な面持ちで何かを呟いたが、会場のざわめきに紛れてエレノアはよく聞き取れなかった。
どうしたのだろうと見上げていると、視線に気付いたのかぱっとジュリアンは表情を切り替える。
「エリー、君から声を掛けてと言ってあっただろう?」
ちょっと拗ねたように見下ろして来ると、白手袋をした手を差し出してきた。
言葉を書いてという意だろう。
(ジュリアンとの先約があるから今の人とは踊るわけがないのに、どうしてそんなに機嫌が悪そうなのかしら)
――まだ時間じゃなかったですし、少し会場内を見て回ろうかと思っていたんです。
「それなら僕が喜んで案内するよ。何しろ一番乗りだったから」
(何か凄い張り切ってる……!)
綺麗所の集まる夜会がそんなに好きなのかと思えば、仮面の下の頬がちょっと膨らんだ。
しかしそれでは駄目だと今日何度目だろう自分を戒める。
一方ジュリアンは、戒めや自重という言葉とまるで無縁のようにエスコートのための腕を差し出すと、
「それでは時間までお供致しましょう、姫」
なんておどけた。
「ミレーユ、奴らは引っ掛かると思うか?」
「間違いなく引っ掛かると思うわよ」
「私にはそこがまだ八割方しか確信が持てないんだけどなあ」
「あらどうして? 計画の立案者が十全じゃないなんて随分弱気ねえ」
「どうしてって、狐顔の男にしたってお嬢様を狙う危ない橋を渡るよりは、詐欺で稼いだ金で贅沢三昧していた方が安全だろう?」
「もっと荒稼ぎしたいのよあの手の輩は。……そうでなければ、黒幕からお金はほとんど彼らに渡ってないのかもね。だって渡しちゃったら駒として従ってくれないじゃない?」
「ああ、それはあり得るな」
ピンカートン家に向かう馬車の中、納得を浮かべるジャスティンの向かいに座るミレーユは、上機嫌にピンクブロンドのウィッグを被ってエレノアに変装中だ。これに仮面を付ければ囮作戦の主役の完成で、ジャスティンはそのお付き役。
「必ず接触はして来るはずよ。彼らが至宝を求める限りは、エレノアちゃんが必要でしょうからね」
「至宝、か」
ジャスティンはややぞんざいに息を吐く。
「ミレーユ、君はこの件で僕に何か隠していないか? 奴らが今も捕まらないのは匿って支援している人物がいるからだ。そしてその人物はそこそこ力があるこの国の――宰相だ。……と、ここまではいい。君は知っているのだろう? 至宝至宝とは言うけどその至宝がすなわちどのような意味を持つ存在かを。私もその意味を知っておきたい」
先日エレノアたちが事務所に来た時から情報の更新があって、黒幕は王家の関係者――宰相だという線が濃厚になったのだ。いや、ほぼ確定だ。
ただ、エレノア・メイフィールド伯爵令嬢が仮面舞踏会に出席する……という情報を流した途端、今まで息を潜めていた先方が痕跡を残したのは、不自然で出来過ぎで、正直な所些かの疑念を抱いた。
裏切り者でもいるのか、或いは、逆にこれは罠かもしれない、と。
しかし、彼らが罠を張る納得のいく理由など思いつかない。
だからジャスティンたちはその痕跡を素直に利用して宰相を割り出したのだ。
今日まで宰相の屋敷に踏み込まなかったのは、物的証拠がなく、巧妙に匿っているのか手下たちの居場所の確証が持てなかったからだ。仮に予想通り屋敷に潜んでいる所を拘束できたとして、知らぬ存ぜぬで押し通されてはすぐに釈放する羽目になる。
そんなわけで彼らには現行犯で動いてもらう必要があった。
今夜が例の囮作戦決行日という点も含め、エレノアはまだ知らない。
国の宰相が関与しているかもしれないなんて大ごとを、確信はあるとは言え推測の段階で伝えるわけにはいかなかったのだ。
向かいからの凝視に、ミレーユは溜息のようなものを吐き出した。
「覇王の緑を知ってるかしら? 至宝はそれの事よ」
「えっ本当なのか? 名前くらいは知っているけど、正直眉唾だと思っていた」
「神殿での占いでメイフィールド家に存在していると、そう出たらしいのよ」
「占い~? ハハハそんな不確かなものをあてにしての一連の暴挙だって言うのか?」
「仮にもこの国の君主は即位時に天より認められた者とされるんだし、その祭事を司る神殿の託宣やお告げを蔑ろにはできないのが王家なのよ。しかも抜き差しならない継承問題が勃発している最中なら、至宝でも何でも持ち出して、相手より一段でも高みに登っておきたいんじゃないの?」
「権力者は時に馬鹿だよな」
ジャスティンはしみじみと言った。
「それ外では言わないのよ?」
「そのくらいの分別はあるよ。じゃあ今夜は手下だけじゃなく宰相も姿を見せるかもしれないな」
「そうね。切羽詰まってそうだもの。それにあたしたちやヴィセラス坊やの目の届く範囲にエレノアちゃんがいた方が安心できるしね」
「君とそのヴィセラス君ってどういう関係なんだ?」
「直接の面識はないわよ、文書でのやり取りだけの関係だから。んーそうねえ、文通相手ってとこ?」
ジャスティンは苦笑した。
「君も秘密が多いよな。ところで君は――本当にこちらの味方なのか?」
ミレーユは軽やかに声を立てて笑うと、気さくな笑みのままこう言った。
「現状はそうね。養父は無駄な王位争いは望んでいないわ。でも、この先はわからない。その時もしもあなたが敵なら、躊躇なく消すわよ?」
「……それは手厳しいな」
おどけて言われた脅しでも冗談でもない純粋な鋭い言葉に、彼は彼で口の端に意味深な笑みを刷いた。
ダンスの時間になると、希望者たちは続々とホールの中央に出て来た。エレノアとジュリアンもその中の一組だ。
ジュリアンが機嫌を直して説明までしてくれた会場内。到着してから今まで時間がたっぷりあったからなのかやけに詳しかった。
エレノアは、言わなければならない。
彼に連れられている間も何度も伝えようと思った。
けれどその都度彼の楽しそうな様子に言い出せなかった。
(ジュリアンの笑顔も、優しさも、今の私には毒にも等しい)
だから早く言わないと、と気ばかりが急く。
このダンスの前か後か、なるべく早く……。
ジュリアンは穏やかな微笑で自分を見つめている。
その眼差しにとくんと胸が高鳴って感情が切なく動く。
(あぁ、もうっ、しっかりするの!)
エレノアは自分を叱咤し背筋を伸ばした。
(やっぱり踊る前じゃないと、無駄に期待持たせるだけだわ)
音楽はまだ変わらない。
準備が整うのを見計らっているのだろう。
いつ始まってもいいよう既にジュリアンと向かい合って立つエレノアは、思い切ってホールドの姿勢を戻すと、覚悟が揺らがないうちにと強引に彼の手を取った。
「エリー?」
――今夜で最後にしてほしいんです。
急いで指を走らせる。
「え……?」
――私たち、もうこれっきりにしましょう。
「…………」
ジュリアンはしばし押し黙って指文字が書かれた掌を見つめていた。
優雅なワルツの調べが始まった。
時に置き去られたかのように動かない二人に好奇の視線が集まる。
(うう、顔を見れない)
どうせ仮面なのだと思っても、どうしても顔を上げられなかった。
黙りこんで俯くエレノアの上からジュリアンの静かな声が降る。
「どうしても、その結論は覆らないの? じっくり考えた末の答え?」
シンプルな、理由を質すでもない問いかけだった。
こくりと頷くとジュリアンは長い溜息をついた。
「そう」
短い中に凝縮された悲しみを感じ、エレノアはようやく顔を上げた。
伏し目がちの彼はどこか諦めにも似た色を浮かべ、エレノアを見てはいなかった。
向こうも敢えて顔を合わせるのを避けているように感じた。
軽やかな楽団の生演奏が重い沈黙の中の二人の上を皮肉にも流れて行く。
「……わかった。そうしようか」
そこにはどんな葛藤が込められていたのだろうか、やがて彼は渋るでもなく憤るでもなく吐息と共に淡々として承諾した。
望んでいた結末とはいえ快いものでは決してない。エレノアはぎゅっと両の瞼を強く瞑った。
「でもエリー、今日だけはせめて心ゆくまで踊ろう?」
ついさっきまでは踊るつもりでここに立ったのだ。
しかしエレノアはゆるゆると首を振った。
――一曲だけに。
喋れるのに筆談で、エレノアなのに別人として会うなんて、本当に馬鹿げている。
でももうあと少しでこの茶番も終わるのだ。
「わかった。でも、それまでは、お試しだけど君は僕の恋人だ」
心がごめんを叫んでいた。
ささやかな彼の願いは、握った掌の温もりと共にエレノアの心に切なく沁みた。
今夜でジュリアンとは本当にお別れだ。彼の順調な人生を望むならこれ以上関わらないのがベストだろう。
それでも噂に聞くように、会わない間にエレノア以外の女性の手を取っていたのだと思うと、恨み節をぶつけたくはなる。
(ふああまた嫉妬おぉ! もう自己嫌悪しかないよぉ……)
ダンスの始まる時間に少し余裕を持ってアメリアと共に舞踏会会場に入ると、既にジュリアンが来ているのがわかった。
ほとんど顔を隠していないマスク姿の彼は、他の客たちと歓談している。周囲を囲む面々は総じて女性の方が多い。
「あらまあクレイトン様ったら大人気ですわね」
「わぁーモテてるー……」
目元も隠れる仮面の奥でどこか投げやりな目になるエレノアは、
「ううん、人気者なのは喜ばしいじゃないの、ね!」
と自分の思考修正に頑張った。
「エリーも難儀な性分ですわね。やっぱり何もかもしがらみを放り出して飛び込んでみたらどう?」
「……もう言わないで」
因みに当然ながらこの会場内ではエレノアではなくエリー呼びにしてもらっている。
ジュリアンからは自分の居場所は見ればすぐわかると思うので、エレノアから声を掛けてと言われていた。
確かにあの人だかりでは見落としようがない。
「そういえばエリーどうかしら、この会場の出来栄えは。業者と打ち合わせを何度もして頑張りましたのよ」
それ自体が大きな宝石のようなシャンデリアが幾つも天上から吊り下げられ、見栄えのための壁際の垂れ幕もふんだんに使われている。床は鏡のように磨き上げられまさに豪華絢爛だ。壁に沿って置かれた椅子も特注なのか凝っていて、リボン系の装飾が多めなのはアメリアの好みだろう。
そこに集う色鮮やかで妖しげな仮面の人々。一角に盛り付けられた軽食は妖精の国のお菓子のようだ。
舞踏会に相応しい幻想的な夢の中と言われればその通りだった。
「想像以上で褒める所しかないわ」
「ホント! 良かったですわ!」
両手を叩き合わせて得意になるアメリアは、喜びと満足を表現した。
「じっくり見て行って頂戴ね? 私は面倒ですけれど挨拶回りして来ますわ」
「わかったわ。行ってらっしゃい」
両親の姿を見つけたアメリアは歩き出そうとして、けれど一度足を戻した。エレノアに向き直る。
「エリー、色々とあなたが納得のいく結末になるよう祈ってますわ。悲しくなっても、今日のために飾り付けたこの明るい会場がちょっとでも慰めになってくれたら本望よ」
それだけを大真面目に告げると、長男たる兄とは違ってそれほど縛りのきつくないアメリアは、「愛想笑いするのって面倒ですわ」と気乗りしない様子で招待客で賑わう中へと姿を消した。
(ありがとう、アメリア)
本当に彼女は良い子だ。失う物の多かった中、この出会いは幸運だった。
(ダンスまでもう少しあるし、心の準備も必要だし、ジュリアンに話しかけるのはまだいいかな)
アメリアの背中を見送っていた視線を人垣の先に見え隠れするジュリアンへと向け、そんな事を思っていたら唐突に声を掛けられた。
「お嬢さんは一人かな?」
「はい?」
コツリと音がして、振り返れば年上だろう仮面の紳士がこちらを見据えている。
黒々とした頭髪や腰の伸びた姿勢からしてまだそこまで歳を重ねてはいなそうだったが、杖を突いていた。
醸す雰囲気から歳は四十前後に思われたが、単に若い印象を受けるだけで実はもっと上なのかもしれない。
声は理知に満ち、低く、一度聞いたら忘れられないような印象的な響きだった。
口元の見える仕様の仮面なので相手が微笑んでいるのはわかった。
(物腰が洗練されているし、貴族かしらこの人。惜しいわ、イケオジっぽいからアメリアがいたら大喜びしたのに)
「そろそろダンスの始まる頃合いだね。お相手がいないのならどうだね。是非私と一曲踊ってはもらえまいか?」
「ええと……」
踊る以前に足が悪いのではないのだろうか。ダンスは優雅に見えて案外動きが激しい。
エレノアのそんな逡巡と懸念を読み取ったのか、男性はくつくつと笑う。
「確かに見ての通りのこの足だがね、一曲程度はさもないよ」
それが見栄なのか本音なのかはわからないが、エレノアにはジュリアンがいる。断るしかなかった。
その旨を告げようとした所で、ぐいと肩を抱かれて男性から離されるように後ろに引かれた。
「申し訳ない。彼女は僕の専属なんですよ」
ジュリアンだった。
(い、いつの間にこっちに来たの?)
てっきり談笑に興じるのに忙しくて自分には気付いていないと思っていた。
仮面だってしているのだ。
(い、犬並み! でも良かった。喋った所は聞かれてなかったみたいね)
「ほう。君は? ……と、ああいや失礼、今日のこの場は皆名もなき者たちなのだったな」
「お気になさらず」
「既にお相手がいたとは、野暮な横やりを入れてしまったようだね。だが悪く思わないでくれたまえ。邪魔者は退散するとしよう」
「ええ、会場にはまだまだ沢山の美しい花たちがいますので、きっと貴殿のお眼鏡に適う相手と出会えるでしょう。この僕のように」
おそらく歳上の人間だとわかったのかジュリアンは丁寧に応対している。
ただ、見せつけるようにエレノアを自分へと抱き寄せはした。
(ジ、ジュリアンったら!)
二人の様子を見てか、男性はどこか可笑しそうに短く笑うと、あっさりと踵を返して人の合間に紛れた。
コツリ、コツリと杖の音が遠ざかる。
「……あの音、仕込み杖?」
ジュリアンが真面目な面持ちで何かを呟いたが、会場のざわめきに紛れてエレノアはよく聞き取れなかった。
どうしたのだろうと見上げていると、視線に気付いたのかぱっとジュリアンは表情を切り替える。
「エリー、君から声を掛けてと言ってあっただろう?」
ちょっと拗ねたように見下ろして来ると、白手袋をした手を差し出してきた。
言葉を書いてという意だろう。
(ジュリアンとの先約があるから今の人とは踊るわけがないのに、どうしてそんなに機嫌が悪そうなのかしら)
――まだ時間じゃなかったですし、少し会場内を見て回ろうかと思っていたんです。
「それなら僕が喜んで案内するよ。何しろ一番乗りだったから」
(何か凄い張り切ってる……!)
綺麗所の集まる夜会がそんなに好きなのかと思えば、仮面の下の頬がちょっと膨らんだ。
しかしそれでは駄目だと今日何度目だろう自分を戒める。
一方ジュリアンは、戒めや自重という言葉とまるで無縁のようにエスコートのための腕を差し出すと、
「それでは時間までお供致しましょう、姫」
なんておどけた。
「ミレーユ、奴らは引っ掛かると思うか?」
「間違いなく引っ掛かると思うわよ」
「私にはそこがまだ八割方しか確信が持てないんだけどなあ」
「あらどうして? 計画の立案者が十全じゃないなんて随分弱気ねえ」
「どうしてって、狐顔の男にしたってお嬢様を狙う危ない橋を渡るよりは、詐欺で稼いだ金で贅沢三昧していた方が安全だろう?」
「もっと荒稼ぎしたいのよあの手の輩は。……そうでなければ、黒幕からお金はほとんど彼らに渡ってないのかもね。だって渡しちゃったら駒として従ってくれないじゃない?」
「ああ、それはあり得るな」
ピンカートン家に向かう馬車の中、納得を浮かべるジャスティンの向かいに座るミレーユは、上機嫌にピンクブロンドのウィッグを被ってエレノアに変装中だ。これに仮面を付ければ囮作戦の主役の完成で、ジャスティンはそのお付き役。
「必ず接触はして来るはずよ。彼らが至宝を求める限りは、エレノアちゃんが必要でしょうからね」
「至宝、か」
ジャスティンはややぞんざいに息を吐く。
「ミレーユ、君はこの件で僕に何か隠していないか? 奴らが今も捕まらないのは匿って支援している人物がいるからだ。そしてその人物はそこそこ力があるこの国の――宰相だ。……と、ここまではいい。君は知っているのだろう? 至宝至宝とは言うけどその至宝がすなわちどのような意味を持つ存在かを。私もその意味を知っておきたい」
先日エレノアたちが事務所に来た時から情報の更新があって、黒幕は王家の関係者――宰相だという線が濃厚になったのだ。いや、ほぼ確定だ。
ただ、エレノア・メイフィールド伯爵令嬢が仮面舞踏会に出席する……という情報を流した途端、今まで息を潜めていた先方が痕跡を残したのは、不自然で出来過ぎで、正直な所些かの疑念を抱いた。
裏切り者でもいるのか、或いは、逆にこれは罠かもしれない、と。
しかし、彼らが罠を張る納得のいく理由など思いつかない。
だからジャスティンたちはその痕跡を素直に利用して宰相を割り出したのだ。
今日まで宰相の屋敷に踏み込まなかったのは、物的証拠がなく、巧妙に匿っているのか手下たちの居場所の確証が持てなかったからだ。仮に予想通り屋敷に潜んでいる所を拘束できたとして、知らぬ存ぜぬで押し通されてはすぐに釈放する羽目になる。
そんなわけで彼らには現行犯で動いてもらう必要があった。
今夜が例の囮作戦決行日という点も含め、エレノアはまだ知らない。
国の宰相が関与しているかもしれないなんて大ごとを、確信はあるとは言え推測の段階で伝えるわけにはいかなかったのだ。
向かいからの凝視に、ミレーユは溜息のようなものを吐き出した。
「覇王の緑を知ってるかしら? 至宝はそれの事よ」
「えっ本当なのか? 名前くらいは知っているけど、正直眉唾だと思っていた」
「神殿での占いでメイフィールド家に存在していると、そう出たらしいのよ」
「占い~? ハハハそんな不確かなものをあてにしての一連の暴挙だって言うのか?」
「仮にもこの国の君主は即位時に天より認められた者とされるんだし、その祭事を司る神殿の託宣やお告げを蔑ろにはできないのが王家なのよ。しかも抜き差しならない継承問題が勃発している最中なら、至宝でも何でも持ち出して、相手より一段でも高みに登っておきたいんじゃないの?」
「権力者は時に馬鹿だよな」
ジャスティンはしみじみと言った。
「それ外では言わないのよ?」
「そのくらいの分別はあるよ。じゃあ今夜は手下だけじゃなく宰相も姿を見せるかもしれないな」
「そうね。切羽詰まってそうだもの。それにあたしたちやヴィセラス坊やの目の届く範囲にエレノアちゃんがいた方が安心できるしね」
「君とそのヴィセラス君ってどういう関係なんだ?」
「直接の面識はないわよ、文書でのやり取りだけの関係だから。んーそうねえ、文通相手ってとこ?」
ジャスティンは苦笑した。
「君も秘密が多いよな。ところで君は――本当にこちらの味方なのか?」
ミレーユは軽やかに声を立てて笑うと、気さくな笑みのままこう言った。
「現状はそうね。養父は無駄な王位争いは望んでいないわ。でも、この先はわからない。その時もしもあなたが敵なら、躊躇なく消すわよ?」
「……それは手厳しいな」
おどけて言われた脅しでも冗談でもない純粋な鋭い言葉に、彼は彼で口の端に意味深な笑みを刷いた。
ダンスの時間になると、希望者たちは続々とホールの中央に出て来た。エレノアとジュリアンもその中の一組だ。
ジュリアンが機嫌を直して説明までしてくれた会場内。到着してから今まで時間がたっぷりあったからなのかやけに詳しかった。
エレノアは、言わなければならない。
彼に連れられている間も何度も伝えようと思った。
けれどその都度彼の楽しそうな様子に言い出せなかった。
(ジュリアンの笑顔も、優しさも、今の私には毒にも等しい)
だから早く言わないと、と気ばかりが急く。
このダンスの前か後か、なるべく早く……。
ジュリアンは穏やかな微笑で自分を見つめている。
その眼差しにとくんと胸が高鳴って感情が切なく動く。
(あぁ、もうっ、しっかりするの!)
エレノアは自分を叱咤し背筋を伸ばした。
(やっぱり踊る前じゃないと、無駄に期待持たせるだけだわ)
音楽はまだ変わらない。
準備が整うのを見計らっているのだろう。
いつ始まってもいいよう既にジュリアンと向かい合って立つエレノアは、思い切ってホールドの姿勢を戻すと、覚悟が揺らがないうちにと強引に彼の手を取った。
「エリー?」
――今夜で最後にしてほしいんです。
急いで指を走らせる。
「え……?」
――私たち、もうこれっきりにしましょう。
「…………」
ジュリアンはしばし押し黙って指文字が書かれた掌を見つめていた。
優雅なワルツの調べが始まった。
時に置き去られたかのように動かない二人に好奇の視線が集まる。
(うう、顔を見れない)
どうせ仮面なのだと思っても、どうしても顔を上げられなかった。
黙りこんで俯くエレノアの上からジュリアンの静かな声が降る。
「どうしても、その結論は覆らないの? じっくり考えた末の答え?」
シンプルな、理由を質すでもない問いかけだった。
こくりと頷くとジュリアンは長い溜息をついた。
「そう」
短い中に凝縮された悲しみを感じ、エレノアはようやく顔を上げた。
伏し目がちの彼はどこか諦めにも似た色を浮かべ、エレノアを見てはいなかった。
向こうも敢えて顔を合わせるのを避けているように感じた。
軽やかな楽団の生演奏が重い沈黙の中の二人の上を皮肉にも流れて行く。
「……わかった。そうしようか」
そこにはどんな葛藤が込められていたのだろうか、やがて彼は渋るでもなく憤るでもなく吐息と共に淡々として承諾した。
望んでいた結末とはいえ快いものでは決してない。エレノアはぎゅっと両の瞼を強く瞑った。
「でもエリー、今日だけはせめて心ゆくまで踊ろう?」
ついさっきまでは踊るつもりでここに立ったのだ。
しかしエレノアはゆるゆると首を振った。
――一曲だけに。
喋れるのに筆談で、エレノアなのに別人として会うなんて、本当に馬鹿げている。
でももうあと少しでこの茶番も終わるのだ。
「わかった。でも、それまでは、お試しだけど君は僕の恋人だ」
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ささやかな彼の願いは、握った掌の温もりと共にエレノアの心に切なく沁みた。
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