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第八話 犯人目撃

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 感情に任せて全て明かしてしまえと思う一方で、冷静な自分がいる。
 エレノアは思い切ってこう問いかけてみた。

 ――でも、その人の事はもう諦めているんですよね?

 無神経な娘だと怒るだろうか。ならばそれでもいい。
 エレノアにはこれ以上彼に近付くつもりはないのだ。
 僅かに目を瞠ったジュリアンはしばらくじっと掌上を見つめていた。ようやく何か言葉を思い付いたのか静かに呼気を吐き出す。

「それの答えは次だね。今度は僕の番」

 弱ったような表情に、エレノアは頷くしかできない。

「じゃあ、そうだな。エリー、君には現在好きな人はいる?」

 恋人はいないと先日の夜会で遠回しに知れているので、この質問なのだろうか。
 茶化しているのかと思いきや、彼は意外にも真面目な面持ちだった。

 ――今は、いません。

「良かった。ならこれで苺と蜂蜜の君を心置きなく口説けるよ」

 勝手にエレノアの髪を一房掬い取って口付けるジュリアンの言動に、またもや空気役のピンカートン兄妹が揃って全身痒そうにした。

「ダニでもいたかな?」

 ジュリアンが他人事口調でキョトンとする。

「お前な、白々しいんだよ」
「ふふ、何が?」

 エレノアはベールの下で唖然としていた。
 何度も思っているが人間変われば本当に変わる。彼がこんな歯の浮くセリフを自分へとのたまう日が来るなんて思いもしなかった。
 だがそれよりもだ。

(――ときめいてどうする私ッ)

「エリー、心配しなくても急に襲ったりしないからそう警戒しないほしいな。さて、君のさっきの質問だけど、僕は彼女を必ず見つけ出すつもりでいる。そうして話をしたいと思ってる。ただ、婚約云々は白紙で構わない。元々互いの意思から生じたものじゃなく家同士の決め事だったからね。それに無理強いはしたくない」

 家同士の決め事。確かにその通りだった。
 互いの意思から生じたものではない。それだってその通りだ。
 けれど、彼の口からそんな風に言われて胸がチクリとした。

「一度スタート地点に戻りたいんだ。可愛い友人としてあの子はずっと大事な子だ。一目無事な姿を見られれば、今はそれでいいと思ってる」

 エレノアは我知らず、両手を強く握り締めていた。
 仮にもお試しお付き合いをしている相手に、問われたからとぺらぺら昔の女の話をする無神経さに憤ったわけではない。
 むしろそれを出来てしまう程にエレノア・メイフィールドという人間を大切にしてくれていた彼に、今の中途半端な自分は顔向けできないと感じたからだ。

(心配掛けてごめんなさい)

 そう言いたかった。
 本当にここで全部明かしたらどうなるだろう、とそんな気持ちが込み上げる。

(……でも、駄目。危ない事に巻き込むかもしれないもの)

 騙していると知られれば、今度は本当に嫌われるかもしれないという怖さはある。ただそれがなかったとしても正体を告げるのは憚られた。

 エレノアは没落騒動の裏に悪意が張り付いているのを知っている。

 叔父を騙した詐欺師連中と、二度屋敷に押し入ってきた連中は同一組織だろう。
 ややもすると同一の人間かもしれない。
 それを教えてくれたのは、メイフィールド家の顧問弁護士だ。
 王都の屋敷タウンハウスを出てからピンカートン家に雇い入れられるまでの空白の一カ月、エレノアたちはその弁護士の世話になっていた。事情通かつ王都ですぐに頼れる相手が彼しか思い浮かばなかったのだ。
 実際、二度目の押し入り後、王都に事務所を構える弁護士の事務所には、エレノアの行き先を探ろうと見知らぬ男たちがやって来たという。

 彼からはその男たちの人相描きも渡されていた。

 現在もエレノアが捜されているかはわからない。
 仮にそうだとしても、今はエレノアの方から近付こうとしているのだ。
 ジュリアンを関わらせたくはなかった。

「ああごめん、また湿った空気にしてしまったかな。今日は君と楽しみたいと思ってるのに」

 エレノアは首を振った。彼が気にする必要なんてない。元々こちらから振った話題だ。

「良かった。正直君にこんな話は無神経かなとは思ったんだけど、不誠実に嘘はつけなかった。エレノアに対しても、君に対しても」

 彼の安堵の声が馬車内に響いて、その後ちょうど良くゆっくりと停車する。
 道路に横付けされた馬車窓から見えるのはこの街一番の大きな劇場。観劇のために集った紳士淑女たちがガス灯で明るい入口へと吸い込まれて行く。

(わあ、ここも久しぶり)

 エレノアの沈んだ気分は僅かに浮上した。以前は社交の季節ごとによく訪れたものだった。

「どうやら今夜も客入りは盛況のようだね」
「お兄様も早く降りて頂戴! さあ歌劇観に行きますわよ!」
「俺はここで寝てるよ」
「いいから行くのですわーーーーッ!」

 ジュリアンの横に立って頷くエレノアの耳に、アメリアが力一杯騒ぐ声が聞こえてくる。

「ねえエリー、ピンカートン家はいつも賑やかそうでいいね」

 思わず和んでいたら、ジュリアンも兄妹のやり取りに可笑しそうにした。
 流行りの歌劇を四人揃ってボックス席で観覧し終え、会場から帰りの馬車が待つ大通りまで歩く間、すっかり興奮したアメリアが延々と主演の若手男性歌手の歌唱力を褒めちぎっていた。
 オペラグラスで念入りに確認したという顔も好みだったらしく、最早当初の空気設定はどこへやらだ。
 けれどアメリアがこんな風に喜んでくれるなら、覆面交際も悪くないと思った。

「そういえば今夜はいつもより警備が厳重でしたけれど、誰か居たのかしら?」
「国王陛下や王子殿下たちがご観賞に来てたからだろ?」
「あらそうでしたの。そう言われてみれば一階席の中央の方に銀髪の集団がいらしたかも」

 この国の王族は総じて銀髪だ。
 瞳さえ銀色の者も中にはいるらしい。

「エリーはどうだった?」

 観劇に来た者たちの馬車は数が多く、まだ自分たちの馬車は場所がないのか通りには入って来ていなかったのでそのまま通りで待っていると、隣に立つジュリアンが掌を出してきた。
 エレノアは首を竦めながら指を当て動かす。

 ――観るのは本当に好きなんですけど、最後の方はどうしても眠くなってしまって。

 素直過ぎる回答に、ジュリアンは思わずと言った具合に相好を崩した。

「君ってすごく正直なんだね」

 正直。
 心臓がぎゅっと絞られる心地でエレノアはベールの陰で唇を噛んだ。
 今の自分に一番似つかわしくない言葉だったから。

 ――でも、とても有意義で楽しい時間でした。

 罪悪感に指先が震えないよう注意を払いながら動かすと、

「それはよかった」

 ジュリアンはそう微笑み、ちょうど良く御者が馬車を回してきたのに乗りこんで、エレノアへと手を差し出してくれた。
 彼の手に摑まって馬車に乗り込もうとしたエレノアは、ふと見やった石畳の通りに、とある男たちを見つけた。
 キャスケット帽に簡素な茶色い外套を着たひょろりとした陰気そうな男と、外套の下に背広を着込んだ狐のような顔をした口の巧そうな男。
 二人はそれぞれ小脇に鞄を抱えている。
 そのうちの一人にどうも見覚えがある気がした。

(あの人どこかで……?)

 こちらに近づき通り過ぎていく様を、しばし動作を止めぼんやり眺める。
 その時、まるで閃くように記憶のひきだしから男の正体を引き当てた。

(――ああっあの狐顔の方、人相描きの男の一人にそっくりだわ!)

 弁護士からもらった人相描きを持ち歩いてはいないが、忘れてはならない顔だとして細部まで記憶している。
 詐欺師と襲撃犯の繋がりはないかと、叔父からは手紙で投資話を持ち掛けて来た男の特徴を教えてもらってもいた。狐っぽい独特の風貌をした男だったと綴られた文面を思い出し、エレノアは確信を強める。

(あの男が詐欺師一味かもしれないわ)

 顧問弁護士は、彼らのうちの一人でもが見つかれば何らかの手が打てるかもしれないと言っていた。

(捕まえなくちゃ。私が必ず……!)

「エリー?」

 馬車のステップに掛けようとしていた足を石畳に下ろし、ジュリアンの手から自分の手を引き抜くと、訝る声を無視して歩き出した。
 いや、意図して無視したのではない。意識に上らなかったのだ。
 突如無言で歩き出したエレノアを、ジュリアンは元より、アメリアもヴィセラスも不思議そうにしばし見送ってからハッとしたように慌てて追いかける。
 アメリア、ヴィセラスと続き、馬車から降りたジュリアンは最後だ。

「エリー、どこ行くんですの? エリーってば!」

 アメリアの呼びかけも聞こえていないエレノアは、最早笛吹きに暗示を掛けられた子供のように男たちの背中しか見えていなかった。

(捕まえなくちゃ。早く。でもどうやって? 相手は二人。私は一人。でも捕まえなくちゃ!)

 人混みに見失わないよう必死に目を凝らし、徐々に歩く速度を上げ、速足、そして駆け出す。

「エリー!?」

 アメリアもさすがに驚いた声を上げた。

(こんな人通りの多い場所をのうのうと歩いてる。もしも本当に犯人なら、許せない!)

 追い付いた背中に手を伸ばす。

「待って!」

 馬車からだいぶ離れた所でエレノアは狐顔の男の腕を摑んだ。
 まだ歌劇場の周囲で帰りの客が多い雑踏の中なので、声はジュリアン達には届いていない。ただ今のエレノアはそんな危機感をすっかり失念していたので運よく状況が味方しただけだ。

「ああ?」

 男は振り返って不審そうにじろじろと見て来るや眉を寄せる。
 喪中でもないようなのに執拗にベールを重ねる奇妙な娘に引き留められれば、最初は誰だってそんな顔をするに違いない。

「何だよ? ……ってああへへっこんな所で客引きか? いいぞ少しなら」
「おいそんな時間はないだろ」

 痩せぎすの男から注意され下卑た笑みを浮かべた狐顔の男は不満そうにした。
 興醒めしたように「んだよ」と両肩を竦めてみせる。

「残念残念。悪いなねえちゃん。機会があれば今度、な?」

 ポンポンと撫でるように外出着のドレスの腰回りを触られ、背筋にぞわりと悪寒が走った。
 あと、無遠慮にベールをめくって顔を覗き込んでもきた。
 声を上げる暇もなく硬直するエレノアの顔を注視して、そして何かに引っかかったように男は目を眇めた。

「ん? あんたのその目、何だか……?」

(目……? ――あ!)

「エリー、急にどうしたんだい?」

 慌てて隠そうとした矢先、ジュリアンが兄妹を抜かし後ろから追い付いてきた。
 その声が好機とばかりにエレノアは身を引いて男の手からベールを外させる。
 華やかな容姿のジュリアンを視認すると、面白くなさそうにした男はこれ見よがしに鼻を鳴らした。

「男付きかよ。よくわからない女だな」
「おい女を買うなら後にしろ! 早く行くぞ!」
「わかってるよ!」

 狐顔の男は連れの男に急かされて苛立った声で応じ、後はもうエレノアに興味を失くしてさっさと行ってしまう。

(あっ! 待っ……!)

「エリー?」

 摑もうと伸ばした腕はけれど、それ以上は動かなかった。
 歯止めのようなジュリアンの声がエレノアの行動を鈍らせる。
 不可解そうにしている彼の後ろからアメリアとヴィセラスもすぐにやってきて、三人で様子のおかしなエレノアを心配そうに見つめてくる。
 エレノアは岐路に立たされていた。
 三人を気にして一度退くべきか、無理に追いかけるべきか。
 下手に関わらせたくないのだ。
 ジュリアンに正体が露見するかもしれない危険も孕んでいる。

(でも、見失ったらもう二度とチャンスは来ないかもしれない)

 手がかりはこれが最初で最後かもしれないのだ。
 遠ざかる二人組の方へと爪先が動いた。

「悪い、俺ちょっと急用だ」

(え?)

「――俺が尾行けとくから安心しろ」

 エレノアにだけ聞こえるようすれ違いざま耳元で囁いたのは、ヴィセラスだった。びっくりし過ぎて何の反応もできない。

「えっどこ行くのお兄様?」
「ヴィセラス?」

 男たちの進んで行った方向と同じ方へと彼は駆け出して行った。
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