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第五話 ジュリアン・クレイトンという男
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時はやや巻き戻って、仮面舞踏会の会場内。
ジュリアン・クレイトンは窓辺に佇み時折り料理の残りを抓みながら、一人物思いに耽っていた。
仮面舞踏会もたまにはいいかと暇潰しに出てみたら、見るからに甘いピンク色を見つけた。
良く知るあの子の色と全く同じピンクがかった薄い金髪。
記憶は少しも褪せず、むしろ日々鮮明にすらなっていくのにあの子は一体どこに行ってしまったのか。懐かしさに突き動かされて追いかけ、逃がすものかと声を掛け手を差し出していた。
向こうがすぐにこちらに気付かなかったら、きっと強引に腕を摑んでさえいただろう。
彼女から踊るつもりのない意思は汲み取れたが、強引に連れ出してしまっていた。
とは言え、相手の困惑に少しの申し訳なさを感じたのも一時だ。
思いのほかダンスの相性が良くて得意になったのは否定しない。
首尾よく自分はいつもみたいに、いやいつもよりも極上の身代わりを見つけたと思った。
「そう思った……んだけどなあ、はは、今夜は上手いこと逃げられちゃったな」
僅かな自嘲を孕んだ空虚な声は自分のものだ。そう自覚していても上の空な気分だった。
夜通し開かれる仮面舞踏会はもう人影も疎らだった。大半が帰ったか談笑に興じているか、はたまた宿泊専用の賓客室に相手と籠ったかだ。
「よおジュリアン、聞いたぞ。お前が逃げられるなんて珍しいな。その後他に目を移す気にならないほど良い女だったのか?」
「ああその声、誰かと思いきやヴィセラスか。いや、うぶなお嬢さんだったよ。顔は見てないけど」
「ハハハ、まあ仮面舞踏会だからな」
「君の妹と一緒に来ていたようだったよ。アメリア嬢だっけ、初めてお目にかかった。可愛らしいご令嬢じゃないか」
「何? アミィと? ……遊びで手を出すなよ?」
「心配性だな。君の大事な妹君には手を出さないと誓うよ」
「いや、アミィの事じゃ……」
「え?」
「あ~いやいい。それを聞いて安心だ。まあ、お前の好みとは正反対だろうしな。妹はじゃじゃ馬で小言がうるさい。今日は途中で帰ってくれてよかったよホント」
「ははっお兄ちゃんは大変だな」
「全くだ」
ジュリアンはくつくつと笑うと手にしていたグラスを近くのテーブルに置いた。
話しかけてきた友人は躊躇いなく仮面を外した。
彼の名はヴィセラス・ピンカートン。
アメリアの実兄だ。
「ところで妹さんの侍女のエリーだけど、どうやら彼女喋れないみたいだね。生まれつきなのか?」
一瞬、ヴィセラスが不可解な顔をしたが、ジュリアンは会場を眺めていて見ていなかった。
「…………ああ~、うんまあ~、そうなのかもな~。妹の侍女の事なんて詳しくは知らないがな~」
「君は酔っているのか?」
「あ、ああ多少な、ハハハ」
どこか不自然な様子は酔っているせいなのか、とジュリアンはとりあえず受け入れたが、別の所では普段滅法酒に強い友人にしては珍しいと疑問は湧いた。ただ、だからと言って自分と関わるような何かがあるとは思えなかったのでさっさとその思考を忘れた。
この国の法律では飲酒は十八で成人してからだが、貴族の嗜みとしてその前に必要に迫られる事もある。しかも今日は仮面舞踏会なので、身分も年齢も定かではなく皆どこの誰だろうと成人扱いと言うのが暗黙の了解でもあった。
ただしジュリアンはぎりぎり成人している年齢なので、こうして素顔を晒していても支障はなかったが。
加えて言うなら、ヴィセラスも成人しているので問題はなかった。彼の場合は家の仕事を学んでいたために一年遅れてアカデミーに入学しているので、年齢はジュリアンの一つ上だったりする。
貴族や金持ちの子弟の中には爵位の有無や年齢を気にする者もいるが、気さくなジュリアンと大抵が大雑把なヴィセラスなので、互いに気を遣わず楽な付き合いが出来ていた。
「ああでも何だ残念。妹さんは親友だって言っていたけど、君とはあまり顔を合わせないのか。君からも話を聞こうかと思ってたんだけどね」
「いや、エリーとはよく顔を合わせるよ。何と言うかまあかなりの美少女だな。あれで侍女だっていうのは正直ちょっと惜しい。あまり公の場は好きじゃないらしくて、アミィの用事がない時はいつも裏方の仕事ばかりこなしてるよ」
「ふうん、よく見てるじゃないか。もしかして実は狙ってるとか?」
ヴィセラスはしばし苦い顔付きで黙ったが、ゆるゆると首を振った。
「そんなんじゃない、俺はな」
「君は?」
妙な言い方だと思ってジュリアンが続きを促したが、友人は溜息のようなものを吐き出すと軽く払うように手を振った。
「いやいい。愚痴になるからやめとく。ただまあエリーは……お前が仮面を外させなかったのが残念としか言いようがない」
「へえ、そんなに美人なのか」
「ああ、もしかしたら一目で恋に落ちていたかもしれない」
存外真面目な顔で言われて、本心なのか揶揄なのか判断がつきかねた。とりあえずそんな友人の言葉に「まさか」と苦笑を返し、ジュリアンはここにいない何かを求めるように黄金のシャンデリアを見上げる。
「そろそろ帰ろうかな。ヴィセラス、君はどうする?」
「俺も帰るか。そういやさっきからチラチラとお前の方見てくる女性が多いが、誰か気に入るのはいないのか、色男?」
ジュリアンは曖昧に笑んだ。二人とも仮面などとっくに取っ払っているので、誰が見てもハイスペックな若い男の二人連れが暇を持て余しているようにしか見えない。
ジュリアンは勿論、妹と同じ茶色い髪と目をしたヴィセラスも案外モテる。
高身長からくる精悍な顔立ちの野生味溢れる男で、光の加減によっては茶色い瞳が百獣の王のように金色がかって見える。そのスマートさの中の男臭さがまた女性をうっとりさせるのだ。
「ヴィセラス、僕だってそういつも女性と遊んでばかりじゃないよ。今夜はそんな気分じゃないしね」
「あー、なるほど金髪がいないもんな」
「いや別に金髪好きってわけじゃあ……」
「ん、そうか? お前がいつも連れる女は決まって金髪かそれに近い髪をしていたと記憶してるがな」
「……君はその記憶力をもっと有効に使えばいい気がするよ」
「ハハハこれでも使ってるぜ。まっ俺も好みはいなそうだし帰るか。じゃあなジュリアン」
肩越しに軽く手を上げさっさとこの場を去ろうとする友人。その背中を見送ろうとしたジュリアンは、しかしらしくなく追いかけるようにした。
「ヴィセラス!」
「あん?」
足を止め不思議そうに振り返った友の顔を見て、衝動的に呼び止めてしまってからハタと我に返ったジュリアンは言葉を詰まらせた。
何故なら今まで逃げた魚を追うような真似はした事がなかった。
どうでも良かったからだ。
「あ、いや、今度そのエリーって子をこっそり見に行ってもいいかな? ……と思って」
「……へえ、珍しいな」
全くだと自分でも思った。今夜はどうかしている。顔さえ知らない少女相手にガッツクような真似をだなんて。いや顔がわからないからこそ気になっているのかもしれない。きっと一目見さえすれば興味も失せるに違いない。きっと……。
ヴィセラスが一瞬頬を硬くしたように見えたが、気のせいだったのか彼は面倒は御免と顔を顰める。
「それはいいが、くれぐれもうちの侍女と揉め事は起こさないでくれよ。アミィに恨まれたくないからな」
「心配ないって、君が言う所の美少女の顔をこっそり拝むだけだから」
「本当にそれだけで気が済むのか?」
「信用ないなあ」
「ハハッ、女に関してはお前に元々そんなもんあったか?」
「……何か気に障る事を言ったかな?」
「別に?」
これも何かの冗談だったのか、結局は了承してくれたヴィセラスは「まっ、なるようになるか」と呟いて天井を仰ぐと、
「エリーに幸あれ」
嘆く役者のように大仰に額に手を当ててみせた。
「はあああっ!? 何ですってクレイトン様がいらっしゃるですってえええっ!?」
仮面舞踏会から何日か経ったある日の朝食の席で、アメリアは大きく目を見開いて兄の姿を凝視した。
両親は忙しく既に仕事部屋に出向いている。朝の遅い貴族とは違って、商家であるピンカートン家は健全な生活サイクルを保っている。早起きは商売の基本だ。
その兄妹水入らずの席でアメリアは銀食器を取り落として激しい動揺を見せた。
「ああそうだ。でも何でそんなに緊迫した顔で驚くんだ? お前に会いに来るんじゃなくてエリーを見たいんだとさ。こっそり物陰からだから問題ないだろ」
「お兄様の馬鹿バカぶわぁかあああーっ! エリーが怒ってここを出てっちゃったら安請け合いしたお兄様のせいですからね! 問答無用で地獄に送ってやりますわ!」
「いや待ておい、何で俺が地獄に送られるって話になる――ってうわっ危ねえから食器を投げんな! ダーツ場かここは!」
「ピストルをぶっ放さないだけ感謝して欲しいものですわ。その話はなかったことにして頂戴ねお兄様。エリーはクレイトン様にはもう会いたくないと言ってましたのよ!」
「へえハハハ。あいつも完膚なきまでに振られる事もあるんだなー」
「振るとか振られるっていう次元の問題じゃないんですのよ、あの二人には! だからクレイトン様が来ないようにして!」
声も高らかに妹に厳命された兄は、ぽりぽりと気まずそうに頬を掻いた。
その仕種にアメリアは「まさかお兄様っ!?」と嫌な予感と共に声を荒らげる。こういう態度の時の兄はほとんどが手遅れなのだ。
果たして、ヴィセラスは申し訳なさそうに半笑いした。
「それ実は今日なんだよ。ずっと忘れてたんだが一応言っておこうと思っただけ偉いだろ俺。向こうの好きな時に来て勝手に見ろって言ってあるから、もしかしたらもう来てるかも……なんてなー、ハハハ」
「なっ……!」
恐れていた事態が現実になろうとしている。アメリアは無言でゆらり席を立った。
「ア、アミィ……?」
「お兄様の大馬鹿者っ今すぐ天に召されるがいいですわあああーーーーッッ!」
気付けばクロワッサンを乗せていた平皿が見事に彼の顔面に命中していた。
「こんな勝手な約束二度となさらないように。エリーに何かあったらお兄様と言えども……命はないですわよ?」
不気味に眼を光らせ魔王オーラを放出させながら、椅子ごとバターンと倒れる兄に不穏な台詞を放ち、朝食も半ばのアメリアはエレノアの元へと急いだ。ジュリアンが訪ねて来る前に手を打たなくてはならない。買い物でも何でもいい、とにかくこの屋敷から連れ出すか隠れるかしなければ、彼女がジュリアンに見つけられてしまう。
「私の見立てが正しければ、クレイトン様は――猛烈に厄介!! あの手の人って案外愛が重いから、きっと今でもエレノアを忘れてないですわ。ああもうエリーが無理やり攫われたらどうしましょう!!」
ドレスの裾をたくし上げとにかく走りながら、目に入った使用人たちに片っ端からエレノアの居所を訊ねて回った。食事中は侍女として傍に居なくてもいいとして、エレノアに自由な時間を過ごしてもらっていたのだ。
エレノアも部屋で食事をしているかと思いきや、早々に終えて何と勤勉にも家の仕事を手伝っているようだった。
だから現在地がわからない。
この取り決めが裏目に出る日が来るとは、全く以て世の中はままならない。
「あらそうですの洗濯室の方ね! ありがと! 後で差し入れ持ってくわー!」
情報提供者の使用人へと気さくに手を振ってアメリアは一路裏庭へ。洗濯室は別棟になっているのだ。
エレノアはどうやらアメリアの洗濯物を直接持って行ったらしい。ランドリーメイドにでも頼めばいいものを、とアメリアはもどかしく思う。
一刻も早く見つけたい思いでアメリアは踵に力を込めた。
ジュリアン・クレイトンは窓辺に佇み時折り料理の残りを抓みながら、一人物思いに耽っていた。
仮面舞踏会もたまにはいいかと暇潰しに出てみたら、見るからに甘いピンク色を見つけた。
良く知るあの子の色と全く同じピンクがかった薄い金髪。
記憶は少しも褪せず、むしろ日々鮮明にすらなっていくのにあの子は一体どこに行ってしまったのか。懐かしさに突き動かされて追いかけ、逃がすものかと声を掛け手を差し出していた。
向こうがすぐにこちらに気付かなかったら、きっと強引に腕を摑んでさえいただろう。
彼女から踊るつもりのない意思は汲み取れたが、強引に連れ出してしまっていた。
とは言え、相手の困惑に少しの申し訳なさを感じたのも一時だ。
思いのほかダンスの相性が良くて得意になったのは否定しない。
首尾よく自分はいつもみたいに、いやいつもよりも極上の身代わりを見つけたと思った。
「そう思った……んだけどなあ、はは、今夜は上手いこと逃げられちゃったな」
僅かな自嘲を孕んだ空虚な声は自分のものだ。そう自覚していても上の空な気分だった。
夜通し開かれる仮面舞踏会はもう人影も疎らだった。大半が帰ったか談笑に興じているか、はたまた宿泊専用の賓客室に相手と籠ったかだ。
「よおジュリアン、聞いたぞ。お前が逃げられるなんて珍しいな。その後他に目を移す気にならないほど良い女だったのか?」
「ああその声、誰かと思いきやヴィセラスか。いや、うぶなお嬢さんだったよ。顔は見てないけど」
「ハハハ、まあ仮面舞踏会だからな」
「君の妹と一緒に来ていたようだったよ。アメリア嬢だっけ、初めてお目にかかった。可愛らしいご令嬢じゃないか」
「何? アミィと? ……遊びで手を出すなよ?」
「心配性だな。君の大事な妹君には手を出さないと誓うよ」
「いや、アミィの事じゃ……」
「え?」
「あ~いやいい。それを聞いて安心だ。まあ、お前の好みとは正反対だろうしな。妹はじゃじゃ馬で小言がうるさい。今日は途中で帰ってくれてよかったよホント」
「ははっお兄ちゃんは大変だな」
「全くだ」
ジュリアンはくつくつと笑うと手にしていたグラスを近くのテーブルに置いた。
話しかけてきた友人は躊躇いなく仮面を外した。
彼の名はヴィセラス・ピンカートン。
アメリアの実兄だ。
「ところで妹さんの侍女のエリーだけど、どうやら彼女喋れないみたいだね。生まれつきなのか?」
一瞬、ヴィセラスが不可解な顔をしたが、ジュリアンは会場を眺めていて見ていなかった。
「…………ああ~、うんまあ~、そうなのかもな~。妹の侍女の事なんて詳しくは知らないがな~」
「君は酔っているのか?」
「あ、ああ多少な、ハハハ」
どこか不自然な様子は酔っているせいなのか、とジュリアンはとりあえず受け入れたが、別の所では普段滅法酒に強い友人にしては珍しいと疑問は湧いた。ただ、だからと言って自分と関わるような何かがあるとは思えなかったのでさっさとその思考を忘れた。
この国の法律では飲酒は十八で成人してからだが、貴族の嗜みとしてその前に必要に迫られる事もある。しかも今日は仮面舞踏会なので、身分も年齢も定かではなく皆どこの誰だろうと成人扱いと言うのが暗黙の了解でもあった。
ただしジュリアンはぎりぎり成人している年齢なので、こうして素顔を晒していても支障はなかったが。
加えて言うなら、ヴィセラスも成人しているので問題はなかった。彼の場合は家の仕事を学んでいたために一年遅れてアカデミーに入学しているので、年齢はジュリアンの一つ上だったりする。
貴族や金持ちの子弟の中には爵位の有無や年齢を気にする者もいるが、気さくなジュリアンと大抵が大雑把なヴィセラスなので、互いに気を遣わず楽な付き合いが出来ていた。
「ああでも何だ残念。妹さんは親友だって言っていたけど、君とはあまり顔を合わせないのか。君からも話を聞こうかと思ってたんだけどね」
「いや、エリーとはよく顔を合わせるよ。何と言うかまあかなりの美少女だな。あれで侍女だっていうのは正直ちょっと惜しい。あまり公の場は好きじゃないらしくて、アミィの用事がない時はいつも裏方の仕事ばかりこなしてるよ」
「ふうん、よく見てるじゃないか。もしかして実は狙ってるとか?」
ヴィセラスはしばし苦い顔付きで黙ったが、ゆるゆると首を振った。
「そんなんじゃない、俺はな」
「君は?」
妙な言い方だと思ってジュリアンが続きを促したが、友人は溜息のようなものを吐き出すと軽く払うように手を振った。
「いやいい。愚痴になるからやめとく。ただまあエリーは……お前が仮面を外させなかったのが残念としか言いようがない」
「へえ、そんなに美人なのか」
「ああ、もしかしたら一目で恋に落ちていたかもしれない」
存外真面目な顔で言われて、本心なのか揶揄なのか判断がつきかねた。とりあえずそんな友人の言葉に「まさか」と苦笑を返し、ジュリアンはここにいない何かを求めるように黄金のシャンデリアを見上げる。
「そろそろ帰ろうかな。ヴィセラス、君はどうする?」
「俺も帰るか。そういやさっきからチラチラとお前の方見てくる女性が多いが、誰か気に入るのはいないのか、色男?」
ジュリアンは曖昧に笑んだ。二人とも仮面などとっくに取っ払っているので、誰が見てもハイスペックな若い男の二人連れが暇を持て余しているようにしか見えない。
ジュリアンは勿論、妹と同じ茶色い髪と目をしたヴィセラスも案外モテる。
高身長からくる精悍な顔立ちの野生味溢れる男で、光の加減によっては茶色い瞳が百獣の王のように金色がかって見える。そのスマートさの中の男臭さがまた女性をうっとりさせるのだ。
「ヴィセラス、僕だってそういつも女性と遊んでばかりじゃないよ。今夜はそんな気分じゃないしね」
「あー、なるほど金髪がいないもんな」
「いや別に金髪好きってわけじゃあ……」
「ん、そうか? お前がいつも連れる女は決まって金髪かそれに近い髪をしていたと記憶してるがな」
「……君はその記憶力をもっと有効に使えばいい気がするよ」
「ハハハこれでも使ってるぜ。まっ俺も好みはいなそうだし帰るか。じゃあなジュリアン」
肩越しに軽く手を上げさっさとこの場を去ろうとする友人。その背中を見送ろうとしたジュリアンは、しかしらしくなく追いかけるようにした。
「ヴィセラス!」
「あん?」
足を止め不思議そうに振り返った友の顔を見て、衝動的に呼び止めてしまってからハタと我に返ったジュリアンは言葉を詰まらせた。
何故なら今まで逃げた魚を追うような真似はした事がなかった。
どうでも良かったからだ。
「あ、いや、今度そのエリーって子をこっそり見に行ってもいいかな? ……と思って」
「……へえ、珍しいな」
全くだと自分でも思った。今夜はどうかしている。顔さえ知らない少女相手にガッツクような真似をだなんて。いや顔がわからないからこそ気になっているのかもしれない。きっと一目見さえすれば興味も失せるに違いない。きっと……。
ヴィセラスが一瞬頬を硬くしたように見えたが、気のせいだったのか彼は面倒は御免と顔を顰める。
「それはいいが、くれぐれもうちの侍女と揉め事は起こさないでくれよ。アミィに恨まれたくないからな」
「心配ないって、君が言う所の美少女の顔をこっそり拝むだけだから」
「本当にそれだけで気が済むのか?」
「信用ないなあ」
「ハハッ、女に関してはお前に元々そんなもんあったか?」
「……何か気に障る事を言ったかな?」
「別に?」
これも何かの冗談だったのか、結局は了承してくれたヴィセラスは「まっ、なるようになるか」と呟いて天井を仰ぐと、
「エリーに幸あれ」
嘆く役者のように大仰に額に手を当ててみせた。
「はあああっ!? 何ですってクレイトン様がいらっしゃるですってえええっ!?」
仮面舞踏会から何日か経ったある日の朝食の席で、アメリアは大きく目を見開いて兄の姿を凝視した。
両親は忙しく既に仕事部屋に出向いている。朝の遅い貴族とは違って、商家であるピンカートン家は健全な生活サイクルを保っている。早起きは商売の基本だ。
その兄妹水入らずの席でアメリアは銀食器を取り落として激しい動揺を見せた。
「ああそうだ。でも何でそんなに緊迫した顔で驚くんだ? お前に会いに来るんじゃなくてエリーを見たいんだとさ。こっそり物陰からだから問題ないだろ」
「お兄様の馬鹿バカぶわぁかあああーっ! エリーが怒ってここを出てっちゃったら安請け合いしたお兄様のせいですからね! 問答無用で地獄に送ってやりますわ!」
「いや待ておい、何で俺が地獄に送られるって話になる――ってうわっ危ねえから食器を投げんな! ダーツ場かここは!」
「ピストルをぶっ放さないだけ感謝して欲しいものですわ。その話はなかったことにして頂戴ねお兄様。エリーはクレイトン様にはもう会いたくないと言ってましたのよ!」
「へえハハハ。あいつも完膚なきまでに振られる事もあるんだなー」
「振るとか振られるっていう次元の問題じゃないんですのよ、あの二人には! だからクレイトン様が来ないようにして!」
声も高らかに妹に厳命された兄は、ぽりぽりと気まずそうに頬を掻いた。
その仕種にアメリアは「まさかお兄様っ!?」と嫌な予感と共に声を荒らげる。こういう態度の時の兄はほとんどが手遅れなのだ。
果たして、ヴィセラスは申し訳なさそうに半笑いした。
「それ実は今日なんだよ。ずっと忘れてたんだが一応言っておこうと思っただけ偉いだろ俺。向こうの好きな時に来て勝手に見ろって言ってあるから、もしかしたらもう来てるかも……なんてなー、ハハハ」
「なっ……!」
恐れていた事態が現実になろうとしている。アメリアは無言でゆらり席を立った。
「ア、アミィ……?」
「お兄様の大馬鹿者っ今すぐ天に召されるがいいですわあああーーーーッッ!」
気付けばクロワッサンを乗せていた平皿が見事に彼の顔面に命中していた。
「こんな勝手な約束二度となさらないように。エリーに何かあったらお兄様と言えども……命はないですわよ?」
不気味に眼を光らせ魔王オーラを放出させながら、椅子ごとバターンと倒れる兄に不穏な台詞を放ち、朝食も半ばのアメリアはエレノアの元へと急いだ。ジュリアンが訪ねて来る前に手を打たなくてはならない。買い物でも何でもいい、とにかくこの屋敷から連れ出すか隠れるかしなければ、彼女がジュリアンに見つけられてしまう。
「私の見立てが正しければ、クレイトン様は――猛烈に厄介!! あの手の人って案外愛が重いから、きっと今でもエレノアを忘れてないですわ。ああもうエリーが無理やり攫われたらどうしましょう!!」
ドレスの裾をたくし上げとにかく走りながら、目に入った使用人たちに片っ端からエレノアの居所を訊ねて回った。食事中は侍女として傍に居なくてもいいとして、エレノアに自由な時間を過ごしてもらっていたのだ。
エレノアも部屋で食事をしているかと思いきや、早々に終えて何と勤勉にも家の仕事を手伝っているようだった。
だから現在地がわからない。
この取り決めが裏目に出る日が来るとは、全く以て世の中はままならない。
「あらそうですの洗濯室の方ね! ありがと! 後で差し入れ持ってくわー!」
情報提供者の使用人へと気さくに手を振ってアメリアは一路裏庭へ。洗濯室は別棟になっているのだ。
エレノアはどうやらアメリアの洗濯物を直接持って行ったらしい。ランドリーメイドにでも頼めばいいものを、とアメリアはもどかしく思う。
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