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36 後日談・発熱ノーカウント(前)
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この日、最愛の恋人が久しぶりに肖子偉の滞在地に出前を届けに来てくれていた。
彼女の方も店が終わってからなので、外はもう真っ暗い。
「お待たせ、子偉! 出前だよ~!」
開口一番の爽やかな笑顔、そして白い歯が眩しい凛風には、肖子偉も毎度の事ながら心臓が跳ねて頬が赤くなってしまう。
それにもう凛風は二人きりの時などの私的な場で「殿下」呼びはしない。
敬語だって使わない。
そこがまた擽ったく感じる肖子偉だ。
彼が一時的に滞在している任地の宿の部屋に、共に来ていた黒蛇の配下の一人から案内されて元気よく入ってきた凛風は、床より一段高い座敷の文机で報告書か何かの書面を広げていた肖子偉が座敷を降りてくるのを横目に、床から伸びる円卓の上にトンと岡持ちを置く。
「無事に着いて良かった。そろそろ来ると思っていたのだ」
弾んだ声の肖子偉が歓迎する様子で傍に行けば、何を思ったのか凛風は彼の正面に改まったように向き直った。
律儀に挨拶でもするつもりだろうかと肖子偉が思っていると、そっと腕を伸ばして頬に触れてきた。
あたかも、その元気そうな姿が幻ではないと確認でもするように。
「リ、凛風?」
今では彼も凛風呼びである。
思わず意図を問えば、凛風は安堵したような吐息を落とす。
「良かった。体調崩したり怪我したりしてないみたいね」
「う、うん大丈夫」
「少し日が開いて久しぶりだったから、ちょっと心配だったんだ」
会って早々優しく頬を撫でられて、肖子偉は予想外の甘いスキンシップにドギマギとしていたが、一方では自分はそんなに不健康そうな顔色をしているだろうかと頬を撫でた。
(これでも少しは日に焼けて男らしくなったと思うのだが……。黒蛇にも鍛えてもらっているし。炊事洗濯家事一切もそれなりに出来るようにもなったし。うさちゃん雲の刺繍だってもう出来る……! これでも少しは成長していると思う)
決して頓珍漢な発想ではないが、場違いではある思考を噛ます肖子偉はしかし、武芸達者な貴公子然とした凛風にとっては、やはり自分はまだまだなのだろうとちょっと自信を失くした。
ただ、いつもなら肩を落としている所だが、しかし今夜はそれどころではなかった。
凛風が何故かまだ自分の頬を撫で撫でしてくるのだ。
次回に化粧品でも差し入れするつもりなのかもしれない。実際過去に一度あって正直困惑したものだった。
「レ、雷凛風? 凛風? とりあえず夕食、夕食にしよう!」
「ああ、そうだね」
促せば、上機嫌な凛風はあっさり頷いて、早速と円卓の上に料理を広げ始める。
今や包子だけではなく、栄養の配分を考えて他の料理や点心も一緒に持って来てくれるようになっていた。
「黒蛇は遅くなるらしいから、彼の分の包子は帰るギリギリまで岡持ちに入れておいてもらえると彼も喜ぶと思う」
そう頼めば凛風は承諾に頷く。
肖子偉が黒蛇と身分を伏せての巡行に出て半年は経ったのだが、いつの間にか凛風は黒蛇の分の包子まで用意するようになっていた。
彼が実は白家の包子が大好物だからだ。
きっかけは肖子偉が皇都を離れて最初の任地に赴いて、そこへ凛風が包子を出前した際の事だ。
『――うおお!? 姐御天女! 俺に会いに来てくれたのか!』
肖子偉に遅れて彼と同室の宿の部屋に帰るなり、凛風の姿を見た黒蛇は甚く感動したように叫んだものだった。
即座に否定した凛風の辛辣な言葉も気にした様子もなく、彼は卓子の上に置かれた岡持ちを見て不思議そうにした。
『おう何だ今日は出前取ったのか』
道中では自炊が基本だったが、宿に、しかもそれが赴任地の宿となればそれも崩れる。あの当時は裕福な商人を装っていたので切り詰めるのはかえって不審を抱かれるという状況でもあったために、宿や近くの料理屋に食事を頼むのはごく自然だった。
岡持ちの蓋はまだ開けられていなかったが、黒蛇は微かに漂う包子の香気を敏感に嗅ぎつけたように鼻を突き出した。
『そっから包子っぽいすげえ良い匂いがすんだけど』
『包子っぽいじゃなくて、まさにうちの店の包子だよ』
『へえ、姐御ん家は料理店なのか』
『まあね』
黒蛇は胃の腑の辺りを押さえて「すげえ腹減ってたんだよな」と岡持ちへと手を伸ばした。
『こらっどういうつもり?』
『いてッ』
凛風からぴしゃっと手の甲を叩かれて引っ込める。
『少し分けてもらおうと思ったんだって』
『これは子偉のための物だから、あなたにはあげられないよ』
凛風が睨むと、黒蛇はちょっと嬉しそうに両手を上げて降参の図だ。
内心ああ逆効果だったと苦々しく思った凛風だったが、動じずに商人魂を発揮する。
『食べたいならうちの店に来るといいよ』
『ちぇ~。その店ってどこにあんだよー』
『緑安に行って包子で有名な白家の食堂はって訊ねればわかると思う』
『――な…んだと……ッ!?』
瞬間、黒蛇は闇夜の稲妻を背景にカッと大きく目を見開いた。
『あ、あのっ、白家の店の包子がこの中に!?』
『知ってるの?』
『当ったり前だろー! 義賊やってた頃から仲間うちでも評判で、誰かが緑安に行く予定があれば手土産に買って帰るって決め事があったくらいだ。けどいつも数が少なくて早い者勝ちだったから、今まで一度も食べた事はねえんだよなー俺。……全くあいつらときたら俺が不在の時にばっか買って来てよお~』
気の毒な愚痴まで聞いてしまったが、だからと言ってこれはあげられない。
『でもそれがここにあるなんて超ツイてるじゃん俺! マジで一つでいいからくれよ!』
『駄ー目』
『頼む! くれくれくれくれくれえええーッ』
幼子の我が儘のようにその場で地団駄を踏んで喚く黒蛇に、凛風は全く萌えなかった。これが肖子偉の駄々捏ねだったならまた違った感想を抱いたに違いない。
凛風がそろそろ蹴りでも見舞おうかと思っていると、それまで卓子を前に着席したまま静観していた肖子偉が立ち上がって黒蛇の前に立ち、卓子上の岡持ちの持ち手を撫でるようにした。
『黒蛇、これは私の包子だから、そなたにただでやるつもりはない』
『それって、ただでなけりゃくれるって事か?』
いきなり何を言い出すのかと、黒蛇は怪訝に肖子偉を見る。
凛風も意図を摑めず、ただ黙って彼の言葉を待った。
『黒蛇はこれを食べたいのだろう?』
『まあな』
肖子偉の目は真剣だ。
そして黒蛇の目も感化されたのか同様の空気を纏い始めている。
『今すぐこの場を離れてくれるなら、中の包子を一つそなたにやってもいい』
『なに……!?』
『え、何言い出すの子偉ってば』
凛風の存在を今だけは無視して、黒蛇はあたかも中身を透視するかのような強い眼差しで岡持ちの蓋部分を凝視し、顔を歪めた。
『くっ、中々に際どい選択を迫ってきやがる……。俺だって折角久々に姉御天女と会えたってのに、退室しろだと?』
『そうだ。どうする?』
『ねえちょっと?』
『くそ、この機を逃したら俺は……俺は……っ』
『要らないと言うのなら別にそれでもいい。しかし、これは――白家の包子だ』
『ぐ、ううぅっ……!』
『もしもーし?』
賭け事の最終局面の如く鋭く冴えた空気が両者の間には漂っている。
裏か表か、白か黒か、是か否か、深い苦悩を浮かべる黒蛇に、肖子偉が「さあどうするのだ黒蛇!」と真剣な目で畳みかけた。
『――っ、俺は……っ!!』
とうとう半眼になって心底馬鹿らしそうに見守る凛風の前で、黒蛇の決断が宿の一室にこだました。
結局、空腹には勝てなかった黒蛇が「じゃあまたな俺の姐御天女!」と喜々として包子を一つ手に去っていった。
茶番を見ている気分だった凛風は生温い気分だったが、しかし二人の男は本気だった事を忘れてはならない……わけでもない。
ともかく、追い立てるようにして黒蛇を室外へと送り出した肖子偉が、大取引を終えた商人のような清々しい汗を滲ませ戸口から戻って来た。
『これで心置きなくそなたと二人の時間を過ごせる』
『…………』
ほくほくとした上機嫌顔の恋人に感心し、凛風は気付けばパチパチと拍手を送っていた。
――あれ以来、凛風が彼らの滞在先に顔を見せる度に黒蛇が「俺にも包子くれくれ!」と五月蠅いので、仕方がなく持ってくるようになり、きちんと代金もくれるので、それが習慣化したというわけだった。
因みに肖子偉が出前を頼む方法は、凛風の頼みで彼女の祖父楊叡が簡易な仙術仕様の使役鳥や使役蝶を貸してくれていて、使役鳥に手紙を結んだり、使役蝶には言伝てを頼む方法でやり取りをしている。
一所での滞在期間が長引いている時は、普通に店宛てに出前依頼書が配達される事もあった。
毎度の事となりかけた頃に肖子偉からは、作る分量も運ぶ分量も二倍に増えて大丈夫なのかと心配されたが、料理慣れしている凛風にとってはさもなかった。
『別に一人分が二人分に増えるだけだし、苦じゃないよ。量だって高が知れてるしね。それにこれも可愛い恋人を補佐して護ってくれる黒蛇への謝礼だと思えば安いものよ。代金はきっちりもらえるし一石二鳥よね』
それを聞いた時の肖子偉の心中は「自分完全に姫扱いってどうよ」だったが、他人の心を読めるわけでもない凛風が知る由もない。
そして、今夜は今夜で遅くなるという黒蛇の分は仕舞ったまま、肖子偉の分の料理や包子だけを出し終えた凛風は、自分も肖子偉の正面の席に着いてにこにこと彼の顔を眺めた。
「子偉、さあどうぞ」
「あ、ありがとう」
いつになく上機嫌に自分を見つめてくる凛風に違和感を抱きつつも肖子偉は箸を伸ばし、いつ食べても美味な白家の店の料理に舌鼓を打つ。
包子が有名だが、繁盛の理由は包子だけではないのだとよくわかる。
一度箸を置き、肖子偉が手に取った包子をゆっくりと咀嚼していると、卓子に両肘を突き、その上の掌にむにっと頬を乗せて嬉しそうに肖子偉を見つめる凛風が「美味しい?」と小首を傾げる。
包子よりも美味しそうなほっぺだ……などと肖子偉は密かに思ったが、彼は黙って料理を嚥下した。頬を緩めて言葉を返す。
「もちろん。やはり包子は絶品だと思う。一番美味しい」
すると、凛風は唇を突き出すようにして拗ね顔になった。
肖子偉的にはそんな子供染みた顔をする彼女も珍しいと、違和感の上に新鮮さが重なったために、この時点では凛風へ直接体調如何を訊ねる事はしなかった。
「それは当然だよ。今日は忙しくて、包子だけは母さんが作った物だもん」
「え」
「でも、包子の腕だけは負けてないって思ってる。次は私が作ってくるからね」
一番美味しいなどと、別に他の料理を貶したわけではないが、確実に気まずい……。
肖子偉はあたふたとし、しかし下手な取り繕いは逆効果だろうと思えば、どうしたらいいのかわからず焦りばかりが増していく。こんな時兄や黒蛇や山憂炎なら何か気の利いた上手い言葉を思い付くのだろう。
(……ああいや、兄上は適当に笑い飛ばして誤魔化すかもしれない)
ともかく、凛風を怒らせてしまったのではないかと不安になっていると、その彼女が椅子を引き摺って隣に来た。
幸い怒っている気配はなく、黒目がちな瞳でじっと自分の方を凝視してくる。
心なし潤んでいるように見えて、それがまた狼狽に拍車をかけた。
「あ、あの、凛風?」
「子偉、実はね、私知ってるの」
「え? 知っている? ええと何をだろう?」
「母さんの包子は勿論美味しくて天下一品だけど、この中でもっと美味しい物はそこにあるって」
「ええと……?」
そことはどこだろうか、と疑問が湧くも、彼女の言っている意味がわからず肖子偉としては困惑するしかない。
「凛風……? そなたは一体何の事を言っているのだ?」
控えめな口調で探りを入れると、彼女は自分自身の耳を示して畳むような仕種をした。
「子偉も早くこうして、耳」
「わ、わかった。……こう、だろうか?」
いつものように男装だが、肖子偉には一度だって美少年に見えたためしはない。
そんな恋人雷凛風は「うんそう」と無邪気ににっこりとした。
ドキリとした刹那、身を乗り出した彼女が耳元に顔を寄せて来る。
「――っ!?」
気付けば、はむ、と耳を甘噛みされていた。
大きく動揺したのは当然肖子偉だ。
「な、な、な!? 凛風!?」
慌てて両腕を挟むようにして自分から引っぺがすと、彼女は実にけろりとした顔をしていた。あどけない子供のような無垢な目さえして小首を傾げる。
肖子偉がどうしてこんなに焦った様子でいるのかまるでわかっていないようだった。
ますます混乱してくる。
彼は、自分は夢でも見ているのかもしれない、とどこかで思った。
「えへへっ、美味しそうな餃子があったから食べちゃった」
「餃子?」
餃子なんてどこにあるのかと訝しんでいると、凛風が自分の耳を畳んでもう一度「餃子でしょ」と示した。
「……なるほど」
先程からというか部屋に入って来た当初からやや頬は赤いが、それでも凛風は至って平静そうに見える。
なのに自分だけが顔を真っ赤にして内心で右往左往している。
そんな自覚のある肖子偉は悔しくて仕返しのつもりで恋人の餃子へと唇を寄せた。
「凛風、私も美味しそうな餃子を見つけた」
「あははホント。良かったね子偉~」
呑気に返されたが、擽ったいのが嫌なのか逃げようとするので、逃げないように首筋や頬に手を当て押さえた。
さてお返しだと動いた肖子偉はしかし、手に伝わる感覚に眉を寄せる。
「……凛風? もしかしてそなた、熱があるのではないか?」
しかもかなり高い。
「え? 熱? うーん、風邪引いたのかも?」
熱が出ている自覚症状がないのか凛風はトボけたようにゆるりと首を傾げた。
いやそれが既に症状なのかもしれないと肖子偉は思った。
(比べるのもどうかとは思うが、兄上以上に能天気に過ぎる)
本来の凛風なら食事中に軽々しくふざけて耳を甘噛みしてきたりはしない。
肖子偉の決断は早かった。
彼女の方も店が終わってからなので、外はもう真っ暗い。
「お待たせ、子偉! 出前だよ~!」
開口一番の爽やかな笑顔、そして白い歯が眩しい凛風には、肖子偉も毎度の事ながら心臓が跳ねて頬が赤くなってしまう。
それにもう凛風は二人きりの時などの私的な場で「殿下」呼びはしない。
敬語だって使わない。
そこがまた擽ったく感じる肖子偉だ。
彼が一時的に滞在している任地の宿の部屋に、共に来ていた黒蛇の配下の一人から案内されて元気よく入ってきた凛風は、床より一段高い座敷の文机で報告書か何かの書面を広げていた肖子偉が座敷を降りてくるのを横目に、床から伸びる円卓の上にトンと岡持ちを置く。
「無事に着いて良かった。そろそろ来ると思っていたのだ」
弾んだ声の肖子偉が歓迎する様子で傍に行けば、何を思ったのか凛風は彼の正面に改まったように向き直った。
律儀に挨拶でもするつもりだろうかと肖子偉が思っていると、そっと腕を伸ばして頬に触れてきた。
あたかも、その元気そうな姿が幻ではないと確認でもするように。
「リ、凛風?」
今では彼も凛風呼びである。
思わず意図を問えば、凛風は安堵したような吐息を落とす。
「良かった。体調崩したり怪我したりしてないみたいね」
「う、うん大丈夫」
「少し日が開いて久しぶりだったから、ちょっと心配だったんだ」
会って早々優しく頬を撫でられて、肖子偉は予想外の甘いスキンシップにドギマギとしていたが、一方では自分はそんなに不健康そうな顔色をしているだろうかと頬を撫でた。
(これでも少しは日に焼けて男らしくなったと思うのだが……。黒蛇にも鍛えてもらっているし。炊事洗濯家事一切もそれなりに出来るようにもなったし。うさちゃん雲の刺繍だってもう出来る……! これでも少しは成長していると思う)
決して頓珍漢な発想ではないが、場違いではある思考を噛ます肖子偉はしかし、武芸達者な貴公子然とした凛風にとっては、やはり自分はまだまだなのだろうとちょっと自信を失くした。
ただ、いつもなら肩を落としている所だが、しかし今夜はそれどころではなかった。
凛風が何故かまだ自分の頬を撫で撫でしてくるのだ。
次回に化粧品でも差し入れするつもりなのかもしれない。実際過去に一度あって正直困惑したものだった。
「レ、雷凛風? 凛風? とりあえず夕食、夕食にしよう!」
「ああ、そうだね」
促せば、上機嫌な凛風はあっさり頷いて、早速と円卓の上に料理を広げ始める。
今や包子だけではなく、栄養の配分を考えて他の料理や点心も一緒に持って来てくれるようになっていた。
「黒蛇は遅くなるらしいから、彼の分の包子は帰るギリギリまで岡持ちに入れておいてもらえると彼も喜ぶと思う」
そう頼めば凛風は承諾に頷く。
肖子偉が黒蛇と身分を伏せての巡行に出て半年は経ったのだが、いつの間にか凛風は黒蛇の分の包子まで用意するようになっていた。
彼が実は白家の包子が大好物だからだ。
きっかけは肖子偉が皇都を離れて最初の任地に赴いて、そこへ凛風が包子を出前した際の事だ。
『――うおお!? 姐御天女! 俺に会いに来てくれたのか!』
肖子偉に遅れて彼と同室の宿の部屋に帰るなり、凛風の姿を見た黒蛇は甚く感動したように叫んだものだった。
即座に否定した凛風の辛辣な言葉も気にした様子もなく、彼は卓子の上に置かれた岡持ちを見て不思議そうにした。
『おう何だ今日は出前取ったのか』
道中では自炊が基本だったが、宿に、しかもそれが赴任地の宿となればそれも崩れる。あの当時は裕福な商人を装っていたので切り詰めるのはかえって不審を抱かれるという状況でもあったために、宿や近くの料理屋に食事を頼むのはごく自然だった。
岡持ちの蓋はまだ開けられていなかったが、黒蛇は微かに漂う包子の香気を敏感に嗅ぎつけたように鼻を突き出した。
『そっから包子っぽいすげえ良い匂いがすんだけど』
『包子っぽいじゃなくて、まさにうちの店の包子だよ』
『へえ、姐御ん家は料理店なのか』
『まあね』
黒蛇は胃の腑の辺りを押さえて「すげえ腹減ってたんだよな」と岡持ちへと手を伸ばした。
『こらっどういうつもり?』
『いてッ』
凛風からぴしゃっと手の甲を叩かれて引っ込める。
『少し分けてもらおうと思ったんだって』
『これは子偉のための物だから、あなたにはあげられないよ』
凛風が睨むと、黒蛇はちょっと嬉しそうに両手を上げて降参の図だ。
内心ああ逆効果だったと苦々しく思った凛風だったが、動じずに商人魂を発揮する。
『食べたいならうちの店に来るといいよ』
『ちぇ~。その店ってどこにあんだよー』
『緑安に行って包子で有名な白家の食堂はって訊ねればわかると思う』
『――な…んだと……ッ!?』
瞬間、黒蛇は闇夜の稲妻を背景にカッと大きく目を見開いた。
『あ、あのっ、白家の店の包子がこの中に!?』
『知ってるの?』
『当ったり前だろー! 義賊やってた頃から仲間うちでも評判で、誰かが緑安に行く予定があれば手土産に買って帰るって決め事があったくらいだ。けどいつも数が少なくて早い者勝ちだったから、今まで一度も食べた事はねえんだよなー俺。……全くあいつらときたら俺が不在の時にばっか買って来てよお~』
気の毒な愚痴まで聞いてしまったが、だからと言ってこれはあげられない。
『でもそれがここにあるなんて超ツイてるじゃん俺! マジで一つでいいからくれよ!』
『駄ー目』
『頼む! くれくれくれくれくれえええーッ』
幼子の我が儘のようにその場で地団駄を踏んで喚く黒蛇に、凛風は全く萌えなかった。これが肖子偉の駄々捏ねだったならまた違った感想を抱いたに違いない。
凛風がそろそろ蹴りでも見舞おうかと思っていると、それまで卓子を前に着席したまま静観していた肖子偉が立ち上がって黒蛇の前に立ち、卓子上の岡持ちの持ち手を撫でるようにした。
『黒蛇、これは私の包子だから、そなたにただでやるつもりはない』
『それって、ただでなけりゃくれるって事か?』
いきなり何を言い出すのかと、黒蛇は怪訝に肖子偉を見る。
凛風も意図を摑めず、ただ黙って彼の言葉を待った。
『黒蛇はこれを食べたいのだろう?』
『まあな』
肖子偉の目は真剣だ。
そして黒蛇の目も感化されたのか同様の空気を纏い始めている。
『今すぐこの場を離れてくれるなら、中の包子を一つそなたにやってもいい』
『なに……!?』
『え、何言い出すの子偉ってば』
凛風の存在を今だけは無視して、黒蛇はあたかも中身を透視するかのような強い眼差しで岡持ちの蓋部分を凝視し、顔を歪めた。
『くっ、中々に際どい選択を迫ってきやがる……。俺だって折角久々に姉御天女と会えたってのに、退室しろだと?』
『そうだ。どうする?』
『ねえちょっと?』
『くそ、この機を逃したら俺は……俺は……っ』
『要らないと言うのなら別にそれでもいい。しかし、これは――白家の包子だ』
『ぐ、ううぅっ……!』
『もしもーし?』
賭け事の最終局面の如く鋭く冴えた空気が両者の間には漂っている。
裏か表か、白か黒か、是か否か、深い苦悩を浮かべる黒蛇に、肖子偉が「さあどうするのだ黒蛇!」と真剣な目で畳みかけた。
『――っ、俺は……っ!!』
とうとう半眼になって心底馬鹿らしそうに見守る凛風の前で、黒蛇の決断が宿の一室にこだました。
結局、空腹には勝てなかった黒蛇が「じゃあまたな俺の姐御天女!」と喜々として包子を一つ手に去っていった。
茶番を見ている気分だった凛風は生温い気分だったが、しかし二人の男は本気だった事を忘れてはならない……わけでもない。
ともかく、追い立てるようにして黒蛇を室外へと送り出した肖子偉が、大取引を終えた商人のような清々しい汗を滲ませ戸口から戻って来た。
『これで心置きなくそなたと二人の時間を過ごせる』
『…………』
ほくほくとした上機嫌顔の恋人に感心し、凛風は気付けばパチパチと拍手を送っていた。
――あれ以来、凛風が彼らの滞在先に顔を見せる度に黒蛇が「俺にも包子くれくれ!」と五月蠅いので、仕方がなく持ってくるようになり、きちんと代金もくれるので、それが習慣化したというわけだった。
因みに肖子偉が出前を頼む方法は、凛風の頼みで彼女の祖父楊叡が簡易な仙術仕様の使役鳥や使役蝶を貸してくれていて、使役鳥に手紙を結んだり、使役蝶には言伝てを頼む方法でやり取りをしている。
一所での滞在期間が長引いている時は、普通に店宛てに出前依頼書が配達される事もあった。
毎度の事となりかけた頃に肖子偉からは、作る分量も運ぶ分量も二倍に増えて大丈夫なのかと心配されたが、料理慣れしている凛風にとってはさもなかった。
『別に一人分が二人分に増えるだけだし、苦じゃないよ。量だって高が知れてるしね。それにこれも可愛い恋人を補佐して護ってくれる黒蛇への謝礼だと思えば安いものよ。代金はきっちりもらえるし一石二鳥よね』
それを聞いた時の肖子偉の心中は「自分完全に姫扱いってどうよ」だったが、他人の心を読めるわけでもない凛風が知る由もない。
そして、今夜は今夜で遅くなるという黒蛇の分は仕舞ったまま、肖子偉の分の料理や包子だけを出し終えた凛風は、自分も肖子偉の正面の席に着いてにこにこと彼の顔を眺めた。
「子偉、さあどうぞ」
「あ、ありがとう」
いつになく上機嫌に自分を見つめてくる凛風に違和感を抱きつつも肖子偉は箸を伸ばし、いつ食べても美味な白家の店の料理に舌鼓を打つ。
包子が有名だが、繁盛の理由は包子だけではないのだとよくわかる。
一度箸を置き、肖子偉が手に取った包子をゆっくりと咀嚼していると、卓子に両肘を突き、その上の掌にむにっと頬を乗せて嬉しそうに肖子偉を見つめる凛風が「美味しい?」と小首を傾げる。
包子よりも美味しそうなほっぺだ……などと肖子偉は密かに思ったが、彼は黙って料理を嚥下した。頬を緩めて言葉を返す。
「もちろん。やはり包子は絶品だと思う。一番美味しい」
すると、凛風は唇を突き出すようにして拗ね顔になった。
肖子偉的にはそんな子供染みた顔をする彼女も珍しいと、違和感の上に新鮮さが重なったために、この時点では凛風へ直接体調如何を訊ねる事はしなかった。
「それは当然だよ。今日は忙しくて、包子だけは母さんが作った物だもん」
「え」
「でも、包子の腕だけは負けてないって思ってる。次は私が作ってくるからね」
一番美味しいなどと、別に他の料理を貶したわけではないが、確実に気まずい……。
肖子偉はあたふたとし、しかし下手な取り繕いは逆効果だろうと思えば、どうしたらいいのかわからず焦りばかりが増していく。こんな時兄や黒蛇や山憂炎なら何か気の利いた上手い言葉を思い付くのだろう。
(……ああいや、兄上は適当に笑い飛ばして誤魔化すかもしれない)
ともかく、凛風を怒らせてしまったのではないかと不安になっていると、その彼女が椅子を引き摺って隣に来た。
幸い怒っている気配はなく、黒目がちな瞳でじっと自分の方を凝視してくる。
心なし潤んでいるように見えて、それがまた狼狽に拍車をかけた。
「あ、あの、凛風?」
「子偉、実はね、私知ってるの」
「え? 知っている? ええと何をだろう?」
「母さんの包子は勿論美味しくて天下一品だけど、この中でもっと美味しい物はそこにあるって」
「ええと……?」
そことはどこだろうか、と疑問が湧くも、彼女の言っている意味がわからず肖子偉としては困惑するしかない。
「凛風……? そなたは一体何の事を言っているのだ?」
控えめな口調で探りを入れると、彼女は自分自身の耳を示して畳むような仕種をした。
「子偉も早くこうして、耳」
「わ、わかった。……こう、だろうか?」
いつものように男装だが、肖子偉には一度だって美少年に見えたためしはない。
そんな恋人雷凛風は「うんそう」と無邪気ににっこりとした。
ドキリとした刹那、身を乗り出した彼女が耳元に顔を寄せて来る。
「――っ!?」
気付けば、はむ、と耳を甘噛みされていた。
大きく動揺したのは当然肖子偉だ。
「な、な、な!? 凛風!?」
慌てて両腕を挟むようにして自分から引っぺがすと、彼女は実にけろりとした顔をしていた。あどけない子供のような無垢な目さえして小首を傾げる。
肖子偉がどうしてこんなに焦った様子でいるのかまるでわかっていないようだった。
ますます混乱してくる。
彼は、自分は夢でも見ているのかもしれない、とどこかで思った。
「えへへっ、美味しそうな餃子があったから食べちゃった」
「餃子?」
餃子なんてどこにあるのかと訝しんでいると、凛風が自分の耳を畳んでもう一度「餃子でしょ」と示した。
「……なるほど」
先程からというか部屋に入って来た当初からやや頬は赤いが、それでも凛風は至って平静そうに見える。
なのに自分だけが顔を真っ赤にして内心で右往左往している。
そんな自覚のある肖子偉は悔しくて仕返しのつもりで恋人の餃子へと唇を寄せた。
「凛風、私も美味しそうな餃子を見つけた」
「あははホント。良かったね子偉~」
呑気に返されたが、擽ったいのが嫌なのか逃げようとするので、逃げないように首筋や頬に手を当て押さえた。
さてお返しだと動いた肖子偉はしかし、手に伝わる感覚に眉を寄せる。
「……凛風? もしかしてそなた、熱があるのではないか?」
しかもかなり高い。
「え? 熱? うーん、風邪引いたのかも?」
熱が出ている自覚症状がないのか凛風はトボけたようにゆるりと首を傾げた。
いやそれが既に症状なのかもしれないと肖子偉は思った。
(比べるのもどうかとは思うが、兄上以上に能天気に過ぎる)
本来の凛風なら食事中に軽々しくふざけて耳を甘噛みしてきたりはしない。
肖子偉の決断は早かった。
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