黒猫姫と腹黒総裁~こうさせたのは全部君~

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16 やらかされたキス

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「お帰りなさいませ奥様。先程からその、どうかされたのですか?」

 出て来たのはケントではなく家政婦の澤野だった。

「あ……ええとー……」

 玄関脇のカメラで確認したからこそ出て来たのだろう家政婦へと、すずかは頬をポリポリと掻いて半笑いを貼り付ける。
 ピッと当てるだけで簡単ではあるが指紋認証の気分でなければ、インターホンで中の人間を呼んで開けてもらえばいいのだが、それもせずただこの場に留まっていたすずかに、家政婦は不思議そうな顔になる。しかし余計な事は言わずに「それではわたくしもそろそろ帰る仕度をさせて頂きますね」と微笑んでくれた。
 ケントの夕食はもう済んでいるはずだ。すずかも適当に食べてきた。
 本来なら夕食が済めばもう退勤していいはずなのに、きっとすずかが帰るまで待っていてくれたのだ。

(澤野さん、あんた出来た家政婦だよ……って私ビク付き過ぎだよねー、あはは)

 とは思いつつも、正直ケントではなくて良かったと心底胸を撫で下ろしていたすずかは、一つ咳払いすると、小声になった。

「さ、澤野さん、ところでケン兄は……?」
「お仕事の電話中でございますよ」
「ああ何だ、そうなんだ、良かったあ~」

 家政婦はすずかの大層な安堵っぷりに首を捻るようにしたが、そちらも詮索はしてこなかった。

(よーし、通話の隙に自室へ直行すれば、きっと顔を合わせる事もないよね! せめて一晩は気持ちを落ち着けるための時間が欲しいもの)

 すずかはそんな算段を付けて、家政婦から中へ促されるまま自宅内へと足を踏み入れる。
 玄関から見える廊下にケントの姿はない。
 通話中であれば、自分の部屋かもしくは広いリビングのどちらかでしているだろう。

(ぐるっと回ってキッチンを通って部屋まで行こう)

 すずかの部屋はリビングよりも奥に位置しているが、そこを通らずキッチンを回り道しても奥に行ける造りになっている。
 広いマンションの一室の、よりにもよって奥の部屋まで行かないといけないのは面倒だとは思う。実際、家に入ってすぐの所にも幾つか部屋はあるのだ。そちらも使っている部屋と面積はほとんど同じなので、すずかとしては自分の部屋をそのどれかにしても良かったのだが、ケントいわく日当たりがどうのこうので一番奥の部屋を宛がわれた。因みにすずかの部屋の隣はケントの部屋だ。
 そんなわけで玄関近くの部屋は家政婦の休憩室や物置きにされている。
 今でも正直物置き部屋がそこまで日当たりが悪いとは思えないのだが、まあ不自由はないので多少疑問は湧くが気にしてはいないすずかでもあった。
 そんなわけで、本当の所はちょっと閉じ込め気質を発揮したケントのしたたかな打算など知る由もないすずかは、家政婦を送り出してから、なるべく足音を立てないようにして家の中を進んだ。

(鉢合わせしませんように会いませんように顔を見ませんように~~~~っっ)

 自分がファンタジー世界の住人なら何かを召喚できるのではないかという強さで念じて、すずかはキッチンから奥の廊下へと出て視界の先に自室のドアが入ると、意味もなく「勝った」とガッツポーズを組んでほくそ笑んだ。
 心なし弾んだ足取りで真っ直ぐ部屋へと向かう。

「――遅い!」
「にゃーーーーっ!」

 背後から刺さったのは、まごう事なきケントの声だ。

 飛び上がって振り返れば、リビングに通じるドアが開いていて、そこから出て来たようだった。
 どうやら仕事の電話が済んだ直後のようで、彼の手にはスマホが握られている。

(うぅ、タイミング最悪。というか鋭い……。しかも音も気配もさせないって、ケン兄は忍者なの!?)

 ちょっとした恐慌にドキドキとする胸を押さえてケントを窺うすずかの前で、当のケントは仁王立ちという形容がしっくりくる立ち方で、スマホをポケットに仕舞うと徐に腕組みをした。その上の顔には声掛け時と変わらず些かの怒気を孕んでいる。
 すずかとしては、昼間の暴挙に怒っているだろうとは思っていたので、そこには驚かなかった。
 けれど話をしてみれば、彼が怒っている理由はすずかが思っていたのとはちょっと違っていた。

「夏だから暗くなる時間も遅いって言うのに、いくら夏休みだからって暗くなるまで外を遊び歩くなんて何を考えているんだ。今何時だと思ってる?」

 今はもう八時近く。

「え、でも八時までに帰ればセーフだと思うけど。夕ご飯だって食べて帰るって送ったし」

(何か、お父さんみたい……)

 叱られて肩を竦めつつ呑気にそんな事を思っていると、ケントがこれ見よがしな溜息をついた。

「せめて電話には出てくれ。何度も掛けたのにどうして僕からの着信を取らなかったんだ。何かあったかと心配したじゃないか」
「……出ても喧嘩になると思ったから」
「喧嘩? どうして?」

 ケントの怪訝にする様子には、さすがのすずかも口を尖らせた。

「ケン兄の頭は鶏なの? 昼間喧嘩した事も忘れてるわけ? 私は真面目に怒ったんだからね」

 彼は本当に昼間のやり取りを忘れているのだろうか?
 いやまさかそんなわけはないだろう。
 だとしたらこれは故意だ。
 わざとこの態度なのかと思えば、やらかした別件もあってほぼほぼ治まっていたすずかの憤りは再燃する。
 すずかが頬を膨らませる様子に、ケントは落ち着いた風情ではあるものの鼻を鳴らした。

「君が怒ろうと、僕は坂ノ上小町に関しては謝る気はないし、そういう相手へのスタンスを変えるつもりもない。それから、君は僕が体面がどうとか気にしていると思っているようだけど、これだけは言っておく。体面以上に、君は僕の妻だ」

 最後の「僕の妻」の部分をやけにはっきりと口にされ、すずかは少しビックリした。
 目を見開く以外、咄嗟には何も反応できないでいたら、ケントが一歩近付いた。

「だから、もう誰も君に懸想するなんて許されない」

 もう一歩近付いてくる。

「け、懸想って……。古風な言い回しで変な冗談はやめてよ。小町くんは違うんだってば。そうやって変な風にケン兄の色眼鏡に当てはめて友達を悪く言うのはやめて」

 その間にもケントは距離を詰めようとしてきて、言い知れない危険のようなものと乙女的な動揺を感じたすずかはその分だけ後退していた。

「色眼鏡? それはそっちだろう。あいつが無害だって思い込んでる」
「だって本当に友達だもん。久しぶりに会ってそんな急に恋とか愛とかにならないよ」
「それもすずかの物差しで測ったにすぎない」
「そんな事は……!」

 反論の途中で、トン、と背中が壁にぶつかった。
 そう長くない後退の末、廊下の奥に行き着いてしまっていたらしい。

(っていうか、私ってばどうして壁際に追い込まれてるの? ねえ……?)

 傍に寄られるとまずいからと自分も後ずさってしまったのはいけなかったかもしれない。
 余計に窮地に陥った気がするすずかだ。

「ちょっとケン兄、昼間の事で色々怒ってるのはわかるけど、私だってまだ怒ってるんだからね! こ、こんな風に凄まないでよ!」

 離れてほしくてやや焦って抗議すれば、ケントは「色々?」と訝しむ。

「僕が怒っているのは一つだけだけど、色々って?」
「一つ……って?」

 ケントは呆れたようにした。

「だから、あいつと慣れ慣れしくしてた事」
「え、それ? それじゃあ無理やりの……ア、アレは怒ってないの?」

 敢えてアレと表現したすずかの気恥ずかしさを知ってか知らずか、ケントは一つ瞬いた。

「君は、無理やりキスされて、僕が怒っていると?」
「キッ……」

(ああもう折角濁した表現をしたのに、身も蓋もないよ!)

「そっそそそそうだよ! わわわ私だったら絶対怒るし!」
「絶対……そうか」

 何かを探るようにケントからじっと見つめられ、逸らされず貼り付くような視線にドキリとして僅かに背筋が緊張する。

「でも、本当に?」
「え……?」

 問いの意味がわからず、答えを促すように黙れば、ケントはすずかの頬へと手を伸ばしてきた。

「絶対?」
「へ?」
「すずかにとって、どこまでなら、手を出す範囲に含まれる?」
「……え?」
「昼間みたいに、口へのキスもセーフなのか?」

 まさかそんな質問をされるとは思わなかったので、一瞬呆けた。
 彼は両目を細めゆっくりと頬から指を下らせる。

「え、ええと、ケン兄?」
「……いい?」
「へ?」
「どこまでならすずかに触れても良い?」

 やけに近い距離で掠れたような声を落とされ、伏し気味の視線と絡まった。
 彼の指先が額よりも頬よりも敏感な唇をなぞるから、発火するみたいに一瞬で顔が火照った。

「え、あの……っ?」

(お、追い詰められてるのにどこか甘えられてるような気がするんだけど!?)

 そんな変な錯覚をも来しそうになったすずかは、内心でブンブンと首を振って馬鹿な考えを押しやった。
 綺麗な金と緑を重ねたような瞳を見つめていたら、何とか堪えていた狼狽が想定外の勢いで込み上げてくる。

(うわあああ思い出しちゃったよー! はう~~~~っもう無理っ!)

 もう一秒とケントの顔を見ていられなくて恥ずかしさにぎゅっと目を瞑ってあたふたしていたら、ふっと吐息が掛かって口を塞がれた。

「――んんんッ!?」

 驚いてパチリと両目を開ければ、伏せていた瞼を上げて唇を離したケントと目が合った。

 信じられない思いで呆然とケントを見上げる間も、心拍数がどんどん跳ね上がる。

(キス、された……)

 そう思えばこの上なく恥ずかしくて、思考が真っ白になって力が入らなくてその場にしゃがみ込んだ。

(ううう、いやだもう、こんなの耐えられないよお……っ)

 もう他のどんな感情も霞む羞恥に俯いて、両手で顔を覆う。

「すずか?」

 慌てて屈みこんだケントはすずかを支えて立たせたけれど、彼女が鼻を啜った音を聞いてぎょっとした。

 顔から手を離したすずかの両目には、べそっとした涙が浮かんでいたからだ。

 すずかとしては、ドキドキしてもうどうしようもなくなって思わず涙が出てしまったのだ。

「す、すずかその、無理強いするつもりはなくて、ごめ…」
「ケン兄の馬鹿あああーっ、もう勝手に触ってこないでよーっ!」

 両手を突っ張ってケントの胸を押し真っ赤な顔で目を吊り上げて叫ぶと、すずかは彼が硬直している隙に横をすり抜けて自室に駆け込んだ。
 ガチャリ、と乱暴に鍵を掛けてベッドにダイブする。

「ううっ、ひっく……ケン兄の、ケン兄のばかあ~っ!」

 嗚咽混じりのそんな声が漏れ聞こえる廊下には、嫌がられたと思い大いなるショックで凍り付く憐れな男が一人、残されていた。
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