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10 映画デート
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(ケン兄、どうしてここに……)
眠りこけていたようだったが、射した光に視神経が刺激されたのかはたまた人の気配に敏感なのか、ケントはふっと目を覚ました。
数回の瞬きの末、傍らで若干の仰天と共に何も言えないでいるすずかに気付いて、やや慌てたように身を起こす。
「すずか、さっきは……」
「こんな所で寝てたら、夏とは言え風邪引くよ」
突き放すようにして暗に自分の部屋に行けという意思を滲ませると、ケントは伏し目がちにした。
「ただ君に謝りたくて……さっきは悪かった」
「…………」
その声はいつになく申し訳なさそうで、常の堂々とした物言いも、図々しいくらいのスキンシップも、まるでいつも彼がそうしているのが嘘みたいな弱り切った様子だった。
(こ、こ、こんなの……っ、めちゃ反省してるチワワじゃない! ううう~普段とのそのギャップってズルくない!? いつまでも腹を立ててる方が何か悪い奴みたいじゃない~~~~っ!)
「本当にごめん」
すずかの心の声などまるで知らないケントは、手を掴んでくるとか頬を触ってくるなんて事もなく、自らの行いを真に省みる紳士的な態度を貫いている。
これにはとうとうすずかも絆された。
「も、もういいよ、冗談だったんでしょ。だからもう怒ってない」
「……本当に、怒ってない?」
冗談か否かには言及せず、ケントは疑り深いというよりは、すずかが無理していないかを気遣ってくるような口調で確認してくる。そんな様子にも調子を狂わされる。
「うん、ホントだから」
すずかが機嫌を直したとわかってか、ケントがようやく頬に宿していた緊張を解した。
「良かった。すずか、お腹空いてないかい?」
返事をする前にまた腹の虫が鳴いた。
「ははっ体は正直だなあ。何か軽目のものを作るよ」
「えっ、自分でできるからいいよ。冷蔵庫に残り物があればそれでいいし、ケン兄はもう寝てていいから」
「贖罪も兼ねて僕が作るよ。それに夕食は多少こってりしたものだったから、この時間に食べるには少々胃に負担だよ」
そこまで言われては無下に断れず、だからと言ってお粥すら焦がすケントの料理を夜中に胃に入れるのは正直ちょっと遠慮したかったのもあって、すずかはお湯を入れるだけのインスタント春雨スープがストックしてあったのを思い出し、それを所望して食卓に大人しく着席した。
程なくして白い湯気と共に饗された春雨スープは、まあ当然ながら無難に美味しかった。
「ところで映画を観に行く件だけど、次の週末は?」
「へ? 映画って?」
瞬間、ケントが殺気にも似た不機嫌オーラを噴出させていつもの調子を取り戻す。
今度は自分の失言を悟ったすずかは、記憶の奥底から必死に情報を引っ張り出した。
「あっイースター島……じゃなくて、映画ね映画! 行くって約束したやつね!」
「……完全に忘れていただろう。しかも言うならマチュピチュかウユニ塩湖だろう」
「あははは! 冗談をよく覚えてるね! あはははは!」
向かいの席で半眼になるケントへと自棄笑いを返したすずかは、特に先約もなかったので提案された日にちで了承した。
考えてみれば、その日は人生初の夫婦のデートだった。
しかしすずかの心中には初々しさも甘さもへったくれもない。
「な、な、な…………何で!?」
映画館のゆったりしたカップル席にケントと着席しているすずかは、本編上映直前のコマーシャルが真正面の大スクリーンに流れる前で素っ頓狂な声を上げていた。
ケント専用の送迎車に乗って到着した映画館は、極々普通の、規模からすれば多少は大きい方の、それでもどこにでもある映画館だ。
すずかもよく映画を観に来る映画館でもあった。
慣れた館内でもあったので気楽な気分で入場して、観たいとリクエストしていた映画が上映されるシアター番号に従って会場内に足を運んだ。
そこまでは良かった、そこまでは。
カップル席だったのはこの際目を瞑ろうと思えばそう出来る。
だがしかし、とすずかは度肝を抜かれながらも尚も心の訴えを叫んだ。
「どうして貸し切りなの!?」
現在、このシアター内にはすずかとケントの二人だけしか客がいなかった。
初めのうちは自分たちが一番乗りだったのかと思っていた。
けれど待てども待てども他の客が来ない。
この映画は公開後間もなく、しかも人気漫画が原作で、更には人気俳優を使っている。加えて今日は土曜週末なので一人も客がいないなど絶対に有り得ない。
故にきょろきょろと周囲を見回し不審がったすずかへと、ケントはあっさりと「ああ、貸し切りにした」と告げてきたのだ。
全く以ってすずかにとっては前代未聞の映画観賞である。
「何してるのケン兄ってば! 貸し切りにする必要ないでしょ!」
「いやあるよ」
「どこに?」
「邪魔だし」
「何の!?」
「まあまあ落ち着いてすずか。ほら本編が始まる」
何故か映画観賞に来て宥めすかされているすずかは、彼が前にこの話が出た時に調整がどうのと言っていたのはこの事か、とげんなりとした。
(ケン兄って時々すんごく無駄遣い……!)
しかしもう文句を言う気力も時間もなかったので口を噤んで、始まったばかりの映画をとにかく楽しもうと気を取り直したすずかだった。
始まってまだ上映時間の半分も経ってはいないが、今現在、すずかの映画観賞は困難を極めていた。
「――ッ、また!」
「別に夫婦なんだしいいだろう? 他の人の目もないし」
「だからって……!」
初めのうちは無意識に肘置きに手を置いていたのだが、ケントも手を置いたので邪魔になると思って手を引っ込めた。これでも気を遣ったのだ。
それなのに、その手を掴まれ肘掛けに戻されて、しかも何とスルリと互いの指同士を絡められた。
思わずびっくりして手を引っ込め抗議の目を向けたが、ケントの横顔はしれっとしていて、揶揄われたのだと悟りしばしムッとしていたが、彼は懲りずにまたすずかの手を握ってきた。
だからまた手を引っ込めて……という攻防が続き、これで五度目だった。
「何なのケン兄! 何っでわざわざっていうか無理やり手を握ってくるの! しかも恋人繋ぎだし!」
「恋人? 僕たちは夫婦だろう?」
「そんなツッコミいらないよ!」
「ツッコミ? 事実を指摘したまでだけどね」
そう言った際もケントは余裕綽々で、こりゃ何を言っても無駄だと、すずかは限りなく脱力した。
(っていうか、映画に集中できない~~ッ)
無理に引っ込めてもどうせまた戻されると思えば無駄な労力は使いたくなくて、すずかは諦観の域に達した。
すずかがもう手を引っ込めないとわかったのか、ケントは上機嫌に絡めた指をぎゅっと深くした。
ケントのせいで映画の内容はほとんど頭に入ってこない。
観た所までで断片的に覚えているのは、嫉妬のあまり主人公に意地悪をする嫌な女のシーンか。
慣れない手繋ぎに緊張して掌に汗を掻くのがとても恥ずかしかった。
汗なんて掻いて実は嫌がられているかもと思えば尚更に居た堪れなくなってくる。
我慢して彼の横顔を盗み見れば視線はスクリーンへと向けられていて、すずかのことなんて文字通り眼中にないようだ。
(どうしてケン兄はこんな風に私を振り回すんだろう。確かに私は彼の正式な奥さんだけど、別に女として好かれているわけじゃない)
そう思ったら鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。
(ケン兄への気持ちがどんどん膨らむ自分が嫌になる)
それは例えば、この上なく大好きなお菓子をどうしても我慢できないのにも似ていて、ついつい手を伸ばしてしまうのと一緒だとすずかは思う。
そう、掴んでしまう――見ないように放置していた自らの恋心を。
もうとっくに彼への気持ちは解き放たれて、以前……いやきっとそれ以上にすずかの心の大部分を占めていた。
この先このままの関係でいれば、立場だけは彼の隣を許されてその立場に相応しく彼から触れられるだろう。でも初めのうちは満足するかもしれないけれど、いつしかこの映画の中の意地悪役のように自分が醜く変成して行くのではないかと思った。
(ああ何て憐れ。でもきっと、それでも私はこの人を……)
ちょうどスクリーンに映し出されたヒステリックに叫ぶ女優の顔が自分のそれになって、すずかは思わず強張るようにぎゅっと両目を瞑った。
その拍子に涙が押し出されて頬を伝う。
(ホント早く別れたい……)
俯いて、見られないうちにと何気ない仕種で拭おうとして、
「――出よう」
隣からそう聞こえたかと思えば、繋いでいた手を引かれて立たされて、シアター外の通路まで連れ出された。
扉越しに微かに中の映画の音が響いてくる。
余りに突然の事に驚き目を白黒させるすずかの目元を、ケントは指先でそっと拭った。
泣いたのがバレていた恥ずかしさに、頬がカッと熱くなる。
(ふ、不覚……っ)
また揶揄われると内心で身構えたが、ケントは意外な程の真剣な眼差しですずかを見下ろしてきた。
(ええと、何……?)
「具合が悪いのに我慢するな、すずか」
「具合……?」
彼が自分を連れ出した理由がわかって、すずかはちょっと慌ててふるふると首を横に振った。
「ち、違うよ、ただちょっと感動しただけだから、体調は大丈夫」
「感動……」
彼はどう思ったのかたった今出て来たばかりの扉を一瞥すると、一つ吐息を落として歩き出した。
勿論手を繋いで。
「え、続き観ないの?」
「悪いけど次の機会を作るから我慢してくれ」
「え? え? それはいいけど……」
きっと結構な金額を費やして貸し切りにしたに違いない。それなのにケントこそいいのだろうかと困惑していると、彼は足を止め振り返りすずかの黒髪に指を梳き入れてそっと額に口付けてきた。
「――!?」
「僕には話せない事? 途中までのあの展開で感動なんて嘘だろう?」
不意打ちの親密なスキンシップに、でこちゅーか、感動で泣いたわけじゃないと看破された羞恥か、何が一番の理由かもわからずに心拍数が弥増していく。
「もっもう泣かないよ、だから放して」
ちょっと強引に手を引き抜いて睨み上げれば、ケントはしばしキョトンとして空になった自分の掌を見つめ瞬いてから、ふふんと笑った。
「全く君は人に懐かない可愛い黒猫そのものだなあ。尻尾を立てて御主人様~ってゴロゴロ甘えてくるまで、躾けがいがありそうだ」
「はッ!? ちょっとかなり私に失礼だよねそれは! メイドさんじゃないんだしケン兄に御主人様なんて絶対に言わないもん!」
「へえそう」
今は他のシアター会場内も上映中なのか廊下には誰も見当たらない。
眦を吊り上げ威嚇のように鼻息を荒くすれば、ケントが一歩で急接近してきてすずかの腰を抱いた。
「ちょッ……!?」
「じゃあ言うまで放さない。ほらほら言ってごらんすずか?」
「はあ!? ちょっと!」
本気で怒ろうとした所で、やや離れた別のシアターで映画が終わったのか、扉が開いてぞろぞろと人が出てきた。
(わあああ~~っ人が……っ、人があああっ! こんなバカップルな所を見られるなんて、空前絶後の恥辱以外の何物でもないーーーーっ!)
「ケケケケン兄早く放して! 恥ずかしいから早く!」
「なら一度御主人様って言うんだね」
「ひーッ、ああ駄目駄目駄目来ないでえっ」
「早く、すずか?」
「待ってそこの人たち動かないでお願い!」
無意味に顔を寄せてくるケントは、にこりというよりにやりとして催促してくる。
最早それどころではなく慌てふためくすずかの目の先で、廊下を自分たちの方に歩いてきた先頭の一人が、視線を上げてすずかたちを視認した。
それとほぼ同時に調子に乗ったケントがすずかの耳の先をちょっと齧る。
「ふあッ!?」
羞恥と羞恥と羞恥、オール羞恥。
すずかはもうぐるぐるとしたカオスな思考に陥って、涙目で叫んだ。
「ふぎゃーーーーーーーーッ!!」
その日、一人帰りの車の中で腕組みし黙り込むケントの顔には、見事な引っ掻き傷があった。
眠りこけていたようだったが、射した光に視神経が刺激されたのかはたまた人の気配に敏感なのか、ケントはふっと目を覚ました。
数回の瞬きの末、傍らで若干の仰天と共に何も言えないでいるすずかに気付いて、やや慌てたように身を起こす。
「すずか、さっきは……」
「こんな所で寝てたら、夏とは言え風邪引くよ」
突き放すようにして暗に自分の部屋に行けという意思を滲ませると、ケントは伏し目がちにした。
「ただ君に謝りたくて……さっきは悪かった」
「…………」
その声はいつになく申し訳なさそうで、常の堂々とした物言いも、図々しいくらいのスキンシップも、まるでいつも彼がそうしているのが嘘みたいな弱り切った様子だった。
(こ、こ、こんなの……っ、めちゃ反省してるチワワじゃない! ううう~普段とのそのギャップってズルくない!? いつまでも腹を立ててる方が何か悪い奴みたいじゃない~~~~っ!)
「本当にごめん」
すずかの心の声などまるで知らないケントは、手を掴んでくるとか頬を触ってくるなんて事もなく、自らの行いを真に省みる紳士的な態度を貫いている。
これにはとうとうすずかも絆された。
「も、もういいよ、冗談だったんでしょ。だからもう怒ってない」
「……本当に、怒ってない?」
冗談か否かには言及せず、ケントは疑り深いというよりは、すずかが無理していないかを気遣ってくるような口調で確認してくる。そんな様子にも調子を狂わされる。
「うん、ホントだから」
すずかが機嫌を直したとわかってか、ケントがようやく頬に宿していた緊張を解した。
「良かった。すずか、お腹空いてないかい?」
返事をする前にまた腹の虫が鳴いた。
「ははっ体は正直だなあ。何か軽目のものを作るよ」
「えっ、自分でできるからいいよ。冷蔵庫に残り物があればそれでいいし、ケン兄はもう寝てていいから」
「贖罪も兼ねて僕が作るよ。それに夕食は多少こってりしたものだったから、この時間に食べるには少々胃に負担だよ」
そこまで言われては無下に断れず、だからと言ってお粥すら焦がすケントの料理を夜中に胃に入れるのは正直ちょっと遠慮したかったのもあって、すずかはお湯を入れるだけのインスタント春雨スープがストックしてあったのを思い出し、それを所望して食卓に大人しく着席した。
程なくして白い湯気と共に饗された春雨スープは、まあ当然ながら無難に美味しかった。
「ところで映画を観に行く件だけど、次の週末は?」
「へ? 映画って?」
瞬間、ケントが殺気にも似た不機嫌オーラを噴出させていつもの調子を取り戻す。
今度は自分の失言を悟ったすずかは、記憶の奥底から必死に情報を引っ張り出した。
「あっイースター島……じゃなくて、映画ね映画! 行くって約束したやつね!」
「……完全に忘れていただろう。しかも言うならマチュピチュかウユニ塩湖だろう」
「あははは! 冗談をよく覚えてるね! あはははは!」
向かいの席で半眼になるケントへと自棄笑いを返したすずかは、特に先約もなかったので提案された日にちで了承した。
考えてみれば、その日は人生初の夫婦のデートだった。
しかしすずかの心中には初々しさも甘さもへったくれもない。
「な、な、な…………何で!?」
映画館のゆったりしたカップル席にケントと着席しているすずかは、本編上映直前のコマーシャルが真正面の大スクリーンに流れる前で素っ頓狂な声を上げていた。
ケント専用の送迎車に乗って到着した映画館は、極々普通の、規模からすれば多少は大きい方の、それでもどこにでもある映画館だ。
すずかもよく映画を観に来る映画館でもあった。
慣れた館内でもあったので気楽な気分で入場して、観たいとリクエストしていた映画が上映されるシアター番号に従って会場内に足を運んだ。
そこまでは良かった、そこまでは。
カップル席だったのはこの際目を瞑ろうと思えばそう出来る。
だがしかし、とすずかは度肝を抜かれながらも尚も心の訴えを叫んだ。
「どうして貸し切りなの!?」
現在、このシアター内にはすずかとケントの二人だけしか客がいなかった。
初めのうちは自分たちが一番乗りだったのかと思っていた。
けれど待てども待てども他の客が来ない。
この映画は公開後間もなく、しかも人気漫画が原作で、更には人気俳優を使っている。加えて今日は土曜週末なので一人も客がいないなど絶対に有り得ない。
故にきょろきょろと周囲を見回し不審がったすずかへと、ケントはあっさりと「ああ、貸し切りにした」と告げてきたのだ。
全く以ってすずかにとっては前代未聞の映画観賞である。
「何してるのケン兄ってば! 貸し切りにする必要ないでしょ!」
「いやあるよ」
「どこに?」
「邪魔だし」
「何の!?」
「まあまあ落ち着いてすずか。ほら本編が始まる」
何故か映画観賞に来て宥めすかされているすずかは、彼が前にこの話が出た時に調整がどうのと言っていたのはこの事か、とげんなりとした。
(ケン兄って時々すんごく無駄遣い……!)
しかしもう文句を言う気力も時間もなかったので口を噤んで、始まったばかりの映画をとにかく楽しもうと気を取り直したすずかだった。
始まってまだ上映時間の半分も経ってはいないが、今現在、すずかの映画観賞は困難を極めていた。
「――ッ、また!」
「別に夫婦なんだしいいだろう? 他の人の目もないし」
「だからって……!」
初めのうちは無意識に肘置きに手を置いていたのだが、ケントも手を置いたので邪魔になると思って手を引っ込めた。これでも気を遣ったのだ。
それなのに、その手を掴まれ肘掛けに戻されて、しかも何とスルリと互いの指同士を絡められた。
思わずびっくりして手を引っ込め抗議の目を向けたが、ケントの横顔はしれっとしていて、揶揄われたのだと悟りしばしムッとしていたが、彼は懲りずにまたすずかの手を握ってきた。
だからまた手を引っ込めて……という攻防が続き、これで五度目だった。
「何なのケン兄! 何っでわざわざっていうか無理やり手を握ってくるの! しかも恋人繋ぎだし!」
「恋人? 僕たちは夫婦だろう?」
「そんなツッコミいらないよ!」
「ツッコミ? 事実を指摘したまでだけどね」
そう言った際もケントは余裕綽々で、こりゃ何を言っても無駄だと、すずかは限りなく脱力した。
(っていうか、映画に集中できない~~ッ)
無理に引っ込めてもどうせまた戻されると思えば無駄な労力は使いたくなくて、すずかは諦観の域に達した。
すずかがもう手を引っ込めないとわかったのか、ケントは上機嫌に絡めた指をぎゅっと深くした。
ケントのせいで映画の内容はほとんど頭に入ってこない。
観た所までで断片的に覚えているのは、嫉妬のあまり主人公に意地悪をする嫌な女のシーンか。
慣れない手繋ぎに緊張して掌に汗を掻くのがとても恥ずかしかった。
汗なんて掻いて実は嫌がられているかもと思えば尚更に居た堪れなくなってくる。
我慢して彼の横顔を盗み見れば視線はスクリーンへと向けられていて、すずかのことなんて文字通り眼中にないようだ。
(どうしてケン兄はこんな風に私を振り回すんだろう。確かに私は彼の正式な奥さんだけど、別に女として好かれているわけじゃない)
そう思ったら鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。
(ケン兄への気持ちがどんどん膨らむ自分が嫌になる)
それは例えば、この上なく大好きなお菓子をどうしても我慢できないのにも似ていて、ついつい手を伸ばしてしまうのと一緒だとすずかは思う。
そう、掴んでしまう――見ないように放置していた自らの恋心を。
もうとっくに彼への気持ちは解き放たれて、以前……いやきっとそれ以上にすずかの心の大部分を占めていた。
この先このままの関係でいれば、立場だけは彼の隣を許されてその立場に相応しく彼から触れられるだろう。でも初めのうちは満足するかもしれないけれど、いつしかこの映画の中の意地悪役のように自分が醜く変成して行くのではないかと思った。
(ああ何て憐れ。でもきっと、それでも私はこの人を……)
ちょうどスクリーンに映し出されたヒステリックに叫ぶ女優の顔が自分のそれになって、すずかは思わず強張るようにぎゅっと両目を瞑った。
その拍子に涙が押し出されて頬を伝う。
(ホント早く別れたい……)
俯いて、見られないうちにと何気ない仕種で拭おうとして、
「――出よう」
隣からそう聞こえたかと思えば、繋いでいた手を引かれて立たされて、シアター外の通路まで連れ出された。
扉越しに微かに中の映画の音が響いてくる。
余りに突然の事に驚き目を白黒させるすずかの目元を、ケントは指先でそっと拭った。
泣いたのがバレていた恥ずかしさに、頬がカッと熱くなる。
(ふ、不覚……っ)
また揶揄われると内心で身構えたが、ケントは意外な程の真剣な眼差しですずかを見下ろしてきた。
(ええと、何……?)
「具合が悪いのに我慢するな、すずか」
「具合……?」
彼が自分を連れ出した理由がわかって、すずかはちょっと慌ててふるふると首を横に振った。
「ち、違うよ、ただちょっと感動しただけだから、体調は大丈夫」
「感動……」
彼はどう思ったのかたった今出て来たばかりの扉を一瞥すると、一つ吐息を落として歩き出した。
勿論手を繋いで。
「え、続き観ないの?」
「悪いけど次の機会を作るから我慢してくれ」
「え? え? それはいいけど……」
きっと結構な金額を費やして貸し切りにしたに違いない。それなのにケントこそいいのだろうかと困惑していると、彼は足を止め振り返りすずかの黒髪に指を梳き入れてそっと額に口付けてきた。
「――!?」
「僕には話せない事? 途中までのあの展開で感動なんて嘘だろう?」
不意打ちの親密なスキンシップに、でこちゅーか、感動で泣いたわけじゃないと看破された羞恥か、何が一番の理由かもわからずに心拍数が弥増していく。
「もっもう泣かないよ、だから放して」
ちょっと強引に手を引き抜いて睨み上げれば、ケントはしばしキョトンとして空になった自分の掌を見つめ瞬いてから、ふふんと笑った。
「全く君は人に懐かない可愛い黒猫そのものだなあ。尻尾を立てて御主人様~ってゴロゴロ甘えてくるまで、躾けがいがありそうだ」
「はッ!? ちょっとかなり私に失礼だよねそれは! メイドさんじゃないんだしケン兄に御主人様なんて絶対に言わないもん!」
「へえそう」
今は他のシアター会場内も上映中なのか廊下には誰も見当たらない。
眦を吊り上げ威嚇のように鼻息を荒くすれば、ケントが一歩で急接近してきてすずかの腰を抱いた。
「ちょッ……!?」
「じゃあ言うまで放さない。ほらほら言ってごらんすずか?」
「はあ!? ちょっと!」
本気で怒ろうとした所で、やや離れた別のシアターで映画が終わったのか、扉が開いてぞろぞろと人が出てきた。
(わあああ~~っ人が……っ、人があああっ! こんなバカップルな所を見られるなんて、空前絶後の恥辱以外の何物でもないーーーーっ!)
「ケケケケン兄早く放して! 恥ずかしいから早く!」
「なら一度御主人様って言うんだね」
「ひーッ、ああ駄目駄目駄目来ないでえっ」
「早く、すずか?」
「待ってそこの人たち動かないでお願い!」
無意味に顔を寄せてくるケントは、にこりというよりにやりとして催促してくる。
最早それどころではなく慌てふためくすずかの目の先で、廊下を自分たちの方に歩いてきた先頭の一人が、視線を上げてすずかたちを視認した。
それとほぼ同時に調子に乗ったケントがすずかの耳の先をちょっと齧る。
「ふあッ!?」
羞恥と羞恥と羞恥、オール羞恥。
すずかはもうぐるぐるとしたカオスな思考に陥って、涙目で叫んだ。
「ふぎゃーーーーーーーーッ!!」
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