黒猫姫と腹黒総裁~こうさせたのは全部君~

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9 プチ喧嘩

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 アルトと別れまだ明るいうちに帰宅したすずかは、いつもの如くリビングのソファに身を沈めて、一人静かに思案していた。

(きょーちゃんの知り合いってどんな人なんだろ)

 一応事前に知りたくて訊ねたものの、アルトは「大丈夫会えばわかるわ」と言うだけで教えてくれなかった。彼女がそう言うのならまあ大丈夫なんだろうとすずかは思ってそれ以上の質問を控えた。
 アルトの協力のおかげで、本当に浮気をするわけではなくケントを欺くための演技をするだけで済むのは幸いだった。

(でも、浮気かあ……。嘘事とは言え、そんな親密なふりホントに私にできるかなあ。すぐに演技って見抜かれちゃうんじゃ……)

 自分の気性的に、演技であろうと知らない相手とイチャこくのはかなり難易度が高いと自覚しているすずかは、今更ながら自信がなくなった。
 意欲もしおしおと凋んでいく。

「あのぅ奥様、どこかお加減が悪いのですか?」

 すずかにしては眉間を寄せ随分と深刻な顔をしていたようで、家政婦の澤野が気遣うような面持ちで向かい側からすずかを窺っている。

「へ!? ああいえいえ具合は平気です。ちょっと考え事をしてて」

 へらっと笑ってみせると家政婦は少し安堵したようだった。
 人の好い彼女は、自分が休みだった日にすずかが寝込んだと聞かされて、そんな必要もないのに負い目を感じているのだ。
 きっと気にするだろうと思ったので、倒れたことまでは伏せるようケントにお願いしておいたのは正解だった。

「考え事ですか。それでは奥様、お茶菓子と麦茶か何かお持ち致しましょうか?」

 さすがは気の利く家政婦だと内心で有難く思いつつも、すずかは苦笑いを浮かべた。

「澤野さん、実は前から思ってたんですけど、奥様呼びは勘弁して下さい」
「申し訳ございません。旦那様より奥様と呼ぶよう仰せ遣っておりまして……」
「えっそうなんですか? うー、ケン兄ってばやけに細かい指示出すなあ。でも奥様呼びなんてしなくていいですよ」
「それなのですが、奥様と呼ばないと……クビになります」
「そんな殺生な! 後でケン兄に文句言ってやります」
「それもおやめ下さい。奥様からこの件で文句が出てもクビになります」
「ええっ!? 何て横暴なのっ!」

 ハッキリ言ってすずかは奥様呼びに未だに慣れない。
 むず痒いだけだ。

(全く~っケン兄は一体何を思ってそんな事を申し付けたの? ま、まさかこれも嫌がらせ!?)

 訂正してもらいたくてもこうも先手を打たれてしまっては、最早家政婦を路頭に迷わせるわけにもいかないので折れるしかなかった。
 溜息をつきつつ、麦茶とクッキーを出してくれるように頼んで、その後は用事があれば呼ぶからと言って下がらせた。

 そうして、再び一人になって落ち着いて考えていると、それ以前に浮気して激怒されて離婚となれば、慰謝料を請求されるのではと思い至った。

 失念していた自分の間抜けさに頭を抱える。
 しかし彼は富豪なのだしお金の問題ではないのかもしれないとは思う……思うが、支払えと命じられればそうしなければならないだろう。

(その覚悟はしておかないとね)

 実家の会社にも影響が出るかもしれないと不安が大きくなったが、これは私事なのだと思い直す。そもそも傘下にある企業の損失を承知で私怨でどうこうするなど、聡明なケントはしないだろう。

「よーし、きっちり浮気しないとね。演技だとしても予習しておいた方がいいよね。うーん、レンタルか配信で浮気ものを探してみるかあ」

 思い付いたままにスマホで検索をかける。

「浮気、ドラマ、映画……と。何か参考になるものがヒットするといいけど」

 単に検索を掛けるだけなのだが、どことなくイケナイ事をしているようで、少しだけ後ろめたいそわそわと好奇心からのドキドキを胸に画面を見つめる。

「わー、浮気関連のが意外と沢山出て来た。世の中はこんなに浮気が……」

「――誰が浮気だって?」

「ひゃいいいっ!?」

 いつもの如く気配を消して背後から近付いてきたケントに耳元で囁かれた。

 しかも彼は驚いて飛び上がったすずかの手からスマホを取り上げるようにして、それを覗き込むと微かに眉をひそめる。

「どうしてこんな項目で検索なんて……」

 画面からすずかへと移った視線。
 すずかは我知らずギクリと肩を強張らせた。
 それだけでケントは何かを察したらしい。
 彼はジト目かつ無言で、ソファを挟んで立つすずかを見つめるのを継続する。
 エアコンが効いているのにだらだらと背中に嫌な汗を掻きつつ、すずかはここで認めたら元も子もない、引き下がってなるものかと、強気に出た。

「えへへあはは~、そ、そういうのに興味があるお年頃?」

 何が何でも浮気するためですなんて馬鹿正直に言うつもりのない彼女は、そんな言い訳を前面に出してみた。
 ややもじっとすずかを見据えていたケントは何を思ったのか、ふう、と小さく息をつく。

「まあ色々な人生の選択があると知っておくのは悪くないとは思う」
「そ、そうだよね! さすがはケン兄話わかる~」

 ちょっとホッとしてみせると、ケントからは「ホントすずかは悪戯猫みたいだよ」と今度は独り言とも取れる台詞と共に溜息をつかれた。
 そこに結婚前のような明らかな冷たさはなく、意外に眼差しは穏やかだ。

(だから、困る。何なのケン兄は、意味わかんないよ……)

 看病の時もそうだが、ケントがこんな態度だから、不意に胸が詰まる。
 恋しく懐かしい昔のような仲の良い関係に戻れるかもしれない、なんて思ってしまうのだ。
 もしも関係修復が可能なら、ギスギスした雰囲気を恐れる事もなく、離婚までする必要はないかもしれない。

(でも……)

 その反面では、姉を重ねて見ているからそうなのだろうと思えば、鬱屈した感情が心の底に澱のように沈み分解されずに積もっていく。

「ところで、すずかも浮気してみたいなんて思っていたりはしないだろう?」
「……っ」

 彼の不遜な表情から、すずかのはぐらかしをわかっていて故意に挑発するような台詞を投げてきているのは明白だった。

(うっわ嫌味ったらしい!)

 わざとらしく勿体ぶった言い回しを選ばずとも「浮気は許さない」とハッキリ言えばいいではないかと鬱憤が溜まっていく。

(まあ仮に許さないって言っても、それもどうせ単に体面の問題がどうとかって思ってそうだけど)

 すずかの気持ちなど彼にはどうでもいい事なのだろう。
 そう考えると気分は塞ぐ。

(ふんだ、だけどこれも離婚までの辛抱だもん)

「スマホ返して! そうですする気ですーだ! だからさっさと離婚した方が身のためだよ。妻が浮気なんて醜聞でしょ」
「ふうん」

 挑発に乗ってお望み通り半ばやけっぱちで肯定してやったら、ケントは瞳の温度をやや下げた。

(きーっ! 自分から煽っておいてそれなの? 性格悪っ!)

 彼はソファギリギリに近付くと、身長差を利用して威圧するようにすずかを見下ろしてくる。

「そんなことをするつもりなら、君をここから出さない」
「はあ!? 学校はどうするの!」
「どうせ明日から夏休みだろう? 一月以内に改心して反省すれば夏休み明けにはちゃんと学校にも通えるさ」
「は、犯罪だよそれ……っ」

 すずかが気色ばんで常識を訴えれば、ケントはより気分を害したのか腕を伸ばしてすずかの顎先を掴むと視線を自らに固定させた。
 すずかが身を竦めて僅かに怯めば、冷ややかな眼差しのまま形の良い唇を開く。

「少なくとも捕まるまでは君を独占できるだろう?」

 苛立ち故の暴言か、きっと本気ではないのだろうが、ケントの発言にすずかは拳を握った。

(ああやっぱり。優しいなんて思ったのは間違いだった)

 彼は自分にこんな脅しめいた事まで出来るのだと思えば、心が冷えていく。
 彼と結婚して想定外にもぬるま湯のような二人の生活の中で、恋心を閉じ込めていたかさぶたは少しずつ少しずつ柔らかくなっていた。
 日々の生活の中で否応なくその自覚はさせられた。
 だから本心じゃなくとも恋する相手に「独り占めしたい」なんて言われて、胸が高鳴って嬉しいと一瞬でも感じてしまった。
 けれど、彼の真意はそうではないのだと知っている。

(そうだよね、私はりさお姉ちゃんじゃないんだし)

 我が身の愚かさに辟易だ。
 涙が出そうだ。

(でも、泣かない)

 キッと睨み上げて手を振り払い乱暴にスマホを奪い返すと、ケントはちょっと予想外だったのか目を瞠った。

「……社長だからって、頭が良いからって、人をバカにして! ケン兄なんて大っ嫌い!」

 感情をぶつけるだけぶつけて、後は自分の寝室へと駆け込んで鍵を閉めた。

「すずか、僕は君を馬鹿になんてしたことはない。落ち着いて話をしよう?」

 何度かケントがドアをノックしてきたが、返事もせずに無視を決め込んだ。そうしていたら向こうも諦めたのか、気配は去った。

(何よ、簡単に引き下がる程度なんだ……)

 きっと自分だって同じ立場に置かれればそうしただろうに、落胆と失望をせずにはいられなかった。少し腹も立った。

 夜になってケントにでも頼まれたのか、家政婦から夕食を勧められたけれど、拒んだ。
 作ってもらった食事は明日食べるので冷蔵庫に入れておいてほしいとドア越しに意向を告げれば、彼女は食べないと体に良くないとかまた倒れるとかしばらく食い下がってくれたけれど、頑固にも応じないでいると諦めたのか去っていった。
 この時はケントへとは異なり、落胆も苛立ちもなくただただ家政婦への申し訳なさだけがあった。

 その家政婦も帰宅し、夜も遅くなり、籠城もかくやのすずかがうとうととし始めた頃、再びの控えめなノックと共にケントの声が聞こえた。

「すずか、悪かったよ。さっきは冗談が過ぎた。だから機嫌直してくれ」

 ケントは決して誉められない自らの過激な発言を反省した言葉を掛けてきたが、ベッドの上で大きなテディベアを抱きしめるすずかはまたもや無言を返した。

「もし怖がらせたなら、本当に悪かった」

 それにも無言。
 もう寝ているとでも思ってくれれば都合がいい。

「すずか……」

 早く自分の部屋にでも入れと念じ、すずかは耳を塞ぐようにして不貞寝した。

 しかし不貞寝がマジ寝になってしまいハッと目を覚ますと、とっくに日付も変わっていて最早深夜だった。

 消し忘れた部屋の電気が寝起きの目には少し眩しい。
 部屋の中は当たり前だが、廊下の方もしんとしている。
 ケントも寝室に入っているに違いない。
 時間を意識すれば空腹まで思い起こされてお腹がくう~と小さく鳴った。

(……たぶんきっと冷蔵庫に何か残り物があるよね)

 そう思ってのろのろとベッドを降り、音を立てないようにそっと自室のドアを開けた。
 廊下に一歩出たところで、ふと視界の端に意識に引っ掛かるものが映った。

 斜めにはみ出た部屋の明かりが一つのつむじを薄ら照らし出している。

(ケ、ケン兄!? 嘘ここにずっといたの?)

 紛れもなくケント本人が、ドア横の壁に背を凭れて眠り込んでいた。
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