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4 花柳ケントは一枚上手
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ケントのおかげで実家は救われ、母親も無事に退院した。
実家企業は花柳家の傘下に入るも、父親は今まで通り会社の舵取りを任されている。
ケントは両親にマンションを用意すると言ったが、当人たちはそれを固辞し、初心に返るんだと言って小さな平屋を借りた。
元の家はとっくに他者の手に渡っていたし、これまで狭いアパート暮らしをしていたので、会社が安定し平屋に移れただけでも有難いと満足そうだった。
すずかとしてもどこに住もうと関係ない。彼らのいつもの笑顔を久しぶりに見ることが叶っただけで十分だった。
それもこれもケントが条件はアレだが手を差し伸べてくれたからだ。
感謝はしている。
だけど、しかし、でも、すずかの決意は変わらない。
技術が欲しかったのなら、彼のその望みは叶っている。
後継者が欲しいだけなら、別にすずかでなくとも良いのだ。
しかも彼が真に子供を望む相手はすずかではない。
愛のない、そんな不幸な家族になるのは御免だった。
「うーん、離婚するには、どうしよう? あれもこれも効果がなかったんだよねえ。怒るどころか楽しそうにしてたのは解せないけど」
先程からすずかは広いリビングを一人うろうろとしながら、足跡代わりにぽろぽろと心の声を落としていた。
現在すずかは高級マンションに暮らしている。
エントランスや共有スペースも綺麗で広く、ゆったりした会議室なんかまであるような建物で、内装に関しても設えは上等、木材の色をそのままに使ったシンプルながらも品を感じさせるデザインだ。
億ションと言われるようなこの部屋だが、何と建物は花柳家所有の不動産だと言う。部屋の幾つかは社宅としても使われているらしく、その関連なのかこの部屋に出入りしている家政婦の家も、階は違うがこの建物内にあるそうだ。
因みに、すずかの暮らす階は二世帯分しか号数がない。部屋の一つ一つが広く部屋数も多いセレブのための住居だからだ。
一世帯でワンフロア全てを使っている階もあるが、そこに入るのは無駄に広いとすずかが嫌がった。
そんなこの部屋には当然ケントが帰ってくる。
もう二人は夫婦なのだから当たり前だろう。
しかし顔を合わせるのだ。合わせなくてはならないのだ。
故に、すずかは今夜も離婚のために彼を怒らせる方策を探していた。
高価な美術品やインテリアをわざと壊してみたり、彼の愛読書を水浸しにしてみたり、彼の食事だけこっそり激辛にしてやったりした。
しかし彼は一向に怒る様子はなく「形あるものはいつかはどうせ壊れる」なんて超余裕綽々で、すずかに怒って嫌気がさして「離婚だ!」と言い出す気配は微塵もない。
食事に至っては逆にすずかが目を放した隙に皿を入れ替えられて、彼女の方が予期せず口から火を噴いたものだった。涙目で睨めば「美味しい方をすずかに食べてもらいたくて」なんて一枚上手のケントからしれっと余裕の笑みを返されたのは記憶に新しい。
因みに、結婚初日には「結婚したから離婚して」と直球で離婚届を突き付けたものの、ケントはどこ吹く風といった顔でビリビリと破り捨てた。
「うーん、怒らせる方向じゃ意味がないのかも。じゃあ……弱味を握るとか?」
一度口に出してみれば、そんな自らのゲスい考えに妙な自信が湧いてやけに乗り気になった。
「うんうんそうだよそうしよう。例えば、たくさんお酒を飲ませてべろんべろんに酔っぱらわせて、醜態を晒した所を撮影してやったらいいんじゃない?」
早速良案を思い付いたと、この家に仕える中年の家政婦に頼み、今夜の食事にケントになるべく度数の高いお酒を出してもらうように手配した。
彼は春に既に成人しているので問題はない。
今から彼の帰宅が待ち遠しかった。
「ポケットにスマホも忍ばせたし、これで準備は整ったわ。ふっふっふっさあ早く帰って来なさい花柳ケント。いつまでも偉そうにしてられると思ったら大間違いなんだから」
張り切ったすずかはリビングに置かれた大きなソファにぼふっと体を沈めた。
余裕でベッドにもなる大きな物だ。さすがはお金持ちの家だと初めて見た時は心底感心と驚きで一杯だった。
因みにすずかはこの高級マンションから高校に通っている。
ケントはすずかをお嬢様学校に通わせたがったが、すずかが猛反発した結果これまで通りの学生生活を送れていた。
何故なら、仲の良い友人と離れるのは嫌だったのだ。
勿論それは女友達だ。
――京町アルト。
親友と呼べる彼女には英国人の血が入っていて、女子にしては背が高めで美少年にも見える不思議な雰囲気を持ち、女子から好意を寄せられることもしばしばある。
高校で出会った彼女にはすずかの事情も概ね話してあった。
ただ、凛々しい見た目を裏切る頗る恋バナ大好き女子で、根掘り葉掘り夫婦生活の中身を聞き出される。
(……まあ、彼とは何もないんだけど)
正直結婚したのだからと体を求められると思っていたが、予想とは違って白い結婚も同然だった。
そこが解せない。
でもホッとしてもいた。
『すずか~、昔は好きだったんだし迫られたらどう転ぶかわからないわよ~? 熱くて甘い夜はもうすぐそこかもね~?』
数多の少女漫画を読み倒してきた知識故か、アルトは訳知り顔で白い歯を見せて「しししし」なんて独特に笑いながら、今日なんてそんなことを言ってきた。
思い出して想像したら、ボッと火が点くみたいに顔が赤くなる。
「きょーちゃんの馬鹿馬鹿~っ、そんなこと絶対ないないないなーい! だって私は離婚するんだから!」
今までその覿面に良い方法を思い付かなかった……のだが、今夜はついに上手く行くかもしれない。
「――離婚はしない」
「ひぃやああああっ!?」
突如背後から声がした。
しかも耳元で。
「ケケケケン兄っ! こういうのやめてって言ったでしょ!」
ぞくりとして即座に寛いでいたソファから飛び上がって反転し、真っ赤になって耳を押さえて睨み据えれば、その先で夫――花柳ケントがにやりとして屈めていた半身を起こした。そのまますずかを見下ろしてくる。
故意に足音を忍ばせて接近したに違いなかった。
ケントと同じ家に暮らしてから、彼はよくそんな意地悪をしてくる。びっくりして心臓に悪いったらなかった。
「心臓発作でも起こさせて私を早死にさせる気?」
「まさか。君の心臓は全く問題がないくらいに頑丈その物だって、この前の検査結果で出ただろう」
「ああハイハイそうでございましたね!」
彼と結婚するにあたって、すずかは強制的に人間ドックまで受けさせられた。そこは両親も一緒にしたのもあって、健康診断なら学校でしたから必要ないのに……なんて少し文句を言っただけで大人しく従ったけれど。
「全く、何度言ったらわかるんだか。いい加減観念したらどうなんだ?」
「いっ嫌よ! 諦めたらそこで試合終了だもん!」
「……すずかは何と戦っているんだ?」
(あなたとよ!)
だけどそこまで言葉にすることはなくジト目で見ていると、ケントはお洒落なネクタイを緩めて微かなため息をついた。薄らとした疲労とそして一瞬だけ表情に暗いものを過ぎらせる。
「……何かあった?」
「……いや」
「あったよねその態度! どーせまた若造が~とか何とか言われたんでしょ。それか、おじさんと比較されたとか」
「……」
有能な若き総裁の彼は時々その手の嫉妬に晒される。大半は彼の報復を恐れ、尚且つ大人としての自制心で腹に収めるらしいが、中には幼稚にもあからさまに彼を侮り中傷する相手もいるらしい。
(この人って大抵が腹黒で図太いのに、時々ちょっとナイーブになるよねえ……。やっぱりおじさんの事を言われたんだ。でなければ落ち込まないでしょ)
この花柳ケントは有能さへの妬み僻み程度に怯む男ではないのだ。どこ吹く風~と歯牙にもかけず流すだろう。時にその後の意趣返しを腹に画策して。
図星なのか黙り込んだ様子に、すずかは彼は年上の男なのに何だか落ち込む年下の少年を見ているような気分になった。
経営者としては彼の父親よりも遥かに優秀な評価を受けるケントは、しかし人格者としては全然及ばない。
そこはすずかも激しく同感だったものの、面と向かって言った事は一度もない。
ケントは彼の父親を尊敬しているし、比べられても仕方ないと思っているようだが、色々とまだ彼の中で落ち着いていない感情があるのだろう。外野の要らぬ評価だって欲しくもないに違いない。
そして故意に自らの父親の話を出された時、彼はいつもどこか意気消沈するのだ。
まあ表面上は決して相手には悟られないたろうが。
いつだったかこの家に帰って来て気が抜けたのか、或いは少しだけ酔っていたのか、眠そうなケントがうっかりそんな心情を吐露した事があったから、すずかは知っている。
そんな弱味をどうして好きでもない自分に打ち明けてくれたのか、すずかにはわからない。
たぶん眠くて判断が鈍っていたのだろうと思っている。
珍しく誤魔化しに失敗しているケントへと、すずかはフンと鼻を鳴らした。
「全く、ケン兄らしくない」
いくら彼を腹立たしく思おうと、心を攻撃されるような理不尽な目に遭っていいわけがないのだと、彼女は我が事のように憤ったのだ。
ただ、父親云々は気付かないふりをして無難な理由っぽいのを選んだ。
「実力主義に年齢なんて関係ないし、人の努力を若いからってだけで貶す権利なんて誰にもない。そんな腹立つ相手なんて蹴散らせばいいんだよ。落ち込むなんて時間の無駄。ケン兄は天才なんだから相手がそんな下らない優越に浸ってる間に、その分だけもっともっと高みに上って、ついでにしれっとその踏み台にでもしてやればいいんだよ!」
「すずか……」
「ね、そう思わない?」
ケントはぱちぱちと瞬いた。すずかの言は過激と言えばそうだ。
しかし……。
そのまましばらく何も言ってこないのにすずかが訝ると、彼はようやく頬から力を抜いた。
「ははは、全く……すずかはやっぱりすずかだね」
「え、どういう意味?」
「案外結構、気が強い」
「は!?」
ずけずけとした物言いとは裏腹に、彼は柔らかな声でふっと何か幸福のようなものに和んだように微笑んだ。
「僕のために怒ってくれてありがとう」
「えっ、そ、そんなつもりじゃないけどっ、一般論だよ一般論。シャキッとしなさいって意味。うじうじケン兄なんて御免だしね!」
ケントのため。
指摘され、そう言われれば意図せずも気遣う形になっていると気付いて思わずあたふたとしていると、「うじうじ……」と呟いていたケントは苦笑を浮かべ正面に向き直って少しすずかへと身を屈めるようにした。
「すずか、――ただいま」
「あ……」
そう言えば帰宅の挨拶がまだだった。
ケントは毎日何故か帰宅時と外出時の挨拶は欠かさない。
しかも妙に嬉しそうに言うものだから、すずかも本当の本当にこれだけは仕方がないと妥協していた。
「………………おかえりなさい」
そんな昔でもないかつて、バイトを終えて誰も居ない暗いアパートの部屋に帰った日の、言い知れない寂しさを覚えている。
家族の帰りを待っていても、忙しくて帰ってこなかった夜の心細さを覚えている。
ケントがまさかそんなことまで知っているわけはないだろうけれど……。
(ちょっと癪だけど、そうなんだけど……嫌じゃないんだよね)
そこがまた絆されているようで、悔しくもあるすずかだった。
実家企業は花柳家の傘下に入るも、父親は今まで通り会社の舵取りを任されている。
ケントは両親にマンションを用意すると言ったが、当人たちはそれを固辞し、初心に返るんだと言って小さな平屋を借りた。
元の家はとっくに他者の手に渡っていたし、これまで狭いアパート暮らしをしていたので、会社が安定し平屋に移れただけでも有難いと満足そうだった。
すずかとしてもどこに住もうと関係ない。彼らのいつもの笑顔を久しぶりに見ることが叶っただけで十分だった。
それもこれもケントが条件はアレだが手を差し伸べてくれたからだ。
感謝はしている。
だけど、しかし、でも、すずかの決意は変わらない。
技術が欲しかったのなら、彼のその望みは叶っている。
後継者が欲しいだけなら、別にすずかでなくとも良いのだ。
しかも彼が真に子供を望む相手はすずかではない。
愛のない、そんな不幸な家族になるのは御免だった。
「うーん、離婚するには、どうしよう? あれもこれも効果がなかったんだよねえ。怒るどころか楽しそうにしてたのは解せないけど」
先程からすずかは広いリビングを一人うろうろとしながら、足跡代わりにぽろぽろと心の声を落としていた。
現在すずかは高級マンションに暮らしている。
エントランスや共有スペースも綺麗で広く、ゆったりした会議室なんかまであるような建物で、内装に関しても設えは上等、木材の色をそのままに使ったシンプルながらも品を感じさせるデザインだ。
億ションと言われるようなこの部屋だが、何と建物は花柳家所有の不動産だと言う。部屋の幾つかは社宅としても使われているらしく、その関連なのかこの部屋に出入りしている家政婦の家も、階は違うがこの建物内にあるそうだ。
因みに、すずかの暮らす階は二世帯分しか号数がない。部屋の一つ一つが広く部屋数も多いセレブのための住居だからだ。
一世帯でワンフロア全てを使っている階もあるが、そこに入るのは無駄に広いとすずかが嫌がった。
そんなこの部屋には当然ケントが帰ってくる。
もう二人は夫婦なのだから当たり前だろう。
しかし顔を合わせるのだ。合わせなくてはならないのだ。
故に、すずかは今夜も離婚のために彼を怒らせる方策を探していた。
高価な美術品やインテリアをわざと壊してみたり、彼の愛読書を水浸しにしてみたり、彼の食事だけこっそり激辛にしてやったりした。
しかし彼は一向に怒る様子はなく「形あるものはいつかはどうせ壊れる」なんて超余裕綽々で、すずかに怒って嫌気がさして「離婚だ!」と言い出す気配は微塵もない。
食事に至っては逆にすずかが目を放した隙に皿を入れ替えられて、彼女の方が予期せず口から火を噴いたものだった。涙目で睨めば「美味しい方をすずかに食べてもらいたくて」なんて一枚上手のケントからしれっと余裕の笑みを返されたのは記憶に新しい。
因みに、結婚初日には「結婚したから離婚して」と直球で離婚届を突き付けたものの、ケントはどこ吹く風といった顔でビリビリと破り捨てた。
「うーん、怒らせる方向じゃ意味がないのかも。じゃあ……弱味を握るとか?」
一度口に出してみれば、そんな自らのゲスい考えに妙な自信が湧いてやけに乗り気になった。
「うんうんそうだよそうしよう。例えば、たくさんお酒を飲ませてべろんべろんに酔っぱらわせて、醜態を晒した所を撮影してやったらいいんじゃない?」
早速良案を思い付いたと、この家に仕える中年の家政婦に頼み、今夜の食事にケントになるべく度数の高いお酒を出してもらうように手配した。
彼は春に既に成人しているので問題はない。
今から彼の帰宅が待ち遠しかった。
「ポケットにスマホも忍ばせたし、これで準備は整ったわ。ふっふっふっさあ早く帰って来なさい花柳ケント。いつまでも偉そうにしてられると思ったら大間違いなんだから」
張り切ったすずかはリビングに置かれた大きなソファにぼふっと体を沈めた。
余裕でベッドにもなる大きな物だ。さすがはお金持ちの家だと初めて見た時は心底感心と驚きで一杯だった。
因みにすずかはこの高級マンションから高校に通っている。
ケントはすずかをお嬢様学校に通わせたがったが、すずかが猛反発した結果これまで通りの学生生活を送れていた。
何故なら、仲の良い友人と離れるのは嫌だったのだ。
勿論それは女友達だ。
――京町アルト。
親友と呼べる彼女には英国人の血が入っていて、女子にしては背が高めで美少年にも見える不思議な雰囲気を持ち、女子から好意を寄せられることもしばしばある。
高校で出会った彼女にはすずかの事情も概ね話してあった。
ただ、凛々しい見た目を裏切る頗る恋バナ大好き女子で、根掘り葉掘り夫婦生活の中身を聞き出される。
(……まあ、彼とは何もないんだけど)
正直結婚したのだからと体を求められると思っていたが、予想とは違って白い結婚も同然だった。
そこが解せない。
でもホッとしてもいた。
『すずか~、昔は好きだったんだし迫られたらどう転ぶかわからないわよ~? 熱くて甘い夜はもうすぐそこかもね~?』
数多の少女漫画を読み倒してきた知識故か、アルトは訳知り顔で白い歯を見せて「しししし」なんて独特に笑いながら、今日なんてそんなことを言ってきた。
思い出して想像したら、ボッと火が点くみたいに顔が赤くなる。
「きょーちゃんの馬鹿馬鹿~っ、そんなこと絶対ないないないなーい! だって私は離婚するんだから!」
今までその覿面に良い方法を思い付かなかった……のだが、今夜はついに上手く行くかもしれない。
「――離婚はしない」
「ひぃやああああっ!?」
突如背後から声がした。
しかも耳元で。
「ケケケケン兄っ! こういうのやめてって言ったでしょ!」
ぞくりとして即座に寛いでいたソファから飛び上がって反転し、真っ赤になって耳を押さえて睨み据えれば、その先で夫――花柳ケントがにやりとして屈めていた半身を起こした。そのまますずかを見下ろしてくる。
故意に足音を忍ばせて接近したに違いなかった。
ケントと同じ家に暮らしてから、彼はよくそんな意地悪をしてくる。びっくりして心臓に悪いったらなかった。
「心臓発作でも起こさせて私を早死にさせる気?」
「まさか。君の心臓は全く問題がないくらいに頑丈その物だって、この前の検査結果で出ただろう」
「ああハイハイそうでございましたね!」
彼と結婚するにあたって、すずかは強制的に人間ドックまで受けさせられた。そこは両親も一緒にしたのもあって、健康診断なら学校でしたから必要ないのに……なんて少し文句を言っただけで大人しく従ったけれど。
「全く、何度言ったらわかるんだか。いい加減観念したらどうなんだ?」
「いっ嫌よ! 諦めたらそこで試合終了だもん!」
「……すずかは何と戦っているんだ?」
(あなたとよ!)
だけどそこまで言葉にすることはなくジト目で見ていると、ケントはお洒落なネクタイを緩めて微かなため息をついた。薄らとした疲労とそして一瞬だけ表情に暗いものを過ぎらせる。
「……何かあった?」
「……いや」
「あったよねその態度! どーせまた若造が~とか何とか言われたんでしょ。それか、おじさんと比較されたとか」
「……」
有能な若き総裁の彼は時々その手の嫉妬に晒される。大半は彼の報復を恐れ、尚且つ大人としての自制心で腹に収めるらしいが、中には幼稚にもあからさまに彼を侮り中傷する相手もいるらしい。
(この人って大抵が腹黒で図太いのに、時々ちょっとナイーブになるよねえ……。やっぱりおじさんの事を言われたんだ。でなければ落ち込まないでしょ)
この花柳ケントは有能さへの妬み僻み程度に怯む男ではないのだ。どこ吹く風~と歯牙にもかけず流すだろう。時にその後の意趣返しを腹に画策して。
図星なのか黙り込んだ様子に、すずかは彼は年上の男なのに何だか落ち込む年下の少年を見ているような気分になった。
経営者としては彼の父親よりも遥かに優秀な評価を受けるケントは、しかし人格者としては全然及ばない。
そこはすずかも激しく同感だったものの、面と向かって言った事は一度もない。
ケントは彼の父親を尊敬しているし、比べられても仕方ないと思っているようだが、色々とまだ彼の中で落ち着いていない感情があるのだろう。外野の要らぬ評価だって欲しくもないに違いない。
そして故意に自らの父親の話を出された時、彼はいつもどこか意気消沈するのだ。
まあ表面上は決して相手には悟られないたろうが。
いつだったかこの家に帰って来て気が抜けたのか、或いは少しだけ酔っていたのか、眠そうなケントがうっかりそんな心情を吐露した事があったから、すずかは知っている。
そんな弱味をどうして好きでもない自分に打ち明けてくれたのか、すずかにはわからない。
たぶん眠くて判断が鈍っていたのだろうと思っている。
珍しく誤魔化しに失敗しているケントへと、すずかはフンと鼻を鳴らした。
「全く、ケン兄らしくない」
いくら彼を腹立たしく思おうと、心を攻撃されるような理不尽な目に遭っていいわけがないのだと、彼女は我が事のように憤ったのだ。
ただ、父親云々は気付かないふりをして無難な理由っぽいのを選んだ。
「実力主義に年齢なんて関係ないし、人の努力を若いからってだけで貶す権利なんて誰にもない。そんな腹立つ相手なんて蹴散らせばいいんだよ。落ち込むなんて時間の無駄。ケン兄は天才なんだから相手がそんな下らない優越に浸ってる間に、その分だけもっともっと高みに上って、ついでにしれっとその踏み台にでもしてやればいいんだよ!」
「すずか……」
「ね、そう思わない?」
ケントはぱちぱちと瞬いた。すずかの言は過激と言えばそうだ。
しかし……。
そのまましばらく何も言ってこないのにすずかが訝ると、彼はようやく頬から力を抜いた。
「ははは、全く……すずかはやっぱりすずかだね」
「え、どういう意味?」
「案外結構、気が強い」
「は!?」
ずけずけとした物言いとは裏腹に、彼は柔らかな声でふっと何か幸福のようなものに和んだように微笑んだ。
「僕のために怒ってくれてありがとう」
「えっ、そ、そんなつもりじゃないけどっ、一般論だよ一般論。シャキッとしなさいって意味。うじうじケン兄なんて御免だしね!」
ケントのため。
指摘され、そう言われれば意図せずも気遣う形になっていると気付いて思わずあたふたとしていると、「うじうじ……」と呟いていたケントは苦笑を浮かべ正面に向き直って少しすずかへと身を屈めるようにした。
「すずか、――ただいま」
「あ……」
そう言えば帰宅の挨拶がまだだった。
ケントは毎日何故か帰宅時と外出時の挨拶は欠かさない。
しかも妙に嬉しそうに言うものだから、すずかも本当の本当にこれだけは仕方がないと妥協していた。
「………………おかえりなさい」
そんな昔でもないかつて、バイトを終えて誰も居ない暗いアパートの部屋に帰った日の、言い知れない寂しさを覚えている。
家族の帰りを待っていても、忙しくて帰ってこなかった夜の心細さを覚えている。
ケントがまさかそんなことまで知っているわけはないだろうけれど……。
(ちょっと癪だけど、そうなんだけど……嫌じゃないんだよね)
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