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 魔人とは魔の法則の下で超自然的な術を使う人ならざる者を指す。
 件の術を俗に魔法と呼ぶ。
 その昔、人とその魔人の間にも子が生まれていたという。
 半分魔人の血を引く者やその子孫は総じて半魔と呼ばれ、魔人のように魔力を操れるのが普通だった。

 つまりは魔法を使えるのだ。

 魔人はつまり、この世界の魔法使い達の遠い先祖である。
 また、半魔はほとんど人と見分けのつかない容姿の者と、異形の魔人に近い容姿の者がいたという。
 今ではその血は薄れ通常の状態で魔人のような異形の姿をしている半魔はいないと言われる。能力使用中つまりは覚醒時に少々変化するくらいだ。

 故に、他者に能力を見られない限り、自己申告しなければ半魔とバレないのがほとんど一般的だった。

 ただし、この国ゼニス王国では、魔法は神秘の秘術とされ魔法使い達は王国に属し優雅に暮らすか、従わなければ処刑された。

 魔法使いを取り巻くこの両極端の扱いが今のゼニス王国の有りようだ。

 武力と権力を行使する横暴な現王家のやり方に胸中で異を唱える貴族は決して皆無ではない。しかし皆粛清や迫害を恐れて追従の仮面を被っている。

 ――たとえ、即位すれば稀代の暴君になるだろうと囁かれる王太子の妃として娘を差し出せと通達されようと、否やは言えないのだ。

 他者を虐げての富と権力を臆せず欲する一部の者達はこぞって自分達の娘を送り出すだろうが、そうではない一部の者達にとっては大事な娘を環境が劣悪な娼館に売るのにも等しい。しかし拒否など出来ようもない。
 それがゼニス王国の上流階級の実情だった。




 そんなゼニス王国の貴族、サニー男爵家の一人娘ことミスティリア・サニー、略してミサは重大な問題に直面していた。

 彼女が生まれた当初、文学的なセンスを一切持たず解さずの大雑把過ぎる脳みそ筋肉疑惑のある父親から名前をミステイクと付けられそうになり、母親があわや離婚かという大激怒をして妥協点でこうなったという経緯はよく子守唄で聞かされていたが、そこは問題にはならない。

 では何が問題かというと、ゼニス王国から王国全土への通達で十五歳から二十歳までの令嬢は王太子の妃を決めるための選考に加わるようにとされたのだ。

 そしてミサは通達の条件に見事に当てはまっていた。

 現在花の盛りの十七歳。

 サニー男爵家は実のところ現在の王国のやり方を良く思っていない貴族の一つ。しかしそれは表面的には一切他の貴族達には知られていない。
 サニー男爵は優秀な武人で、いつも淡々として王家と軍事の方針を話し合い決定事項を遂行しているという印象を周囲には与えている。社交界の誰に訊いてもサニー家は王家寄りだと口を揃えるだろう。表向きは。
 誰がどう足を引っ張るか知れない社交界では不注意な言動は避けるのが無難だと、さすがにサニー男爵でもわかっているのだ。ミサのあわやの名前付けの不注意さは別として。

「どどどどうすればよいのだあああ~。可愛い一人娘を、アリエルの忘れ形見を、あの残酷残虐性悪横暴で有名なサイコ野郎になどくれてやりたくな~~いッ」

 サニー男爵邸の一室、ミサがお茶を嗜んだり書庫から持ってきた本を読んだりする一家の寛ぎ専用の一室で、部屋を訪れ娘と共にお茶を嗜んでいた彼女の父親であるサニー男爵は酷く取り乱して頭を掻き毟った。
 アリエルとは彼の亡き最愛の妻、ミサの母親の名前だ。
 因みに只今は、大事な話があるとミサが彼から朝に言われて設けたお茶の席だった。
 明るい窓辺に置かれたティーテーブルに広げた王家からの手紙をぞんざいに放置したまま、父娘は向かい合っている。
 ミサは静かに飲み干した花柄のカップをソーサーに戻した。
 内々の話なので念のためメイドやボーイなどの給仕係は下がらせている。だからお代わりを注ぐなら自分でだ。
 彼女は小さく嘆息した。

「お父様、それ絶対外で言ったら駄目ですよ? 不敬罪か反逆罪で捕まりますからね? 絶対ですよ?」
「それはわかっている。いくら我がサニー家が武力的な面でそう簡単には王家に攻められても落ちないとは言え、危ない橋を渡るつもりはない」
「お父様って相変わらず家ではあけすけですね」
「ではミサは家以外のどこで本音を吐露できるというのだ」
「ええとそこは常に胸に秘めておくべき革命の炎かと……」

 父男爵の躊躇のない力説にミサが脱力していると、父親はへにゃりと表情を崩した。いつもは男爵家に仕える騎士達と早朝の武術稽古をこなし凛々しいとよく言われているその顔を情けなく。

「ミサよ、数多の妃候補はいるが、サニー家はとりわけ王家が姻戚を築いて利のある家なのだ。それに何よりミサのこの美しく可愛い姿を一目でも見てしまえば如何に血を好む乱暴な男でもお前の虜になってしまうに決まっている。跪いて愛を乞うだろう。サイコ妃にお前が選ばれてしまうのは決定ではないかあああ~ッ」
「サイコ妃って言い方……」

 聞きようによっては妃がサイコみたいではないか。

「全く、御心配には及びませんわ。世の中に美人は数多といるのですよ」

 親の贔屓目、巷には美しい令嬢達がもっといるので大丈夫だとミサは心底呆れたが、彼女は自分を余り良くわかっていなかった。
 とは言え、それはまた別の話だ。

「それじゃあどうしましょうかお父様。うーん選考には段階があるのかしら……」

 後半の娘の独り言に近い呟きに、気を取り直した男爵は涙目を即座に拭って物を教える教官の顔になる。よく騎士達の前でそうしているのをミサもたまに見掛けている。

「おお、そうだった。一次選考は姿絵を添付した書類審査だ。そこを通れば王都で開かれる舞踏会に招待され、そこで数人に絞られるようだ。そして最終的にはその数人をしばらく王宮で過ごさせて王太子妃を決定する、と書かれていたな」

 ミサは意地悪そうににまりとした。もっと言えば咽の奥でクッと嗤った。

「お父様、安心して下さい。勝機が見えました」

 この場合の勝機とは妃選考の落選を意味する。

「ミサ? この状況の何を安心せよと言うのだ? この父には解決策が全く見えないが……不甲斐無い父で済まぬ……ううぅっ」
「もうめそめそしないで下さいお父様。私の趣味は何だったかご存知ですか?」
「絵を描く事だろう」

 即答にミサは嬉しくなる。父親がいつも自分を気に掛けてくれている証拠だ。

「ええそうです。だから私の姿絵は私が自分で描きます。それは構わないですよね?」
「まあ、自分の肖像なのだし鏡を片手に自分で納得のいく出来を突き詰めるのは構わないが……」
「ふふ、良かった」
「いくら得意といえども、実物のお前よりも美しい物ができるわけがないとは思うが、そんな馬鹿な真似は絶対によすのだぞ」

 男爵は不安そうにしている。

「そこは心配要りませんわお父様。私は社交界に顔を出した事がないので私の本当の顔を王都の方達は誰も知りません」
「そう言えばそうだったな」

 世間でミサは体の弱い深窓の令嬢と言われ、夜会などへの招待をことごとく断っていたので社交界に知り合いもいない。そもそもにおいて彼女自身が社交界の面々と関わるつもりが全くなく、この先もその考えを変えるつもりはなかった。
 ミサは一人娘なのでサニー男爵家の存続はどうするんだと訊かれれば、それはまあいつかは子を残す必要はあるだろうとミサ自身も思ってはいた。そのための心構えだってしてあった。

(正直言うとまだ後継云々は時期尚早って思ってたから、こうなるまでは積極的には動いてなかったんだけど、そうも言ってられないわよね)

 しかし、ここにきて彼女の中では既にもう家の問題への答えの用意が出来てしまったと言ってもいい。

 そう、デキてしまった。

(だって、もうお腹に子供がいるんだもの)

 まだ誰にも、父親にさえも打ち明けられない秘密だが。
 テーブルに隠れて見えない腹をミサは優しく撫でてやる。

「しかし顔など、書類一式を提出してしまえば必然的に知られてしまうだろうに」
「そこで、私に妙案があるのです」
「肖像画提出は必須なのだぞ」
「ええ、だからこそ効果を発揮するのです。見ていて下さい、一次選考で見事に落ちてみせますから」

 ミサの意図が掴めない男爵はしばらく首を捻っていたが、不敵に自信満々の娘の様子にとりあえずは提出書類一式を任せる事にしたのだった。



「次、次、次、次行け次、駄目だ次、次、次、次次次次次次……――まだあるのか!」

 ゼニス王国王宮で若者の怒声が上がった。

 怒っていると余計に偉そうなその声は暴虐王太子と名高いディラン・ルクスのものだ。

 彼は現在大きな執務机に陣取って、王国全土から運ばれてきた令嬢達の選考書類を自らで審査していた。どうせ大臣などの他の者に任せると私利私欲で選びろくな選考にならないと、これと似たような幾つもの経験から知っているためだ。直近で言えば、外交的な賓客も出席していた舞踏会でのパートナーを選ぶ際、そんな面倒があった。
 己の家の権力維持という利己的な思惑で政治的に迎合してくれるのはやり易くて良いが、反面で厄介事を抱えているのと同義だった。諸刃の剣とはよく言ったものだ。
 大体、彼らの血族だとよくよくわかるような腹黒い娘や孫娘を押し付けられてはかなわない。

 会議や視察などの公務の間を縫っての書類審査開始からは既に三日を費やしている。

 審査の書類書類書類の連続で、時間的に満足な休息も取れず精神的にかなりすり減ってしまっていて皆同じ顔に見えてくる。この嫁候補選定の通達は現王妃である母親が勝手に進めた計画で、ディランとしては全く以て余計な真似をしてくれたと苦々しく思っていた。
 それでも、計画を中断させればさせたで、息子のためによかれと思ってやったのにとショックで三日三晩はさめざめと泣き続けるだろう姿が容易に想像できるので、それも出来なかった。お節介も度が過ぎれば迷惑なのだが、王家に嫁ぐような女性にしては滅多にいない天然と善良さを併せ持つ母親を無下にはできなかった。
 性悪王太子にも手を出せない領域がある。
 それが実母たる王妃の行いなのだ。
 マザコンと言われても否定できないが、そんな暴言を過去に放った者は彼の知る限りもうこの世に残っていない。

 他方、父親である国王は近年の戦闘で負った傷が原因で病床に伏していて、指示はベッドの上からしか出せなくなっていた。

 国王代行として公務はほぼディランが担っていると言っても過言ではなく、国の実権を握っているも同然だった。

 だからこそ彼の決定は国王の決定も然りで、彼のひと匙で首が飛ぶかもしれないという恐れを臣下達は抱いている。恐怖を必死に呑みこんだゴマすりやおべんちゃらや世辞は日常茶飯事だ。無論そんな無意味な言葉にディランは心を動かされたりはしない。
 国の統制に必要ならば、狡猾だろうと何だろうと使えるものは使い、そこに彼らの身分や私情は一切考慮せず飴も鞭も与える、ただそれだけだ。

 何しろ現国王が深手を負った隣国グラニスとの戦いは、明確な決着と言う決着はついておらず、火種は未だくすぶり続けている。

 国境警備の強化の必要性は日を追って増すばかり。一寸も気を抜けない状況なのだ。
 悠長に妃など選んでいる暇はないというのが本音だった。意に添わないこの選考自体、ストレスでしかなかった。

「もういいっ、全部燃やしてしまえ。無駄にでかい肖像画や姿絵も一緒にな」

 審査で印象付けようと、中には選考でそこまでの大きさ要る?という物もあって逆効果だった。怒りの炎に油を注ぐだけでそれらの家は即刻落とされた。

「殿下、全部はいけませんよ。王妃様の顔を立てるためにも舞踏会に招待する分くらいは残しておかないと」
「ハッ、俺はこの有象無象の貴族令嬢の束の誰とも結婚する気はないんだよ。自分の嫁は自分で決める」
「おおーパチパチパチー。それでこそ頼れる一国の後継者ですよ。まあねえ、殿下レベルで権力を掌握していればそれは別に構わないですよね。でも当てはあるのですか? 殿下って恋人いないですよね」
「……リオン、お前も大概だよな」

 二十歳を過ぎた暴れん坊の王太子たる彼が女を知らないわけではない。面倒を嫌って後腐れのあるような女性を傍に置いていないというだけだ。

「とにかく書類束の上半分は処分しといてくれ。見るだけ無駄だしな」
「しかし処分してしまって本当に宜しいのですか? この中に万が一という可能性も……」

 自分と一つ違い、正確に言えば一つ歳上な若い側近ライオネル・ライナーからの忠告というよりは気遣いに、ディランは少し黙考する。
 万が一紛れていたらそれは幸運と言うものだ。
 因みに彼がライオネルを呼ぶ時の愛称がリオンだ。

 彼はここずっと、それこそ三月にわたる間、見た事のない髪の色をした素性も知らない娘を捜し続けている。

 互いに酩酊状態だった一夜限りの相手を。

 奇跡の邂逅。聖なる契り。恋だ愛だなどと、数多の屍を踏みつけて君臨している暴君にはまるで似合わない言葉だが、今の彼はもうそれを無駄な感情と捨てる事は出来ない。
 運命の一夜以前なら簡単に切り捨てていたが、彼女との出会いが彼を劇的に変えたのだ。

「リオン、姿絵の中に薄紅色の髪の娘はいるか?」
「薄紅色? え、まさか捜しているのはそんな変な髪の娘なのですか!? 染めでもしない限り薄紅というかピンク色なんていませんよ」
「だろうな。それと変なとか言うな。実物を見れば如何に美しい髪かわかるぞ」
「左様で」

 彼女と会った場所の周辺地域に調査員を派遣したが今に至るまで芳しい報告は得られていない。彼女はどこの誰なのか皆目わからない。
 調査の範囲を少しずつ広げてはいるが、本音を言えば他者任せの調査に期待はしていなかった。

(いつか必ずこの手で見つけてやる)

 他のどんな女も要らない。
 加えて、自分には彼女を娶るべきという責任もあるのだ。

(処女……だったよな)

 しかし面白いくらいに彼女の痕跡はない。
 その芳しい香りは未だ鮮明に覚えているというのに。
 可憐な様子からはそうは見えなかったが足跡を消す玄人なのかもしれなかった。
 或いは、もし彼女が幽霊や妖精の類、あるいは元よりただの夢だったとしても不思議はない。
 それくらいに当時彼は酔いが回っていた。

 出会いは、お忍びで視察に出かけた先の酒場兼宿だ。

 庶民に身をやつすのに高級宿など目立って論外なので、非公式の際はこうした安宿に寝泊まりしていた。
 がやがやとしてそこそこ賑わっていた酒場内。先に一人でカウンターにいた例の娘はフードを深く被り、既に飲み始めていた酒の効果か上機嫌に大衆料理をつついていた。その時点では旅人か地元民かはわからなかったが、どちらにせよその地域の何か有用な情報はないかと試しに声を掛けてみたのが全ての始まりだった。
 彼女が地元民ではないと知ったのと、思いのほかこの地の酒が美味だったのと、どちらが先かはもう覚えていない。とにかく話が弾んで気分が良くなって二人で飲み過ぎたのだ。
 彼女の方は普段は禁止されていて、その日初めて飲んだなんて言って上機嫌にくすくす笑っていた。その軽やかな笑声も耳触りがとても良かった。意図せずも共犯のようなどこか秘密の味さえして、だから自分も量の加減を誤ったのかもしれない。
 酩酊と言うよりは泥酔した彼女を宿の部屋まで送る羽目になったのは別に構わなかったが、深く酔うと絡む質なのか彼女は廊下でディランに抱きついて愚痴を零した。
 家族に内緒でとある調べ事をしていてたまたまこの場所に滞在していると言っていた彼女はそこでやっとフードを外したが、極々普通の茶色い髪に茶色い瞳が廊下の燭台灯りに照らされただけだ。

 とは言え、ディランよりも明らかに年下の少女の思った以上に整った顔立ちには余りいないレベルの美少女だと少し驚いたが、それはまだ彼を恋に落とすようなものではなかった。

 きっと並の男なら落ちていただろうが彼はそこらの男とは目の肥え方が違うのだ。王宮に集うような女性は総じて容姿が整っているがためだ。それでもしばし目を瞠るような端麗な容貌には胸中で素直な称賛を述べた。
 とにかく、そこまでは特筆するような男女の出来事は何もなかった。
 しかしそれも、その後大いに激変する。
 彼女の部屋に辿り着き、半分寝ているような状態の体を簡素な寝台に寝かせた時だ。

『うんっ、もうっ、やっぱりいいわ! あなたで正解よっ!』

 彼女はいきなり呂律の怪しいまんま酔っ払いの口調で指差ししてきたかと思えば、ディランの首に抱きついてきて口付けてきたではないか。

『――っ、おい!?』
『ええ、ええ、きっとこれは運命よ。あなたがいい。ドンピシャだし、デック、あなたにする! ううんさせて!』

 デックとはディランが便宜上名乗った偽名だ。
 世界を巡って行商をしていてこの地まで来たと説明していた。名乗っておきながらうっかり彼女の方の名前は訊き忘れていたが、酔いのせいか自分も彼女もそこを気にしていなかった。もしかしたら向こうに名乗るつもりはなかったのかもしれないが。
 何にせよ、旅の恥はかき捨て宜しくの覚悟なのか、一期一会的な想いからなのか彼女から猛烈アプローチされたディランは最初は当然拒んだ。
 酔っているとは言え旅先で女にうつつを抜かしてはいられない。
 しかし、彼女は往生際が悪く諦めなかった。
 思い切り腕を回して抱きついたまま、何だかよくわからない事を喚き始める始末。
 亡き母親の足跡を辿りたいのだと。身寄りのなかった母親のルーツを知りたいのだと。しかし父親にはそれは内緒だから言えないのだと。

 これは愚痴と言うよりは弱音だとディランにはわかった。

 延々とした管巻きは、いつしか泣き言になっていた。
 今まで誰にも言えず心に抱えていた鬱屈とした不安を口にするのはディランが初めてで、普段は誰の前でもこんな風に泣いたりはしない、きっとこれっきりの相手だから言えるのだと、彼女はそうも言って更に泣いた。
 これっきりと言われた一瞬何故かとても面白くなかったが、深く考えている暇はなかった。
 寝台上でしがみつかれたまま、あやすように存外滑らかで綺麗な長い髪を撫でながら、酒の力とはすごいものだなと彼は改めて思った。この告白は後腐れのない相手だからではなく、間違いなく酔っているせいだとも思った。

 彼女を見下ろし、今夜の酒には感謝だとどうしてかディランは思った。

 彼女が心に秘めていた寂しさや悩みをディランはその耳で全部聞いていた。

 不思議と不快さはなかった。涙を女の武器とでも思っているのか無用に或いはヒステリックに泣く女は嫌いだが、彼女だけは華奢な肩を震わせて臆面もなく泣いていようとも何故か放り出す気にはなれなかった。

 彼女の常の様子は全く知らないが、それを知らなくとも彼女をよく知っているような錯覚さえ抱いていた。

 必要があれば何か手助けしてやりたいと微かな願望が彼の胸に生まれた時、彼女が涙を一杯溜めた眼を上げた。

『な……んだ……?』

 ディランはその瞳の色に心底驚いて、じっとその目を見つめた。

 赤い目だ。

 半魔の証の、紅の虹彩。

 そうしているうちに、次第に彼女の髪の色までが変化した。

 目を奪われるような薄紅に。




『どうしてお母様は最後までお父様に秘密を残したの? どうして打ち明けなかったの?』

 酔いの余り幻覚でも見ているのか、娘は目の前のディランを母親とでも思っているような口ぶりで責め始めた。
 いつの間にやら寝台に押し倒されて馬乗りになられてポロポロと大粒の涙を降らされて、ディランは珍しく動揺した。

『お母様が打ち明けてたら、私は今こんな所になんていなかったのに。こんなに苦しくなかったのに。ねえどうして半魔の血を引くって隠したの? 私にもそうするように言ったの? お父様はきっと他の人に喋ったりしない。お母様を嫌って言ったりしない。一緒に居られなくなったりしないのに……!』

 魔法能力者は国に属する。
 家族と離れて国のための仕事に従事するのも珍しくなかった。

『私、この先どうしたらいいの? 一人で抱えるしかないの? お父様と一緒に居られないなんて嫌だから誰にも言わないけど、バレて処刑されたくない……』

 見知らぬ少女の孤独の訴えに、容姿の変化からもう理解していた事情にディランは我知らず息を呑んでいた。
 これまで何の疑問もなく代々王家が課したその制度の上に座していた。父王も祖父王もそのまた先の王もそうしてきたのだ。
 惑い悲嘆する当事者の生の声に、急に苦い物が胸に広がっていく。

 同時に、素直な赤い瞳と透明で綺麗な涙に、彼は初めての奇妙な感覚を覚えた。

 気付けば大丈夫だと慰めて抱き締めていた。何が大丈夫なのか自分でも明確に形になる前に。

『ねえお母様、私はたった一人の誰かに、私だけの秘密を教えてもいい? 秘密事を抱えるのはとても苦しいの。誰か一人に本当を知っていてほしい……』

 母親の腕の中とでも思っているような少女の安心し切った甘えた声に、その声は彼女が彼女の母親に向けているとはわかってはいたのに、ディランは無性に掻き立てられた。

 彼女の言うたった一人の誰か。

 半魔と言うこんな大事な秘密を誰に打ち明けるというのか。

 この暴露は決して彼女が望んだものではないと気付いていたからこそ、我慢ならなかった。

 他の男に見せたくない美しい彼女の赤と薄紅。

 自分以外の男になどふわふわと飛んで行かせてなるものかとも、言い知れない焦燥のようなものが湧く。

『……口付けてきたのはそっちからだからな』

 酒の勢いとは恐ろしい。
 少しだけ躊躇うようにした最初の彼からの口付けに、彼女は拒絶を見せなかった。
 偶然にも居合わせた宿で、どちらともなく溶け合うように口付けて、酩酊感がいや増した。互いにもっともっとと欲するように求めた。それは欲望と言うものだった。

 この時ほど、自分が王太子ディランで良かったと彼は思った事はない。

 自分なら彼女を受け止めて護ってやれると傲慢にも思った。

『お前は一人じゃない。俺がいる』

 至福にくらくらするような心地でそんなような睦言も囁いた記憶がある。
 その言葉に彼女はこの上なく嬉しそうにしたが、泣き疲れたのもあったのかこてんと眠りに落ちてしまったのは些か残念だった。
 ディランは王国の魔法使いの顔を全員把握しているが、彼女は知らなかった。

 きっと王国に従っている魔法使いではないのだ。

 ……となれば、彼女は処刑対象だ。

 だが処刑などさせない。

 魔法使いだったからこそ彼女は孤独だったのだと理解して、より深く彼女を知れて満たされていく己を自覚した。
 一緒に王都に連れて帰ろうと思った。
 しかし相当に酔いの回っていた彼の方も眠くてその段取りは明日落ち着いて考えようと決め、もっと傍にと彼女を抱き寄せて目を閉じた。後悔するとも知らずに。

 次の朝、目覚めると彼女は忽然と姿を消していた。

 半ば呆然としたものだ。何というとんでもない想定外。
 そして、それが彼女との全てだ。
 名前も住所も年齢も一切知らないままだった。
 どうして聞いておかなかったのかと酷く後悔した。彼女を捜し始めたのはその時からだ。

「――でっ殿下これは!」

 側近ライオネルが素っ頓狂な声を上げた所で、らしくなくぼんやりとしていたディランはハッと我に返った。

「急に大声を出すな。ビックリするだろうが。それでどうした、ピンクの髪の娘がいたのか?」
「ああいえ、ただこの令嬢はとても個性的なお顔立ちをされているなあ、と」
「個性的……?」

 それはつまりブサイクという言葉をオブラートに包んだだけではないだろうかとディランは呆れた。何とはなしに示されたその添付するのにはちょうど良いサイズの肖像画に目をやる。どうせ大した驚きもないだろうと高を括っていた。
 しかし、二度見して凝視してしまった。

「……人類の進化の系統も様々だと言う証だな」

 色素的には茶色い髪と目のどこにでもいるような特徴だ。ただ、本当にそうとしか言えない可愛くない顔立ちの娘だった。とは言え、そこまで何かを思うわけでもない。

「ええ!? し、しかもこの肖像画はあのサニー男爵家のご令嬢のものみたいですね。病がちな深窓のご令嬢という話でしたけど、病持ちなら舞踏会は無理ですよねえ」

 同情さえ滲ませる側近にディランは同意しなかったが、それは最早どうでもいい令嬢達になど思考を向けるだけ労力の無駄使いだったからだ。
 すぐ横で作業する側近が何の躊躇もなくボツ書類の山にその令嬢の書類を重ねた所で、ディランはふと引っ掛かるものを感じた。
 油絵の具の臭いに混じって微かに知っているにおいがしたように感じたせいだ。

「……なあ、今のは本当に本人の姿絵だと思うか?」
「え? そりゃあそうでしょう。別人とか嘘の姿絵なんて送ってきたら投獄される危険があるんですし。顔を晒すのが嫌でも普通は本人そのものを描いて送ってくると思いますよ」

 それもそうかと納得しようとしたが、どうしてか気になった。

「よもや、落選するための画策だったとしたら?」

 落ちてしまえば書類も肖像画も破棄され、本人か否かの真偽は最早重要ではなくなる。わざわざ確かめたりはしない。

「殿下は考え過ぎでは……?」
「何事も万一の際の裏を読んでおいた方がいいだろう。それに、余りこう言う事を言いたくはないが、サニー男爵令嬢のこの顔は人類の括りとして本当にありだと思うか?」
「え、えーと……どうでしょう」

 そこはライオネルにも判断がつかないようで、酷く悩んでいる。

「まあそう言うわけだからサニー家の令嬢も舞踏会候補に入れておいてくれ。嘘でも真でも直々に顔を見ればわかる事だろうしな」
「確かにそうですね」
「会う度に真面目な仕事人という印象だが、サニー男爵にはどうやら腹に一物あるようだしな」
「へえ、そうなのですか?」

 慇懃な微笑みの仮面に隠されていてかなりわかり辛いが、かの男爵は現王家を決して良く思っていないだろうとディランは独自の嗅覚で嗅ぎ取っていた。

 この選考書類に何か偽りがあれば、男爵の弱点として使える。
 時に相手の善からぬ企みを看破し逆手に取って利用するのが得意でもあるこの王太子の思考が透けて見えていた側近は、気が進まないような面持ちで書類をボツの束から取り去ったが、舞踏会ではやはり美醜が評価の一つのポイントでもあるので、晒し者的に嫌な思いをさせるかもしれないと思えば一片の同情は禁じ得なかった。
 ディランは件の肖像画を最後にもう一度だけ見下ろす。
 やけに妙な存在感のある娘の茶色の目が、じっと虚空を見つめていた。




 後日、一次選考結果と招待状を受け取ったサニー男爵家では……。

「はあーッ!? どうしてこうなったわけえええ!?」

 肖像画の制作者たるミスティリア・サニー男爵令嬢本人が大いに絶望するような声を出した。
 この時またもや彼女は寛ぎ部屋で父親の男爵と共にティータイム中だった。

「敢えて人類としてギリギリいそうな醜女を描いたのに!」

 しかしどういうわけか通ってしまった。
 ミサはその醜さゆえに絶対落とされると踏んでいたのだ。
 算段が狂いに狂ってしまった。これでは王宮の舞踏会に行かなければ命はない。
 そして行っても嘘を描いたとして糾弾されて命はないかもしれない。

「ミサよ、一体どうするつもりなのだ!?」

 顔面蒼白で男爵が頭を掻き毟る。そろそろ頭髪の心配をしてやった方がいいかもしれないとミサは罪悪感を覚えた。彼女は爪の痕から血が滲むレベルで拳を握り締める。

「い、行くしかないなら行くしかないわ。けれど仮面を付けて行きましょう」
「仮面?」
「ええ、肖像画を見て私は頗る不細工と思われているでしょうから、皆の前では素顔を隠したいとでも言えばわかってもらえるでしょう。それにそこまででしょうしね。万一選ばれた所で私はどうあっても妃にはなれませんし」
「そうなのか? しかしどうあってもとはどういう意味だ? 王宮の決定はそう簡単には覆せないのだぞ」

 一次選考の失策の直後でもありまた不安を募らせる父親へと、ミサはにこやかに微笑んだ。

「それはですね」

 まさに聖母、母のような笑みでミサは一つ深呼吸した。

「男か女かはわかりませんが、私、妊娠してるんです。明らかに他の男の子供を身籠った娘を妃になど選べないでしょう?」
「なっ、なっ、なっ、なにいいいいい!?」
「それにこれでうちの後継ぎ問題も大体解決ですわよね、お父様?」

 男爵が白目を剥いて卒倒した。



 ぶっちゃけて言うと、ミサは妊娠相手との夜、飲み過ぎた酒のせいで途中経過を全く覚えていなかった。

 自分の素性に関わるような変な事を口走っていないと良いと密かに思っている。

 相手の顔はちゃんと覚えているので会えばわかる。
 若者はデックと名乗っていた。
 仮に偽名でも落胆は無い。交際するつもりはないのだ。
 たとえ捜そうにも、国内だけではなく世界各地を回って商売をしているらしいので、彼と再会するのは難しいだろう。二度と会えないのならそれも人生だ。
 ミサとしては漠然とではあったが当初考えていた人生計画よりは子を持つ時期が早まった。しかし男爵家の跡取りができて良かったと心から思っている。

 だが、呑気にそうは言っていられない状況下に陥ってしまった。

 どうしてあの肖像画で選考を突破できたのかは知らないが、目下の目標は舞踏会をどう目立たずに何事もなく乗り切るかだ。
 王家と近付くつもりは皆無なのだ。
 失神した父親の目が覚めるのを待ってきちんと事情を説明し終えたのは、その日の夜だった。たった一人の家族の存外長い昏倒にはちょっと本気で心配にもなったミサだった。




 ミサは誰かと結婚するつもりはない。
 正式に夫を持てばミサが半魔の血を引くと知られてしまう危険があるからだ。
 ミサの母親は幸運にもその点ではてんで鈍かった父親だったからこそバレずに済んだのだ。おそらくは母親の両親のどちらか或いは両方が半魔だろう。どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかもわからない母方の祖父母。
 会いたいと思わないわけではない。
 母親は父親と出会った時には身寄りのない身の上だったそうだ。自らについて詳しくを話さなかったという母親は、半魔だと言う秘密を愛する人にも生涯隠し通した。

 ミサも無難に同じ道を選ぶつもりでいる。

 心ではたった一人を欲していても、家族の安寧こそが自分の気持ちよりも大事だった。

 だからこそ、夫は要らない。

 結婚はしない。

 しかし子供は欲しい。

 そのためには相手がいなければどうにもならない。
 故に男爵が度々領地経営や社交の関係で屋敷を不在にした機に合わせ、彼女も何度と屋敷を抜け出して遠出していた。
 母親の素性を探すと言う目的の他に、その行き先でもしも子作りのために自分を委ねられる誰かがいたら迷わないともそう決めて。

 そんなわけで、行きずりの男なら誰でも良かったわけではない。

 デックだったからこそミサは心を解され体を許したのだ。

 相手の外見が好みド真ん中だったのもある。

 いやそれが一番大きい。

 いつか子供に「お父さんってどんな人?」と訊かれたなら、俺様っぽい雰囲気を持つ超絶ハンサムガイでそのくせ寝顔の可愛い男だったと答えようと思っている。
 思い出せばまだ全然トクンと胸が高鳴る。

(うん、顔面偏差値は侮れないわー。思い出すだけでキュンとくるもの)

 在野では余り見ないようなイケメンにもう一度会いたいと思わないわけではない。
 彼の温もりと匂いの中でまどろみたいと。
 宿では彼が眠っているうちにとさっさとトンズラしてしまったが、向こうはもしかしたら自分を捜しているかもしれない。もしも再会して責任を取るなどと言い出し男としてそこを気にしていたなら、その必要はないと声を大にして言ってあげようと思ってもいる。

(むしろたんまりと心労の慰謝料と手切れ金を持たせてあげるわ! あれだけイケメンだときっと他の街にも女がいるはずだもの、贈り物を買ったりとか、商売もしてるみたいだからお金はいくらあっても足りないでしょ)

 それはそれとして、きっと未来の男爵家は明るい光に彩られるだろう。
 屋敷の緑の庭で戯れる祖父と孫、優しく二人を見守る自分という光景が脳裏に浮かんでふと微笑んでしまう。
 まだ妊娠四カ月にもならないので、二次選考中も辛うじてお腹は目立たない。
 全てはきっと上手く行く。

 仮面装着という安心感もあって舞踏会に行っても身バレはしないとミサは踏んでいた。




 サニー男爵領を出たミサと父親はゼニス王国の王都まで赴いた。
 王都に男爵家の仮住まい屋敷は拵えていなかったので、貴族御用達の高級ホテルにチェックインした。
 父親も王都に会議などの用事で来る際は同じホテルにいつも部屋を取るという。常連客たる父親を従業員達はとても親しげでいて丁重な態度で持て成してくれ、疑問があれば懇切丁寧に案内や説明をしてくれた。無論娘のミサにもだ。
 屋敷から護衛として連れてきた騎士達にも部屋を取ったので、警備面での不安はなかった。

 エスコート役の父親と共に出向いた王宮での選考舞踏会の日、予想通り会場に入るなりミスティリア・サニー男爵令嬢は注目された。

 薄々予想はしていたが主にその仮面装着という一点で。

 ここが仮面舞踏会だったなら何の不審も抱かれなかっただろうが、しかし今夜は顔の見える普通の舞踏会。
 しかもどんな趣向なのか各令嬢が送った大小の肖像画までが壁に名前と共に掛けられている。
 なるほど確かにこの煌びやかな場に集った娘達は絵の方が霞むような美女ばかり。それもあってミサが描いた自画像もある意味際立っていた。
 全てが裏目に出たとしか言いようがない。入場早々に頭痛がして回れ右をしたくなったサニー親子だったが、そこは堪えた。

「まあ、何て不細工なの」
「しっ、口を慎みなさい。男爵に聞かれるだろうに!」

 サニー男爵家は軍事力では中々上位に位置しているので、不用意に怒らせたら報復が怖いと囁かれている。刺客を送られて密かに脅されたり最悪暗殺なんてされたくはない貴族達は諍いを起こさないように慎重に言葉を選んで接していた。
 男爵本人には全くそんな後ろ暗い面はないとミサは思うのだが、おそらくは領地内では稽古時以外のほほんとした男爵を大層心配した腹心の部下達が暗躍してくれていて、そういうイメージを調整しているのだろうと予測を付けている。
 そこはまあいいとして、サニー男爵の娘という身分は知られるが故に、仮面の下はあの肖像画なのか……と認識されるので、おそらくもうこの先深窓の令嬢と言われていたミサには誰も「もしかしたら隠される程に美しい娘なのかも」などという幻想を持って近付いては来ないだろう。そう思えばとても好都合な演出でもあった。
 王家には感謝だ。

「お父様、どうせ王太子殿下とのファーストダンスの相手は私ではないでしょうし、無難にバルコニーか壁際にでも行きましょう。なるべくなら早くホテルに帰れる出入口付近に。大体にして、会場内は誰がファーストダンスの相手になるのかを牽制し合って少々ギスギスしていますし、そういう場に居るのは気が疲れますからね」
「あ、ああ……ああっ、そうだなミサ」

 そもそもこの場に来た時点で意気消沈していた男爵は、娘のやる気のなさを的確に酌み取り元気を取り戻して何度も頷いた。

 間もなくして王太子ディラン・ルクスが姿を現すと、会場がわっと沸いた。

 残虐と恐れられていても、年頃の令嬢達としては着飾ったとてもハンサムな青年を目にすればテンションも上がると言うものだ。利権を求め彼女達の親族らも王太子を持て囃すような賛辞と共にわらわらと寄って行く。

「お父様、この分だと私達親子がご挨拶しなくてもバレなそうですよね。ここは何食わぬ顔で挨拶を済ませた風を装ってしまいましょうか」
「うむ、そうだ……いや、すまない、たった今殿下とバッチリ目が合ってしまったようだ」
「まあ何て事……。お父様、ではさらっとしてしまいましょうか」
「うむ、そうだな」

 ミサの促しに男爵は申し訳なさに悄然として歩き出す。大丈夫すぐに帰れますよとミサは父親を慰めた。
 王太子ディランの前には既にもう妃候補者とその親族達の列ができているが、その大勢の中に紛れてしまえば難なくやり過ごせるに違いない。
 ただ、仮面装着を不愉快に思われないと良いとだけ思う。他の貴族達は同情や冷笑を浮かべたミサの仮面も、ひねくれているともいわれる王太子は嫌がらせ同然にわざと突いてくるかもしれないのだ。或いは、本当に肖像画の娘かどうか仮面を取れなどと難癖を付けられないかも少し不安ではあった。
 並んだ列が進んでミサ達の番になる。

「王太子殿下に置かれましては、今宵も凛々しい御姿を拝見できまして光栄至極にございます」
「ああ、サニー男爵か。遠い所をよく来てくれたな。……では、そちらが娘御か」
「はい、仮面という不躾をお許し下さい。娘は肖像画以外で素顔を見せるのをとてもとても嫌がっておりまして……」
「お許し下さい。王太子殿下」

 控えめな所作と共にミサは固い声で頭を下げる。

「ん? どうしたミサ……? 咽の調子が悪いのか?」
「あ、ええ、ちょっと……」

 声まで無理して変に出すいつになく緊張した娘の様子に、男爵は横目にちらりと心配そうに見やったが、ミサ自身はそれ所ではなかった。

(ぜぜぜ絶対に仮面は外せないわ。それからこの変声も頑張って最後まで続けなきゃ)

 ミサは興味もないので王太子ディランの顔を知らなかった。

 黒髪に金色の目という大体の特徴くらいは知っていたがその顔立ちの詳細を知らなかった。

 会場内でも遠目には見たが遠目だったからこそよくよく見なかった。だからこそ、目の前に来て平静ではいられなくなったのだ。

(本当にもう、どういう事なのよ。どうして王太子がデックそっくりなのってかデック本人じゃないの! ちょっともう嘘でしょーッ!? そりゃ宿の酒場で見て大層なイケメンだとは思ったけど、何でそこらの行商人のふりしてたのよこの人ーッ!)

 自分のお忍びは棚に上げているが、大誤算とはこの事だ。
 ミサが件の一夜限りの娘で、しかも妊娠していると知られでもすれば下手をすれば処刑台行きか無理やりにでも妃にさせられてしまうだろう。
 後々離婚しようにも、半魔の、魔法使いの血もバレてしまえばそれもかなわない。
 国のために従わされる。拒めば待つのは死だ。
 もし子供の半魔の血がミサのように濃ければ魔法を使え、子供も同じ一途を辿るだろう。
 母子共々死ぬのも殺伐とした王宮で暮らすのも冗談ではない。
 よって今夜は決して失敗は許されない。
 不細工な男爵令嬢として何事もなく帰路に就く事だけを考えねばならない。
 動揺している場合ではないのだと、ミサは気持ちを立て直して心を落ち着けようと努めた。

「顔を上げろ」

 ディランから命じられ、思ったよりも長く下げていた自覚のあるミサはゆっくりと顔を上げる。
 そしてギクリとした。
 彼からやけに鼻先を近付けられてジッと見つめられているではないか。
 しかも気のせいでなければくんくん嗅がれている。

(ななな何? 仮面越しでもバレた!? ううん嗅がれてるしもしや香水? 私あの時って今日と同じ香水付けてたっけ? ううんお忍びで出歩く際にはそういうのは付けないわ。なら何事?)

 背中にドッと冷や汗が噴き出たものの、うっかり震えたりしないように努めた。

(落ち着くのよ。香水は使ってなかったのだから。それに仮面なんだし透視でも出来ない限り顔バレなんてそんなミラクルないわ。もしかしたら肖像画の通りに不細工かって怪しまれているのかもしれないわね)

「で、殿下? 娘が何か? やはり仮面は不愉快に思われたのでしたら私共は早々に退場致します」

 男爵がちょっと強張った顔で娘の肩に手を回す。

「いや、その必要はない」

 ミサから一度視線を外し男爵を一瞥したディランは、怒った風でもない声でそう言うと次には何を思ったかミサの方へと手を差し出してきた。
 サニー家の父と娘は揃ってキョトンとした。

「お前はミスティリア……と言うのか」
「え、はい、そうですが……?」

 意外にもしみじみとして確認されて、それ程の名前だろうかとミサは訝しく思う。父親のあわやな名付けエピソードは王太子もここの誰も知らないはずなので同情という線はないだろう。仄かな疑問のせいかいきなりのお前呼ばわりも腹は立たなかった。まあ元より横暴な男からどう呼ばれようと大して気にはしないミサだ。

「ミスティリア・サニー嬢、俺と一曲踊れ」

 その瞬間、会場内が息を呑み、しーんと静まり返った。
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