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第一部

32 アイリス・ローゼンバーグの秘密5

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 人って高熱で情緒不安定になるんだって、私は身をもって思い知った。
 だってね、体はキツイし長引けばそれだけ不調に引き摺られて精神も弱ってくる。

 自意識が地に足を着かない状態にもあったし、葵との過去を持ち出してわがまま放題のお嬢様みたいに愚痴るなんて芸当も、だから出来たんだと思う。

 全くねえ、げに恐ろしき飴玉魔法よ。
 水分や食事はウィリアムやニコルちゃんに支えられて摂ったのは覚えてる。
 ちっさいスーパーマリオが食べるとレベルアップするキノコ的に破格な滋養食なのか食べるとすっごく元気が出て、相変わらず外へと出力する意識はハッキリとはしなかったもののこんな魔法になんて負けるかーって反骨精神で眠れたっけ。材料はお米じゃなかったけど、その卵を溶かれたオートミールか何かのお粥みたいな料理はどこか優しい日本人好みな味付けでもあって、とても美味しく感じたわ。
 ベッドに寝て目を閉じて、夢なのかよくわからない自意識に沈めば不思議と途端明瞭に思考ができた。

 考えた事と言ったら何故か前世のあれこれだった。

 名前や何やの詳細は省くけど、葵に合成写真を送った犯人は仕事先で知り合ってしつこく言い寄って来た男だったのよね。
 二人きりで会った事はないし、恋人がいるからとお断りしたはずなのに、ご丁寧に別れるように仕向けてきた性悪策士。結局そいつが望むようになったわけだけど、葵から別れ話をされる前に既に自分で制裁は加えたっけ。私をどんな人間だと思っていたのか、一発拳を見舞った素の姿を見て「詐欺だ!」とか捨て台詞を吐いてった。
 はあ~あ、別に私は蝶よ花よと育てられた深窓のご令嬢じゃないっての。
 ムカつけば拳だって辞さない胆力くらいはあった。あのゲス男にはきっと清楚で大人しそうにでも見えてたんでしょうけど、お生憎様でしたね~だ。
 ……まあ、よく葵には喧嘩っ早い所を窘められてはいたけどね。女の子が危ないよって。
 と、まあそのグーパン以来何も言って来なかったし私ももうその取引先の担当からは外してもらったから会う事もなかった。もし万一傷害罪で訴えてきたらこっちは名誉棄損とかで訴えてやるつもりでいたから、面倒にならなくて良かったと言えばそうかもしれない。

 結局異世界に来ちゃったから、もうその件も関係なくなっちゃったけど。

 葵――星宮葵、あなたにせめてもう一度会えたらいいのに。

 どうしようもなく会いたい。
 ねえ聞いてる?
 向こうでの時間の流れはわからない。だけどきっとあなたは無事で、今も日本で頑張ってるのよね?
 そうであってほしい。

 誰かが夢の中でそんなにその男に会いたいのかって訊くから、当然だって息巻いたわ。

 星宮葵は私にとって誰より絶対なの。

 もう会えないから余計にそう思うのかもしれないけどね。
 この先も決して記憶から消えないだろう彼の笑顔を思い出したら、やっぱり無性に涙が溢れた。会いたいの。ホントに。すごくとても。

「……わかったからもう泣くな、アイリス」

 涙のせいで目元が熱くて、額の熱を確かめてくる誰かの掌がちょうどひんやりとして気持ち良いなんて思っていた。
 涙を指先で拭ってもくれるけど、アイリスって呼ばれるのに今はちょっとだけ抵抗がある。葵との思い出に浸っていたせいかもしれない。

 私はアイリスじゃないのよ、本当は。

 本当は――……。

 おそらくはその続きを声に出してはなかったと思う。
 あんまりよく覚えてないから確実とは言えないけど、然したる反応もなかったもの。
 暫しして掌は離れ、その指先が額を出すように私の前髪を掻き分けた。
 くすぐったいなと思っていたら、代わりにタオルが当てられ枕元に釣られた氷嚢の軽い重さも加わった。
 また頭を撫でられて、その人はじっとその手を留め置いていたけど、部屋に誰かが入ってくる扉の音が聞こえ、指先は音もなく離れた。
 ちょっとだけ、ほんの少しだけ残念に思った。

「姉様はどうですか? ……って何ででしょう、熱で真っ赤なお顔をされていますが、姉様すごく幸せそうに見えますね」

 この声からして入って来たのはニコルちゃんだったみたい。
 気配が近付いたからこっちを覗き込んでるんだと思う。くすっとした声でそう言ったけど、今の私には自分の表情なんてわからない。具合の悪さ故に苦悶に満ちた梅干しみたいな顔をしてるかもってちょっぴり思ってたけど、どうやら違うみたいね。良かった。
 薄ら開けたまぶたの向こうは今はもう夜なのか、室内は昼間の明るさじゃない。
 それだけを確認して私はすぐに瞼を下ろした。
 やっぱ疲労感がね……と、静かな部屋に聞き覚えのある男のしっとりとした声が単体で響いた。

「先までの様子を見るに、半覚醒状態ってところだな」
「ええと、半分寝ていて半分起きているという意味ですか?」
「そうだ。夢と現実を混同していて、全く器用なお嬢さんだよ」

 ああ何だやっぱり今のは彼の手だったのね。でも嫌味が憎いッ。

「……ビル兄様? 何かございましたか?」

 てっきり文句を代弁してくれるかと思いきや、ニコルちゃんの声には怪訝そうな色があった。

「いや。どうかしたのか?」
「いいえそのぉ……看病の間、ずっと弱った姉様のお姿を目にしていて、兄様の中の抑え切れない情愛が増大したような気がしただけです。皮肉一つにも何だか甘い愛情が漂っていますし。息の上がった姉様って色気も増し増しですものね、兄様も御自身の手でもっと喘がせてみたいと思ったりなさいませんか?」

 ブーッて噴きたかったけど言うまでもなく無理だった。うぅ……って二人に聞こえないくらい弱々しい抗議の呻きが出ただけだった。

「……君はエロゲーという言葉を知っているか?」
「何ですかそれは?」
「いやいい」
「姉様を看るの、ぼくが代わりますよ?」
「いや、いい」

 同じ言葉を一度目よりハッキリ言って、何だか疲れたような溜息を吐き出したウィリアムに、貞操の危険を感じた今ばかりは頑張って看病してと心から叫ぶわ。
 でも、こっちの人もエロゲーって言うのね。
 清純時々不埒なニコルちゃんは知らなかったようだけど、きっとたぶんこの世界じゃ大人な括りの言葉なんだわ。

「アイリスは今夜もこっちで看るから、ニコル、君は時間を見て本邸の方に戻れ。それと、もう仮面メイドをする必要もないからな」
「えー、ずるいですー。姉様を独り占めするのですかー?」
「君のメイド達が密かに付いて来ているんだよ。長居は得策じゃない」

 ニコルちゃんは不満声の後にハッとして、そして深々と溜息を落とした。

「皆ったらもう。ここでのメイドもきっとバレていたのですね」
「まあ、君の親衛隊も然りだからな。放っておいても良かったが、扉をバーンと開けられたらアイリスの養生に良くないだろう?」
「……そうですね、皆ならしかねませんし。わかりました。帰ります。ですが真面目な話、本当に姉様に悪戯をしたら、いくらビル兄様でもぼくが許しませんよ?」
「そんな男に見えるか?」
「だってぼくと同類でしょう?」
「……」

 ウィリアムは微かに苦笑したようだった。
 ニコルちゃんが腹黒ウィリアムと同類? どこら辺が?
 そんなまさかよね~、ニコルちゃんなりの可愛い冗談よねきっと。
 だけどウィリアム、肝に命じておきなさいよ。何かしたら私だって本気で許してやらないんだから。股間を蹴っ飛ばしてやるわ。

「無論何もしないから安心してくれ。向こうの調べを引き続き宜しく頼む」

 ニコルちゃんは即答はしなかったけど、不自然な間が開くより前に「ビル兄様を信用していますからね?」と敢えての念押しなのか、疑問形の諾意を返した。

 そうして、もう少しだけ滞在したニコルちゃんは、元気を分けてくれるみたいに私の頬を優しく撫で、撫で、撫で、撫で撫で撫~で撫で……してやり過ぎだってウィリアムから窘められるまで存分にお触りしてから彼に退室の言葉を告げた。
 正直過剰に構われる猫の気分で辟易としていたから、解放された安堵もあったのかも。

 彼女の軽い足音が遠ざかるのに釣られたように私の意識もまた薄れていった。
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