始まりはどこから?

燕尾

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新人課長の憂鬱

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 200X年2月。
 MS精工マーケティング部市場開発課の課長に就任して4ヶ月。
 最年少課長と騒ぐ周囲の雑音を排除し、異動と昇進による環境の変化にも何とか適応し、ようやくこの課が抱える問題点や進むべき方向が見えてきた……にもかかわらず、それは何の前触れもなくやって来た。

 ご相談したいことがあります──たまには早く帰宅するかと、急ぎの案件がないかメールをチェックしていたら、部下の一人である大路から声をかけられた。
 俺の席で話せるようなことじゃないのは、大路の神妙な面持ちから悟った。会議室を取っていると言うので、先に行って待っているように指示した。

「……厄介なことになりそうだな」

 会議室に向かう足取りが重くなる。平静さを装ってはいるが、心は穏やかではない。
 嫌な予感しかしない。普段は王子みたいに無駄に爽やかな笑顔を振りまいている奴が、笑顔を見せることなく重苦しい空気を醸し出していたのだから。
 あの様子から察するに、会社を辞めたいという類の相談だろう。もっとも、相談と言いつつも会社を辞めることは決定済みで、本題は業務の引継ぎや残っている有給の消化に関することだろう。
 本音を言うと今、戦力である大路に抜けられるのはキツい。
 だが、最優先すべきは本人の希望だ。俺が引き留めたところで、大路が意思を撤回するとも思えない。そんなに甘い男ではない。
 俺にできるのはせいぜい退職を引き延ばすことくらいだろう。どれくらい稼げるかわからないが、会社と大路の双方にとっていい条件を引き出さねば、そう考えながら会議室のドアを開けた。

「え? 二人?」

 会議室に入った俺を待っていたのは、予想外の組み合わせだった。
 そこにいたのは大路だけではない。何故か女性社員の姫島がいる。
 一体何なんだ? 訝しげに大路の方を見やる。大路は俺と目が合うなり、口を開いた。

「ご報告ですが……俺達結婚します」
「……ああ」

 ……なんだ。
 結婚報告か。
 てっきり退職報告されるものだとばかり思っていたので、拍子抜けする。
 それにしても……男の俺から見ても抜群のルックスを持ち仕事もできる、正に王子のような存在で女性社員達に絶大な人気を誇る男と、仕事はできないがその可愛らしさで多くの男性社員を虜にしている姫のような女の組み合わせとは。
 王子と姫だからお似合いと言えばそうだが、大路は見かけはともかく、中身はおとぎ話のヒーロー達とは程遠い奴だ。
 物腰は柔らかだがシビアな性格をしている。自分を見つめる女性社員達の眼差しだって鬱陶しいと思っているが、それを表に出すのは賢くないと割り切って笑顔でかわしている。
 対する姫島はというと、良くも悪くも見た目と中身が一致している──いわゆる天然タイプだ。計算でなく無自覚だからこそ、うちの男性社員に受けているのだろう。ただ、大路のような頭のキレるタイプが好むような女ではないと思っていた。それが他の男どもと同じように惹かれるとは……意外だ。大路みたいなタイプには、南みたいな鋭くてクールな女の方が似合っているのに。まあ、俺が口出すことではないが。
 いずれにしても、しばらく周囲が騒がしくなるのは間違いない。面倒なことが起きないように願うばかりだ。

「それはおめでとう」
「ありがとうございます」
「で、入籍はいつ頃の予定?」

 我ながら味気ないと思う。
 他の上司だったら、いつの間に? と驚いて見せたり、もっと感慨深げに喜んだり、結婚というのは……などと自分の経験を交えたアドバイスをしたりするのかもしれないが、生憎独身の俺にはそこまでの感情も経験も興味もない。
 気になるのは今後の課の人員構成だ。
 うちの会社は社内恋愛を禁じていないし、結婚しても女性が会社を辞める必要もない。
 ただし、同じ部署の相手と結婚する場合、どちらかが必ず異動するという決まりがある。仕事内容にもよるが、大抵は女性の方が異動する。男性社員の方が複雑な業務に関わっているケースが多いから必然的にそうなるのだ。
 今回の場合もご多分に漏れず姫島に異動してもうことになるだろう。まだ入社1年目で、きちんと教育しきれていない姫島を異動させるのは心苦しい。だが、今はまだ、大路を手放すわけにはいかない。
 異動にあたっては色々な部署との調整が不可欠だ。こいつらのプライバシーに踏み込む気はないが、二人が同じ部署で働いている以上、上司として確認しておく必要がある。一般的に結婚を上司へ報告するのは、3ヶ月から半年前らしいから、この二人もそんなところだろう。

「はい、できれば早急に」
「は?」

 思ってもみなかった大路の返事に、思わず間抜けな声を出してしまった。
 早急にって何だ? 入籍は焦ってするものではないだろう。
 ……って、おい! まさか……。

「新しい命を授かったので早急に籍を入れたいと思っています」

 キリッとした表情で言った後、大路は姫島の肩を抱いた。
 やっぱり……そうか。
 想像通りの展開に頭を抱える。新しい命を授かったって……かっこいい言い方をしているが、単なるできちゃった婚じゃないか。
 でも、大路の言うことはわからなくはない。
 そうだよな……子供ができたなら、さっさと籍入れたいよな。そんな経験をしたこともなければ、する予定すらない俺でさえそう思うのだから。
 とは言うものの、「そうだよな。わかる」で済ませられないのが、二人の上司である俺の立場だ。

「そっか。で、姫島さんはどうしたい? うちの会社は社内結婚する場合、辞めるか異動かの二択になる。今回の場合、大路を動かすわけにはいかないから、姫島さんに動いてもらうことになる。しかも早々に入籍となると……うちの課から早く出てもらう必要がある。事情が事情だからね……退職する? それとも、別の部署に異動してでもこの会社に残りたい?」

 会社を辞めると言ってくれないかと、敢えて嫌な聞き方をした。
 上司失格なのは百も承知だ。だが、そう思ってしまうほど、悪条件が重なっている。
 今すぐ異動先を探すだけでも大変なのに妊娠しているとは……。
 辞めるという前提なら、夫婦が同じ部署にいても多少は大目に見てもらえる。退職するまでの間に後任の人間を探す時間だって稼げる。
 大路なんて放っておいても出世するだろうから、専業主婦になっても何の問題はないはずだ。
 俺の嫌な物言いに姫島は一瞬怯んだような顔をしたが、すぐに俺の目をまっすぐに見て口を開いた。

「はい、できれば……続けて行きたいと思っています。まだ、入社1年目なのにご迷惑をお掛けして申し訳ないのですが」

 そう言い頭を下げられた。

「時期が悪いのは承知しています。でも……俺はあかりの気持ちを尊重してやりたい。だから……俺からもお願いします」

 姫島をフォローするかのように大路まで頭を下げてきた。
 部下二人にこうして頭を下げられたら……何とかするしかないだろう。

「……わかったから、頭を上げろ。姫島さんの異動先の件は何とかするから。少し時間がかかるかもしれないけど。あと、姫島さんはくれぐれも無理しないように」

 俺がそう言うと、大路はほっとした表情を浮かべ、姫島は大きな瞳を潤ませていた。


「管理職って面倒」

 部下が全員帰宅して、自分一人しかいないのをいいことに声を出して毒づく。ふと時計に目をやると、時計の針は22時を少し過ぎたところを指していた。

「何で部下の結婚ごときに頭を悩ませなきゃいけないんだ。自分の結婚ならまだしも……」

 大路の結婚自体はめでたいことだし、できちゃった婚に関しても文句を言う気はない。
 ただ、相手が同じ課の人間で彼女が異動するのに適切な部署が無いのが問題なだけだ。
 正直に言って、姫島の仕事レベルは低い。
 だけど、就業態度は真面目でやる気もある。仕事のレベルに関しては、彼女の問題というより、それまでの社内での教育不足の感が否めなかったので、落ち着いたら教育し直してみようと考えていた。そんな矢先のできちゃった婚。
 仕事を続けたいという姫島の決断には困ったが、今回の件で他の部署の女性社員とトレードできるのであれば、市場開発課にとってプラスになるかもしれないと前向きに捉えようとした。
 だが、やっぱり時期が悪い。
 4月の事務系の人事異動は殆ど固められていた。公にはなっていないが、水面下では異動対象者に内示されているようだ。部長や人事に掛け合ってみたものの、空きがあるのは残業が多く、妊娠中の女性には無理がある部署ばかりだった。
 そんな中で一つだけ、今の姫島の担当業務に近くて残業が無いに等しい部署があるのだが……気が進まない。
 それはマーケティング部技術営業支援課だ。
 同じ部でいいのかと思ったが、課が違えばいいらしい。確かにあそこは階も違うし独立した部屋が与えられている。だから違う部署と言えなくもない。
 仕事の難易度や量的には姫島に適していると思う。だが、問題は姫島の後に誰を入れるかだ。誰でもいいと部長は言うが、技術営業支援課の女性社員達の仕事レベルも低い。しかし、スキル以上に就業態度に問題がある。誰も欲しくないというのが本音だ。
 強いて選ぶならと想像してみたものの……無理だった。そもそもにうちの女性社員の南と彼女達の相性が最悪だ。
 総合職であるにも関わらず、南には事務職の姫島のフォローをさせ、負担をかけていた。落ち着いたら姫島を育てるからと我慢してもらっていた面もある。
 それなのに、姫島よりも質の悪い女性社員が来たら……南の負担やストレスが増大するのが目に見えている。それだけは避けたい。
 ああ、しんどい。
 今までの立場だったらこんな事に煩わされることなく、自分の仕事だけに集中できのに。
 管理職になった以上、自分の部署のマネジメント能力も必要なのはわかっているのだが……。
 考えてもいい案が浮かんで来ないので、仕掛中の案件の進捗状況を確認して帰宅することにした。
 一つ一つの資料に目を通していく。
 使用しているソフトは同じなのに、作成する人間によって見やすさが異なるのは不思議だと毎回思う。
 次は技術営業支援課との合同案件分か……。思わずため息が出る。技術営業支援課から出てくる資料は、見にくいし誤字脱字はあるしで厄介だ。課の責任者である佐々木課長のチェック済みだと言うが、お前の目はザルかと言いたくなる。
 文句を言ってもしょうがない。さっさと資料に向き合おう。
 ……ん? 
 見やすいし分かりやすい。

「これ……技術営業支援課作成だよな?」

 疑問に思いながらも資料に目を通していく。そこで、一人の人間の存在を思い出した。

「……いた」

 あの部署に、きちんと仕事をこなす人間が。
 社員じゃないから見落としていた。
 この資料を作成したのは、柏原という技術営業支援課の派遣社員だ。確か、佐々木課長の補助的な業務や庶務をやっていると聞いている。姫島の業務と重なるところも多い。
 それに南も柏原とは仲良くしていると言っていた。そう言えば、ヤマさんもあの子だけは信用できると言っていた。ヤマさんこと山路さんは、俺が技術営業支援課で唯一尊敬し、先日惜しまれながらも定年退職された人だ。
 ヤマさんや南に好かれるということは、仕事に関しては信用できると考えていい。にも関わらず、佐々木課長は彼女を「残業せずにさっさと帰るし、愛想もないしやる気もないよ」と
冷たく評価している。佐々木課長の見る目の無さは置いておくとして、それなら柏原を異動させても問題ないだろう。
 あそこの男性社員は姫島をチヤホヤしているところがあるし、女性社員達は……心配じゃないと言えば嘘になるが、大路を敵に回すようなバカな真似はしないはずだ。

「決めた。コイツを貰う」

 翌朝、出社してきた部長を捕まえ自分の考えを伝えた。部長は「派遣社員とのトレードはちょっと……」と難色を示した。
 だけど、そんな部長に彼女以外の人間を入れるなら現状の人員でやった方がマシだと告げた。そして、姫島が技術営業支援課に異動すれば、人員が余り必然的に派遣社員の柏原を切ることになると思うが、社員同士のできちゃった婚を原因に派遣社員の契約を切るとは……一流メーカーとして恥ずべきことだと思いますが? と無茶苦茶な言い分を尤もらしく変えて、何とか納得させた。
 部長の承認が得られれば後は問題ない。佐々木課長は部長の言うことに反論などしない。派遣会社からも本人が承諾すればいいと言う回答を貰っている。本来であれば派遣会社を通して告知するべきことだが、今回は社員のプライベートが起因してのことなので特別にこちらから告知をさせてもらうようにした。
 柏原への告知は諸々の調整があるので、金曜日に行うことになった。それぞれの異動は来月に入ってすぐに行う。それで大路達も早々に入籍できる。
 完璧なプランだ。我ながら短期間でよく考えたと自画自賛する。
 さっそく大路と姫島にも伝えた。
 二人は安堵した表情を浮かべながら、ありがとうございますと何度も俺に頭を下げた。佐々木課長に姫島を託すのは不安だが、これが今の俺にしてやれる精一杯なのだと自分に言い聞かせた。
 俺の複雑な思いとは裏腹に二人は幸せそうに見つめ合っていた。周囲への影響も考え「金曜までは何も言わないように」と釘だけ刺し、俺は早々に会議室を後にした。
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