21 / 60
第21話
しおりを挟む
誰だ?
キスしたら記憶が戻るかもよ──とか言ったヤツ。
戻らないよ。
何も変わらないよ。
私の中身は二十七歳の柏原つぐみのまま。
王子様のキスでお姫様は目覚めたりしないし、ヒロインのキスでヒーローは自分を取り戻したりしない。おとぎ話も少女マンガも……みんな嘘だ。
予想外のキスに思わず目を瞠る。
私の目に映る谷崎さんの顔。それは私が初めて見る谷崎さんの顔だった。
上司でもなく、同居人でもない……男の人の顔。その表情や纏う空気にゾクッとして、反射的に体を離そうとした。けれど、谷崎さんの腕が私を捉えて動けない。華奢だと思っていたのに、その腕はとても力強かった。
唇に感じる熱くて柔らかい感触。与えられる刺激に吐息がこぼれ、唇が離れるけどすぐに重なる。さっきからその繰り返し。唇から伝わる熱が、体中に広がっていく。それと同時に、頭がクラクラしていく。
そんな状態から一刻も早く逃れて楽になりたい。そう思うのに……私は瞳を閉じ、谷崎さんの唇を受け入れていた。
どれくらい経ったのだろう。短いキスを何度か繰り返した後、私の顔からゆっくりと谷崎さんの顔が離れて行った。それと同時に、私を捉えて離さなかった力強い腕からも自由になった。けれど、その瞬間に体の力が抜けてしまい、ぺたりとその場にへたり込んでしまった。
「ごめん。驚かせたよな」
「……」
そう言って、私と目線を合わせるように谷崎さんが腰を落とす。
頭の中が空っぽ。
さっきまであんなに辛辣な言葉を口にしていたくせに……。頭の中に入っていたものが全て吹き飛んだって感じだ。
どうしよう……この人とどう向き合えばいい?
口調はいつものように淡々としているけど、纏っている空気が全然違う。
頭の中が混乱していて、何の言葉も出てこない。黙り続けている私に、谷崎さんは言葉を続けた。
「でも、あれはつぐみの本心じゃないから。言ったら後で後悔するから、もう言わないで欲しい」
いっそのこと死んじゃえばよかったのに──谷崎さんに遮られた言葉。
本心じゃないと谷崎さんは言うけど、私はそうは思わない。でも、もし私の記憶が戻って……私の中身が谷崎つぐみさんに戻ったら?
「それは、谷崎つぐみさんがってことですよね?」
「いや、それは柏原つぐみだろうが、谷崎つぐみだろうが変わらない」
「そんなの……わかんないじゃないですか?」
「わかるよ」
「どうして?」
きっぱりと言い切る谷崎さんの口調にそわそわする。私のことは何でもお見通しという、この感じ。それが妙に落ち着かなくて、気に食わなくて、反抗期の子供のようにいじけて反論した。
谷崎さんはしばらく黙り込んだ後、すうっと息を吐き、私の目を見ながら口を開いた。
「愛しているから」
「……っ」
想いを告げる低い声に反応し、心臓の鼓動が強くなっていく。何かに追い詰められているみたいだ。私は必死で逃げ道を作る。
「それは、谷崎つぐみさんを……つまり、あなたの奥さんをってことですよね」
「違う。今の君も、だ」
即座に否定され、鼓動が更に強くなる。冷めていた熱がまた上がっていく。
「記憶が戻らないままでも?」
「もちろん。何を知って、何に混乱しているのかはわからないけど、俺はつぐみを信じているから」
ドクンドクンと心臓が力強く動いている。顔中が熱い。それなのに谷崎さんは顔色を変えず、平然としている。私が谷崎さんの立場だったら、ここまで言わないし、言えない。
こんなにストレートな想いを受け止めたのは初めてだ。
それなのに……私の中にはいい感情が湧いてこない。
頭の中に浮かんでくるのは、どうすればいいの? っていう困惑や戸惑いばかりだ。
私には谷崎さんに対する気持ちがないってこと?
谷崎さんに対して少しでも気持ちがあれば、嬉しいという感情が湧いてくるはずなのに……。
だけど、嫌な気持ちにもなっていなくて……。
どうして何もわからないんだろう……自分のことなのに。
自分の中にある気持ちが全然見えない。
……もういい。
疲れた。
このまま、流れに乗ってしまえ。
もう、この人の奥さんってポジションでいいじゃない。
受け入れてしまえば、きっと楽になれる。
好きじゃないけど嫌いでもないんでしょ? キスされても嫌じゃなかった。受け入れたってことは、つまり……そういうことだ。
「本当に……今の私のままでもいいんですか?」
「ああ」
「……だったら、証拠見せてよ」
そう言って、私は谷崎さんの首に手を回し、強引に唇を奪った。
谷崎さんは一瞬戸惑ったようだったけど、私の唇を受け入れた。やがて、谷崎さんの大きな手がシャツの中に入り、長い指が私の素肌に触れた。
──だめっ!
体が谷崎さんの体温を感じ取った瞬間、心の奥の方でそう聴こえた。叫ぶような強い声に、電流が走ったかのようにビクッとした。その感覚で我に返った。
何してんの? 私。
だめだよ。だめに決まってるじゃない。
こんなの何の解決でもない。このまま進んだところで幸せになんてなれない。
そんなの嫌だ。
私はともかく、谷崎さんまで巻き込んでいい道じゃない。
ありったけの力で谷崎さんを突き放した。
「ごめんなさい……。今日は実家に戻ります。そこで頭冷やしてきます」
リビングに転がっていたカバンを強引に引き寄せ、逃げるようにマンションを後にした。
キスしたら記憶が戻るかもよ──とか言ったヤツ。
戻らないよ。
何も変わらないよ。
私の中身は二十七歳の柏原つぐみのまま。
王子様のキスでお姫様は目覚めたりしないし、ヒロインのキスでヒーローは自分を取り戻したりしない。おとぎ話も少女マンガも……みんな嘘だ。
予想外のキスに思わず目を瞠る。
私の目に映る谷崎さんの顔。それは私が初めて見る谷崎さんの顔だった。
上司でもなく、同居人でもない……男の人の顔。その表情や纏う空気にゾクッとして、反射的に体を離そうとした。けれど、谷崎さんの腕が私を捉えて動けない。華奢だと思っていたのに、その腕はとても力強かった。
唇に感じる熱くて柔らかい感触。与えられる刺激に吐息がこぼれ、唇が離れるけどすぐに重なる。さっきからその繰り返し。唇から伝わる熱が、体中に広がっていく。それと同時に、頭がクラクラしていく。
そんな状態から一刻も早く逃れて楽になりたい。そう思うのに……私は瞳を閉じ、谷崎さんの唇を受け入れていた。
どれくらい経ったのだろう。短いキスを何度か繰り返した後、私の顔からゆっくりと谷崎さんの顔が離れて行った。それと同時に、私を捉えて離さなかった力強い腕からも自由になった。けれど、その瞬間に体の力が抜けてしまい、ぺたりとその場にへたり込んでしまった。
「ごめん。驚かせたよな」
「……」
そう言って、私と目線を合わせるように谷崎さんが腰を落とす。
頭の中が空っぽ。
さっきまであんなに辛辣な言葉を口にしていたくせに……。頭の中に入っていたものが全て吹き飛んだって感じだ。
どうしよう……この人とどう向き合えばいい?
口調はいつものように淡々としているけど、纏っている空気が全然違う。
頭の中が混乱していて、何の言葉も出てこない。黙り続けている私に、谷崎さんは言葉を続けた。
「でも、あれはつぐみの本心じゃないから。言ったら後で後悔するから、もう言わないで欲しい」
いっそのこと死んじゃえばよかったのに──谷崎さんに遮られた言葉。
本心じゃないと谷崎さんは言うけど、私はそうは思わない。でも、もし私の記憶が戻って……私の中身が谷崎つぐみさんに戻ったら?
「それは、谷崎つぐみさんがってことですよね?」
「いや、それは柏原つぐみだろうが、谷崎つぐみだろうが変わらない」
「そんなの……わかんないじゃないですか?」
「わかるよ」
「どうして?」
きっぱりと言い切る谷崎さんの口調にそわそわする。私のことは何でもお見通しという、この感じ。それが妙に落ち着かなくて、気に食わなくて、反抗期の子供のようにいじけて反論した。
谷崎さんはしばらく黙り込んだ後、すうっと息を吐き、私の目を見ながら口を開いた。
「愛しているから」
「……っ」
想いを告げる低い声に反応し、心臓の鼓動が強くなっていく。何かに追い詰められているみたいだ。私は必死で逃げ道を作る。
「それは、谷崎つぐみさんを……つまり、あなたの奥さんをってことですよね」
「違う。今の君も、だ」
即座に否定され、鼓動が更に強くなる。冷めていた熱がまた上がっていく。
「記憶が戻らないままでも?」
「もちろん。何を知って、何に混乱しているのかはわからないけど、俺はつぐみを信じているから」
ドクンドクンと心臓が力強く動いている。顔中が熱い。それなのに谷崎さんは顔色を変えず、平然としている。私が谷崎さんの立場だったら、ここまで言わないし、言えない。
こんなにストレートな想いを受け止めたのは初めてだ。
それなのに……私の中にはいい感情が湧いてこない。
頭の中に浮かんでくるのは、どうすればいいの? っていう困惑や戸惑いばかりだ。
私には谷崎さんに対する気持ちがないってこと?
谷崎さんに対して少しでも気持ちがあれば、嬉しいという感情が湧いてくるはずなのに……。
だけど、嫌な気持ちにもなっていなくて……。
どうして何もわからないんだろう……自分のことなのに。
自分の中にある気持ちが全然見えない。
……もういい。
疲れた。
このまま、流れに乗ってしまえ。
もう、この人の奥さんってポジションでいいじゃない。
受け入れてしまえば、きっと楽になれる。
好きじゃないけど嫌いでもないんでしょ? キスされても嫌じゃなかった。受け入れたってことは、つまり……そういうことだ。
「本当に……今の私のままでもいいんですか?」
「ああ」
「……だったら、証拠見せてよ」
そう言って、私は谷崎さんの首に手を回し、強引に唇を奪った。
谷崎さんは一瞬戸惑ったようだったけど、私の唇を受け入れた。やがて、谷崎さんの大きな手がシャツの中に入り、長い指が私の素肌に触れた。
──だめっ!
体が谷崎さんの体温を感じ取った瞬間、心の奥の方でそう聴こえた。叫ぶような強い声に、電流が走ったかのようにビクッとした。その感覚で我に返った。
何してんの? 私。
だめだよ。だめに決まってるじゃない。
こんなの何の解決でもない。このまま進んだところで幸せになんてなれない。
そんなの嫌だ。
私はともかく、谷崎さんまで巻き込んでいい道じゃない。
ありったけの力で谷崎さんを突き放した。
「ごめんなさい……。今日は実家に戻ります。そこで頭冷やしてきます」
リビングに転がっていたカバンを強引に引き寄せ、逃げるようにマンションを後にした。
0
お気に入りに追加
22
あなたにおすすめの小説
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
(完結)私の夫は死にました(全3話)
青空一夏
恋愛
夫が新しく始める事業の資金を借りに出かけた直後に行方不明となり、市井の治安が悪い裏通りで夫が乗っていた馬車が発見される。おびただしい血痕があり、盗賊に襲われたのだろうと判断された。1年後に失踪宣告がなされ死んだものと見なされたが、多数の債権者が押し寄せる。
私は莫大な借金を背負い、給料が高いガラス工房の仕事についた。それでも返し切れず夜中は定食屋で調理補助の仕事まで始める。半年後過労で倒れた私に従兄弟が手を差し伸べてくれた。
ところがある日、夫とそっくりな男を見かけてしまい・・・・・・
R15ざまぁ。因果応報。ゆるふわ設定ご都合主義です。全3話。お話しの長さに偏りがあるかもしれません。
裏切りの代償
志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。
家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。
連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。
しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。
他サイトでも掲載しています。
R15を保険で追加しました。
表紙は写真AC様よりダウンロードしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる