舞台装置は闇の中

彼方灯火

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第22章

第216話 知るか否か

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 夕方に向かうに連れて空が曇ってきたから、月夜は洗濯物を取り込んだ。粗方乾いていたから、特に問題はなかった。

 ずっと机に座りっぱなしだったため、立ち上がって作業をするのが気分転換になる、ような気がした。本当のところは、気分転換なるものがどういうものなのか、彼女は上手く理解できていない。ずっと同じ作業を続けていても、まったく同じ工程を繰り返すわけではないし、そういう意味で、常に状況は転換しており、それに伴って、気分も転換するように思える。

 珍しく、授業とは関係のないことを勉強した。分野は物理学で、中でも物理学らしい物理学、つまりは、古典力学の内容だった。これでもまだ範囲は大分広いが、古典力学の概要を学んだという感じだ。本当は、量子力学の方に興味があったが、そちらを理解するためには、まず、古典力学をマスターしなければならない。いや、マスターしなくても良いが、ある程度の知識と経験がなければ、量子力学の方へは進めないということだ。

「雨よ降れ、風よ吹け」

 背後から奇妙な台詞が聞こえてきたが、月夜は反応しなかった。

「環境に向かって命令するというのは、どうなんだろうな」

 どうなんだろう、と月夜は考える。命令するのは人だから、それは人の勝手なのではないか、という気がしないでもない。

 横にある小窓から外を見ると、すでに小雨が降り始めていた。開いた隙間から冷たい風が入り込んでくる。こういうときに吹く風は、どういうわけか、場違いに冷たいように感じられる。それまでとのギャップが大きいからだろうか。

 本を読むとき、月夜は、かつての自分が出てこないように配慮する。かつて、彼女は本を読むのが苦手だった。それは、読む、という行為がどういうものか理解していなかったからだ。すなわち、書かれている内容を読むのではなく、書かれている文字を読んでいた。それは本を読むことにはならないが、一字一字きちんと確認しなければ、前へ進んではいけないような気がしていたのだ。

 今では、読む、という行為の本質をだいたい理解したように思えるが、それでも、かつての名残があって、どのように読むのか分からなくなることがある。

 読む、という言葉は、色々な対象について使われる。すなわち、読むために文字は必ず必要ではないのだ。それに気がつくまでに随分と長い時間を要した気がするが……。
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