舞台装置は闇の中

彼方灯火

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第7章

第69話 自己と他者の狭間 其ノ二

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 読書の春。

 コーヒーを飲んだきり、月夜は何も口にしなかった。口にするという言葉は、何かを飲食するという意味と、何かを話すという意味の、二つの意味で用いられるが、今は前者の意味だ。しかし、同時に後者の意味でもあったので、だからこそ、この表現が出てきたのかもしれないな、と月夜は考えた。こういうのを合理化と呼ぶ。

 フィルはソファの上で眠ってしまった。正確には月夜とソファの間で眠っている。月夜は、座っているのか、横になっているのか分からない状態になっていて、少なくとも、上半身は座っているのだが、下半身は横になっている、そんな感じだったので、そのぐちゃっとした隙間に、フィルは収まっていた。狭いスペースが好きらしい。

 高校の勉強にはもう慣れていた。慣れようと思っていたわけではないが、結果的に慣れざるをえなかった。それには、第一に、人間には慣れるという性質が初めから備わっていること、第二に、授業の形態が中学の頃と変わらなかったことの、大きく二つの要因が関わっている。唯一中学の授業と異なるのは、芸術科目が選択式になったことだった。音楽と、美術と、書道の中から、どれか一つを選ぶ必要がある。美術という科目名がほかの二つに比べて広い範囲をカバーしているように思えたので、月夜はそれを選んだが、実際にすることは限られていた。今はとりあえず美術史を学んでいる段階で、もう少しすると実技が増えてくるみたいだ。

 ソファから落ちそうになったフィルを押さえて、自分の腕の中に収める。代わりに持っていた本が床に落ちた。これで、総合的なダメージは最小限に抑えられたと月夜は思った。人間にとっては、ものより生き物の方が大事だ。その感覚はすべての人間に共通するものではないだろうか。

 なんとなく、自分の髪に触れる。

 自分はここにいる、という安心感。

 遅れて、しかし、本当に自分はここにいるのか、という不安。

 髪自体に感覚を得る機能はない。では、果たしてそれは自分の一部だといえるだろうか? 爪もそうだ。排泄物は、自分の体内にある内は自分の一部だが、外に出れば自分ではなくなる。人間は比較的早い段階でそれに気がつく。そして、自分ではないものは、相対的に汚いものとして解釈されやすい。

 自己にとって、他者は汚いものだ。

 しかし、それ故に美しく映る場合もある。

 自分は、誰かにとって美しい存在だろうか?
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