モノクロームの特異点

彼方灯火

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第9章 不道徳

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 週が明けて、また学校が始まった。多くの生徒が、もう冬休み気分を抜けて、通常の生活に馴染んでいるようだ。そうやって、勉強するのが自分の役目なのだと生徒が錯覚することで、学校という小さな社会は成り立っている。

 その日の朝、例の図書委員の女子生徒が、登校するなり、事件が解決したことを告げた。いや、解決という言い方はおかしいかもしれない。彼女の話によると、犯人が捕まったわけではないが、盗まれた本が、すべて返却ボックスに戻っているのが見つかった、とのことだった。無断で持ち出されていたのは、小説と、図鑑だが、どちらも同じタイミングで返されていたのを見ると、犯人は同一人物だったらしい、ということを、彼女は今さらながら指摘した。複数犯ではないか、という意見も、図書委員の中では出ていたようだ。

 忘れ去られる前に、事件が解決するのは、学校では比較的珍しいことだ。だから、彼女の報告を聞いたクラスメートは、何ともいえない顔をしていた。刺激的な出来事が起きたのに、それが解決してしまったとなれば、もう何も面白いことはない。もちろん、皆、本が返ってきたこと自体は、喜ばしいと考えているだろう。けれど、陳腐な日常を彩るコンテンツが、一瞬の内に姿を消してしまった。これには落胆している生徒が多かった。

 そして、彼らがどれだけ喚いたとしても、日常はいつも通りやって来る。担任の教師が教室に入ってきて、ホームルームが始まった。今日も授業が始まる。

 授業中、月夜は、ぼうっと窓の外を眺めていた。

 教師の話は耳に入っていたが、脳できちんと処理されている割合は、いつもの六十パーセント程度にすぎなかった。残りの四十パーセントは、何の処理も成されることなく、音として反対側の耳から出ていく(そんなことは、物理的にありえないが)。

 今日は雪が降っていた。ぱらぱらとした粉雪で、地面に積もったのを踏めば、良い感触を味わえそうだ。

 そろそろ、試験の準備をしなくてはならない、と月夜は考える。

 とはいっても、彼女は毎日予習と復習を行っているから、試験のための勉強は必要なかった。普段と同じように勉強して、前日に少しだけ体調に気を遣えば良い。もっとも、どれほど気を遣っても、体調を悪くすることはある。だから、完全に体調を管理することはできない。しかし、百パーセント体調を崩さない方法も、ないとはいえない。自ら命を断てば、もう二度と体調を崩すことはない。

 右斜め前方に目を向ける。

 囀は、授業中だというのに、机に突っ伏して眠っていた。

 教師は何も言わない。

 その背中が、妙に寂しそうに見えた。

 今すぐ立ち上がって、後ろから抱き締めたくなった。

 でも、今は授業中だから、それはできない。

 では、授業が終わったら、それはできるのか?

 月夜には、その自信はなかった。

 手を繋ぐことはできるのに、どうして、抱き締めることはできないのか?

 どちらも、自分と相手の接触という、酷く根本的なコミュニケーションにすぎないのに……。

 数学の授業中、月夜はシャープペンシルを何度か回した。特に回したかったわけではない。ただ、そんなふうに指を動かしていないと、なんだか落ち着かなかった。

 そして、そんなことをしても、全然落ち着かなかった。

 昼休みになって、月夜は自分から囀の傍に行った。

 後ろの席のクラスメートと話していた彼女は、顔を上げて月夜を見る。

「どうしたの? 何か用事?」囀は笑顔で尋ねた。

 月夜は首を振る。

「用事はないけど、少し、話したい、と思って」

 囀はクラスメートとの会話を中断し、月夜に付き合う姿勢を確立した。話し相手のクラスメートは、そんな囀の対応を、快く受け入れてくれた。人の優しさとは、本来こういうものだ、と月夜は思う。その点、自分は、あまり、彼女に優しくできていないかもしれない、とも思った。

「何?」

 廊下に出て、窓の外を向いていた月夜に、囀が質問した。

 月夜は彼女を見る。

「ごめん」月夜は謝った。「何か、傷つけてしまったかもしれない、と思って」

「何を?」囀は笑った。「えっと、どういう意味?」

「うーんと……」

 月夜は必死に考える。けれど、何を伝えたいのか、自分でも分からなくなってしまった。いや、本当は具体的に伝えいたことがないのに、何かを伝えたいと、形だけを想定していたことを、今になって気づいたのだ。

 そのまま、月夜は沈黙する。

 囀は、表情を変えて、月夜の肩に触れた。

「……どうしたの? なんか、様子が変だけど……」

 月夜は自分でもそう思った。

「ごめんね」月夜は言った。「自分でも、何を言いたいのか、分からない」

 囀は月夜を見つめ、目を細めて上品に笑う。

「うん、いいよ。そんなの、よくあることだし」

「そうかな」

「うん、そうそう。僕なんて、しょっちゅうそんな感じだよ」

 室内と外気の温度差で、廊下の窓硝子は濡れている。二人の吐息に含まれる体温が、空気中の水蒸気を水滴に変化させる。

「本当は、囀に、あんなことは言いたくなかった」月夜は説明した。「私が指図をするようなことじゃなかった。でも……。なぜか、そうしようと、思ってしまった。だから、それを謝りたいんだと思う」

 囀は話さない。

 月夜と一緒に、窓の外に目を向けていた。

「私は、いつも、自分の衝動に突き動かされて、行動してしまう」

 囀は少し笑った。

「月夜が?」

「そう、思わない?」

「うーん、どうかな……。そう言われてみれば、そんな感じもするけど、月夜に対する印象は、少し違う気がするよ」

「じゃあ、どんな感じ?」

 囀は暫くの間黙る。

 それから、愛らしい口もとを動かして言った。

「真摯、かな」

 月夜は首を傾げる。

「真摯?」

「うん、そう」

「どういうところが、真摯?」

「僕の意見を聞きたがるのも、珍しいね」

「そう?」

「いや、ほかの人からは、あまり求められたことがない、と思ってね」

「私は、もう少し、周りの人を頼った方がいい、と言われたことがある」月夜は話す。「だから、囀に、訊いてみようかな、と思った」

 囀は終始笑顔だ。

「月夜は、自分にも、他人にも、真摯だよ」囀は説明した。「どちらかに傾いているわけじゃない。自分の衝動に突き動かされて、行動してしまうって、さっき言っていたけど、その目的は、自分の願望を叶えるためだけじゃないでしょう? 他人のことを思って、そうしたい、と感じるんだから、自分がよければいい、という感情ではないと思うよ」

「でも、そうやって、他人を助けた結果、自分は、気持ちの良い思いをするわけだから、結局は、自分のことばかり、考えていることになるんじゃないのかな?」

「今日は雄弁だね、月夜」

 それは月夜も感じていることだった。自分は、今、囀とコミュニケーションをとることを望んでいる、と思う。

「私は、今日は、雄弁みたい」

 特に間違えた指摘だとは思えなかったから、月夜は肯定した。

「そういうところが、真摯だって思うんだよ」

 月夜は首を傾げる。

「あまり、自分のことを意識しすぎない方がいいよ」囀は話した。「不安になるだけだから……。……僕も、月夜に出会って、少し変わったんだ。自然と、君のことを考えるようになった。月夜にどう思われたいか、ということばかり考えていたけど、そんなことは、どうでもいいって、思えるようになったんだよ。もっと、月夜と一緒にいる時間を、大切にしようと思ったんだ。うーん、ちょっと、上手く説明できている気がしないけど……。とにかく、不安は少ない方がいい。僕が言えるのは、それだけかな」

 言葉の一つ一つの意味を考え、次にそれらが合わさって作られる文の意味を考えて、月夜は囀が言ったことを適切に理解しようとする。

 なんとなく、分かったような気がした。

 だから、彼女は、頷いた。

「大丈夫?」

 囀が尋ねる。

 大丈夫だとは思えなかったから、月夜は首を振った。

「まあ、いいよ。もう、終わったことだしさ」囀は話す。「月夜が、まだ、考え続けると言うのなら、僕は止めないよ」

「うん……」

 予鈴が鳴り、二人は教室に戻った。次の授業は現代文だから、部屋を移動する必要はなかった。

 授業を受けながらも、月夜は、先ほど囀が言ったことを、何度も頭の中で繰り返していた。話の意味は分かったが、彼女がそう説明するに至った経緯を考え出すと、不可解な点がいくつも見つかった。だから、今度はそれを一つずつ検証していく。

 でも……。

 自分と、一緒にいる時間を、大切にする?

 その言葉が妙に引っかかった。

 月夜は、いつも、周りの存在と、そうしてこなかった気がする。

 それが、少しいけない気がした。

 その言葉が印象に残ったのは、それが自分に足りていないからだ。

 囀の席を見る。

 彼女は、今は顔を上げて、教師の板書をノートに写している。真剣な眼差しではなかったが、集中して内容を理解しようとしているように見えた。

 自分は、囀という一人の人間を、しっかり見ようとしていただろうか?

 彼女を、何か一つの概念のように捉えていたのではないか?

 そう……。

 だから、モラルに反した彼女を、非難したのだ。

 でも……。

 本当は、そうするべきではなかったのではないか?

 概念のように抽象化することで、囀が抱える悲しみを、考慮の枠内から自然に排除していた。

 それが、いけなかった。

 それが、間違えていた。

 囀を囀として、自分と対等な存在だと認識することを、どこかで怠っていたのではないか?

 たぶん、怖かったのだ。

 彼女を自分と同じように扱うのが、怖かった。

 では、その恐怖は何に起因するのか?

 答えは一つしかない。

 それは、自分を信じていなかったことだ。

 それしかない。

 だから、自分を反映する鏡のような囀を、直視することができなかった。

 なんて根本的なミスだろう……。

 その時点で、すべてがずれていたのだ。

 すべての授業が終わり、放課後になった。月夜は、また今日も図書室に向かった。

 暫くの間、彼女は図書室の入り口付近にいた。そこに立っているだけでは怪しまれるから、傍に展覧された本を手に取って読んだ。背後にはカウンターがあり、そこに返却ボックスが置かれている。

 囀がここに立っている状況を想像した。

 一時的に彼女の視点まで自己を昇華させ、辺りを見渡す。

 本を予約するには、司書に頼んで、シートにクラスと名前を記入しなくてはならない。そこにそれらの情報を記すことで、初めて予約が成立する。

 今回の事件で被害者として扱われたのは、一人の女子生徒だが、彼女もその手続きを済ませたはずだ。つまり、シートを確認すれば、そこに彼女の名前を見つけることができる。そして、本を予約するということは、彼女は図書室の常連である可能性が高い。図書室を普段から利用しない者は、本を予約しようという発想に至らない。予約した場合、本が返却され次第、図書室までその本を取りに行くことになるが、常連なら、図書室に向かうのが毎日の行動の中で習慣化されているから、それを面倒だとは感じない。しかし、常連ではない場合、本がなかったら、普通それで諦める。わざわざ借りに来て、さらに返しに来るようなことをしたくないからだ。

 では、囀はどうだっただろう?

 月夜が知っている限りでは、囀も定期的に図書室に通っていた。常連というレッテルが、どの程度の頻度を重ねた者に貼られるのか分からないが、とにかく、本を読みたいという動機があって、囀が定期的にここへ顔を出していたのは確かだ。

 例の女子生徒と、囀が、互いに知り合いだった場合、どうなるだろう?

 いや、知り合いというのは、少々関係が強すぎる。顔を知っている、くらいで良いはずだ。囀が転校してきてから、まだ数週間しか経っていないが、人の顔は、少なければ一回、多くても三回も目にすれば、確実に覚えられる。

 月夜は、囀がとったであろう行動を、より鮮明に頭に思い描く。

 本は最大で二週間借りられる。囀は、本を読む速度が、速い方か、遅い方か、月夜には分からない。読んでいる本がころころ変わっていた気もするが、それは、一冊を読み終えて次の本に移ったのではなく、何冊もの本を並行していた読んでいたのかもしれない。もちろん、どちらともいえないが、これはあまり重要ではない。

 月夜は後ろを振り返り、司書に頼んで、本を予約したいと伝えた。今見ていた展覧場所に、ブックスタンドだけ立っている箇所があったから、そこにある本を借りたいと伝えた。司書は笑顔で対応し、月夜に予約した者の情報を記すシートを手渡した。

 そこには、紐で括られた紙が何枚も重なっている。

 過去の分まで纏められているようだ。

 司書は手もとのパソコンに目を移し、彼女が書き終わるまで事務作業をしている。

 月夜は、ページを捲って、過去に遡った。

 可能性は、高いとも低いともいえないが、彼女が考えていることが成り立っていた場合、事実は自然と分かるようになる。

 二回ページを捲ったところで、それを見つけた。

 囀の名前だった。

 さらに、もう一枚捲る。

 もう一つ、囀の名前があった。

 一つ目と二つ目の囀の名前が記された状況を分析する。彼女の名前の後ろには、どちらの場合にも、連続して同一人物の名前が記されていた。学年も一年生になっている。

 なるほど、と月夜は思った。

 彼女の仮説は立証された。

 月夜はシートを司書に渡して、その場を去った。

 部屋を奥へと進み、個人用のブースに着く。

 リュックから勉強道具を取り出し、すぐに数学の問題を解き始めた。

 もう、これ以上、確認する必要はなかった。

 今分かったことから、事実がどのようなものだったか大体分かったが、それ以上真偽を突き詰めても意味はない。

 ただ、自分と、囀が過ごす時間は、少しだけ華やかなものになるだろう、と思えた。

 背後に気配を感じて、月夜は振り返る。

 囀が立っていた。

「どうしたの?」月夜は質問する。

「僕も、勉強するよ」そう言って、囀は笑いかける。「夜になったら、教室に行こう」

 月夜は頷いた。

 囀は月夜の隣を通り過ぎ、向こう側の席に周ろうとする。

 月夜は彼女を呼び止めた。

 訊く必要はなかったが、訊いても良いかと思った。

「ねえ、囀」

 囀は足を止めて、月夜を振り返る。

「何?」

「囀は、いつも、本をどこに仕舞っているの?」

「本? 本って?」

「自分で買った本でも、図書室で借りた本でも」

「仕舞っているって、どういうこと?」囀は笑う。「家だったら、当然、書棚の中だけど」

「借りた本は?」

「えっと……、ここで借りた本は、まず、ロッカーに仕舞うかな」囀は言った。「鞄は大抵いっぱいだから、帰りに教科書と交換するね」

 月夜は頷いた。

「分かった。ありがとう」

「それでおしまい?」

「うん、そう」

「妙なことを訊くね」

「そう?」

「うん、まあ……」囀は言った。「僕は、何も訊かれなかったことにしよう」

 そう言い残して、囀は月夜の対面に座る。

 ペンを持ち直して、月夜は計算を始めた。

 囀にも、自分の言いたいことは伝わっただろう、と思った。





 夜になった。

 月夜はすでに教室に移動して、眠っていた。夜の教室で眠るのは初めてだった。今まで何度もこの時間帯まで教室に残ったが、眠ろうと思ったことはなかった。

 疲れているわけでもないのに、なんとなく、眠りたいと思って、机の上に両腕を載せて、その中に顔を埋めた。すると、たちまち意識がぼんやりとして、いつの間にか眠ってしまった。

 目を覚ます。

 顔を上げると、目の前に巨大な黒板があった。

 時計は午後十一時を示している。

 教室前方の扉が開いて、囀が入ってきた。

「やあ」囀は言った。「もしかして、寝ていたの?」

「どうして分かるの?」月夜は尋ねる。

「額が、赤くなっているから」

 月夜は自分の額に触れる。たしかに、少し熱を帯びていた。感覚もいつもと違う。

 囀は窓の傍に近づいて、それを勢い良く開いた。

 冷たい外気が流れ込んでくる。

「今日は月が綺麗だよ」囀は言った。「あ、今の、告白のつもりなんだけど、分かる?」

 立ち上がって、月夜は囀の傍に行く。空を見上げると、左側が欠けた半月が浮かんでいた。

「源氏物語は、もう読んだ?」

 外を向いたまま、月夜は囀に質問する。

「ああ、あれね、まだ、読んでいない」囀は答える。「やっぱり、読むなら最初から読まないと、感動が薄れる気がしてさ」

「最終巻だけ読むのも、良いと思うよ」

「でも、それだと、物足りない」

「そう?」

「うん……。クライマックスだけ体験しても、そこに至るまでの過程がないと、駄目だね」

 囀は上着のポケットからルービックキューブを取り出した。

 彼はそれを軽く投げ上げる。

「これ、知っている?」

「ルービックキューブ?」

「うん、そうそう。面白いよね、たまには」

「たまに、面白いの?」

「いや、たまにやると、面白いんだ」

「やってみて」

「僕が?」囀は得意気な顔をする。「よし、いいだろう」

 縦横に三分割された正方形の板を、囀は手際よく回転させる。しかし、手際が良いだけで、全然色は揃わなかった。どうやら、初心者らしい。色が揃わなくて、やり方も分からないのに面白く感じるのは、どういうことだろう、と月夜は不思議に思う。単純に、機構が面白いという意味かもしれない。これを作った人は、いったい何から発想を得たのだろうか。

 囀からそれを受け取り、月夜も少し挑戦してみる。開始から五分程度で、彼女は青い色を一面に揃えることができた。

「へえ、凄いじゃん」囀は感想を述べる。

 完全にまぐれなので、月夜は凄いとは思わなかった。

 青を維持したままほかの色を揃えることはできないので、一度崩して、すべての色を揃える道程を考える。しかし、これはどうやら無理そうだった。論理的に一つずつ考えていけば、必ず揃えることができるはずだが、順序の候補が多すぎて、すべてを試す気にはなれなかった。やり方が明らかでも、それをやりたいと思わなければ、達成はできない。

「それが、どうかしたの?」

 一通り遊び終えてから、月夜は囀に質問した。

「これ?」囀はルービックキューブを投げる。「いや、どうもしないけど……」

「たしかに、面白かった」

「でしょう?」

「細胞分裂みたいで、面白い」

「細胞分裂?」

 囀は、今度はハーモニカを取り出して、それを吹き始める。

 しかし、こちらも初心者のようで、メロディーになっていなかった。

 途中から明らかな不協和音になったので、月夜は囀にやめるように諭した。

「え、何でよ」囀は不満そうな顔をする。

「ちょっと、耳に悪い、と思ったから」

「練習なんだから、できなくて当然でしょう?」囀は笑った。「それとも、月夜、できるの?」

 ハーモニカを受け取って、月夜はそれを軽く吹いてみる。しかし、できるわけがなかった。

「できない」月夜は報告する。

「そうそう。だから、練習するんだよ」

「そうだけど……。……うん、分かった。じゃあ、どうぞ」

「嘘。煩いんだよね。やめます」

 それ以上、囀のポケットからは何も出てこなかった。

「ねえ、月夜」沈黙していた囀が、月夜に話しかけた。「僕ね、もうそろそろ、行かなくちゃいけないんだ」

 月夜は彼を見る。

「どこへ?」

「ここではない、どこかに」

「どうして?」

「存在しないからだよ」

 月夜は答えない。

「存在しないから、存在しない者が存在する所に、行かなくちゃいけないんだ」

「存在しないのに、存在するとは、どういう意味?」

「そのままの意味だよ。理解はできるでしょう?」

 月夜は考え、そして頷く。

「だから、月夜と一緒にいるのも、あと少し」

「私が、君と一緒に行きたいって言ったら?」

「そんなこと、君は言わないと思うよ」

「もし、そう言ったら、という話」

「拒否はしない」囀は言った。「でも、月夜のためにはならないとは伝える。……もう、伝えちゃったけどね」

 月夜には、囀に同行する意思はなかった。それが最善だと判断したからだ。

「まあ、とにかく、お礼は言っておくよ。楽しかった。どうもありがとう」

「うん……」

「どうしたの? 寂しいの?」

「少し」

「元気出してよ。そんなに重い話じゃないよ」

「でも……」

「でも?」

「好きなものを失うのは、辛い」

 囀は月夜の肩に触れる。

「いつか、また会えるよ」

「そう?」

「うん、きっと」

 教室で二時間くらい過ごし、二人で裏門から外に出た。駅がある方に向かって歩く。

 踏み切りの前を通過した。

 真っ直ぐ進み、階段を上る。

 その間、二人とも何も話さなかった。

 改札を抜けて、ホームに立ち、電車が来るのを待つ。

 空いている電車に乗り込み、二人並んで席に着いた。

「なんか、あっという間だったね」囀が言った。

 月夜は頷く。

「会ったときのこと、覚えている?」

 月夜はもう一度頷く。

「あれって、本当に運命だったんじゃないかって、僕は思っているんだ」囀は話した。「こんなに数ある電車の座席で、たまたま月夜がいる位置に乗車するなんて、そうとしか思えない」

「乗る、または降りるときに使う階段の位置と、人の行動を考慮に入れれば、ある程度は、絞り込むことができる」

「じゃあ、月夜が狙ったのかな?」

「いや、違う」

「そういうのを、運命っていうんだよ」

「いわない気がするけど……」

「いうんだって」囀は楽しそうだ。

 月夜は小さく頷いた。

「……分かった」

 囀の最寄り駅に到着する。

 彼は、何も言わずに、月夜に手を振って、電車を降りていった。

 扉が閉まる。

 月夜は後ろを振り返った。

 彼の姿は、すでにそこになかった。

 明日になれば、もう、囀はいない。

 彼は学校に来ない。

 寂しかったが、それで良いと思った。

 家に着く頃には、午前二時近くになっていた。玄関の鍵を開けて中に入ると、フィルがそこに座って待っていた。

「どうしたの?」後ろ手に玄関のドアを閉めて、月夜は尋ねた。

「終わったのか?」フィルは訊き返す。

 月夜は小さく頷いた。

 リビングにリュックを置き、そのまますぐに風呂に入った。今日はフィルも一緒だった。彼の身体を先に洗い、湯船の中にそっと入れる。水に浮かぶ彼は、見ていていつも愉快だ。可愛いというよりは、可笑しいといった方が近い。

 自分も一通り洗い終えて、月夜もお湯に浸かった。

 フィルを抱きかかえる。

「思った以上に元気そうだな、月夜」フィルが話す。

「そう?」

「ああ」

「思った以上にって、何を思ったの?」

「事態が起きて、それにどれくらい影響を受けたか、と想像した、ということだ」

「分かっている」

「じゃあ、訊くなよ」フィルは笑った。「分かっていることは、訊いてはいけない」

「フィルと、話したかっただけだよ」

「ほかにいくらでも話題はある」

「じゃあ、フィルの好きな色は?」

「そんなこと、訊いてどうなるんだ?」

「訊きたかっただけ」

「俺が好きなのは空色だ。ちなみに、空色と、水色の違いは、分かるか?」

「分からない」

「空色は、何でもありなんだ」彼は言った。「お前みたいに、真っ黒でも、空色は空色なのさ」
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