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第2部 [歩く[開く]
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壁によって、窓によって空間が切り取られていても、廊下は凍えるような冷たさだった。 月夜はもともと体温が低いから、周囲との温度差があまり生じない方だった。 しかし、吐き出す息は環境の影響を受け、たちまち白く染まり上がる。 たちまち水分は窓の表面に固着した。
昇降口で靴を履き替え、重たい金属製の扉を開いて外に出る。
黒と白のコントラスト。
垣間見えた黒はすぐに色を得て、それぞれの彩りへと還元されていく。
眼前に広がる景色を見て、月夜は学校に誰もいない理由を思い出した。
そうだ。
それは、今が冬休みだからではない。
もう、この街には誰もいない。
人も、車も。
扱う人間のいなくなった人工物を自然と区別する術はなく、荒廃へ向かう流れは万物に共通する、その事実を再認識させられる。
「転ばないようにな」
月夜の腕の中でフィルが呟いた。
彼女は一度頷き、昇降口の敷居を跨いで、ステップへ足を踏み出す。
世界は純白に覆い尽くされている。 それは、空から降ってきた羽衣によるものだった。 堆積するばかりで、一向に消え失せる気配はない。 これだけは、万物の流転を無視しているように思えた。 実際には、その純白の欠片も世界を支配するルールに従っているに違いない。 ただ、その速度の遅さ。 その場に留まり、静止することで、却って世界の有り様を保存しようとしているようにも思える。
純度の高い空気が鼻腔を通り、気管を通り、少しだけ痛かった。 マフラーをしてくれば良かったと少し後悔する。 彼女には、最近後悔することが多くなった。 どうしてだろう。 後悔などして、何になるというのだろうか。 やはり、ものも、ことも、常に一定の方向に進んでいく。 過去には戻れない。 現在という一時点は究極的には定位できず、未来に向かうことしかできない。 スカラーではなく、ベクトルに支配されている、この世界。
学校の門の前に至る。 彼女がその前に立つと、門は独りでに開いていった。
門を進んだ先にある線路には、雪が積もり、レールが見えなくなっていた。 踏切のゲートは、手前にあるものは中途半端に上がりかけたまま静止し、向こう側にあるものは途中で半分に折れている。 赤色のランプは点滅を止め、弱々しく、薄く、血液を湿らすように点灯していた。
立ち並ぶ街灯達。 その内の幾つかは、地面に横倒れになっている。 割れた電灯部分を雪が浸食していた。
振り返れば、ローファーの跡が、白い地面の上に。
ただ、点々と。
「お腹空かないか?」フィルが再び同じ質問をする。
「空かない」月夜は端的に答えた。
「よかったな。 声が出るようになったみたいだ」
「そう」月夜は頷く。 「出るようになった」
手袋をしていない手が、平は白く、指先に向かうにつれて赤く染まっていた。 感覚はあまりない。 皮膚そのものがビニールになってしまったみたいだ。 持ち上げて、歩きながら息を吹きかける。 一瞬温まり、しかし、その温度もすぐに消えていく。
大通りに出ても、車は一台も走っていなかった。 右の方、少し遠くにモノレールの線路が見える。 巨大な脚に支えられ、それ自体はまだ倒れていなかったが、列車が道路の上に横転している。 上方に構える橋状の線路が庇になって、列車の上に雪は積もっていなかった。
そんなふうに、取り残された人工。
>歩道橋を渡る。
信号機が被る金属製の帽子。
その上にも、やはり雪。
白。
大通りを越えて裏通りに入ると、そちらは商店街になっていた。 所々に住宅を挟みながら、等間隔に店が軒を連ねている。 ウナギ屋、八百屋、床屋、喫茶店。 シャッターが閉じられているわけでもないのに、どれも沈黙している。 入り口のドアが開いたまま、机の上に箸が用意されたまま。 成される術もなく、どれも停滞している。
>横断歩道を渡る。
すべてが白に塗り潰された、横断歩道。
最早、何もないのと同じ。
φ?
「このまま進んでいいのか?」フィルが胸の中で言った。
月夜は答えない。 真っ直ぐ前を向いたまま歩き続ける。
髪の上に雪が降りかかり、襟の上に降りかかり、睫の上にさえ降りかかる。
白。
「いいのか?」
と、もう一度、フィルの声。
月夜は静かに頷く。 その拍子に、どこかに降り積もっていた雪が落ちて、口に入った。
体温で融けて、液体に。
「何度見ても同じことだ」フィルが言った。 「時間は戻らない」
「分かっている」月夜は応じる。 「終わらせるために行く」
「後悔しないか?」
「もう、済ました」
「そうか」
歩道と車道の区別がつかない道の上を、月夜は歩いていく。
電信柱から雪が零れ、衝撃で再び宙に舞い上がり、煙が。
風が吹いて、視界が閉ざされる。
風は、背後から吹いている。 首もとを冷たく撫で、背後の道に雪を積もらせるとともに、行く先に積もる雪を退かしてくれた。
昇降口で靴を履き替え、重たい金属製の扉を開いて外に出る。
黒と白のコントラスト。
垣間見えた黒はすぐに色を得て、それぞれの彩りへと還元されていく。
眼前に広がる景色を見て、月夜は学校に誰もいない理由を思い出した。
そうだ。
それは、今が冬休みだからではない。
もう、この街には誰もいない。
人も、車も。
扱う人間のいなくなった人工物を自然と区別する術はなく、荒廃へ向かう流れは万物に共通する、その事実を再認識させられる。
「転ばないようにな」
月夜の腕の中でフィルが呟いた。
彼女は一度頷き、昇降口の敷居を跨いで、ステップへ足を踏み出す。
世界は純白に覆い尽くされている。 それは、空から降ってきた羽衣によるものだった。 堆積するばかりで、一向に消え失せる気配はない。 これだけは、万物の流転を無視しているように思えた。 実際には、その純白の欠片も世界を支配するルールに従っているに違いない。 ただ、その速度の遅さ。 その場に留まり、静止することで、却って世界の有り様を保存しようとしているようにも思える。
純度の高い空気が鼻腔を通り、気管を通り、少しだけ痛かった。 マフラーをしてくれば良かったと少し後悔する。 彼女には、最近後悔することが多くなった。 どうしてだろう。 後悔などして、何になるというのだろうか。 やはり、ものも、ことも、常に一定の方向に進んでいく。 過去には戻れない。 現在という一時点は究極的には定位できず、未来に向かうことしかできない。 スカラーではなく、ベクトルに支配されている、この世界。
学校の門の前に至る。 彼女がその前に立つと、門は独りでに開いていった。
門を進んだ先にある線路には、雪が積もり、レールが見えなくなっていた。 踏切のゲートは、手前にあるものは中途半端に上がりかけたまま静止し、向こう側にあるものは途中で半分に折れている。 赤色のランプは点滅を止め、弱々しく、薄く、血液を湿らすように点灯していた。
立ち並ぶ街灯達。 その内の幾つかは、地面に横倒れになっている。 割れた電灯部分を雪が浸食していた。
振り返れば、ローファーの跡が、白い地面の上に。
ただ、点々と。
「お腹空かないか?」フィルが再び同じ質問をする。
「空かない」月夜は端的に答えた。
「よかったな。 声が出るようになったみたいだ」
「そう」月夜は頷く。 「出るようになった」
手袋をしていない手が、平は白く、指先に向かうにつれて赤く染まっていた。 感覚はあまりない。 皮膚そのものがビニールになってしまったみたいだ。 持ち上げて、歩きながら息を吹きかける。 一瞬温まり、しかし、その温度もすぐに消えていく。
大通りに出ても、車は一台も走っていなかった。 右の方、少し遠くにモノレールの線路が見える。 巨大な脚に支えられ、それ自体はまだ倒れていなかったが、列車が道路の上に横転している。 上方に構える橋状の線路が庇になって、列車の上に雪は積もっていなかった。
そんなふうに、取り残された人工。
>歩道橋を渡る。
信号機が被る金属製の帽子。
その上にも、やはり雪。
白。
大通りを越えて裏通りに入ると、そちらは商店街になっていた。 所々に住宅を挟みながら、等間隔に店が軒を連ねている。 ウナギ屋、八百屋、床屋、喫茶店。 シャッターが閉じられているわけでもないのに、どれも沈黙している。 入り口のドアが開いたまま、机の上に箸が用意されたまま。 成される術もなく、どれも停滞している。
>横断歩道を渡る。
すべてが白に塗り潰された、横断歩道。
最早、何もないのと同じ。
φ?
「このまま進んでいいのか?」フィルが胸の中で言った。
月夜は答えない。 真っ直ぐ前を向いたまま歩き続ける。
髪の上に雪が降りかかり、襟の上に降りかかり、睫の上にさえ降りかかる。
白。
「いいのか?」
と、もう一度、フィルの声。
月夜は静かに頷く。 その拍子に、どこかに降り積もっていた雪が落ちて、口に入った。
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「何度見ても同じことだ」フィルが言った。 「時間は戻らない」
「分かっている」月夜は応じる。 「終わらせるために行く」
「後悔しないか?」
「もう、済ました」
「そうか」
歩道と車道の区別がつかない道の上を、月夜は歩いていく。
電信柱から雪が零れ、衝撃で再び宙に舞い上がり、煙が。
風が吹いて、視界が閉ざされる。
風は、背後から吹いている。 首もとを冷たく撫で、背後の道に雪を積もらせるとともに、行く先に積もる雪を退かしてくれた。
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