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第5部 空が言える空
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その人は、銀色の柵に両手をかけて、体重を前方に移した。握った掌に力を入れ、前回りするように腹部と柵の上面を接触させる。それで、足が地面から離れ、腹部と柵の接触面をバランスの中心として、身体全体が宙に浮かぶ格好になった。そのままバランスの中心をずらし、上半身と下半身の柵の接触面からの距離の比を三対二ほどにする。そうすると、もう柵を越えるのは容易に思われた。自分で自分の下半身を釣り上げるように、彼女は柵の上へ移動する。
柵の上面は大した幅もないというのに、その人は両腕を伸ばしてバランスを取り、器用にその上に立った。少しでも均衡が崩れれば、今にも柵の向こう側へ転落してしまうように思える。彼女は目を瞑ったまま、一歩、一歩と、足を丁寧に踏み換えて、前方から左方向へ身体の向きを変えた。そのまま、左方向を正面として、そちらに向かって進み始める。風が吹いて、小さな身体を揺らした。踏み外しそうになった足をあえて柵の上面に接触させないことで、意図しない落下を防いでいる。
一本足の天使。
吹き抜ける風の音。
轟。
首だけをこちらに向けて、その人は僕の方を向く。それから、ゆっくりと瞼を持ち上げて目を開いた。もう、その目は乾いている。水分が補填された瑞々しい目が、そこに映る像を網膜に焼き付けるように、こちらを見ていた。
じっと見つめられて、僕はその場から動けなくなる。手脚に込めていた力が固定された。それ以上のエネルギーの増減が許されない。その反作用か、呼吸はやけに荒くなる。風邪を引いたときみたいに、少し息を吸い込むだけで胸が痛んだ。その痛みは、しかし、物理的なものではないかもしれない。言うなれば、自作自演? そんなふうに痛みを捏造しないことには、事態の異常さに気づくことができないのかもしれなかった。
その人は、また、顔を正面に戻して、一歩、一歩、と進んでいく。それに伴って、僕との距離は着実に離れていった。僕は、イルカショーを観ているみたいに、そこに突っ立っているだけで、やはり動くことができない。許されているのは、拍動と、呼吸と、瞬きだけ。それ以外のすべてが彼女に完全に掌握されている。
やはり、彼女は、世界そのものだったかもしれない。僕も、その一部だった。それが実感として分かった。空も、風も、何もかも、彼女を引き立てるための小道具と化している。化しているというよりも、それは始めから小道具だった。もちろん、僕も。
教室の中で、彼女はずっと一人だった。机の上に肘を突き、掌に顎を載せて、窓の外を眺めていた。三角関数も、マトリクスも、状態方程式も、彼女の興味を惹かなかった。それなのに、教師に指名されれば、彼女は何でもかんでもすらすらと答える。その、指名されることも、それに答えることも、すべて予定されたことだった。導関数も、ランゲルハンス島も、比熱比も、彼女によって求められた。そうなることが分かっていた。
彼女は、自分が死ぬことを知っていたはずだ。
今日、この時、この場所に存在する粒子の数、はたらく重力の大きさ、その他諸々、何もかも、全部分かっていたはずだ。
僕がここに来ることも、分かっていたはずだった。
では、僕は何だろう?
僕も彼女の、いや世界の一部だというのに、それでも、こんなふうに、考え、感じている、この僕は何だというのだろう?
彼女が消えてしまうことに焦りを覚えている、この僕は何だろう?
これさえも、世界の一部だというのだろうか?
それでは、どうして、僕はこんなにも悲しいのか?
屋上の終着、柵の最端に辿り着き、その人は進むのをやめた。正確には、それ以上進めない。もう、進む先などない。けれど、彼女はその先を知っている。
開いていた腕を閉じて、彼女は直立になった。紺色のブレザーとスカートが夜の闇に溶け、彼女がまだそこに存在しているのか否かをあやふやにする。
突如として、彼女の前方に巨大な月が出現した。彼女がその位置に来るのを待っていたかのように、下から滑るように姿を現した。
月明かりに照らされて、その人の輪郭がはっきりと僕の目に映る。けれど、光が強すぎて、セルのようにその輪郭はすぐに溶けてしまう。
固定されていた脚が動くようになった。
上がっていた血圧を利用して、僕は瞬間的に足を前に踏み出す。
夜の中、光が少ない状況下で、物凄い速度で背景が視界を通り過ぎていった。
自分で動かしていると思えないくらい、足は次へ次へと座標を変える。
腕を伸ばした。
彼女の背中に確かに触れた。
でも、それは、指先が、衣服の、表面の、解れかかった糸の、先端に触れただけ。
空を切って、手は何もないものを掴む。
接触しているはずの彼女の靴が、柵の表面から、
離れた。
空気抵抗を受けて、ブレザーが翼のように広がった。
上へ引っ張られる髪。
見える首筋。
僕は、その髪を引っ張ろうとして、腕を伸ばして、
そして、
ah、
空が見
柵の上面は大した幅もないというのに、その人は両腕を伸ばしてバランスを取り、器用にその上に立った。少しでも均衡が崩れれば、今にも柵の向こう側へ転落してしまうように思える。彼女は目を瞑ったまま、一歩、一歩と、足を丁寧に踏み換えて、前方から左方向へ身体の向きを変えた。そのまま、左方向を正面として、そちらに向かって進み始める。風が吹いて、小さな身体を揺らした。踏み外しそうになった足をあえて柵の上面に接触させないことで、意図しない落下を防いでいる。
一本足の天使。
吹き抜ける風の音。
轟。
首だけをこちらに向けて、その人は僕の方を向く。それから、ゆっくりと瞼を持ち上げて目を開いた。もう、その目は乾いている。水分が補填された瑞々しい目が、そこに映る像を網膜に焼き付けるように、こちらを見ていた。
じっと見つめられて、僕はその場から動けなくなる。手脚に込めていた力が固定された。それ以上のエネルギーの増減が許されない。その反作用か、呼吸はやけに荒くなる。風邪を引いたときみたいに、少し息を吸い込むだけで胸が痛んだ。その痛みは、しかし、物理的なものではないかもしれない。言うなれば、自作自演? そんなふうに痛みを捏造しないことには、事態の異常さに気づくことができないのかもしれなかった。
その人は、また、顔を正面に戻して、一歩、一歩、と進んでいく。それに伴って、僕との距離は着実に離れていった。僕は、イルカショーを観ているみたいに、そこに突っ立っているだけで、やはり動くことができない。許されているのは、拍動と、呼吸と、瞬きだけ。それ以外のすべてが彼女に完全に掌握されている。
やはり、彼女は、世界そのものだったかもしれない。僕も、その一部だった。それが実感として分かった。空も、風も、何もかも、彼女を引き立てるための小道具と化している。化しているというよりも、それは始めから小道具だった。もちろん、僕も。
教室の中で、彼女はずっと一人だった。机の上に肘を突き、掌に顎を載せて、窓の外を眺めていた。三角関数も、マトリクスも、状態方程式も、彼女の興味を惹かなかった。それなのに、教師に指名されれば、彼女は何でもかんでもすらすらと答える。その、指名されることも、それに答えることも、すべて予定されたことだった。導関数も、ランゲルハンス島も、比熱比も、彼女によって求められた。そうなることが分かっていた。
彼女は、自分が死ぬことを知っていたはずだ。
今日、この時、この場所に存在する粒子の数、はたらく重力の大きさ、その他諸々、何もかも、全部分かっていたはずだ。
僕がここに来ることも、分かっていたはずだった。
では、僕は何だろう?
僕も彼女の、いや世界の一部だというのに、それでも、こんなふうに、考え、感じている、この僕は何だというのだろう?
彼女が消えてしまうことに焦りを覚えている、この僕は何だろう?
これさえも、世界の一部だというのだろうか?
それでは、どうして、僕はこんなにも悲しいのか?
屋上の終着、柵の最端に辿り着き、その人は進むのをやめた。正確には、それ以上進めない。もう、進む先などない。けれど、彼女はその先を知っている。
開いていた腕を閉じて、彼女は直立になった。紺色のブレザーとスカートが夜の闇に溶け、彼女がまだそこに存在しているのか否かをあやふやにする。
突如として、彼女の前方に巨大な月が出現した。彼女がその位置に来るのを待っていたかのように、下から滑るように姿を現した。
月明かりに照らされて、その人の輪郭がはっきりと僕の目に映る。けれど、光が強すぎて、セルのようにその輪郭はすぐに溶けてしまう。
固定されていた脚が動くようになった。
上がっていた血圧を利用して、僕は瞬間的に足を前に踏み出す。
夜の中、光が少ない状況下で、物凄い速度で背景が視界を通り過ぎていった。
自分で動かしていると思えないくらい、足は次へ次へと座標を変える。
腕を伸ばした。
彼女の背中に確かに触れた。
でも、それは、指先が、衣服の、表面の、解れかかった糸の、先端に触れただけ。
空を切って、手は何もないものを掴む。
接触しているはずの彼女の靴が、柵の表面から、
離れた。
空気抵抗を受けて、ブレザーが翼のように広がった。
上へ引っ張られる髪。
見える首筋。
僕は、その髪を引っ張ろうとして、腕を伸ばして、
そして、
ah、
空が見
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