再終章

羽上帆樽

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第3部 空が逃げる時

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「どうして、生きているんだと思う?」とその人が言った。彼女はもう咥え煙草はやめていた。その代わりに、購買で買ってきたオレンジジュースを飲んでいる。

「どうして、というのは、どういう意味?」僕は尋ね返した。

「別に」彼女は前を向いたまま話す。「どんな回答も、想定していないけど」

「理由なんてないと思う」僕は答えた。「自分の意志で生まれてきたわけじゃない。気づいたら、生まれてしまっていた。だから理由はない」

 僕がそう答えると、その人はペットボトルを咥えたまま、こちらを見た。もう空は大分陰っていて、でも、その陰るというのは、時間の経過で太陽の高度が下がってきたことによるものではなく、もっと本質的に陰湿で、言うなれば、そう、彼女がその気候を誘き寄せたように僕には思えた。つまり、その気候さえ彼女の一部だということだ。

「私も、そう思う」ペットボトルを口から離して、その人は言った。「そっか」

「何が、そっか?」

「君も、私と同じなんだな、と」

「何が?」

「色々」

 そう言って、彼女はまた正面を向く。ここにカメラマンがいて、僕たちのやり取りの一部始終を撮影していたら、その映像には特筆すべき変化はないだろう。サインカーブとでも言った感じか。ある一定の傾向が、一定の周期で訪れるようなもの。彼女の顔が、前を向いたり僕の方を向いたり、を繰り返す映像。愉快といえば愉快ではないか。

「君は、秀才、あるいは、天才だから、僕とは違うと思うよ」と、僕は言ってみた。

 彼女はまたこちらを向くと、僕を少々睨みつける。でも、それは自然と滲み出た表情ではなくて、明らかにわざと作られた表情だった。

「そういうこと言う人、嫌い」

「あそう」僕は頷く。「僕も、いい表現ではないと思うけど」

「でも、たぶん、私って、天才だから」彼女は言った。「何でも、すぐに分かってしまうんだ」

「大変だね」

「何が?」

「色々」

 空に色はもうない。たとえ虹がかかっても、それはモノクロで、大枠としては二色しかないと見なされるに違いない。雲は分厚くて、けれど密度は小さそうだった。中身が空洞なのかもしれない。雷でも降ってきそうだった。飛び降りて死ぬよりは、雷に打たれて死んだ方が、鮮やかというか、エクセレントだろうか。

「天才って、天賦の才能という意味で、つまりは、持って生まれてしまった才能のことだと思う」その人が話す。僕には歌声に聞こえた。つまり、そこには学術的論理的化学的経済的具体的意味はない可能性が高い。「私、何でも分かっちゃうんだ。教科書を開いた瞬間に、書かれていることがすべて分かってしまう。だから、もう開かない。学校に来ないのも同じ」

「そんな話は、聞いたことがあるよ」僕は言った。「どこから出てきた噂かは、分からないけど」

「だから、死のうと思って」

「それで、どうして死が出てくるの?」

 僕の質問に、その人はすぐには答えない。頭を大きく上に向けて、一升瓶で酒を飲むようにオレンジジュースを喉に流し込んだ。お腹の中が大変なことになってしまうのではないかと、少し心配になる。

「ペットボトルの蓋を開けた瞬間に、オレンジジュースの味が分かるんじゃないの?」僕は尋ねる。

「そうだよ」彼女は答えた。「でも、これは、飲まないと駄目だから」

「意味が分からない」

「死ぬための準備なの」彼女は言った。「ここから飛び降りたときに、周囲に飛び散る水分の量が多い方が、芸術的かなと思って」

「芸術のために死ぬの?」

「違うよ」

「じゃあ、どうして死ぬの?」

「さっき言わなかったっけ?」

「死ぬことだけは、まだ試していないから、ということ?」

「そんな感じ」その人は頷く。「分かっているじゃないか」

 僕は溜め息を吐いた。この人と話していると、妙に疲れてくる、と感じていた。なるほど、だから彼女の周囲には誰もいないのだな、とも考えた。

 たぶん、彼女は、こちらが考えていることを、こちらがそれを口にする前に分かっている。それでも、まだ分かっていないという体を装って会話をしてくれているのだ。普通に考えれば、それは優しさの類だろう。けれど、僕にはその、体、が妙に引っかかった。彼女が自分と僕が同じだと言ったのは、こういう意味かもしれない。要するに、僕には彼女の、体、を分かることができるのだ。

 不意に、圧力。

 考え事をしていたから、気づかなかった。

 それとも、本当に彼女が世界そのものだからか。

 すべてが彼女の思い通りになるからか。

 左側から抱き締められる。

「君も、一緒に飛ぶ?」

 すぐ傍に、彼女の笑った顔があった。
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