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第5話 Φ
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真っ暗な空間だった。チープな表現だが、上も下も右も左も真っ暗だ。つまり、宇宙に浮いているのと同じ状況といえる。宇宙に浮いているという光景を想像する場合、普通、何も見えないという状態ではない。今もそうだった。真っ暗なのに方向が分かる。
目の前に白い巨大な立方体があるのが見えていた。正面に巨大なディスプレイがある。
そこに文字列が流れていた。
>体温:正常 酸素量:正常 心拍数:正常
>多少の疲労が見られるものの、全体的に問題なし。何らかの期待、あるいは希望があるものと推測される。それらがどのような種類であるかは不明。
僕は立方体の正面に立って、ディスプレイを流れる文字列を眺めていた。ディスプレイは一昔前の液晶画面のようで、近くで見ていると目が痛くなる。一つ一つの文字が、さらに小さな長方形で形成されているのが分かる。ディスプレイの表面に触れると掌がひりひりと痛んだ。電気を感じると表現しても差し支えないが、僕の身体にももともと電気は流れている。
ディスプレイが丸ごと上に持ち上がった。びっくりして、僕は一歩後ろに後退した。一歩後ろに前進することは可能だろうかと、状況に関係のないことを考える。
それまでディスプレイがあった場所に、立方体への入り口が現れた。表面が四角く切り取られている。どうやら中へ入ることができるみたいだ。
きっと、僕を中に入れるために開いたのだと考えた。今度は僕は一歩前に前進した。背中を入り口に向ければ、一歩後ろに前進することができたかもしれない。
室内はとても明るかった。
広大な空間が四方八方に広がっている。
明るいのに、どこに照明があるのか分からない。
壁も、床も、天井も、小さな正方形のパネルがいくつも組み合わさることで形成されているのが分かった。
暫く部屋の全体を見渡す。
やがて、僕の視線は自然と正面に向かった。
フロアの中心にソファが置かれている。
その上に少女が一人座っていた。
正確には、彼女は座っているのではなかった。ソファの背に首を斜めに凭れかからせて、身を預けるように身体を据えていた。
僕はフロアの上を歩く。床の上は思っていた以上に硬質で、けれどどこか奇妙な反動があった。クッキーの表面に塗られた砂糖のような床だ。
ソファに座る少女の前にしゃがんで、僕は少女の顔を見た。彼女は目を閉じている。微妙に伸びかけた短めの髪が、それでも目もとにかかっていた。少しだけ開いた口。呼吸をしているのが、機械で計測するまでもなく分かる。
「マイ」
僕は彼女の名前を口にした。それこそ彼女の名前だと確信を持てた理由は分からない。でも、大抵の場合、確信に理由などない。理由が考えられるようであれば、それは確信とは呼べないからだ。
僕が発した声に反応して、眠っていた少女が静かに目を開ける。
奇跡と呼んで差し支えなかった。
綺麗に澄み切った瞳が、部屋の白い光を反射してさらに煌めく。
「気分はどう?」
僕が尋ねると、マイは目を擦りながらゆっくりと身体を起こした。小さな欠伸を零し、両腕を上げて伸びをする。
「少し、よくなった」マイが答える。
「君が作ったあのマシーンは、四年間きちんと動いてくれたよ」僕は言った。「うん……。本当に、君と遜色ない働きをしてくれた」
「じゃあ、満足?」そう言って、マイは笑みを浮かべて首を傾げる。
「いや……」僕は首を振った。「やはり、本物でないと駄目だ。理由はよく分からないけど、僕はそういうふうにできているんだ」
「私は、ここで眠っていて気持ちがよかったよ。もう少し眠っていてもいいと思うけど、どう?」
「僕が保たない」
「マシーンはどこにあるの?」
「壊れてしまった。投げ飛ばしてしまったせいだ」
「投げ飛ばしたって、どうして?」
「不可抗力」
「嘘」
「いや、嘘じゃない」
マイはソファから立ち上がり、もう一度大きく伸びをした。その際に、身につけていた衣服の襟が少し捲れて、首もとに差し込まれた細いバイパスが見えた。その先はたぶん腰まで繋がっている。腰には小さなショルダーバッグが付けられているが、それは医療装置を隠すための偽装だった。
「死んでしまっても、よかった」マイは僕を見て言った。「これで、あと四年生きられるようになったけど、でも、それって、意味のあることなのかな」
「少なくとも、僕にとっては意味がある」
「君の研究は成功したの?」
問われて僕は首を振る。
「分からない」
言語について研究しても、結局人々は救えなかった。それでも戦争は起こり、富は集中し、事件は起こり、人は必ず死ぬ。
「結果が今ひとつでも、とりあえずその努力を褒めてあげようか」
「それはどうも」
「さて、時間を無駄にすることはできないね」マイは言った。「残りの四年間をどう過ごす?」
「とりあえず、外に行こう。動かなければ始まらない」
「ケンケンパくらいがちょうどいいかな」
「まずはコーヒーを飲もう」僕は尋ねる。「砂糖が欲しい?」
「欲しいね」マイは答えた。「甘いのがいいから」
目の前に白い巨大な立方体があるのが見えていた。正面に巨大なディスプレイがある。
そこに文字列が流れていた。
>体温:正常 酸素量:正常 心拍数:正常
>多少の疲労が見られるものの、全体的に問題なし。何らかの期待、あるいは希望があるものと推測される。それらがどのような種類であるかは不明。
僕は立方体の正面に立って、ディスプレイを流れる文字列を眺めていた。ディスプレイは一昔前の液晶画面のようで、近くで見ていると目が痛くなる。一つ一つの文字が、さらに小さな長方形で形成されているのが分かる。ディスプレイの表面に触れると掌がひりひりと痛んだ。電気を感じると表現しても差し支えないが、僕の身体にももともと電気は流れている。
ディスプレイが丸ごと上に持ち上がった。びっくりして、僕は一歩後ろに後退した。一歩後ろに前進することは可能だろうかと、状況に関係のないことを考える。
それまでディスプレイがあった場所に、立方体への入り口が現れた。表面が四角く切り取られている。どうやら中へ入ることができるみたいだ。
きっと、僕を中に入れるために開いたのだと考えた。今度は僕は一歩前に前進した。背中を入り口に向ければ、一歩後ろに前進することができたかもしれない。
室内はとても明るかった。
広大な空間が四方八方に広がっている。
明るいのに、どこに照明があるのか分からない。
壁も、床も、天井も、小さな正方形のパネルがいくつも組み合わさることで形成されているのが分かった。
暫く部屋の全体を見渡す。
やがて、僕の視線は自然と正面に向かった。
フロアの中心にソファが置かれている。
その上に少女が一人座っていた。
正確には、彼女は座っているのではなかった。ソファの背に首を斜めに凭れかからせて、身を預けるように身体を据えていた。
僕はフロアの上を歩く。床の上は思っていた以上に硬質で、けれどどこか奇妙な反動があった。クッキーの表面に塗られた砂糖のような床だ。
ソファに座る少女の前にしゃがんで、僕は少女の顔を見た。彼女は目を閉じている。微妙に伸びかけた短めの髪が、それでも目もとにかかっていた。少しだけ開いた口。呼吸をしているのが、機械で計測するまでもなく分かる。
「マイ」
僕は彼女の名前を口にした。それこそ彼女の名前だと確信を持てた理由は分からない。でも、大抵の場合、確信に理由などない。理由が考えられるようであれば、それは確信とは呼べないからだ。
僕が発した声に反応して、眠っていた少女が静かに目を開ける。
奇跡と呼んで差し支えなかった。
綺麗に澄み切った瞳が、部屋の白い光を反射してさらに煌めく。
「気分はどう?」
僕が尋ねると、マイは目を擦りながらゆっくりと身体を起こした。小さな欠伸を零し、両腕を上げて伸びをする。
「少し、よくなった」マイが答える。
「君が作ったあのマシーンは、四年間きちんと動いてくれたよ」僕は言った。「うん……。本当に、君と遜色ない働きをしてくれた」
「じゃあ、満足?」そう言って、マイは笑みを浮かべて首を傾げる。
「いや……」僕は首を振った。「やはり、本物でないと駄目だ。理由はよく分からないけど、僕はそういうふうにできているんだ」
「私は、ここで眠っていて気持ちがよかったよ。もう少し眠っていてもいいと思うけど、どう?」
「僕が保たない」
「マシーンはどこにあるの?」
「壊れてしまった。投げ飛ばしてしまったせいだ」
「投げ飛ばしたって、どうして?」
「不可抗力」
「嘘」
「いや、嘘じゃない」
マイはソファから立ち上がり、もう一度大きく伸びをした。その際に、身につけていた衣服の襟が少し捲れて、首もとに差し込まれた細いバイパスが見えた。その先はたぶん腰まで繋がっている。腰には小さなショルダーバッグが付けられているが、それは医療装置を隠すための偽装だった。
「死んでしまっても、よかった」マイは僕を見て言った。「これで、あと四年生きられるようになったけど、でも、それって、意味のあることなのかな」
「少なくとも、僕にとっては意味がある」
「君の研究は成功したの?」
問われて僕は首を振る。
「分からない」
言語について研究しても、結局人々は救えなかった。それでも戦争は起こり、富は集中し、事件は起こり、人は必ず死ぬ。
「結果が今ひとつでも、とりあえずその努力を褒めてあげようか」
「それはどうも」
「さて、時間を無駄にすることはできないね」マイは言った。「残りの四年間をどう過ごす?」
「とりあえず、外に行こう。動かなければ始まらない」
「ケンケンパくらいがちょうどいいかな」
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