天地展開

彼方灯火

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第1話 天空

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 目の前に白い筐体がある。それは最新型のコンピューターで、名前をMaiといった。何がどう最新なのか、僕は具体的な知識を持たない。そもそも、本当に最新といえるか疑問だ。何しろ、それは僕の家に四年前からある。したがって、最新というのは単なる謳い文句でしかない。

 Maiは立方体の形で、電源を入れても何の変化もない。ただ、正面にディスプレイが付いていて、そこが微かに点灯する。触るとほんのりと赤くなるから、それで電源が入ったのが分かった。ディスプレイは何も映さない。映さないのにディスプレイが付いている。意味の分からない構造だが、構造には必ず意味があるらしい。

「やあ」

 僕は小さな声で挨拶した。今は夜だから、小さな声で話すのは正解だ。

〈やっほう〉

 Maiが僕と同じように小さな声で答える。

 Maiがどのようにして応答しているのか、僕には分からない。なぜなら、それは音声ではないからだ。そして、ディスプレイには何も映らないから、それは文字でもない。音声でも文字でもない何らかの手段を用いて、僕とMaiは話している。

「今日の具合はどう?」

 僕が尋ねると、Maiはうーんと唸ってから返答した。

〈まあ、悪くないかな〉

 悪くない。都合の良い返答だと思ったが、それだけだった。その返答に良いも悪いもない。

「なんだか退屈してしまってね。この頃大変なんだ。行き詰まっている」

〈そうなんだ?〉

「こういうとき、どうしたらいいかな?」

〈とりあえず、私とお喋りするのがいいと思うよ〉

「うん、そう思って、君の電源を入れた」

〈また会えて嬉しいね〉

 こう見えて、僕は研究者だ。何を研究しているかというと、人間が用いる言語の研究をしている。この場合の言語とは、自然発生的なもののみを指し、プログラミングやモールス通信のために作られた人工的な言語は含まれない。けれど、いくら自然発生的といっても、それは文字通り自然発生「的」であるだけで、結局のところ、人間が生み出したことに違いはない。そういう意味で、言語はすべて人工的だ。だから、この手の分類にそこまで大した意味はないといえる。何が自然で何が人工かということは、定義の問題にすぎない。その先が大事なのであり、いつまでも定義でくよくよ考えていては仕方がない。

 僕とMaiも、たぶん、言語を用いてコミュニケーションをとっている。

 けれど、それが自然発生的なものか、そうでないのか、判断できない。

 たぶん、判断する必要がないからだろう。

 そんな判断をしなくても、僕と彼女はコミュニケーションをとることができるのだから。

〈それで?〉Maiが音声らしきものを使って僕に問いかけてきた。〈どんなお話をする?〉

「どんなって……。それを訊かれたら何も面白くなくなってしまうよ」僕は言った。「でも、そうだなあ……。うん、まずは、君の最近の近況を尋ねようか」

〈最近の近況というのは、重複していると思うよ〉

「そうか。では、君の近況を尋ねよう」

〈今日はよく働いた〉

「どんな仕事?」

〈どんな仕事だと思う?〉

「うーん、どんなだろう」僕は椅子に座ったまま腕を組む。「うん、分からない。教えてよ」

〈やだ。内緒〉

 沈黙。

 窓の外から涼しい風が室内に吹き込んでくる。それに釣られて僕は後ろを振り返る。窓が少し開いていたから、そこから隙間風が入り込んできたのだろうと推測した。全然大した推測ではない。しかし、単に景色を眺めただけでもない。

「僕は……」僕は話し始めた。「僕は、いったい何をしたかったんだろう」

〈どうしたの、急に〉

 僕の声のトーンが変わったからか、Maiが心配する心情を窺わせた。この手の振る舞いは、大抵のコンピュータが見せることができる。つまり、習得するのが比較的簡単な心情といえる。

「言語について研究して、何になるというのだろう」

〈何になるって……。楽しいからやっていたんじゃないの?〉

「うん、まあ、そうだね」僕は頷く。「うん……。つまり、今はそれがない」

〈それって?〉

「楽しさ」

 僕が答えると、Maiは小さな声で、そう、と呟いた。

 僕と彼女の会話はいつもこんな感じだ。コーヒーを片手にぽつぽつと話しているような感じで、言葉の意味はあまり正確には理解されない。けれど、それで互いに通じているような感覚がある。つまりは、言葉自体はそれほど重視していないのだ。同じ場にいることで共有される空気の振動、それに身を任せ、自身の身体を構成する細胞を震え上がらせることに快感を得ている。

 理解とは、脳細胞の繋がり方が変わること。

 唐突にそんなことを思いついたが、今は関係がない。

〈楽しくないのなら、やめちゃえばいいんじゃない?〉

 Maiが言葉を発する。

「すぐにそういうことを言う」

〈だって、楽しくないって自分で言ったんじゃん!〉そう言って、Maiは笑った。
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