篝火導師

羽上帆樽

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第10章 代々

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 午後七時。月夜はリビングのテーブルに着いて、フィルの背中を撫でていた。テーブルの上には勉強道具が置いてある。照明は部屋の半分だけ点いていて、暖房器具の電源は入っていなかった。月夜は、暖房の類が嫌いだ。忌み嫌っているわけではないが、あまり、使わない方が良い、と考えている。それは、人工的に暖められた空気に晒されると、彼女は頭痛を引き起こすからだ。冬になると、電車も暖房が点いているが、本当に、多くの人間が、人工的な暖かさを望んでいるのか、と月夜は疑問に思う。統計的にデータを集めてそうした結果が得られたのか、彼女はそれが知りたかった。

「勉強は終わりか?」

 黄色い瞳を上に向けて、フィルが言った。

「うん、終わり」

「今日は一日中勉強していたな。お疲れ様」

「疲れてはいない」

「あそう。じゃあ、今の言葉は言わなかったことにしよう」

「フィルは、今日は行く?」

「ああ、もちろん。女の子を、夜に一人で出歩かせるわけにはいかないからな」

「ありがとう」

「素直に感謝されても困る」

「何が?」

「いや、例によって、前言撤回だ」

 今日の夜、月夜は紗矢と会う予定だった。紗矢は、今日を最後に、この世界から消える。この世界とは、いったいどの世界のことだろう、と思うことが月夜にはよくある。彼女は「世界」という言葉が好きではない。よく、創作物の重要なシーンで、「この世界を守りたいんだ」みたいなことを主人公が言うが、そんな演出を望んでいる人はいないのではないか、とさえ思う。なんというのか、如何にもわざとらしい。けれど、そんなわざとらしさが良いのかもしれない。現実の世界では、そんな台詞を言う人間がいたら、きっと頭がおかしいと思われるだろう。しかし、それが問題だ。なぜなら、世界をこの地球のことと定義した場合、現在の世界は全然まともなものではないからだ。要するに、実際には世界を守る誰かがいなくてはならない。そういう台詞を聞くと、嫌悪感を示す、というのは、言ってみれば現実の世界に対して諦めを抱いているということだ。そう……。皆、すでに色々なものを諦めている。ポジティブな人間はどこにもいない。

 それでも、月夜は、自分が世界を守るようなことはないだろう、と思う。その役割を担うのは、きっと自分ではない。なぜだか分からないがそう感じる。もしかすると、それは一種の逃避かもしれない。それならそれで良かった。そんなふうに逃避するのが、自分という人間なのだ、という言葉を吐いて逃避できるからだ。

「なあ、月夜」

「うん?」

「お前は、自分の将来を捨てるようなことを言ったが、もし、それが、本当に返ってこなかったとしても、あいつのためにそんなことができたか?」

 あいつ、というのは、紗矢の左腕が化けた物の怪のことだろう。

 月夜は暫く考える。

「なんとも言えないけど、できた可能性は七割、できなかった可能性は三割くらいだと思う」

「ほう、それは大したことだな」

「大したことって、何がどう大したの?」

「普通、人に限らず、あらゆる生き物は、そんな選択はできない」

「それは、どんなデータに基づいて言っているの?」

「一般論だよ。抽象化された結論だ。信憑性は低いが、それでも納得はできるだろう?」

「うん」

「お前は変わっているんだ」フィルは呟いた。「それでも、俺はそんな変な月夜が好きだだが」

 自分は、いったいどこが変わっているのだろう、と月夜は考える。

 本当の紗矢を救うために、月夜は、紗矢の左腕が化けた物の怪に、自分の将来を与えた。将来というのは、言ってしまえば、彼女がいつか産み出すであろう生命のことだ。今の自分が消えるわけにはいかないから、代わりに自分の将来を与えた。簡単なことだ。しかし、そのアイデアを得るにはかなり時間がかかった。フィルは彼女よりも早い段階で気づいていたみたいだが、彼は、月夜には、それを教えてくれなかった。

 きっと、それはフィルの優しさなのだろう、と月夜は思う。彼の言う通り、普通の生き物には、そんな選択はできないのかもしれない。けれど、月夜は自分が普通ではないことを多少は自覚していた。変わっている、という言葉で表現されることもあるが、明確に「変わっている」のではなく、あくまで「普通ではない」といった方が近い。論理的には、前者よりも後者の方が断定のレベルが低い。月夜は、自分のずれに対して、そのくらいのレベルだと考えている。

 彼女が自分の将来を与えたことで、紗矢の左手が化けた物の怪は、この世界から消えてしまった。そこにはもちろん理由がある。

 けれど……。

 もう、そんなことはどうでも良い、と月夜は思う。

 すべて終わったことだ。

 自分は何も失っていない。

 しかし、その物の怪には少し悪いことをしたかもしれない、とも感じる。

 自分勝手なことをしてしまった。

 すべては、紗矢とフィルと自分を救うためだ。

 つまり、エゴ。

 結局は、自分は、そんなものを原動力に動くことしかできなかった。

 でも、その結果として、紗矢とフィルと自分はきちんと救えた。

 では、それで良いではないか。

「何時に出るんだ?」フィルが尋ねる。

 月夜は彼をテーブルの上に置き、立ち上がって軽く伸びをした。

「うーん、九時くらいかな」

「月夜、最近柔和になったな」

「何が?」

「態度が」

「態度?」

「ああ」フィルは頷く。「出会ったときは、もう少し鋭利な感じだった」

「そうかな……」月夜は言った。「自分では分からないけど……」

「それは、分かろうとしないから、ではないか?」

「分かろうとはしている」

「じゃあ、本当は分かりたくないんだろうな」

「うん、そうかもしれない」

 キッチンに入り、冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを手に取る。コップに液体を注いで、月夜はそれを飲んだ。久し振りの水分補給だった。

 キッチンの奥にある小窓の隙間から、年越しの喧騒が聞こえてきた。周囲にある住宅から、テレビを観ながら蜜柑を食べたり、蕎麦の準備をしたり、といった気配が伝わってくる(正確には気配とは呼べない。月夜の勝手な想像だ)。今まで、自分は、そういったいわゆる行事というものをやってこなかったな、と彼女はなんとなく考える。けれど、特にやりたいとは思わなかった。だが、まったくやりたくないわけでもない。自然にやる流れになればやるし、無理矢理やる流れを生み出そうとは思わない、というだけだ。すべては神のお示しのままに、とでもいった感じか。

 リビングに戻ってフィルを抱きかかえ、硝子戸を開けてウッドデッキに出た。

 鐘の音はまだ聞こえない。

 大晦日は、まだ始まったばかりだ。

 今年もあと少し。

 しかしながら、それは人間が決めた区切りだから、本来は何も特別なものではない。それを証明するように、地球は常に同じ向きに回転していて、ある地点は必ず同じ地点に戻ってくる。永遠にそれを繰り返している。今年というラインを越えて、来年という新しいエリアに移動するわけではない。

 けれども……。

 そういうふうに人間が定めたものは、人間にしか楽しめない。人間にしか理解できないのだから当然だ。

 だから、自分は、自らそれを楽しむ権利を放棄している。

 どうして、そんなことをするのか?

 一般への細やかな抵抗のつもりか?

 いや……。

 ……もう、どうしてなのか分からなかった。

 このままでも良い。

 フィルとずっと一緒なら……。

「三角形の面積を求めるとき、どうしてサインを使うか知っているか?」

 フィルが唐突に言った。

「ううん、そういえば、知らなかった。どうして?」

「三文字だからさ」

 沈黙。

「そうなんだ」

「ああ、そうなんだよ」フィルは話す。「理由なんてそんなものさ。何か面白い理由があるのかもしれない、と期待させておきながら、結局何も理由なんてないことの方が多い。そういう期待を抱いていられる瞬間が、きっと、最も幸せなんだろうな。謎は解明するためにあるんじゃないんだ」

「でも、解明しようとしなければ、楽しむことはできないんじゃないの?」

「お前は、その程度の思考力しか持っていないのか?」

 月夜は首を傾げる。

「どういう意味?」

「謎を沢山抱えるんだ。つまり、謎の収集家になる。とても素敵だと思わないか? この世の中に存在する、ありとあらゆる謎を求めては、それを解明することをせず、一つ一つ丁寧にキャビネットに仕舞っていくんだ。そんなお前を見たやつは、いったいどうしてそんなことをするんだ、と思うだろうね。ほら、また、ここにも、理由という謎に対する好奇心が潜んでいるだろう? だから、そこに存在する謎も、お前のキャビネットの一段に加える。わくわくしないか? 子どものとき、そんなふうに感じたことがあるだろう?」

 月夜は、空を見ながら考える。

 たしかに、そうかもしれない。

 そんな感覚を抱いたことがあった。

 まだ、幼い頃だった。

 けれど、月夜は、そのときにはすでに気づいていた。

 物事に理由など存在しないと……。

「フィルは、自分が死ぬことを通して、そういう謎を作りたかったんだね」月夜は言った。「どうして死んだんだろう、という謎を……」

 フィルは応えない。

「紗矢は、その謎を欲しがっていた?」

 フィルは月夜を見る。

「どうだろうな」彼は言った。「……最後には、あいつまで謎の一つになってしまった」

「うん……。でも、フィルはそれでよかったんでしょう?」

「よかったとは思わない」フィルは話す。「でも、悪くはなかったかもしれない、と思うことはある」

「死んではいけないわけではないから?」

「そうだ」

「生きなくてはいけない、とは思わなかった?」

「そんなことを思ったことはないよ」

「うん……」

「月夜は、どうだ?」

「まだ、死ななくていい」

「何かやりたいことがあるのか?」

「うーん、どうだろう……」

「あるんだな」

「そうかもしれない」

「どんなことだ?」

「謎を、解明すること」

 フィルは笑った。

 街灯のない暗闇の中で、窓から漏れる光だけが宙に浮かんでいる。

 まるで城塞のようだ。

 綺麗だった。

 九時になるまでそこに座り続け、月夜はフィルと一緒に家を出た。紗矢が住む山へと向かう。坂道を下って草原に入り、石造りの階段を上って山に続く道を進む。懐中電灯で足もとを照らして歩いた。

 暫く歩き続けると、間もなく前方に明かりが見えた。

 なんだろう、と月夜は思う。

 その先には、いつも紗矢がいる神社がある。

 視界が開放的になって、神社があるエリアに到着した。

 石段の両端で炎が揺らめいている。長い支柱の上に皿のようなものが載せられていて、その中で大きな篝火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。周囲がぼんやりと照らし出されている。紗矢は、いつも通り、石段の中央に腰をかけて目を閉じていた。

 二人の気配を察知して、紗矢がゆっくりと顔を上げる。篝火に照らされて、彼女の表情はいつもより大人びて見えた。

「あけましておめでとう」立ち上がって、紗矢が言った。

「まだ、年は明けていないよ」月夜は紗矢がいる方に近づき、彼女の隣に座る。フィルは月夜の膝の上に飛び乗った。

「いや、もう言えなくなるから、先に言っておこうと思って」

「なるほど」

「なるほどって?」

「相槌」

「それは知っているよ」

「うん、知っているとは思った」

 沈黙。

 月夜は後ろを振り返り、建物の内部に視線を向ける。誰か、この神社を管理している人がいるのかもしれない。

「どうして、明かりを灯しているの?」気になったから、月夜は紗矢に尋ねた。

「これね、魔除けなんだ」紗矢は説明する。「私がここを去るとき、ほかの物の怪に侵略されないように、炎を掲げて守っているの」

「紗矢は、ほかにも物の怪に会ったことがあるの?」ほかにも、というのは、フィルを意識した発言だ。

「うーん、私は会ったことはないんだけど、なんか、存在するらしいから……」

「フィルは?」

「そうらしい、という話は聞いたことがある。詳しくは知らない」

「そっか」

「私がいなくなったら、月夜はすぐに帰ってね」紗矢は言った。「じゃないと、また面倒なことになるかもしれないから……。いい?」

「うん、いいよ」

「何かあったら、フィルに頼めばいいよ」

「何を?」

「色々と、月夜のためにしてくれると思うから」

 月夜はフィルの頭を撫でる。彼は鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまった。

 炎が燃える小さな音が聞こえる。何が燃えているのだろう、と月夜は考える。燃えるのは、有機物だから、炭素が含まれた何かが燃料になっているはずだ。「魂が燃えている」というような表現をすることがあるが、それでは魂は有機物なのかな、と月夜は少し不思議に思う。

「この神社には、誰かいるの?」フィルの頭を撫で続けながら、月夜は尋ねた。

「うん、管理人さんがね。私のことも知っているよ。その人には、物の怪の姿が見えるみたい。私と、フィルの、数少ない知り合いだよ。月夜にも私たちの姿が見えるから、もしかすると気が合うかもしれないね」

「紗矢は、どこに行くの?」

 紗矢は月夜を見る。

「あの世、かな」

「あの世? それは、どこにあるの? どうやって行くの?」

「月夜も一緒に行きたいの?」

「もう少し時間が経っていたら、一緒に行ってもよかったかもしれない」

「あの世はね、いい所なんだよ」紗矢は話す。「楽園、と表現されることもあるけど、そういう感じではないかな。何も感じなくなるんだよ。無になる、と言えばいいかな……。でも、暫くしたら、死んだものはまた形を変えてこの世に戻ってくる。だから、もしかたしたら、また月夜にも会えるかもしれないね」

「そうやって会ったとき、私は、それが紗矢だと分かるの?」

「それは、月夜次第だよ」

「どういう意味?」

「意味なんてないよ。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それは、どんなものだってそうでしょう? 月夜の身体を形作る蛋白質は、もとはほかの動物の身体を形作る蛋白質だったけど、今は、それが、どんな動物の蛋白質だったのかは分からない。でも、ある程度は突き止めることができる。それと同じ」

 ああ、なるほど、と月夜は思った。

「紗矢は、私にもう一度会いたいと思うかな?」

「さあ、どうだろう……。そのときの私がどう思うのかは、そのときの私じゃないと分からないよ。でも、今は、また会いたいな、とは思っている」

「フィルには?」

「もちろん、会いたい」

 フィルが若干身体を動かす。月夜には、彼が喜んでいるのが分かった。

「それにしても、死んでから随分と長かったな……」紗矢は言った。「もう少し、早い内に向こうに行けると思っていたんだけど……。人生、何が起こるのか分からないね」

「紗矢は、自分で、この世界に残ることを選んだんじゃないの?」

「まあ、半分はそうかな」

「左腕が我儘を言ったから?」

「そう……。あれは、酷かったね。でも、そのおかげで、今、私は月夜と話しているんだから、なんだか複雑な気持ちかも」

 月夜は前を向く。

 気持ちは、常に複雑だ、と思った。

「月夜は、これからどうするの?」紗矢が尋ねる。

「どうするというのは、どういう意味?」

「どうやって生きていくの?」紗矢は笑った。「なんか、抽象的な質問だけど」

「普通に生きていくと思う」

「普通って? 一般的な人生を送る、という意味?」

「その日やることを淡々とこなしていく、という感じかな」

「たしかに、月夜らしいなあ」

「私らしいって言われることがあるけど、その意味が、私には、よく分からない」

「うーん、深い意味はないと思うよ、きっと……。そんな感じがするだけで」

「フィルらしさとは?」

「フィル?」紗矢は月夜の膝の上に目を向ける。「うーん、彼はね……。……まあ、味噌汁と豚カツのセット、みたいな感じかな」

「……えっと、どういう意味?」

 フィルはさらに顔を向こうに向ける。

「え? いや、そのままの意味だけど……」紗矢は言った。「伝わらない?」

 月夜は必死になって考える。

「伝わった、かもしれない」

「そっか、それならよかったよ」

 フィルは百八十度回転した。

「あのさ、月夜」

「うん?」

「……月夜は、誰かを失ったんじゃないの?」

「誰かって?」

「いや、分からないけど……。……そうなんでしょう?」

「失ってはいないよ」

「そうかもしれないけど、でも……。寂しくない?」

「寂しくはない、と自分では思っている」月夜は説明する。「でも、フィルから、それは違うんじゃないか、と指摘されたことがある」

「うん……。私も、フィルと同じように感じるよ」

「……そうなのかな」

「月夜は、もう少し人を頼った方がいいね」

「どういいの?」

「その方が得するってことだよ」

 月夜は、以前、フィルに同じことを言われたのを思い出す。たしかにその通りだった。人の意見を聞けば、それだけ選択肢が増える。つまり、可能性が広がるということだ。フィルや紗矢が言うように、それは得と呼んでも差し支えない。少なくとも、損ではないだろう。

「分かった。じゃあ、もう少し人に頼るようにする」

「そうそう。いいね、素直で。そういう対応の素早さが、月夜らしいと思うんだよ」

「うーん、自分では分からない」

「まあ、いいよ。自分では気づいていない方が、綺麗だから」

 綺麗?

 そうか……。

 紗矢は綺麗だ、と月夜は思う。

 その言葉を忘れていた。

 言葉だから、それほど重要ではないが、それでも、それを口にしてみようか、と月夜は考える。

「紗矢」

 月夜の呼びかけに反応して、紗矢は彼女の方を向く。

「何?」

 月夜は言った。

「紗矢は、綺麗だよ」

 紗矢は動かない。

 一度瞬きをする。

 それから、朝顔が咲くみたいに、彼女はゆっくりと明るい表情になった。

「うん、どうもありがとう」紗矢は話した。「月夜も、綺麗だよ」

 この場合の綺麗とは、いったいどういう意味だろう?

 エネルギーの消費が抑えられている、という意味なのか、それとも、何らかの法則が存在している、という意味なのか……。しかし、後者は前者の部分集合だともいえる。そう……。月夜には、綺麗という言葉は、常にそうした意味で解釈される。

 紗矢は、どんな意味でその言葉を使ったのだろう?

 月夜はそれが気になった。

 でも、彼女に訊くことはしなかった。

 それは……。

 訊かない方が、綺麗だと判断したからだ。

 この場合は、間違いなく、エネルギーの消費が抑えられている、という意味ではない。

 月夜はそれに気づいた。

 いや、気づいていた、といった方が正しい。

「ねえ、フィル」紗矢は今度は彼に声をかける。

「……なんだ?」フィルは面倒臭そうな声を出して、彼女の方を振り返った。

「月夜を、よろしくね」

「ああ、そうだな」

「……本当に分かっている?」

「少なくとも、お前以上にはな」

「それ、どういう意味?」

「そのままの意味だ」フィルは不敵に笑った。「さっき、自分でそう言っていたじゃないか」

「あそう」

「そうだ」

 月夜は、隕石が落ちてこないか心配になった。

「紗矢は、何時に行くの?」月夜は質問する。

「え? ああ、そうだね……。うーん、年を越す前には行こうかな」

「どうして?」

「うーん、なんとなく……」彼女は話す。「新しい年が始まったら、もう一年ここにいなくちゃいけないような気がするから」

「いたら?」

 紗矢は笑う。

「もう、決めたんだよ」

「うん」

「決定は覆せない」紗矢は胸を張る。「決行しなくてはならないこともあるのです」

「そうだね」

「月夜、楽しそうだね。何かいいことでもあった?」

「いいことは、なかった」

「じゃあ、ほかに何かあったの?」

「ないよ」

「ただ、楽しいだけ?」

「うん」

「そう……。それは、よかったね。おめでとう」

「ありがとう」

「フィルは楽しそうじゃないね」

「そうかな?」

 月夜は彼を見る。

「もう少しで、尻尾が動きそうな気がするけど」

「動かない」フィルが丸まったまま呟く。

「大晦日って、いいなあ……」紗矢が言った。

「蜜柑食べたい?」月夜は尋ねる。

「持っているの?」

「お皿の上に?」

 月夜は腕時計を見る。もう、時間の感覚は戻っていた。あの物の怪が消えたのだから当たり前だ。

 誰も何も話さないまま、静かな時間がゆっくりと流れた。

 地球は回転している。宇宙の中を彷徨っている。

 地球が回っていなければ、時間という概念は生まれなかったのか? もしそうだとしたら、生命は生まれなかったのか? 生命という形ではなかったのか? どのようなものを生命と呼ぶのだろう? どうして、生命はいずれ死ななくてはならないのだろう? 同じ個体が生き続けては駄目なのか? ほかの個体が死んだから、自分という個体が生まれたのか? では、自分はほかの個体が生まれるために死ぬのか? 結局のところ、紗矢が死を選んだのは、生き物として当然の帰結ではないか? 自分の死がきっかけとなって、存在の有無が決まる個体を、自分で選ぶか、自然に選ばせるか、の違いでしかないのではないか? 自分はどうして生きているのだろう? ほかの個体を生み出すためか? それでは、その個体はどうして生まれてくるのだろう? また別の個体を生み出すためか?

 すべては循環している。

 万物は流転する。

 永遠に繰り返す。

 何のために?

 人間が作った、目的というものは、この世界に存在する摂理なのか?

 それとも、単なる人工物、つまりは、ただの幻想にすぎないのか?

 どうだろう?

 紗矢が石段から立ち上がり、月夜を見下ろした。

「じゃあ、そろそろ行くね」紗矢は話す。「月夜、本当にありがとう。君には感謝しているよ。……それから、フィルも」

 フィルは顔を上げる。

 紗矢は彼に笑いかけた。

 フィルも、笑った。

「ああ、先に行っていてくれ」

「私、待たないからね」

「分かっている」

 支柱の上で燃え盛る篝火が、勢い良く宙に舞い上がった。渦を形成してこの空間を取り囲み、紗矢の身体に絡みつくように踊る。

 揺らめく炎が月夜の瞳に映り込んだ。

 しかし、彼女の冷徹な瞳は、そんな灼熱の温度すら許さない。

 フィルの瞳は何も映していなかった。

「月夜、楽しかったよ」

「うん」

「ありがとう」

「さようなら」月夜は笑った。「会えて嬉しかったよ、小夜」

 炎の渦が勢いを増す。

 少女は、笑顔のまま、炎に飲み込まれる。

 頭の上を覆う木々が焼き尽くされ、空へと繋がる道が開けた。

 炎は、空に向かって伸び、一人の少女をここではないどこかへと連れていく。

 花火のように、炎は上っていき、やがて祭りの残滓のように消えた。

 月夜は空を見上げたまま動かない。

 フィルも一緒だった。

「お前とは、少し違ったな」彼が呟く。

「うん」月夜は応えた。

「どうしてだと思う?」

「さあ、どうしてだろう……」

 静寂。

 きっと、そうあることを彼女が望んだからだ、と月夜は考える。

 悲しくはなかった。

 むしろ嬉しかった。

 自分の中には、まだ自分でも知らない自分が潜んでいる。

 それを見つけるために、もう少し生きていよう、と月夜は思った。





 神社があるエリアをあとにして、月夜は夜の山道を下った。木の根が張っているから、懐中電灯で足もとを照らして、慎重に進む必要がある。行きは上りだが、帰りは下りだから、暗い中を歩くのは多少大変だった。

 注意して歩いていた月夜だったが、石造りの階段を下りるとき、足を踏み外して、もう少しで転落しそうになった。

「おいおい、気をつけてくれよ」彼女の肩に載ったフィルが、心底驚いたような声で言った。「お前が落ちたら、俺まで巻き添えを食らうじゃないか」

「ごめん」月夜は謝る。

「……しかし、あと少しのところで踏ん張るのは、たしかに、あいつとは違ったな」

「うん……」

 けれど、そんなふうに考える自分も、自分の中には存在するのだ、と月夜は思う。

 もし、どうしようもなくなったら、フィルに助けを求めよう。

 そうするように、彼女に教えてもらった。

「ねえ、フィル」

「なんだ?」

「私を、支えてほしい」

 フィルは、黄色い瞳で月夜を見つめる。

「お前が、俺を支えてくれるのなら、な」

 月夜は彼を抱き締める。

 転ばないように注意して、最後まで階段を下りきった。

 誰もいない草原。

 吹きつける風。

 コートを着ていなくても寒くない。

 月夜は、フィルに軽くキスをする。

 物の怪の頬は、まるで生きているみたいに温かった。
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