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第10章 代々
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午後七時。月夜はリビングのテーブルに着いて、フィルの背中を撫でていた。テーブルの上には勉強道具が置いてある。照明は部屋の半分だけ点いていて、暖房器具の電源は入っていなかった。月夜は、暖房の類が嫌いだ。忌み嫌っているわけではないが、あまり、使わない方が良い、と考えている。それは、人工的に暖められた空気に晒されると、彼女は頭痛を引き起こすからだ。冬になると、電車も暖房が点いているが、本当に、多くの人間が、人工的な暖かさを望んでいるのか、と月夜は疑問に思う。統計的にデータを集めてそうした結果が得られたのか、彼女はそれが知りたかった。
「勉強は終わりか?」
黄色い瞳を上に向けて、フィルが言った。
「うん、終わり」
「今日は一日中勉強していたな。お疲れ様」
「疲れてはいない」
「あそう。じゃあ、今の言葉は言わなかったことにしよう」
「フィルは、今日は行く?」
「ああ、もちろん。女の子を、夜に一人で出歩かせるわけにはいかないからな」
「ありがとう」
「素直に感謝されても困る」
「何が?」
「いや、例によって、前言撤回だ」
今日の夜、月夜は紗矢と会う予定だった。紗矢は、今日を最後に、この世界から消える。この世界とは、いったいどの世界のことだろう、と思うことが月夜にはよくある。彼女は「世界」という言葉が好きではない。よく、創作物の重要なシーンで、「この世界を守りたいんだ」みたいなことを主人公が言うが、そんな演出を望んでいる人はいないのではないか、とさえ思う。なんというのか、如何にもわざとらしい。けれど、そんなわざとらしさが良いのかもしれない。現実の世界では、そんな台詞を言う人間がいたら、きっと頭がおかしいと思われるだろう。しかし、それが問題だ。なぜなら、世界をこの地球のことと定義した場合、現在の世界は全然まともなものではないからだ。要するに、実際には世界を守る誰かがいなくてはならない。そういう台詞を聞くと、嫌悪感を示す、というのは、言ってみれば現実の世界に対して諦めを抱いているということだ。そう……。皆、すでに色々なものを諦めている。ポジティブな人間はどこにもいない。
それでも、月夜は、自分が世界を守るようなことはないだろう、と思う。その役割を担うのは、きっと自分ではない。なぜだか分からないがそう感じる。もしかすると、それは一種の逃避かもしれない。それならそれで良かった。そんなふうに逃避するのが、自分という人間なのだ、という言葉を吐いて逃避できるからだ。
「なあ、月夜」
「うん?」
「お前は、自分の将来を捨てるようなことを言ったが、もし、それが、本当に返ってこなかったとしても、あいつのためにそんなことができたか?」
あいつ、というのは、紗矢の左腕が化けた物の怪のことだろう。
月夜は暫く考える。
「なんとも言えないけど、できた可能性は七割、できなかった可能性は三割くらいだと思う」
「ほう、それは大したことだな」
「大したことって、何がどう大したの?」
「普通、人に限らず、あらゆる生き物は、そんな選択はできない」
「それは、どんなデータに基づいて言っているの?」
「一般論だよ。抽象化された結論だ。信憑性は低いが、それでも納得はできるだろう?」
「うん」
「お前は変わっているんだ」フィルは呟いた。「それでも、俺はそんな変な月夜が好きだだが」
自分は、いったいどこが変わっているのだろう、と月夜は考える。
本当の紗矢を救うために、月夜は、紗矢の左腕が化けた物の怪に、自分の将来を与えた。将来というのは、言ってしまえば、彼女がいつか産み出すであろう生命のことだ。今の自分が消えるわけにはいかないから、代わりに自分の将来を与えた。簡単なことだ。しかし、そのアイデアを得るにはかなり時間がかかった。フィルは彼女よりも早い段階で気づいていたみたいだが、彼は、月夜には、それを教えてくれなかった。
きっと、それはフィルの優しさなのだろう、と月夜は思う。彼の言う通り、普通の生き物には、そんな選択はできないのかもしれない。けれど、月夜は自分が普通ではないことを多少は自覚していた。変わっている、という言葉で表現されることもあるが、明確に「変わっている」のではなく、あくまで「普通ではない」といった方が近い。論理的には、前者よりも後者の方が断定のレベルが低い。月夜は、自分のずれに対して、そのくらいのレベルだと考えている。
彼女が自分の将来を与えたことで、紗矢の左手が化けた物の怪は、この世界から消えてしまった。そこにはもちろん理由がある。
けれど……。
もう、そんなことはどうでも良い、と月夜は思う。
すべて終わったことだ。
自分は何も失っていない。
しかし、その物の怪には少し悪いことをしたかもしれない、とも感じる。
自分勝手なことをしてしまった。
すべては、紗矢とフィルと自分を救うためだ。
つまり、エゴ。
結局は、自分は、そんなものを原動力に動くことしかできなかった。
でも、その結果として、紗矢とフィルと自分はきちんと救えた。
では、それで良いではないか。
「何時に出るんだ?」フィルが尋ねる。
月夜は彼をテーブルの上に置き、立ち上がって軽く伸びをした。
「うーん、九時くらいかな」
「月夜、最近柔和になったな」
「何が?」
「態度が」
「態度?」
「ああ」フィルは頷く。「出会ったときは、もう少し鋭利な感じだった」
「そうかな……」月夜は言った。「自分では分からないけど……」
「それは、分かろうとしないから、ではないか?」
「分かろうとはしている」
「じゃあ、本当は分かりたくないんだろうな」
「うん、そうかもしれない」
キッチンに入り、冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを手に取る。コップに液体を注いで、月夜はそれを飲んだ。久し振りの水分補給だった。
キッチンの奥にある小窓の隙間から、年越しの喧騒が聞こえてきた。周囲にある住宅から、テレビを観ながら蜜柑を食べたり、蕎麦の準備をしたり、といった気配が伝わってくる(正確には気配とは呼べない。月夜の勝手な想像だ)。今まで、自分は、そういったいわゆる行事というものをやってこなかったな、と彼女はなんとなく考える。けれど、特にやりたいとは思わなかった。だが、まったくやりたくないわけでもない。自然にやる流れになればやるし、無理矢理やる流れを生み出そうとは思わない、というだけだ。すべては神のお示しのままに、とでもいった感じか。
リビングに戻ってフィルを抱きかかえ、硝子戸を開けてウッドデッキに出た。
鐘の音はまだ聞こえない。
大晦日は、まだ始まったばかりだ。
今年もあと少し。
しかしながら、それは人間が決めた区切りだから、本来は何も特別なものではない。それを証明するように、地球は常に同じ向きに回転していて、ある地点は必ず同じ地点に戻ってくる。永遠にそれを繰り返している。今年というラインを越えて、来年という新しいエリアに移動するわけではない。
けれども……。
そういうふうに人間が定めたものは、人間にしか楽しめない。人間にしか理解できないのだから当然だ。
だから、自分は、自らそれを楽しむ権利を放棄している。
どうして、そんなことをするのか?
一般への細やかな抵抗のつもりか?
いや……。
……もう、どうしてなのか分からなかった。
このままでも良い。
フィルとずっと一緒なら……。
「三角形の面積を求めるとき、どうしてサインを使うか知っているか?」
フィルが唐突に言った。
「ううん、そういえば、知らなかった。どうして?」
「三文字だからさ」
沈黙。
「そうなんだ」
「ああ、そうなんだよ」フィルは話す。「理由なんてそんなものさ。何か面白い理由があるのかもしれない、と期待させておきながら、結局何も理由なんてないことの方が多い。そういう期待を抱いていられる瞬間が、きっと、最も幸せなんだろうな。謎は解明するためにあるんじゃないんだ」
「でも、解明しようとしなければ、楽しむことはできないんじゃないの?」
「お前は、その程度の思考力しか持っていないのか?」
月夜は首を傾げる。
「どういう意味?」
「謎を沢山抱えるんだ。つまり、謎の収集家になる。とても素敵だと思わないか? この世の中に存在する、ありとあらゆる謎を求めては、それを解明することをせず、一つ一つ丁寧にキャビネットに仕舞っていくんだ。そんなお前を見たやつは、いったいどうしてそんなことをするんだ、と思うだろうね。ほら、また、ここにも、理由という謎に対する好奇心が潜んでいるだろう? だから、そこに存在する謎も、お前のキャビネットの一段に加える。わくわくしないか? 子どものとき、そんなふうに感じたことがあるだろう?」
月夜は、空を見ながら考える。
たしかに、そうかもしれない。
そんな感覚を抱いたことがあった。
まだ、幼い頃だった。
けれど、月夜は、そのときにはすでに気づいていた。
物事に理由など存在しないと……。
「フィルは、自分が死ぬことを通して、そういう謎を作りたかったんだね」月夜は言った。「どうして死んだんだろう、という謎を……」
フィルは応えない。
「紗矢は、その謎を欲しがっていた?」
フィルは月夜を見る。
「どうだろうな」彼は言った。「……最後には、あいつまで謎の一つになってしまった」
「うん……。でも、フィルはそれでよかったんでしょう?」
「よかったとは思わない」フィルは話す。「でも、悪くはなかったかもしれない、と思うことはある」
「死んではいけないわけではないから?」
「そうだ」
「生きなくてはいけない、とは思わなかった?」
「そんなことを思ったことはないよ」
「うん……」
「月夜は、どうだ?」
「まだ、死ななくていい」
「何かやりたいことがあるのか?」
「うーん、どうだろう……」
「あるんだな」
「そうかもしれない」
「どんなことだ?」
「謎を、解明すること」
フィルは笑った。
街灯のない暗闇の中で、窓から漏れる光だけが宙に浮かんでいる。
まるで城塞のようだ。
綺麗だった。
九時になるまでそこに座り続け、月夜はフィルと一緒に家を出た。紗矢が住む山へと向かう。坂道を下って草原に入り、石造りの階段を上って山に続く道を進む。懐中電灯で足もとを照らして歩いた。
暫く歩き続けると、間もなく前方に明かりが見えた。
なんだろう、と月夜は思う。
その先には、いつも紗矢がいる神社がある。
視界が開放的になって、神社があるエリアに到着した。
石段の両端で炎が揺らめいている。長い支柱の上に皿のようなものが載せられていて、その中で大きな篝火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。周囲がぼんやりと照らし出されている。紗矢は、いつも通り、石段の中央に腰をかけて目を閉じていた。
二人の気配を察知して、紗矢がゆっくりと顔を上げる。篝火に照らされて、彼女の表情はいつもより大人びて見えた。
「あけましておめでとう」立ち上がって、紗矢が言った。
「まだ、年は明けていないよ」月夜は紗矢がいる方に近づき、彼女の隣に座る。フィルは月夜の膝の上に飛び乗った。
「いや、もう言えなくなるから、先に言っておこうと思って」
「なるほど」
「なるほどって?」
「相槌」
「それは知っているよ」
「うん、知っているとは思った」
沈黙。
月夜は後ろを振り返り、建物の内部に視線を向ける。誰か、この神社を管理している人がいるのかもしれない。
「どうして、明かりを灯しているの?」気になったから、月夜は紗矢に尋ねた。
「これね、魔除けなんだ」紗矢は説明する。「私がここを去るとき、ほかの物の怪に侵略されないように、炎を掲げて守っているの」
「紗矢は、ほかにも物の怪に会ったことがあるの?」ほかにも、というのは、フィルを意識した発言だ。
「うーん、私は会ったことはないんだけど、なんか、存在するらしいから……」
「フィルは?」
「そうらしい、という話は聞いたことがある。詳しくは知らない」
「そっか」
「私がいなくなったら、月夜はすぐに帰ってね」紗矢は言った。「じゃないと、また面倒なことになるかもしれないから……。いい?」
「うん、いいよ」
「何かあったら、フィルに頼めばいいよ」
「何を?」
「色々と、月夜のためにしてくれると思うから」
月夜はフィルの頭を撫でる。彼は鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまった。
炎が燃える小さな音が聞こえる。何が燃えているのだろう、と月夜は考える。燃えるのは、有機物だから、炭素が含まれた何かが燃料になっているはずだ。「魂が燃えている」というような表現をすることがあるが、それでは魂は有機物なのかな、と月夜は少し不思議に思う。
「この神社には、誰かいるの?」フィルの頭を撫で続けながら、月夜は尋ねた。
「うん、管理人さんがね。私のことも知っているよ。その人には、物の怪の姿が見えるみたい。私と、フィルの、数少ない知り合いだよ。月夜にも私たちの姿が見えるから、もしかすると気が合うかもしれないね」
「紗矢は、どこに行くの?」
紗矢は月夜を見る。
「あの世、かな」
「あの世? それは、どこにあるの? どうやって行くの?」
「月夜も一緒に行きたいの?」
「もう少し時間が経っていたら、一緒に行ってもよかったかもしれない」
「あの世はね、いい所なんだよ」紗矢は話す。「楽園、と表現されることもあるけど、そういう感じではないかな。何も感じなくなるんだよ。無になる、と言えばいいかな……。でも、暫くしたら、死んだものはまた形を変えてこの世に戻ってくる。だから、もしかたしたら、また月夜にも会えるかもしれないね」
「そうやって会ったとき、私は、それが紗矢だと分かるの?」
「それは、月夜次第だよ」
「どういう意味?」
「意味なんてないよ。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それは、どんなものだってそうでしょう? 月夜の身体を形作る蛋白質は、もとはほかの動物の身体を形作る蛋白質だったけど、今は、それが、どんな動物の蛋白質だったのかは分からない。でも、ある程度は突き止めることができる。それと同じ」
ああ、なるほど、と月夜は思った。
「紗矢は、私にもう一度会いたいと思うかな?」
「さあ、どうだろう……。そのときの私がどう思うのかは、そのときの私じゃないと分からないよ。でも、今は、また会いたいな、とは思っている」
「フィルには?」
「もちろん、会いたい」
フィルが若干身体を動かす。月夜には、彼が喜んでいるのが分かった。
「それにしても、死んでから随分と長かったな……」紗矢は言った。「もう少し、早い内に向こうに行けると思っていたんだけど……。人生、何が起こるのか分からないね」
「紗矢は、自分で、この世界に残ることを選んだんじゃないの?」
「まあ、半分はそうかな」
「左腕が我儘を言ったから?」
「そう……。あれは、酷かったね。でも、そのおかげで、今、私は月夜と話しているんだから、なんだか複雑な気持ちかも」
月夜は前を向く。
気持ちは、常に複雑だ、と思った。
「月夜は、これからどうするの?」紗矢が尋ねる。
「どうするというのは、どういう意味?」
「どうやって生きていくの?」紗矢は笑った。「なんか、抽象的な質問だけど」
「普通に生きていくと思う」
「普通って? 一般的な人生を送る、という意味?」
「その日やることを淡々とこなしていく、という感じかな」
「たしかに、月夜らしいなあ」
「私らしいって言われることがあるけど、その意味が、私には、よく分からない」
「うーん、深い意味はないと思うよ、きっと……。そんな感じがするだけで」
「フィルらしさとは?」
「フィル?」紗矢は月夜の膝の上に目を向ける。「うーん、彼はね……。……まあ、味噌汁と豚カツのセット、みたいな感じかな」
「……えっと、どういう意味?」
フィルはさらに顔を向こうに向ける。
「え? いや、そのままの意味だけど……」紗矢は言った。「伝わらない?」
月夜は必死になって考える。
「伝わった、かもしれない」
「そっか、それならよかったよ」
フィルは百八十度回転した。
「あのさ、月夜」
「うん?」
「……月夜は、誰かを失ったんじゃないの?」
「誰かって?」
「いや、分からないけど……。……そうなんでしょう?」
「失ってはいないよ」
「そうかもしれないけど、でも……。寂しくない?」
「寂しくはない、と自分では思っている」月夜は説明する。「でも、フィルから、それは違うんじゃないか、と指摘されたことがある」
「うん……。私も、フィルと同じように感じるよ」
「……そうなのかな」
「月夜は、もう少し人を頼った方がいいね」
「どういいの?」
「その方が得するってことだよ」
月夜は、以前、フィルに同じことを言われたのを思い出す。たしかにその通りだった。人の意見を聞けば、それだけ選択肢が増える。つまり、可能性が広がるということだ。フィルや紗矢が言うように、それは得と呼んでも差し支えない。少なくとも、損ではないだろう。
「分かった。じゃあ、もう少し人に頼るようにする」
「そうそう。いいね、素直で。そういう対応の素早さが、月夜らしいと思うんだよ」
「うーん、自分では分からない」
「まあ、いいよ。自分では気づいていない方が、綺麗だから」
綺麗?
そうか……。
紗矢は綺麗だ、と月夜は思う。
その言葉を忘れていた。
言葉だから、それほど重要ではないが、それでも、それを口にしてみようか、と月夜は考える。
「紗矢」
月夜の呼びかけに反応して、紗矢は彼女の方を向く。
「何?」
月夜は言った。
「紗矢は、綺麗だよ」
紗矢は動かない。
一度瞬きをする。
それから、朝顔が咲くみたいに、彼女はゆっくりと明るい表情になった。
「うん、どうもありがとう」紗矢は話した。「月夜も、綺麗だよ」
この場合の綺麗とは、いったいどういう意味だろう?
エネルギーの消費が抑えられている、という意味なのか、それとも、何らかの法則が存在している、という意味なのか……。しかし、後者は前者の部分集合だともいえる。そう……。月夜には、綺麗という言葉は、常にそうした意味で解釈される。
紗矢は、どんな意味でその言葉を使ったのだろう?
月夜はそれが気になった。
でも、彼女に訊くことはしなかった。
それは……。
訊かない方が、綺麗だと判断したからだ。
この場合は、間違いなく、エネルギーの消費が抑えられている、という意味ではない。
月夜はそれに気づいた。
いや、気づいていた、といった方が正しい。
「ねえ、フィル」紗矢は今度は彼に声をかける。
「……なんだ?」フィルは面倒臭そうな声を出して、彼女の方を振り返った。
「月夜を、よろしくね」
「ああ、そうだな」
「……本当に分かっている?」
「少なくとも、お前以上にはな」
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だ」フィルは不敵に笑った。「さっき、自分でそう言っていたじゃないか」
「あそう」
「そうだ」
月夜は、隕石が落ちてこないか心配になった。
「紗矢は、何時に行くの?」月夜は質問する。
「え? ああ、そうだね……。うーん、年を越す前には行こうかな」
「どうして?」
「うーん、なんとなく……」彼女は話す。「新しい年が始まったら、もう一年ここにいなくちゃいけないような気がするから」
「いたら?」
紗矢は笑う。
「もう、決めたんだよ」
「うん」
「決定は覆せない」紗矢は胸を張る。「決行しなくてはならないこともあるのです」
「そうだね」
「月夜、楽しそうだね。何かいいことでもあった?」
「いいことは、なかった」
「じゃあ、ほかに何かあったの?」
「ないよ」
「ただ、楽しいだけ?」
「うん」
「そう……。それは、よかったね。おめでとう」
「ありがとう」
「フィルは楽しそうじゃないね」
「そうかな?」
月夜は彼を見る。
「もう少しで、尻尾が動きそうな気がするけど」
「動かない」フィルが丸まったまま呟く。
「大晦日って、いいなあ……」紗矢が言った。
「蜜柑食べたい?」月夜は尋ねる。
「持っているの?」
「お皿の上に?」
月夜は腕時計を見る。もう、時間の感覚は戻っていた。あの物の怪が消えたのだから当たり前だ。
誰も何も話さないまま、静かな時間がゆっくりと流れた。
地球は回転している。宇宙の中を彷徨っている。
地球が回っていなければ、時間という概念は生まれなかったのか? もしそうだとしたら、生命は生まれなかったのか? 生命という形ではなかったのか? どのようなものを生命と呼ぶのだろう? どうして、生命はいずれ死ななくてはならないのだろう? 同じ個体が生き続けては駄目なのか? ほかの個体が死んだから、自分という個体が生まれたのか? では、自分はほかの個体が生まれるために死ぬのか? 結局のところ、紗矢が死を選んだのは、生き物として当然の帰結ではないか? 自分の死がきっかけとなって、存在の有無が決まる個体を、自分で選ぶか、自然に選ばせるか、の違いでしかないのではないか? 自分はどうして生きているのだろう? ほかの個体を生み出すためか? それでは、その個体はどうして生まれてくるのだろう? また別の個体を生み出すためか?
すべては循環している。
万物は流転する。
永遠に繰り返す。
何のために?
人間が作った、目的というものは、この世界に存在する摂理なのか?
それとも、単なる人工物、つまりは、ただの幻想にすぎないのか?
どうだろう?
紗矢が石段から立ち上がり、月夜を見下ろした。
「じゃあ、そろそろ行くね」紗矢は話す。「月夜、本当にありがとう。君には感謝しているよ。……それから、フィルも」
フィルは顔を上げる。
紗矢は彼に笑いかけた。
フィルも、笑った。
「ああ、先に行っていてくれ」
「私、待たないからね」
「分かっている」
支柱の上で燃え盛る篝火が、勢い良く宙に舞い上がった。渦を形成してこの空間を取り囲み、紗矢の身体に絡みつくように踊る。
揺らめく炎が月夜の瞳に映り込んだ。
しかし、彼女の冷徹な瞳は、そんな灼熱の温度すら許さない。
フィルの瞳は何も映していなかった。
「月夜、楽しかったよ」
「うん」
「ありがとう」
「さようなら」月夜は笑った。「会えて嬉しかったよ、小夜」
炎の渦が勢いを増す。
少女は、笑顔のまま、炎に飲み込まれる。
頭の上を覆う木々が焼き尽くされ、空へと繋がる道が開けた。
炎は、空に向かって伸び、一人の少女をここではないどこかへと連れていく。
花火のように、炎は上っていき、やがて祭りの残滓のように消えた。
月夜は空を見上げたまま動かない。
フィルも一緒だった。
「お前とは、少し違ったな」彼が呟く。
「うん」月夜は応えた。
「どうしてだと思う?」
「さあ、どうしてだろう……」
静寂。
きっと、そうあることを彼女が望んだからだ、と月夜は考える。
悲しくはなかった。
むしろ嬉しかった。
自分の中には、まだ自分でも知らない自分が潜んでいる。
それを見つけるために、もう少し生きていよう、と月夜は思った。
*
神社があるエリアをあとにして、月夜は夜の山道を下った。木の根が張っているから、懐中電灯で足もとを照らして、慎重に進む必要がある。行きは上りだが、帰りは下りだから、暗い中を歩くのは多少大変だった。
注意して歩いていた月夜だったが、石造りの階段を下りるとき、足を踏み外して、もう少しで転落しそうになった。
「おいおい、気をつけてくれよ」彼女の肩に載ったフィルが、心底驚いたような声で言った。「お前が落ちたら、俺まで巻き添えを食らうじゃないか」
「ごめん」月夜は謝る。
「……しかし、あと少しのところで踏ん張るのは、たしかに、あいつとは違ったな」
「うん……」
けれど、そんなふうに考える自分も、自分の中には存在するのだ、と月夜は思う。
もし、どうしようもなくなったら、フィルに助けを求めよう。
そうするように、彼女に教えてもらった。
「ねえ、フィル」
「なんだ?」
「私を、支えてほしい」
フィルは、黄色い瞳で月夜を見つめる。
「お前が、俺を支えてくれるのなら、な」
月夜は彼を抱き締める。
転ばないように注意して、最後まで階段を下りきった。
誰もいない草原。
吹きつける風。
コートを着ていなくても寒くない。
月夜は、フィルに軽くキスをする。
物の怪の頬は、まるで生きているみたいに温かった。
「勉強は終わりか?」
黄色い瞳を上に向けて、フィルが言った。
「うん、終わり」
「今日は一日中勉強していたな。お疲れ様」
「疲れてはいない」
「あそう。じゃあ、今の言葉は言わなかったことにしよう」
「フィルは、今日は行く?」
「ああ、もちろん。女の子を、夜に一人で出歩かせるわけにはいかないからな」
「ありがとう」
「素直に感謝されても困る」
「何が?」
「いや、例によって、前言撤回だ」
今日の夜、月夜は紗矢と会う予定だった。紗矢は、今日を最後に、この世界から消える。この世界とは、いったいどの世界のことだろう、と思うことが月夜にはよくある。彼女は「世界」という言葉が好きではない。よく、創作物の重要なシーンで、「この世界を守りたいんだ」みたいなことを主人公が言うが、そんな演出を望んでいる人はいないのではないか、とさえ思う。なんというのか、如何にもわざとらしい。けれど、そんなわざとらしさが良いのかもしれない。現実の世界では、そんな台詞を言う人間がいたら、きっと頭がおかしいと思われるだろう。しかし、それが問題だ。なぜなら、世界をこの地球のことと定義した場合、現在の世界は全然まともなものではないからだ。要するに、実際には世界を守る誰かがいなくてはならない。そういう台詞を聞くと、嫌悪感を示す、というのは、言ってみれば現実の世界に対して諦めを抱いているということだ。そう……。皆、すでに色々なものを諦めている。ポジティブな人間はどこにもいない。
それでも、月夜は、自分が世界を守るようなことはないだろう、と思う。その役割を担うのは、きっと自分ではない。なぜだか分からないがそう感じる。もしかすると、それは一種の逃避かもしれない。それならそれで良かった。そんなふうに逃避するのが、自分という人間なのだ、という言葉を吐いて逃避できるからだ。
「なあ、月夜」
「うん?」
「お前は、自分の将来を捨てるようなことを言ったが、もし、それが、本当に返ってこなかったとしても、あいつのためにそんなことができたか?」
あいつ、というのは、紗矢の左腕が化けた物の怪のことだろう。
月夜は暫く考える。
「なんとも言えないけど、できた可能性は七割、できなかった可能性は三割くらいだと思う」
「ほう、それは大したことだな」
「大したことって、何がどう大したの?」
「普通、人に限らず、あらゆる生き物は、そんな選択はできない」
「それは、どんなデータに基づいて言っているの?」
「一般論だよ。抽象化された結論だ。信憑性は低いが、それでも納得はできるだろう?」
「うん」
「お前は変わっているんだ」フィルは呟いた。「それでも、俺はそんな変な月夜が好きだだが」
自分は、いったいどこが変わっているのだろう、と月夜は考える。
本当の紗矢を救うために、月夜は、紗矢の左腕が化けた物の怪に、自分の将来を与えた。将来というのは、言ってしまえば、彼女がいつか産み出すであろう生命のことだ。今の自分が消えるわけにはいかないから、代わりに自分の将来を与えた。簡単なことだ。しかし、そのアイデアを得るにはかなり時間がかかった。フィルは彼女よりも早い段階で気づいていたみたいだが、彼は、月夜には、それを教えてくれなかった。
きっと、それはフィルの優しさなのだろう、と月夜は思う。彼の言う通り、普通の生き物には、そんな選択はできないのかもしれない。けれど、月夜は自分が普通ではないことを多少は自覚していた。変わっている、という言葉で表現されることもあるが、明確に「変わっている」のではなく、あくまで「普通ではない」といった方が近い。論理的には、前者よりも後者の方が断定のレベルが低い。月夜は、自分のずれに対して、そのくらいのレベルだと考えている。
彼女が自分の将来を与えたことで、紗矢の左手が化けた物の怪は、この世界から消えてしまった。そこにはもちろん理由がある。
けれど……。
もう、そんなことはどうでも良い、と月夜は思う。
すべて終わったことだ。
自分は何も失っていない。
しかし、その物の怪には少し悪いことをしたかもしれない、とも感じる。
自分勝手なことをしてしまった。
すべては、紗矢とフィルと自分を救うためだ。
つまり、エゴ。
結局は、自分は、そんなものを原動力に動くことしかできなかった。
でも、その結果として、紗矢とフィルと自分はきちんと救えた。
では、それで良いではないか。
「何時に出るんだ?」フィルが尋ねる。
月夜は彼をテーブルの上に置き、立ち上がって軽く伸びをした。
「うーん、九時くらいかな」
「月夜、最近柔和になったな」
「何が?」
「態度が」
「態度?」
「ああ」フィルは頷く。「出会ったときは、もう少し鋭利な感じだった」
「そうかな……」月夜は言った。「自分では分からないけど……」
「それは、分かろうとしないから、ではないか?」
「分かろうとはしている」
「じゃあ、本当は分かりたくないんだろうな」
「うん、そうかもしれない」
キッチンに入り、冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを手に取る。コップに液体を注いで、月夜はそれを飲んだ。久し振りの水分補給だった。
キッチンの奥にある小窓の隙間から、年越しの喧騒が聞こえてきた。周囲にある住宅から、テレビを観ながら蜜柑を食べたり、蕎麦の準備をしたり、といった気配が伝わってくる(正確には気配とは呼べない。月夜の勝手な想像だ)。今まで、自分は、そういったいわゆる行事というものをやってこなかったな、と彼女はなんとなく考える。けれど、特にやりたいとは思わなかった。だが、まったくやりたくないわけでもない。自然にやる流れになればやるし、無理矢理やる流れを生み出そうとは思わない、というだけだ。すべては神のお示しのままに、とでもいった感じか。
リビングに戻ってフィルを抱きかかえ、硝子戸を開けてウッドデッキに出た。
鐘の音はまだ聞こえない。
大晦日は、まだ始まったばかりだ。
今年もあと少し。
しかしながら、それは人間が決めた区切りだから、本来は何も特別なものではない。それを証明するように、地球は常に同じ向きに回転していて、ある地点は必ず同じ地点に戻ってくる。永遠にそれを繰り返している。今年というラインを越えて、来年という新しいエリアに移動するわけではない。
けれども……。
そういうふうに人間が定めたものは、人間にしか楽しめない。人間にしか理解できないのだから当然だ。
だから、自分は、自らそれを楽しむ権利を放棄している。
どうして、そんなことをするのか?
一般への細やかな抵抗のつもりか?
いや……。
……もう、どうしてなのか分からなかった。
このままでも良い。
フィルとずっと一緒なら……。
「三角形の面積を求めるとき、どうしてサインを使うか知っているか?」
フィルが唐突に言った。
「ううん、そういえば、知らなかった。どうして?」
「三文字だからさ」
沈黙。
「そうなんだ」
「ああ、そうなんだよ」フィルは話す。「理由なんてそんなものさ。何か面白い理由があるのかもしれない、と期待させておきながら、結局何も理由なんてないことの方が多い。そういう期待を抱いていられる瞬間が、きっと、最も幸せなんだろうな。謎は解明するためにあるんじゃないんだ」
「でも、解明しようとしなければ、楽しむことはできないんじゃないの?」
「お前は、その程度の思考力しか持っていないのか?」
月夜は首を傾げる。
「どういう意味?」
「謎を沢山抱えるんだ。つまり、謎の収集家になる。とても素敵だと思わないか? この世の中に存在する、ありとあらゆる謎を求めては、それを解明することをせず、一つ一つ丁寧にキャビネットに仕舞っていくんだ。そんなお前を見たやつは、いったいどうしてそんなことをするんだ、と思うだろうね。ほら、また、ここにも、理由という謎に対する好奇心が潜んでいるだろう? だから、そこに存在する謎も、お前のキャビネットの一段に加える。わくわくしないか? 子どものとき、そんなふうに感じたことがあるだろう?」
月夜は、空を見ながら考える。
たしかに、そうかもしれない。
そんな感覚を抱いたことがあった。
まだ、幼い頃だった。
けれど、月夜は、そのときにはすでに気づいていた。
物事に理由など存在しないと……。
「フィルは、自分が死ぬことを通して、そういう謎を作りたかったんだね」月夜は言った。「どうして死んだんだろう、という謎を……」
フィルは応えない。
「紗矢は、その謎を欲しがっていた?」
フィルは月夜を見る。
「どうだろうな」彼は言った。「……最後には、あいつまで謎の一つになってしまった」
「うん……。でも、フィルはそれでよかったんでしょう?」
「よかったとは思わない」フィルは話す。「でも、悪くはなかったかもしれない、と思うことはある」
「死んではいけないわけではないから?」
「そうだ」
「生きなくてはいけない、とは思わなかった?」
「そんなことを思ったことはないよ」
「うん……」
「月夜は、どうだ?」
「まだ、死ななくていい」
「何かやりたいことがあるのか?」
「うーん、どうだろう……」
「あるんだな」
「そうかもしれない」
「どんなことだ?」
「謎を、解明すること」
フィルは笑った。
街灯のない暗闇の中で、窓から漏れる光だけが宙に浮かんでいる。
まるで城塞のようだ。
綺麗だった。
九時になるまでそこに座り続け、月夜はフィルと一緒に家を出た。紗矢が住む山へと向かう。坂道を下って草原に入り、石造りの階段を上って山に続く道を進む。懐中電灯で足もとを照らして歩いた。
暫く歩き続けると、間もなく前方に明かりが見えた。
なんだろう、と月夜は思う。
その先には、いつも紗矢がいる神社がある。
視界が開放的になって、神社があるエリアに到着した。
石段の両端で炎が揺らめいている。長い支柱の上に皿のようなものが載せられていて、その中で大きな篝火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。周囲がぼんやりと照らし出されている。紗矢は、いつも通り、石段の中央に腰をかけて目を閉じていた。
二人の気配を察知して、紗矢がゆっくりと顔を上げる。篝火に照らされて、彼女の表情はいつもより大人びて見えた。
「あけましておめでとう」立ち上がって、紗矢が言った。
「まだ、年は明けていないよ」月夜は紗矢がいる方に近づき、彼女の隣に座る。フィルは月夜の膝の上に飛び乗った。
「いや、もう言えなくなるから、先に言っておこうと思って」
「なるほど」
「なるほどって?」
「相槌」
「それは知っているよ」
「うん、知っているとは思った」
沈黙。
月夜は後ろを振り返り、建物の内部に視線を向ける。誰か、この神社を管理している人がいるのかもしれない。
「どうして、明かりを灯しているの?」気になったから、月夜は紗矢に尋ねた。
「これね、魔除けなんだ」紗矢は説明する。「私がここを去るとき、ほかの物の怪に侵略されないように、炎を掲げて守っているの」
「紗矢は、ほかにも物の怪に会ったことがあるの?」ほかにも、というのは、フィルを意識した発言だ。
「うーん、私は会ったことはないんだけど、なんか、存在するらしいから……」
「フィルは?」
「そうらしい、という話は聞いたことがある。詳しくは知らない」
「そっか」
「私がいなくなったら、月夜はすぐに帰ってね」紗矢は言った。「じゃないと、また面倒なことになるかもしれないから……。いい?」
「うん、いいよ」
「何かあったら、フィルに頼めばいいよ」
「何を?」
「色々と、月夜のためにしてくれると思うから」
月夜はフィルの頭を撫でる。彼は鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまった。
炎が燃える小さな音が聞こえる。何が燃えているのだろう、と月夜は考える。燃えるのは、有機物だから、炭素が含まれた何かが燃料になっているはずだ。「魂が燃えている」というような表現をすることがあるが、それでは魂は有機物なのかな、と月夜は少し不思議に思う。
「この神社には、誰かいるの?」フィルの頭を撫で続けながら、月夜は尋ねた。
「うん、管理人さんがね。私のことも知っているよ。その人には、物の怪の姿が見えるみたい。私と、フィルの、数少ない知り合いだよ。月夜にも私たちの姿が見えるから、もしかすると気が合うかもしれないね」
「紗矢は、どこに行くの?」
紗矢は月夜を見る。
「あの世、かな」
「あの世? それは、どこにあるの? どうやって行くの?」
「月夜も一緒に行きたいの?」
「もう少し時間が経っていたら、一緒に行ってもよかったかもしれない」
「あの世はね、いい所なんだよ」紗矢は話す。「楽園、と表現されることもあるけど、そういう感じではないかな。何も感じなくなるんだよ。無になる、と言えばいいかな……。でも、暫くしたら、死んだものはまた形を変えてこの世に戻ってくる。だから、もしかたしたら、また月夜にも会えるかもしれないね」
「そうやって会ったとき、私は、それが紗矢だと分かるの?」
「それは、月夜次第だよ」
「どういう意味?」
「意味なんてないよ。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それは、どんなものだってそうでしょう? 月夜の身体を形作る蛋白質は、もとはほかの動物の身体を形作る蛋白質だったけど、今は、それが、どんな動物の蛋白質だったのかは分からない。でも、ある程度は突き止めることができる。それと同じ」
ああ、なるほど、と月夜は思った。
「紗矢は、私にもう一度会いたいと思うかな?」
「さあ、どうだろう……。そのときの私がどう思うのかは、そのときの私じゃないと分からないよ。でも、今は、また会いたいな、とは思っている」
「フィルには?」
「もちろん、会いたい」
フィルが若干身体を動かす。月夜には、彼が喜んでいるのが分かった。
「それにしても、死んでから随分と長かったな……」紗矢は言った。「もう少し、早い内に向こうに行けると思っていたんだけど……。人生、何が起こるのか分からないね」
「紗矢は、自分で、この世界に残ることを選んだんじゃないの?」
「まあ、半分はそうかな」
「左腕が我儘を言ったから?」
「そう……。あれは、酷かったね。でも、そのおかげで、今、私は月夜と話しているんだから、なんだか複雑な気持ちかも」
月夜は前を向く。
気持ちは、常に複雑だ、と思った。
「月夜は、これからどうするの?」紗矢が尋ねる。
「どうするというのは、どういう意味?」
「どうやって生きていくの?」紗矢は笑った。「なんか、抽象的な質問だけど」
「普通に生きていくと思う」
「普通って? 一般的な人生を送る、という意味?」
「その日やることを淡々とこなしていく、という感じかな」
「たしかに、月夜らしいなあ」
「私らしいって言われることがあるけど、その意味が、私には、よく分からない」
「うーん、深い意味はないと思うよ、きっと……。そんな感じがするだけで」
「フィルらしさとは?」
「フィル?」紗矢は月夜の膝の上に目を向ける。「うーん、彼はね……。……まあ、味噌汁と豚カツのセット、みたいな感じかな」
「……えっと、どういう意味?」
フィルはさらに顔を向こうに向ける。
「え? いや、そのままの意味だけど……」紗矢は言った。「伝わらない?」
月夜は必死になって考える。
「伝わった、かもしれない」
「そっか、それならよかったよ」
フィルは百八十度回転した。
「あのさ、月夜」
「うん?」
「……月夜は、誰かを失ったんじゃないの?」
「誰かって?」
「いや、分からないけど……。……そうなんでしょう?」
「失ってはいないよ」
「そうかもしれないけど、でも……。寂しくない?」
「寂しくはない、と自分では思っている」月夜は説明する。「でも、フィルから、それは違うんじゃないか、と指摘されたことがある」
「うん……。私も、フィルと同じように感じるよ」
「……そうなのかな」
「月夜は、もう少し人を頼った方がいいね」
「どういいの?」
「その方が得するってことだよ」
月夜は、以前、フィルに同じことを言われたのを思い出す。たしかにその通りだった。人の意見を聞けば、それだけ選択肢が増える。つまり、可能性が広がるということだ。フィルや紗矢が言うように、それは得と呼んでも差し支えない。少なくとも、損ではないだろう。
「分かった。じゃあ、もう少し人に頼るようにする」
「そうそう。いいね、素直で。そういう対応の素早さが、月夜らしいと思うんだよ」
「うーん、自分では分からない」
「まあ、いいよ。自分では気づいていない方が、綺麗だから」
綺麗?
そうか……。
紗矢は綺麗だ、と月夜は思う。
その言葉を忘れていた。
言葉だから、それほど重要ではないが、それでも、それを口にしてみようか、と月夜は考える。
「紗矢」
月夜の呼びかけに反応して、紗矢は彼女の方を向く。
「何?」
月夜は言った。
「紗矢は、綺麗だよ」
紗矢は動かない。
一度瞬きをする。
それから、朝顔が咲くみたいに、彼女はゆっくりと明るい表情になった。
「うん、どうもありがとう」紗矢は話した。「月夜も、綺麗だよ」
この場合の綺麗とは、いったいどういう意味だろう?
エネルギーの消費が抑えられている、という意味なのか、それとも、何らかの法則が存在している、という意味なのか……。しかし、後者は前者の部分集合だともいえる。そう……。月夜には、綺麗という言葉は、常にそうした意味で解釈される。
紗矢は、どんな意味でその言葉を使ったのだろう?
月夜はそれが気になった。
でも、彼女に訊くことはしなかった。
それは……。
訊かない方が、綺麗だと判断したからだ。
この場合は、間違いなく、エネルギーの消費が抑えられている、という意味ではない。
月夜はそれに気づいた。
いや、気づいていた、といった方が正しい。
「ねえ、フィル」紗矢は今度は彼に声をかける。
「……なんだ?」フィルは面倒臭そうな声を出して、彼女の方を振り返った。
「月夜を、よろしくね」
「ああ、そうだな」
「……本当に分かっている?」
「少なくとも、お前以上にはな」
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だ」フィルは不敵に笑った。「さっき、自分でそう言っていたじゃないか」
「あそう」
「そうだ」
月夜は、隕石が落ちてこないか心配になった。
「紗矢は、何時に行くの?」月夜は質問する。
「え? ああ、そうだね……。うーん、年を越す前には行こうかな」
「どうして?」
「うーん、なんとなく……」彼女は話す。「新しい年が始まったら、もう一年ここにいなくちゃいけないような気がするから」
「いたら?」
紗矢は笑う。
「もう、決めたんだよ」
「うん」
「決定は覆せない」紗矢は胸を張る。「決行しなくてはならないこともあるのです」
「そうだね」
「月夜、楽しそうだね。何かいいことでもあった?」
「いいことは、なかった」
「じゃあ、ほかに何かあったの?」
「ないよ」
「ただ、楽しいだけ?」
「うん」
「そう……。それは、よかったね。おめでとう」
「ありがとう」
「フィルは楽しそうじゃないね」
「そうかな?」
月夜は彼を見る。
「もう少しで、尻尾が動きそうな気がするけど」
「動かない」フィルが丸まったまま呟く。
「大晦日って、いいなあ……」紗矢が言った。
「蜜柑食べたい?」月夜は尋ねる。
「持っているの?」
「お皿の上に?」
月夜は腕時計を見る。もう、時間の感覚は戻っていた。あの物の怪が消えたのだから当たり前だ。
誰も何も話さないまま、静かな時間がゆっくりと流れた。
地球は回転している。宇宙の中を彷徨っている。
地球が回っていなければ、時間という概念は生まれなかったのか? もしそうだとしたら、生命は生まれなかったのか? 生命という形ではなかったのか? どのようなものを生命と呼ぶのだろう? どうして、生命はいずれ死ななくてはならないのだろう? 同じ個体が生き続けては駄目なのか? ほかの個体が死んだから、自分という個体が生まれたのか? では、自分はほかの個体が生まれるために死ぬのか? 結局のところ、紗矢が死を選んだのは、生き物として当然の帰結ではないか? 自分の死がきっかけとなって、存在の有無が決まる個体を、自分で選ぶか、自然に選ばせるか、の違いでしかないのではないか? 自分はどうして生きているのだろう? ほかの個体を生み出すためか? それでは、その個体はどうして生まれてくるのだろう? また別の個体を生み出すためか?
すべては循環している。
万物は流転する。
永遠に繰り返す。
何のために?
人間が作った、目的というものは、この世界に存在する摂理なのか?
それとも、単なる人工物、つまりは、ただの幻想にすぎないのか?
どうだろう?
紗矢が石段から立ち上がり、月夜を見下ろした。
「じゃあ、そろそろ行くね」紗矢は話す。「月夜、本当にありがとう。君には感謝しているよ。……それから、フィルも」
フィルは顔を上げる。
紗矢は彼に笑いかけた。
フィルも、笑った。
「ああ、先に行っていてくれ」
「私、待たないからね」
「分かっている」
支柱の上で燃え盛る篝火が、勢い良く宙に舞い上がった。渦を形成してこの空間を取り囲み、紗矢の身体に絡みつくように踊る。
揺らめく炎が月夜の瞳に映り込んだ。
しかし、彼女の冷徹な瞳は、そんな灼熱の温度すら許さない。
フィルの瞳は何も映していなかった。
「月夜、楽しかったよ」
「うん」
「ありがとう」
「さようなら」月夜は笑った。「会えて嬉しかったよ、小夜」
炎の渦が勢いを増す。
少女は、笑顔のまま、炎に飲み込まれる。
頭の上を覆う木々が焼き尽くされ、空へと繋がる道が開けた。
炎は、空に向かって伸び、一人の少女をここではないどこかへと連れていく。
花火のように、炎は上っていき、やがて祭りの残滓のように消えた。
月夜は空を見上げたまま動かない。
フィルも一緒だった。
「お前とは、少し違ったな」彼が呟く。
「うん」月夜は応えた。
「どうしてだと思う?」
「さあ、どうしてだろう……」
静寂。
きっと、そうあることを彼女が望んだからだ、と月夜は考える。
悲しくはなかった。
むしろ嬉しかった。
自分の中には、まだ自分でも知らない自分が潜んでいる。
それを見つけるために、もう少し生きていよう、と月夜は思った。
*
神社があるエリアをあとにして、月夜は夜の山道を下った。木の根が張っているから、懐中電灯で足もとを照らして、慎重に進む必要がある。行きは上りだが、帰りは下りだから、暗い中を歩くのは多少大変だった。
注意して歩いていた月夜だったが、石造りの階段を下りるとき、足を踏み外して、もう少しで転落しそうになった。
「おいおい、気をつけてくれよ」彼女の肩に載ったフィルが、心底驚いたような声で言った。「お前が落ちたら、俺まで巻き添えを食らうじゃないか」
「ごめん」月夜は謝る。
「……しかし、あと少しのところで踏ん張るのは、たしかに、あいつとは違ったな」
「うん……」
けれど、そんなふうに考える自分も、自分の中には存在するのだ、と月夜は思う。
もし、どうしようもなくなったら、フィルに助けを求めよう。
そうするように、彼女に教えてもらった。
「ねえ、フィル」
「なんだ?」
「私を、支えてほしい」
フィルは、黄色い瞳で月夜を見つめる。
「お前が、俺を支えてくれるのなら、な」
月夜は彼を抱き締める。
転ばないように注意して、最後まで階段を下りきった。
誰もいない草原。
吹きつける風。
コートを着ていなくても寒くない。
月夜は、フィルに軽くキスをする。
物の怪の頬は、まるで生きているみたいに温かった。
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