篝火導師

羽上帆樽

文字の大きさ
10 / 10

第10章 代々

しおりを挟む
 午後七時。月夜はリビングのテーブルに着いて、フィルの背中を撫でていた。テーブルの上には勉強道具が置いてある。照明は部屋の半分だけ点いていて、暖房器具の電源は入っていなかった。月夜は、暖房の類が嫌いだ。忌み嫌っているわけではないが、あまり、使わない方が良い、と考えている。それは、人工的に暖められた空気に晒されると、彼女は頭痛を引き起こすからだ。冬になると、電車も暖房が点いているが、本当に、多くの人間が、人工的な暖かさを望んでいるのか、と月夜は疑問に思う。統計的にデータを集めてそうした結果が得られたのか、彼女はそれが知りたかった。

「勉強は終わりか?」

 黄色い瞳を上に向けて、フィルが言った。

「うん、終わり」

「今日は一日中勉強していたな。お疲れ様」

「疲れてはいない」

「あそう。じゃあ、今の言葉は言わなかったことにしよう」

「フィルは、今日は行く?」

「ああ、もちろん。女の子を、夜に一人で出歩かせるわけにはいかないからな」

「ありがとう」

「素直に感謝されても困る」

「何が?」

「いや、例によって、前言撤回だ」

 今日の夜、月夜は紗矢と会う予定だった。紗矢は、今日を最後に、この世界から消える。この世界とは、いったいどの世界のことだろう、と思うことが月夜にはよくある。彼女は「世界」という言葉が好きではない。よく、創作物の重要なシーンで、「この世界を守りたいんだ」みたいなことを主人公が言うが、そんな演出を望んでいる人はいないのではないか、とさえ思う。なんというのか、如何にもわざとらしい。けれど、そんなわざとらしさが良いのかもしれない。現実の世界では、そんな台詞を言う人間がいたら、きっと頭がおかしいと思われるだろう。しかし、それが問題だ。なぜなら、世界をこの地球のことと定義した場合、現在の世界は全然まともなものではないからだ。要するに、実際には世界を守る誰かがいなくてはならない。そういう台詞を聞くと、嫌悪感を示す、というのは、言ってみれば現実の世界に対して諦めを抱いているということだ。そう……。皆、すでに色々なものを諦めている。ポジティブな人間はどこにもいない。

 それでも、月夜は、自分が世界を守るようなことはないだろう、と思う。その役割を担うのは、きっと自分ではない。なぜだか分からないがそう感じる。もしかすると、それは一種の逃避かもしれない。それならそれで良かった。そんなふうに逃避するのが、自分という人間なのだ、という言葉を吐いて逃避できるからだ。

「なあ、月夜」

「うん?」

「お前は、自分の将来を捨てるようなことを言ったが、もし、それが、本当に返ってこなかったとしても、あいつのためにそんなことができたか?」

 あいつ、というのは、紗矢の左腕が化けた物の怪のことだろう。

 月夜は暫く考える。

「なんとも言えないけど、できた可能性は七割、できなかった可能性は三割くらいだと思う」

「ほう、それは大したことだな」

「大したことって、何がどう大したの?」

「普通、人に限らず、あらゆる生き物は、そんな選択はできない」

「それは、どんなデータに基づいて言っているの?」

「一般論だよ。抽象化された結論だ。信憑性は低いが、それでも納得はできるだろう?」

「うん」

「お前は変わっているんだ」フィルは呟いた。「それでも、俺はそんな変な月夜が好きだだが」

 自分は、いったいどこが変わっているのだろう、と月夜は考える。

 本当の紗矢を救うために、月夜は、紗矢の左腕が化けた物の怪に、自分の将来を与えた。将来というのは、言ってしまえば、彼女がいつか産み出すであろう生命のことだ。今の自分が消えるわけにはいかないから、代わりに自分の将来を与えた。簡単なことだ。しかし、そのアイデアを得るにはかなり時間がかかった。フィルは彼女よりも早い段階で気づいていたみたいだが、彼は、月夜には、それを教えてくれなかった。

 きっと、それはフィルの優しさなのだろう、と月夜は思う。彼の言う通り、普通の生き物には、そんな選択はできないのかもしれない。けれど、月夜は自分が普通ではないことを多少は自覚していた。変わっている、という言葉で表現されることもあるが、明確に「変わっている」のではなく、あくまで「普通ではない」といった方が近い。論理的には、前者よりも後者の方が断定のレベルが低い。月夜は、自分のずれに対して、そのくらいのレベルだと考えている。

 彼女が自分の将来を与えたことで、紗矢の左手が化けた物の怪は、この世界から消えてしまった。そこにはもちろん理由がある。

 けれど……。

 もう、そんなことはどうでも良い、と月夜は思う。

 すべて終わったことだ。

 自分は何も失っていない。

 しかし、その物の怪には少し悪いことをしたかもしれない、とも感じる。

 自分勝手なことをしてしまった。

 すべては、紗矢とフィルと自分を救うためだ。

 つまり、エゴ。

 結局は、自分は、そんなものを原動力に動くことしかできなかった。

 でも、その結果として、紗矢とフィルと自分はきちんと救えた。

 では、それで良いではないか。

「何時に出るんだ?」フィルが尋ねる。

 月夜は彼をテーブルの上に置き、立ち上がって軽く伸びをした。

「うーん、九時くらいかな」

「月夜、最近柔和になったな」

「何が?」

「態度が」

「態度?」

「ああ」フィルは頷く。「出会ったときは、もう少し鋭利な感じだった」

「そうかな……」月夜は言った。「自分では分からないけど……」

「それは、分かろうとしないから、ではないか?」

「分かろうとはしている」

「じゃあ、本当は分かりたくないんだろうな」

「うん、そうかもしれない」

 キッチンに入り、冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを手に取る。コップに液体を注いで、月夜はそれを飲んだ。久し振りの水分補給だった。

 キッチンの奥にある小窓の隙間から、年越しの喧騒が聞こえてきた。周囲にある住宅から、テレビを観ながら蜜柑を食べたり、蕎麦の準備をしたり、といった気配が伝わってくる(正確には気配とは呼べない。月夜の勝手な想像だ)。今まで、自分は、そういったいわゆる行事というものをやってこなかったな、と彼女はなんとなく考える。けれど、特にやりたいとは思わなかった。だが、まったくやりたくないわけでもない。自然にやる流れになればやるし、無理矢理やる流れを生み出そうとは思わない、というだけだ。すべては神のお示しのままに、とでもいった感じか。

 リビングに戻ってフィルを抱きかかえ、硝子戸を開けてウッドデッキに出た。

 鐘の音はまだ聞こえない。

 大晦日は、まだ始まったばかりだ。

 今年もあと少し。

 しかしながら、それは人間が決めた区切りだから、本来は何も特別なものではない。それを証明するように、地球は常に同じ向きに回転していて、ある地点は必ず同じ地点に戻ってくる。永遠にそれを繰り返している。今年というラインを越えて、来年という新しいエリアに移動するわけではない。

 けれども……。

 そういうふうに人間が定めたものは、人間にしか楽しめない。人間にしか理解できないのだから当然だ。

 だから、自分は、自らそれを楽しむ権利を放棄している。

 どうして、そんなことをするのか?

 一般への細やかな抵抗のつもりか?

 いや……。

 ……もう、どうしてなのか分からなかった。

 このままでも良い。

 フィルとずっと一緒なら……。

「三角形の面積を求めるとき、どうしてサインを使うか知っているか?」

 フィルが唐突に言った。

「ううん、そういえば、知らなかった。どうして?」

「三文字だからさ」

 沈黙。

「そうなんだ」

「ああ、そうなんだよ」フィルは話す。「理由なんてそんなものさ。何か面白い理由があるのかもしれない、と期待させておきながら、結局何も理由なんてないことの方が多い。そういう期待を抱いていられる瞬間が、きっと、最も幸せなんだろうな。謎は解明するためにあるんじゃないんだ」

「でも、解明しようとしなければ、楽しむことはできないんじゃないの?」

「お前は、その程度の思考力しか持っていないのか?」

 月夜は首を傾げる。

「どういう意味?」

「謎を沢山抱えるんだ。つまり、謎の収集家になる。とても素敵だと思わないか? この世の中に存在する、ありとあらゆる謎を求めては、それを解明することをせず、一つ一つ丁寧にキャビネットに仕舞っていくんだ。そんなお前を見たやつは、いったいどうしてそんなことをするんだ、と思うだろうね。ほら、また、ここにも、理由という謎に対する好奇心が潜んでいるだろう? だから、そこに存在する謎も、お前のキャビネットの一段に加える。わくわくしないか? 子どものとき、そんなふうに感じたことがあるだろう?」

 月夜は、空を見ながら考える。

 たしかに、そうかもしれない。

 そんな感覚を抱いたことがあった。

 まだ、幼い頃だった。

 けれど、月夜は、そのときにはすでに気づいていた。

 物事に理由など存在しないと……。

「フィルは、自分が死ぬことを通して、そういう謎を作りたかったんだね」月夜は言った。「どうして死んだんだろう、という謎を……」

 フィルは応えない。

「紗矢は、その謎を欲しがっていた?」

 フィルは月夜を見る。

「どうだろうな」彼は言った。「……最後には、あいつまで謎の一つになってしまった」

「うん……。でも、フィルはそれでよかったんでしょう?」

「よかったとは思わない」フィルは話す。「でも、悪くはなかったかもしれない、と思うことはある」

「死んではいけないわけではないから?」

「そうだ」

「生きなくてはいけない、とは思わなかった?」

「そんなことを思ったことはないよ」

「うん……」

「月夜は、どうだ?」

「まだ、死ななくていい」

「何かやりたいことがあるのか?」

「うーん、どうだろう……」

「あるんだな」

「そうかもしれない」

「どんなことだ?」

「謎を、解明すること」

 フィルは笑った。

 街灯のない暗闇の中で、窓から漏れる光だけが宙に浮かんでいる。

 まるで城塞のようだ。

 綺麗だった。

 九時になるまでそこに座り続け、月夜はフィルと一緒に家を出た。紗矢が住む山へと向かう。坂道を下って草原に入り、石造りの階段を上って山に続く道を進む。懐中電灯で足もとを照らして歩いた。

 暫く歩き続けると、間もなく前方に明かりが見えた。

 なんだろう、と月夜は思う。

 その先には、いつも紗矢がいる神社がある。

 視界が開放的になって、神社があるエリアに到着した。

 石段の両端で炎が揺らめいている。長い支柱の上に皿のようなものが載せられていて、その中で大きな篝火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。周囲がぼんやりと照らし出されている。紗矢は、いつも通り、石段の中央に腰をかけて目を閉じていた。

 二人の気配を察知して、紗矢がゆっくりと顔を上げる。篝火に照らされて、彼女の表情はいつもより大人びて見えた。

「あけましておめでとう」立ち上がって、紗矢が言った。

「まだ、年は明けていないよ」月夜は紗矢がいる方に近づき、彼女の隣に座る。フィルは月夜の膝の上に飛び乗った。

「いや、もう言えなくなるから、先に言っておこうと思って」

「なるほど」

「なるほどって?」

「相槌」

「それは知っているよ」

「うん、知っているとは思った」

 沈黙。

 月夜は後ろを振り返り、建物の内部に視線を向ける。誰か、この神社を管理している人がいるのかもしれない。

「どうして、明かりを灯しているの?」気になったから、月夜は紗矢に尋ねた。

「これね、魔除けなんだ」紗矢は説明する。「私がここを去るとき、ほかの物の怪に侵略されないように、炎を掲げて守っているの」

「紗矢は、ほかにも物の怪に会ったことがあるの?」ほかにも、というのは、フィルを意識した発言だ。

「うーん、私は会ったことはないんだけど、なんか、存在するらしいから……」

「フィルは?」

「そうらしい、という話は聞いたことがある。詳しくは知らない」

「そっか」

「私がいなくなったら、月夜はすぐに帰ってね」紗矢は言った。「じゃないと、また面倒なことになるかもしれないから……。いい?」

「うん、いいよ」

「何かあったら、フィルに頼めばいいよ」

「何を?」

「色々と、月夜のためにしてくれると思うから」

 月夜はフィルの頭を撫でる。彼は鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまった。

 炎が燃える小さな音が聞こえる。何が燃えているのだろう、と月夜は考える。燃えるのは、有機物だから、炭素が含まれた何かが燃料になっているはずだ。「魂が燃えている」というような表現をすることがあるが、それでは魂は有機物なのかな、と月夜は少し不思議に思う。

「この神社には、誰かいるの?」フィルの頭を撫で続けながら、月夜は尋ねた。

「うん、管理人さんがね。私のことも知っているよ。その人には、物の怪の姿が見えるみたい。私と、フィルの、数少ない知り合いだよ。月夜にも私たちの姿が見えるから、もしかすると気が合うかもしれないね」

「紗矢は、どこに行くの?」

 紗矢は月夜を見る。

「あの世、かな」

「あの世? それは、どこにあるの? どうやって行くの?」

「月夜も一緒に行きたいの?」

「もう少し時間が経っていたら、一緒に行ってもよかったかもしれない」

「あの世はね、いい所なんだよ」紗矢は話す。「楽園、と表現されることもあるけど、そういう感じではないかな。何も感じなくなるんだよ。無になる、と言えばいいかな……。でも、暫くしたら、死んだものはまた形を変えてこの世に戻ってくる。だから、もしかたしたら、また月夜にも会えるかもしれないね」

「そうやって会ったとき、私は、それが紗矢だと分かるの?」

「それは、月夜次第だよ」

「どういう意味?」

「意味なんてないよ。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。それは、どんなものだってそうでしょう? 月夜の身体を形作る蛋白質は、もとはほかの動物の身体を形作る蛋白質だったけど、今は、それが、どんな動物の蛋白質だったのかは分からない。でも、ある程度は突き止めることができる。それと同じ」

 ああ、なるほど、と月夜は思った。

「紗矢は、私にもう一度会いたいと思うかな?」

「さあ、どうだろう……。そのときの私がどう思うのかは、そのときの私じゃないと分からないよ。でも、今は、また会いたいな、とは思っている」

「フィルには?」

「もちろん、会いたい」

 フィルが若干身体を動かす。月夜には、彼が喜んでいるのが分かった。

「それにしても、死んでから随分と長かったな……」紗矢は言った。「もう少し、早い内に向こうに行けると思っていたんだけど……。人生、何が起こるのか分からないね」

「紗矢は、自分で、この世界に残ることを選んだんじゃないの?」

「まあ、半分はそうかな」

「左腕が我儘を言ったから?」

「そう……。あれは、酷かったね。でも、そのおかげで、今、私は月夜と話しているんだから、なんだか複雑な気持ちかも」

 月夜は前を向く。

 気持ちは、常に複雑だ、と思った。

「月夜は、これからどうするの?」紗矢が尋ねる。

「どうするというのは、どういう意味?」

「どうやって生きていくの?」紗矢は笑った。「なんか、抽象的な質問だけど」

「普通に生きていくと思う」

「普通って? 一般的な人生を送る、という意味?」

「その日やることを淡々とこなしていく、という感じかな」

「たしかに、月夜らしいなあ」

「私らしいって言われることがあるけど、その意味が、私には、よく分からない」

「うーん、深い意味はないと思うよ、きっと……。そんな感じがするだけで」

「フィルらしさとは?」

「フィル?」紗矢は月夜の膝の上に目を向ける。「うーん、彼はね……。……まあ、味噌汁と豚カツのセット、みたいな感じかな」

「……えっと、どういう意味?」

 フィルはさらに顔を向こうに向ける。

「え? いや、そのままの意味だけど……」紗矢は言った。「伝わらない?」

 月夜は必死になって考える。

「伝わった、かもしれない」

「そっか、それならよかったよ」

 フィルは百八十度回転した。

「あのさ、月夜」

「うん?」

「……月夜は、誰かを失ったんじゃないの?」

「誰かって?」

「いや、分からないけど……。……そうなんでしょう?」

「失ってはいないよ」

「そうかもしれないけど、でも……。寂しくない?」

「寂しくはない、と自分では思っている」月夜は説明する。「でも、フィルから、それは違うんじゃないか、と指摘されたことがある」

「うん……。私も、フィルと同じように感じるよ」

「……そうなのかな」

「月夜は、もう少し人を頼った方がいいね」

「どういいの?」

「その方が得するってことだよ」

 月夜は、以前、フィルに同じことを言われたのを思い出す。たしかにその通りだった。人の意見を聞けば、それだけ選択肢が増える。つまり、可能性が広がるということだ。フィルや紗矢が言うように、それは得と呼んでも差し支えない。少なくとも、損ではないだろう。

「分かった。じゃあ、もう少し人に頼るようにする」

「そうそう。いいね、素直で。そういう対応の素早さが、月夜らしいと思うんだよ」

「うーん、自分では分からない」

「まあ、いいよ。自分では気づいていない方が、綺麗だから」

 綺麗?

 そうか……。

 紗矢は綺麗だ、と月夜は思う。

 その言葉を忘れていた。

 言葉だから、それほど重要ではないが、それでも、それを口にしてみようか、と月夜は考える。

「紗矢」

 月夜の呼びかけに反応して、紗矢は彼女の方を向く。

「何?」

 月夜は言った。

「紗矢は、綺麗だよ」

 紗矢は動かない。

 一度瞬きをする。

 それから、朝顔が咲くみたいに、彼女はゆっくりと明るい表情になった。

「うん、どうもありがとう」紗矢は話した。「月夜も、綺麗だよ」

 この場合の綺麗とは、いったいどういう意味だろう?

 エネルギーの消費が抑えられている、という意味なのか、それとも、何らかの法則が存在している、という意味なのか……。しかし、後者は前者の部分集合だともいえる。そう……。月夜には、綺麗という言葉は、常にそうした意味で解釈される。

 紗矢は、どんな意味でその言葉を使ったのだろう?

 月夜はそれが気になった。

 でも、彼女に訊くことはしなかった。

 それは……。

 訊かない方が、綺麗だと判断したからだ。

 この場合は、間違いなく、エネルギーの消費が抑えられている、という意味ではない。

 月夜はそれに気づいた。

 いや、気づいていた、といった方が正しい。

「ねえ、フィル」紗矢は今度は彼に声をかける。

「……なんだ?」フィルは面倒臭そうな声を出して、彼女の方を振り返った。

「月夜を、よろしくね」

「ああ、そうだな」

「……本当に分かっている?」

「少なくとも、お前以上にはな」

「それ、どういう意味?」

「そのままの意味だ」フィルは不敵に笑った。「さっき、自分でそう言っていたじゃないか」

「あそう」

「そうだ」

 月夜は、隕石が落ちてこないか心配になった。

「紗矢は、何時に行くの?」月夜は質問する。

「え? ああ、そうだね……。うーん、年を越す前には行こうかな」

「どうして?」

「うーん、なんとなく……」彼女は話す。「新しい年が始まったら、もう一年ここにいなくちゃいけないような気がするから」

「いたら?」

 紗矢は笑う。

「もう、決めたんだよ」

「うん」

「決定は覆せない」紗矢は胸を張る。「決行しなくてはならないこともあるのです」

「そうだね」

「月夜、楽しそうだね。何かいいことでもあった?」

「いいことは、なかった」

「じゃあ、ほかに何かあったの?」

「ないよ」

「ただ、楽しいだけ?」

「うん」

「そう……。それは、よかったね。おめでとう」

「ありがとう」

「フィルは楽しそうじゃないね」

「そうかな?」

 月夜は彼を見る。

「もう少しで、尻尾が動きそうな気がするけど」

「動かない」フィルが丸まったまま呟く。

「大晦日って、いいなあ……」紗矢が言った。

「蜜柑食べたい?」月夜は尋ねる。

「持っているの?」

「お皿の上に?」

 月夜は腕時計を見る。もう、時間の感覚は戻っていた。あの物の怪が消えたのだから当たり前だ。

 誰も何も話さないまま、静かな時間がゆっくりと流れた。

 地球は回転している。宇宙の中を彷徨っている。

 地球が回っていなければ、時間という概念は生まれなかったのか? もしそうだとしたら、生命は生まれなかったのか? 生命という形ではなかったのか? どのようなものを生命と呼ぶのだろう? どうして、生命はいずれ死ななくてはならないのだろう? 同じ個体が生き続けては駄目なのか? ほかの個体が死んだから、自分という個体が生まれたのか? では、自分はほかの個体が生まれるために死ぬのか? 結局のところ、紗矢が死を選んだのは、生き物として当然の帰結ではないか? 自分の死がきっかけとなって、存在の有無が決まる個体を、自分で選ぶか、自然に選ばせるか、の違いでしかないのではないか? 自分はどうして生きているのだろう? ほかの個体を生み出すためか? それでは、その個体はどうして生まれてくるのだろう? また別の個体を生み出すためか?

 すべては循環している。

 万物は流転する。

 永遠に繰り返す。

 何のために?

 人間が作った、目的というものは、この世界に存在する摂理なのか?

 それとも、単なる人工物、つまりは、ただの幻想にすぎないのか?

 どうだろう?

 紗矢が石段から立ち上がり、月夜を見下ろした。

「じゃあ、そろそろ行くね」紗矢は話す。「月夜、本当にありがとう。君には感謝しているよ。……それから、フィルも」

 フィルは顔を上げる。

 紗矢は彼に笑いかけた。

 フィルも、笑った。

「ああ、先に行っていてくれ」

「私、待たないからね」

「分かっている」

 支柱の上で燃え盛る篝火が、勢い良く宙に舞い上がった。渦を形成してこの空間を取り囲み、紗矢の身体に絡みつくように踊る。

 揺らめく炎が月夜の瞳に映り込んだ。

 しかし、彼女の冷徹な瞳は、そんな灼熱の温度すら許さない。

 フィルの瞳は何も映していなかった。

「月夜、楽しかったよ」

「うん」

「ありがとう」

「さようなら」月夜は笑った。「会えて嬉しかったよ、小夜」

 炎の渦が勢いを増す。

 少女は、笑顔のまま、炎に飲み込まれる。

 頭の上を覆う木々が焼き尽くされ、空へと繋がる道が開けた。

 炎は、空に向かって伸び、一人の少女をここではないどこかへと連れていく。

 花火のように、炎は上っていき、やがて祭りの残滓のように消えた。

 月夜は空を見上げたまま動かない。

 フィルも一緒だった。

「お前とは、少し違ったな」彼が呟く。

「うん」月夜は応えた。

「どうしてだと思う?」

「さあ、どうしてだろう……」

 静寂。

 きっと、そうあることを彼女が望んだからだ、と月夜は考える。

 悲しくはなかった。

 むしろ嬉しかった。

 自分の中には、まだ自分でも知らない自分が潜んでいる。

 それを見つけるために、もう少し生きていよう、と月夜は思った。





 神社があるエリアをあとにして、月夜は夜の山道を下った。木の根が張っているから、懐中電灯で足もとを照らして、慎重に進む必要がある。行きは上りだが、帰りは下りだから、暗い中を歩くのは多少大変だった。

 注意して歩いていた月夜だったが、石造りの階段を下りるとき、足を踏み外して、もう少しで転落しそうになった。

「おいおい、気をつけてくれよ」彼女の肩に載ったフィルが、心底驚いたような声で言った。「お前が落ちたら、俺まで巻き添えを食らうじゃないか」

「ごめん」月夜は謝る。

「……しかし、あと少しのところで踏ん張るのは、たしかに、あいつとは違ったな」

「うん……」

 けれど、そんなふうに考える自分も、自分の中には存在するのだ、と月夜は思う。

 もし、どうしようもなくなったら、フィルに助けを求めよう。

 そうするように、彼女に教えてもらった。

「ねえ、フィル」

「なんだ?」

「私を、支えてほしい」

 フィルは、黄色い瞳で月夜を見つめる。

「お前が、俺を支えてくれるのなら、な」

 月夜は彼を抱き締める。

 転ばないように注意して、最後まで階段を下りきった。

 誰もいない草原。

 吹きつける風。

 コートを着ていなくても寒くない。

 月夜は、フィルに軽くキスをする。

 物の怪の頬は、まるで生きているみたいに温かった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 毎日19時に更新予定です。

ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!

クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。 ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。 しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。 ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。 そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。 国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。 樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

処理中です...