篝火導師

羽上帆樽

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第9章 様々

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 フィルは月夜の呼びかけに応じない。返事はするが、行動はしなかった。身体が動かないようだ。紗矢の肩の上で、大人しく座っている。黄色い瞳が、闇夜に浮かんで、星のように光っていた。

「早く、私のものになってよ」紗矢が言った。「もう、貴女にはそれしかないんだから。ねえ、分かるでしょう? 何もかも、合理的に考えられる貴女なら、分かるよね?」

 月夜は答えない。しかし、思考が停止しているわけではなかった。むしろ、先ほどから、ずっと考え続けている。それは、もちろん、この現状に対する打開策だ。

 打開策の内容は、すでに決まっていた。あとは、それをどう伝えるか、ということが重要になる。それで相手を説得できなければ、もうほかに手段は残っていない。紗矢は、内容ではなく、手段ややり方を重視する傾向がある。月夜はそうではなかったが、自分のように、内容ばかりを重視する人間が、少数であることは知っていた。

「紗矢は、私が欲しいの?」

 月夜は質問する。

 紗矢は、退屈そうに溜息を吐いて、少し首を傾げた。

「別に、月夜が欲しいわけじゃないよ。貴女の時間が欲しいんだ。じゃないと、私は、もう、この世界にいられないからね。消えてしまいたくないの。だから、時間さえ手に入れば、それでいいよ。あとは何もいらない」

「フィルを、先に返して」

「それはできない。分かっている? 貴女は、もう、私の手の中にあるんだよ。私の言う通りにしてくれないと、困るんだ。辛い目には遭わせたくないし」

 そう言われることは分かっていた。今は、自分よりも相手の方が有利だ。まずは、この戦況を変えなくてはならない。

「私が、どうやって答えに辿り着いたか、聞きたい、とは思わない?」

「そんなことに、興味はない」

「フィルが、教えてくれたんだよ」

 紗矢は黙る。自分の肩に載ったフィルの背を撫で、彼女は薄く笑った。

「そうだろうね。でも、この子は、私のために充分はたらいてくれたよ。もう、私には必要ないから、貴女に返してあげてもいいけど、でも、その前に、貴女が時間を差し出さないと、駄目」

「どうして?」

「どうして? どうしてだって? 理由なんて、ないよ。どうでもいいから、早くしてよ」

「それは、できない」

「そう……。じゃあ、フィルは消えちゃうけど、いいの?」

「それも、許さない」

 力を抜いて、紗矢は小さく溜息を吐く。

 次の瞬間、彼女の全身が肥大し、黒い巨大な靄のような姿に変化した。

「お前の、時間をよこせ」

 紗矢が、もう紗矢のものだと分からない声で、月夜に要求する。

 そう……。

 彼女は、紗矢ではない。

 本物ではないのだ。

 月夜はそれを分かっていた。

 なぜなら、本物の紗矢は、いつも彼女の傍にいたのだから……。

 どこからともなく、突風が吹いてくる。

 月夜の髪は靡き、パーカーのフードが風に踊った。

 フィルは、肥大化した紗矢の身体に取り込まれて、すでに見えなくなっている。

 もう、消えてしまったかもしれない。

 けれど、月夜は、そう信じたくなかった。

 紗矢の腕が伸び、月夜の首に絡みつく。苦しかったが、彼女は暴れなかった。身体で抵抗しても、この怪物には通じない。なぜなら、紗矢はもう死んでいるからだ。死んでいるのに、時間の制約を受けている。物の怪とは、なんて悲しい存在だろう。そう、まさに、「物」の「怪」……。これは、紗矢自身ではない。ほかの物が化けているのだ。

 首を絞められ、月夜は息ができなくなる。目に涙が滲んだ。しかし、それは、彼女がまだ生きている証拠だ。生きていなければ、涙は流れない。生きていなければ、苦しみを感じることもない。

 物の怪には、生きることの辛さが分からないだろう。……いや、フィルには分かるかもしれない。彼は、優しかった。死んでも、生きていたときと同じように、苦しみや、楽しさを、分かち合える者もいる。

 声が掠れて、空気しか出なかった。

 開いた口から、魂が飛び出しそうになる。

 月夜は、それを必死に堪える。

 それが、紗矢が求めている、彼女の時間だ。

 自分に与えられた寿命、つまり時間は、ほかの者に与えることはできない。どれだけ他人のために奉仕しても、時間そのものが他人のものになることはない。その時間を過ごすのは自分だからだ。だから、そんな貴重な私物を、こんな怪物に与えるわけにはいかない。

 月夜は、フィルと過ごした時間を思い出す。

 それはとても輝いていた。

 少なくとも、今はそう見えた。

 自分が行き詰まったとき、彼が傍で支えてくれた。

 嬉しかった。

 所詮、綺麗事だ。

 しかし、それで良かった。

 綺麗事が、完全に綺麗になってしまえば、それはもう綺麗としか呼べない。

 フィル……。

 仕組まれていても、良かった。

 彼は、それでも、自分に優しくしてくれた。

 紗矢と接するのと同じように……。

「……フィル、帰ってきて」

 月夜は呟いた。そんなことを言う自分が面白くて、首を絞められたまま、月夜は一人で笑った。

 涙が地面に落ちる。

 目の前の怪物は、もう紗矢の形をしていない。

 怪物は笑っている。

 突如として、怪物は悲痛な声を上げて、月夜の首を締める力を緩めた。

 月夜は、全身に力を込めて、その場から後ろに飛び退く。

 見ると、怪物の首もとに、何かが噛みついていた。

 フィルだ。

「月夜、彼女に時間を与えるんだ」

 フィルが言った。

「……どう、すれば、いいの……?」

 咳き込みながら月夜は尋ねる。怪物は暴れ回り、周囲は嵐のように風が吹き荒んでいる。

「一言、言葉にすればいい。それで終わりだ。こいつは消える。もう、俺たちの前には現れなくなる」

 フィルの声は冷静だ。そう……。フィルには、危機感というものがない。もう死んでいるから、危機を感じる必要がない。

「分かった」月夜は、未来を捨てる覚悟をする。「私の将来を、貴女にあげる」

 次の瞬間、怪物は嘘のように活力を取り戻し、フィルを力いっぱい振り払った。

 フィルは月夜の足もとに着地する。

 怪物は、笑い声を上げながら、消えていった。

 小さな竜巻が、怪物が立っていた場所にできる。

 それも消えて、辺りはあっという間に静かになった。

 月夜はその場に座り込む。全身に力が入らなかった。

 フィルが彼女に近づき、声をかける。

「大丈夫か、月夜」

 月夜は下を向いたまま咳き込んだ。

「……うん、平気……」彼女は顔を上げて、フィルを見た。「フィルは?」

「俺は平気だ」

「どうして、動けるようになったの?」

「お前の時間を、少し貰った」フィルは言った。「勝手なことをして、申し訳ない」

「どのくらい?」

「ほんの二、三分さ」

「……分かった。……いいよ、全然」

 月夜は、自分の右手がまだ温かいことを確認する。

 空間が溶けるように変質し、自分の掌の先に誰かの腕が見えた。

 細い、女性の腕。

 月夜のものよりは幾分しっかりとしていて、力強かった。

 それは、紗矢のなくなった左腕だ。

 ずっと一緒だった。

 今まで、ずっと手を繋いでいた。

 やがて、その左腕は形を変え、一人の少女の姿になった。

「ありがとう、月夜」

「……紗矢?」

「辛い思いをさせて、ごめんね」

「やっと、会えた」

「うん、やっと」

 月夜は軽く微笑む。

 彼女は、そのまま、気を失った。





 目が覚めると、首が若干痛んだ。思いきり絞められたのだから、当然だ。ゆっくりと身体を起こすと、そこは自分の部屋だった。彼女は布団の上で横になっている。誰かが看病をしてくれたらしい。部屋には誰もおらず、今は月夜一人だけだった。フィルの姿もない。彼女は立ち上がってドアの外に出た。

 下に降りて、リビングに入ると、ソファに座っていた少女が振り返った。

 紗矢だった。

 その隣に、フィルも座っている。

「起きた?」にこにこしながら、紗矢が言った。「よかった……。心配したよ、月夜」

 月夜は、紗矢の傍まで歩いていく。時計を見ると、針は午前四時三十分を指していた。そんなに長い時間眠っていたわけではなさそうだ。しかし、一日以上経過している、という可能性もある。

「えっと、紗矢は、平気?」紗矢の隣に座って、月夜は尋ねた。

「うん、平気だよ」紗矢は頷く。「月夜のおかげで、助かったよ」

「助けたつもりはない」

「フィルも、一緒に助けてくれたみたいだし……。本当に、ありがとう」

「うん……」

 月夜は、まだしっかりと状況を呑み込めていなかった。現実に頭がついてこない。

「俺は、本当は消えるはずだったがな」フィルが言った。「まあ、いいさ。もう少し、月夜と話したかったから」

「えっと……。……紗矢は、今は、本当の紗矢?」月夜は尋ねる。

「そうだよ。ずっと一緒だったじゃん、月夜」

「うん、そうだけど……」

「いつから気づいていたの?」

「え? あ、うーんと、具体的なタイミングは、覚えていないけど……」

「フィルが、怪しいと思った?」紗矢はにやにやしながら尋ねる。

「うん……。それは、そう」

 フィルはそっぽを向いた。

「そっか……。……やっぱり、月夜を選んで、正解だったよ」

「どうして、私に頼もうと思ったの?」

「だから、それには、そんなしっかりした理由はないよ」紗矢は話す。「一目見て、ああ、あの子にしようかな、と思っただけで……。私ね、馬鹿なんだけど、直感だけは凄くてさ。ほら、今回も、ちゃんと問題を解決できたでしょう?」

「うん、できた」

「凄いなあ、私って……」

 たしかに、凄い、と月夜は素直に思う。一方で、フィルは欠伸をしているだけで、そんなふうには思っていないみたいだった。

 さっきのは、夢だったのではないか、と月夜は思う。

 もしかしたら、今も……。

 違和感を覚えて、月夜は自分の首に触れる。ガーゼのようなものが貼られていた。傷ができていたから、紗矢が貼ってくれたのかもしれない。

 ソファに座ったまま、月夜はぼんやりと考える。

 フィルが紗矢の彼氏だと気づいたのは、紗矢に会って暫く経った頃だった。どうして気づいたのか、ということについては述べられない。論理的に関係性を述べることはできるが、月夜は、論理的な思考の結果気づいたのではない。まず初めに、紗矢の彼氏はフィルなのではないか、という閃きがあった。その次に、その閃きを論理的に確かめてみた。彼女がやったのはそれだけだ。だから、閃きがなければ気づかなかった。紗矢は自分に彼氏がいたと言ったが、もしそうであるのなら、その人物に関する詳細な情報を提供するはずだ。けれど、彼女は、彼について、優しかった、くらいの情報しか月夜に与えなかった。それは、説明する必要がないからだ。なぜなら、月夜はフィルを知っている。与えられた条件から考察すれば、紗矢の彼氏はフィルだ、という結論にしか至らない。

 次に、紗矢が屋上から飛び降りた際に、左腕が外れた、という点が重要になってくる。死亡した際に紗矢は物の怪になったが、紗矢の本体と、左腕の二つの個体が生じてしまったために、どちらが物の怪として存続するのか、決めなくてはならなくなった。けれど、当たり前だが、紗矢の左腕は、紗矢そのものではない。ということで、必然的に、物の怪になれるのは紗矢の本体になる。だが、彼女の左腕はそれを許さなかった。左腕は物の怪となってこの世界に残ることを望み、自身と紗矢の本体との立場を入れ替えた。つまり、左腕は文字通りの「物の怪」になったのだ。もう少し簡単に言えば、紗矢の本体は左腕に、そして左腕は紗矢の本体になった。ただし、フィルが言った真の意味での物の怪になれるのは、当然紗矢の本体だけでしかない。

 さて、そうしたときに、紗矢の左腕は、この世界に残り続けるために、とある方法を思いついた。それは、ほかの存在から寿命、つまり時間を奪うことで、この世界に存続する、というものだった。このとき、フィルが役に立つことになる。

 紗矢が屋上から飛び降りたとき、フィルはまだ七つ目の命だった。したがって、紗矢のあとを追ってフィルが飛び降り自殺を遂行しても、彼はまだ死ねない。左腕はフィルの時間を徐々に蝕み、自身がまだこの世界から消えないようにした。しかし、それにも限界がある。フィルの九つ目の命を使い果たしたとき、左腕は、今度は月夜に目をつけた。こうして、月夜は紗矢に化けた左腕と知り合いになり、彼女に時間を奪われることになった。だから、紗矢と一緒にいる間、彼女の体感的な時間は早くなったのだ。それはあくまで主観的なずれとして表れたから、紗矢の傍から離れたとき、周囲との時間の差は補正される。その補正作業が、山の中から外に出たときに行われた。

「ねえ、紗矢」天井を見ながら、月夜は話す。「紗矢は、フィルのために死ぬのは、怖くなかったの?」

 紗矢は月夜を見る。

「怖かったよ。でも、それで彼が死なないのなら、それでもいいかなって思った」

 月夜はフィルを見る。彼は丸まって目を閉じている。

「本当に?」

「本当だよ」紗矢は笑った。「うん……。たしかに、ちょっとまともな発想ではなかったかもしれないね。きっと、彼のことばかり考えていて、自分のことを考える余裕がなかったんだと思うよ。私は、一つのことしか考えられな質だから、それに集中すると、ほかのことが見えなくなっちゃうんだ」

 自分はどうだろう、と月夜は考える。彼女はどちらかといえば反対だ。一つのことに集中しないし、常に俯瞰的に物事を観察しようとする。紗矢と月夜の、どちらの方が優れているか、という話ではない。人それぞれで良い。どちらも、特定の条件下では役に立つ。汎用性の高低についても述べられない。

「苦しくなかった?」

「何が?」

「自分一人で、抱え込むのが」

「うーん、どうかな……。私は、むしろ、それが嬉しかったのかもしれない。彼を独り占めできるのが、堪らなく嬉しかったのかも……」

「そう……」

「月夜には、理解できない?」

「理解はできるよ。でも、共感はできない」

「うん、それでいいと思う。無理に感情をはたらかせる必要はないよ。そういう人もいるんだな、と思ってくれれば、それで充分」

「分かった。じゃあ、そう思っておく」

「月夜には、そんなふうに思える人が、いる?」

「そんなふうに思えるかは、分からない」

「じゃあ、いるんだね」

 月夜は小さく頷いた。

「私みたいなことは、しちゃ駄目だよ」唇に自分の人差し指を当てて、紗矢は話す。「私は、それで満足だったけど、でも、やっぱり、間違えていたと思う。月夜が、もし、私と同じことをしようとしても、私はきっと止めようとしない。でも……。今は、やらない方がいいよ、とだけ伝えておくよ」

 紗矢の顔を見て、月夜は頷いた。それは彼女も同感だった。

「それにしても、よく、あんな決断を、すぐにできたね」紗矢が話す。

「あんな決断、とは?」

「自分の将来を手放す、という決断」

「手放しても、特に問題ない、と分かっていたから、すぐにできた」

「まあ、そうか」

「それで大丈夫だった?」

「うん……。大丈夫かな」

「論理的な結論は、必ず大丈夫なものになる」

「じゃあ、私なんてもう絶望的だね……」

「うん」

「あ、肯定するんだ」

「ううん」

 月夜は、物の怪と化した左腕に、自分の時間を与えることを決断した。自分の時間を与える、というのは、つまり今後自分が何も生み出せなくなる、ということを意味する。もっと言えば、生み出せなくなるのではなく、産み出せなくなる、といった方が正しい。

 しかし……。

 彼女には、確信があった。目の前に紗矢がいることで、そんな突拍子もない決断をしても、何も困らないことが分かっていた。

 暫くの間、二人とも黙る。フィルはもともと話に参加していないから、カウントされない。

 自分は何をしたのだろう、と月夜は考える。

 この数週間は、想像もつかないことばかり起きた。ほんの二十日あまりのことにすぎないが、それでも、月夜は、何ヶ月もかけて旅行したような気分だった。つまり、多少なりとも疲れている。それは瞬間的な疲れではなく、蓄積された疲労みたいだった。そんなふうに感じるのは本当に珍しい。毎日学校に通っている方が余程疲れるのではないか、とさえ思う。

 紗矢を救えたとは思わなかった。いや、思いたくなかった、というべきか。自分は、どちらかというと、彼らの関係に干渉してしまったのだ、と月夜は思う。けれど、少なくとも、物事がプラスの方向には向かったのだから、それで良いといえばそれで良い。問題は、本当にプラスの方向に向かうべきだったのか、ということだ。

 紗矢はそれを望んでいたのか?

 フィルはそれを望んでいたのか?

 そして、自分はそれを望んでいたのか?

 ……分からない。

 他人のことならまだしも、自分のことさえ分からないなんて、どれほど小さな精神なのだろう。

「月夜は、空を飛んでみたい?」

 考え事をしていると、紗矢が唐突に言った。

「空? ……飛んでみたい、とは思わない」

「じゃあ、どうしてみたいの?」

「浮かんでみたい」

「ああ、なるほど。たしかに、それもいいかも」

「紗矢は、もう帰るの?」

「帰るって?」

「もう行くの?」

「行くって?」

「向こうに」

 紗矢は笑った。

「なんだ、分かっていたんだ……。……うん、そうしようかな、と考えていたところ」

「そっか」

「でも、フィルは置いていこうかな」

 月夜は驚いた。

「……どうして?」

「うーん、なんとなく、君に預けておいた方がいいかな、と思ったから」

「それは、よくない」月夜は話す。「二人は、一緒にいるべきだよ。きっと、フィルもそれを望んでいる」

 しかし、フィルは相変わらず目を閉じていて、応えない。

「うん、でも……。やっぱり、月夜に預けるよ。いや、預かってほしい。私が先に行くだけだから、大丈夫だよ。二度と会えなくなるわけじゃないから、心配しないで。少しの間、君の傍で預かってもらうだけ。それなら、いいでしょう?」

 月夜は紗矢の顔を見る。

 紗矢も月夜の顔を見つめた。

「分かった」

「よかった。どうもありがとう」

「うん……」

 フィルは物の怪になれたが、紗矢は物の怪にはなれなかった。その立場は、彼女のなくなった左腕に取られた。左腕は、本物の物の怪になるはずの紗矢を出し抜いて、自ら偽物の物の怪になった。だから、紗矢がこの世界から消える、というのは、言ってみれば当然の結果だ。フィルがこの世界に残る、というのも、別に何も間違っていない。彼は正真正銘の物の怪なのだから。

「大晦日の夜に、向こうに行くよ」紗矢は言った。「あの山の中から……。気が向いたら、会いに来てね。あ、フィルと一緒に過ごすので忙しかったら、来なくてもいいよ。全然、気にしないから、二人で楽しんでね」

「私は、フィルとはそういう関係ではない」

「でも、似合っているよ、月夜」

「どういう意味?」

「なんか、仲の良い相棒同士、みたいな感じがして」

「そうかな」

「うん。私にはそう見える」

「でも、フィルの彼女は、紗矢だよ」

「うーん、そうかなあ……。彼、もう、そんなふうに考えてくれていないかもしなれないし……」

 月夜は、フィルが薄く口元を持ち上げたのを、見逃さなかった。

 時計の針が午前五時を指す。夜はいつもあっという間に過ぎる。学校で授業を受けている時間よりも、夜の数時間の方が圧倒的に有益だ、と月夜は感じる。それは個人的な価値観にすぎないが、彼女はやはり夜が好きだった。夜こそが地球の真の姿ではないか、とさえ思うこともある。しかし、地球はそれ単体で存在しているわけではない。太陽があるから夜がある。太陽がなければ、そもそも夜という状態は存在しえない。

 自分がいることで、紗矢が存在するのだろうか?

 そうかもしれない。すべては関係している。

 あそこで黒猫を拾ったのは、偶然ではなかったかもしれない。しかし、フィルという一匹の猫に出会ったのは偶然だった、と考えることもできる。フィルである必然性はなかった。ほかの猫でも良かったはずだ。たまたま、月夜が出会ったのはフィルだった。その出会いには、何らかの価値を見出すことができる。

「じゃあ、私は帰るよ」

 ソファから立ち上がって、紗矢が言った。

「うん……」月夜は応える。「大晦日の夜に、フィルと一緒に行くね」

「分かった。でも、無理はしないでね」

「無理とは?」

「フィルもだよ」月夜の質問には答えず、紗矢は彼の頭を撫でる。「月夜の傍にいてあげてね」

「任せろ」フィルは低い声で応えた。

 玄関からではなく、紗矢は硝子戸から出ていった。彼女が戸を開けたとき、空に三日月が上っているのが見えた。十二月のこのタイミングに、三日月が上ることはありえるだろうか、と月夜は考える。奇妙な考えだった。現に、それは、今彼女の目の前に存在している。何もかも合理的に考えようとするから、そういった制約を受けるようになる。何もかもがルールに従っている必要はない。ルールは人を愚かにする。フィルや紗矢は、死んだら消える、という生き物のルールを逸脱した。そちらの方が有益だと考えたからだろう。そして、その思考はきっと正しい。少なくとも、その結果として二人に出会えたことを、月夜が良かったと感じているのは確かだ。

「紗矢が言った通りでいいのか?」フィルが言った。

「言った通りって、どういうこと?」

「あいつだけ一人で行かせて、お前はそれでいいのか、という質問だ」

「私はそれでいい」

「本当に?」

「紗矢が決めることだよ」

「お前はどうしたいんだ?」

「私は、彼女が決めたことを尊重したい。フィルはどうしたいの?」

「まあ、俺もお前と同じだ」

「じゃあ、どうしてそんなことを訊くの?」

「俺とお前の距離が離れていないか、確かめたかっただけさ。つまり、安心を望んでいたんだ。孤独を感じないようにな」

「紗矢は、孤独かな?」

「孤独ではないだろう。あいつは一人でも大丈夫だ。俺なんかに惚れなければ、あいつはもっと強かったはずだ。そして、俺と暫くの間別れて、あいつはもう一度その強さを取り戻す。それでいいんだ。あいつは、人のためなら自分を殺せる人間なんだ」

「フィルがそうさせたんじゃないの?」

 月夜の言葉を受けても、彼は何も言わなかった。

 月夜は、フィルと紗矢の関係にはできるだけ立ち入らない、と決めていた。立ち入るというのが、どの程度からそう呼ぶのかは分からないが、とにかく、深く干渉しなければ良い。今回のことで、たしかに月夜は二人の関係に深く干渉した。けれど、フィルも、紗矢も、そんな月夜を許してくれたようだ。二人が死を選んだ過去には、月夜はまったく関係がない。それは確かだ。だから、フィルのせいで紗矢が死んだのだとしても、彼を責めるような気持ちにはならなかった。

 すべては、人の自由だ。

 生きる自由が与えられているように、死ぬ自由も万人に与えられている。

 愛情を表現する方法はいくらでもある。

 紗矢は、それを、フィルが望んだやり方で示したにすぎない。

「月夜、眠らないのか?」

 黄色い瞳を向けて、フィルは月夜に尋ねる。

「君が、私の分まで眠ってくれれば、それでいいよ」月夜は応えた。
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