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第7章 神々
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「月夜、クッキーは持ったか?」
「クッキーって、何?」
クリスマスになった。イヴではない。正真正銘の当日だ。月夜の家には、サンタクロースはやって来なかった。当たり前だ。よく、父親がサンタクロースだから、サンタクロースは存在しない、といった主張を耳にするが、それは論理的に間違えている。父親がサンタクロースだったからといって、世界のどこにも、サンタクロースは存在しない、というわけではない。あなたの家では、サンタクロースの役を父親がやっていた、というだけであって、サンタクロースは、世界のどこかにはいるかもしれない。反対に、いないことを証明するのは、ほとんど不可能だといって良い。悪魔の証明、というやつだ。
「クッキーとは何か、だって?」歩きながら、フィルが言った。「小麦粉を使った、焼き菓子のことに決まっているじゃないか」
「今、手には持っていない」
「じゃあ、その、手提げ鞄の中に入っているんだな。分かった」
「うん、入っているよ」
「いちいち、面倒臭い手順を踏まないと、話が通じないようだ」
「どうして、話が通じないの?」
「まあ、主体が見ているものと、客体が見ているものでは、まったく違う、ということだろう」
「どう違うの?」
「つまり、視点が違う。見えるものと、見えないものが、それぞれある。鏡を通して自分を見ることはできても、その行為をしている自分を、背後から見ることはできないだろう?」
「できない」
「そういうことさ」
「どういうこと?」
月夜は、帽子を被ってこなかった。紗矢は、サンタクロースの帽子を被ってきてほしい、と言っていたが、そんなものは持っていないので、被ることはできない。それでは、別の帽子を被っていこうか、という議論をフィルとしたが、そんな必要はないと判断して、結局、何も被っていかないことになった。
便箋と、封筒は、紗矢に言われた通り持ってきた。筆記用具も持っている。けれど、今日はクリスマス当日だから、今からサンタクロースに手紙を書いても、もう意味がないだろう。月夜は、それを分かっていて、昨日は紗矢の所に行かなかった。どうしてそんな選択をしたかというと、これが特に理由はない。たまたま、事の成り行きで、そうなっただけだ。事の成り行きとはおそろしいものだ、と月夜はまるで他人事のように考える。事実、その通り、彼女にとっては他人事だ。まさか、紗矢も、サンタクロースに手紙を送ったら、本当にプレゼントが貰えるとは考えていないだろう。
ビンゴについても、そんなものは持っていないから、今日はやるつもりはなかった。近所の店を探しても、見つからなかった。
時刻は午後六時だ。もう空は暗い。完全に夜といって良い。パーティーをするのだから、やはり、夜だろう、というフィルの意見を採用して、月夜はこの時間帯に紗矢の所に行くことにした。
「それじゃあ、今日のイベントは、サンタクロース宛に、手紙を書く、ということだけか?」草原に立ち入ったとき、フィルが尋ねた。
「うん」
「なんとも、寂しいクリスマスだな」
「そうかな?」
「しかも、届かない手紙を、二人で書くのか」
「そうなるね」
「なかなかシュールだな」
「そうかな……」
「月夜は、そういう意味のないことが好きなのか?」
「特に、好きだと感じるものは、ない」
「何も?」
「好きと、嫌いの、境界がはっきりしていないから、何も言えない」
「相変わらずだな」
「フィルは、意味のないことが好き?」
「意味がある方が、好きだな」
「自分みたいに?」
「それ、どういう意味だ?」
「ごめんなさい、適当に言いました」
「どうして、突然敬語になる?」
「敬いたかったから」
石造りの階段を上る。山の中が暗いのは分かっていたから、月夜は懐中電灯を持ってきていた。それで足もとを照らしながら、二人は先へと進む。フィルは、今は月夜の手提げ鞄の中だった。
山道は若干湿っていた。朝の霧がまだ残っているのかもしれない。草の香りと、土の香りが混ざって、自然をすぐ傍に感じた。自然とは何か、と訊かれても、たぶん誰も答えられないだろう。もちろん、答えることに価値があるとはいえない。答えない、というのが、最も懸命な対応かもしれない。
静かだった。
今日は、鳥の鳴き声は聞こえない。
やがて、道が開けて、神社がある広場に到着した。
紗矢は、石段の上に座っていた。
「月夜」二人に気づいて、紗矢が声を出しながら立ち上がった。「ちょっと、月夜……」
「何?」
「もう……」
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないじゃん」紗矢は月夜の袖を引いて、自分の隣に座らせる。「もう、どうして、昨日の内に来てくれなかったの?」
「どうして、と訊かれても、答えられない」
「ずるい」
「何が?」
「まったく、酷いなあ……」
たしかに、酷いかもしれないな、と月夜は思った。その通り、彼女は酷いことをした。もう、サンタクロースは、自分の国に帰ってしまったに違いない。
「メリークリスマス」月夜は言った。
「もう、遅いよう」紗矢が口を尖らせる。「プレゼント、もう、もらえないよ……」
「ごめんね」
「それ、本気で謝っている?」笑いながら、紗矢は月夜の顔を覗き込む。「でも、まあ、いいよ。なんか、月夜って発想が飛躍しているよね」
「そう?」
「うん……。あと、危機感がない、という感じもする」
「どうして、危機感が必要なの?」
「だって、その方が安全じゃない?」
「そうかもしれないけど、危機感は、ない方が、いいと思うよ」
「まあね」
「便箋と、封筒を持ってきたけど、書く?」
「今から?」紗矢は笑った。「今から書いても、もう、誰にも届かないじゃん」
「来年の分のお願いを、今年の内にしておく」
「ああ、なるほど……」
「書く?」
「うーん、どうしようかなあ……」紗矢は自身の顎に人差し指を当てて、考える。「……うん、でも、せっかくだから、書こう」
「紗矢は、何が欲しいの?」
「プレゼント?」
「うん」
「内緒」
「内緒が、欲しいの?」
「違うよ」
持ってきたクッキーと、麦茶を口に含みながら、二人はサンタクロースに向けて手紙を書いた。もちろん、飲食をするのは月夜だけだ。この表現は、貴重といえば貴重だろう。普段飲食をしない彼女が、だけ、と限定を伴って、飲食をすると描写されている。なかなかお目にかかれる表現ではない。
月夜は、サンタクロースへの手紙に、時間を下さい、と書いた。ほかに何も思いつかなかったからだ。彼女には、基本的に、欲しいものがない。何も欲しくないわけではないが、特別これが欲しい、と感じたことはなかった。だから、普通なら手に入らない最も有益なものとして、時間を選んだ。理由はそれだけだ。大した理由ではない。
紗矢は、幸せが欲しい、と書いていた。彼女らしいといえば彼女らしい。何が彼女を彼女たらしめるのか、それは分からない。けれど、その文面を見たとき、月夜はなぜかそう感じた。紗矢が、死ぬ前に、幸せを掴めたのか、掴めなかったのか、月夜には分からない。この場合は、どちらでも良い、とは言い切れない。それは、自分が彼女の友達だからかもしれない、と月夜はふと思う。そんなことを思うのは、しかし本当に珍しかった。自分ではない誰かを、自分と深い関係があると感じるのは、月夜にはあまりないことだ。
二人は、書き終えた便箋を丁寧に畳んで、封筒の中に仕舞った。月夜は、紗矢が書いたものを預かることにした。ここに置いておくわけにはいかない、と紗矢が自分からそうするように頼んだからだ。月夜は、特に断る理由がなかったから、紗矢のお願いを受け入れた。
「ああ、クリスマスか……。今頃、皆、恋人同士で、何か楽しいことでもやっているんだろうな……」紗矢が呟く。
「何か、楽しいこと、とは?」
「一緒にソファに座りながら、映画を観たりとか、食事をしながら愛を語り合ったりとか、あとは、プレゼントの交換会を開いたりとか、じゃないの?」
「紗矢は、そういうことがしたいの?」
「うーん、どうかなあ……。したいような、しなくてもいいような……」
「俺とやるのは、嫌らしいからな」月夜の膝の上にいるフィルが、低い声で話す。
「別に、嫌じゃないけどさあ……。今ひとつ、ぱっとしない感じだよね」
「失礼だな」
月夜はフィルの頭を撫でる。彼は、今は大人しくしている。もっとも、彼は普段から大人しい。
「月夜は、こんな所にいていいの?」
「ん? こんな所って?」
「私なんかと、こんな場所で、貴重な時間を消費していていいのか、という質問だよ」
「そうしてほしいって、紗矢が言ったんだよ」
「あ、そうか……。……もしかして、無理させちゃったかな? ……ごめんね」
「どうして、謝るの?」
「なんか、悪いことしたかな、と思って」
「よく、分からないけど……」
「ほかに、用事とかなかった?」
「用事は、ない」月夜は話す。「紗矢と、一緒にいるのは、楽しいよ」
「本当に?」紗矢は表情を明るくする。
「うん」
「よかったあ……。なんか、嫌われちゃうかもしれないって、心配していたんだ、私……」
「どうして、私が、紗矢を嫌うの?」
「うん、なんとなく……」
「なんとなくで、誰かを嫌う人がいるの?」
「いるかもね、どこかには」
「月夜は、ほかのやつとは、感覚がずれているからな」フィルが言った。「本人は、自覚していないみたいだが」
「自覚?」月夜は首を傾げる。
「ほらな」
「ほらな?」
「なんだ? 何か気に障ったのか?」
「フィルって、月夜と一緒のときも、いつもこんな感じなの?」紗矢が尋ねる。
「うん、そうだよ」
「いや、違うね」フィルが断言する。「お前と一緒にいるときだけだ、俺が、こんな無愛想なのは」
「やっぱり……」紗矢が呟いた。
「そうなの?」月夜は首の角度を大きくする。
「ああ、そうだ」フィルは薄く笑い、軽くウインクした。「俺は、いい子だからな」
いい子とは、私のことかな、と月夜は思った。
「ねえ、紗矢」月夜は言った。「一つ訊いてもいい?」
「何?」
「どうして、私にフィルを拾わせたの?」
月夜がそう尋ねると、紗矢は少しだけ驚いたような顔をした。少しだけ驚いた、のではない。少しだけ、驚いたような顔をしたのだ。それほど重要なことではないが、紗矢は、あまり、声を上げて驚くようなタイプではない。
「……フィルが、そう言ったの?」
「そうだよ」
紗矢はフィルを見る。彼は顔を横に向けて、小さく欠伸をした。どうやら、二人の話に付き合う気はないらしい。
「そっか……」
紗矢は、何も否定しなかった。
夜の冷たい空気が流れる。木々が音を立てて揺れ、草原がある方から、吹き込むように風が入り込んできた。寒い。月夜は今日もコートを着ていない。紗矢に関しては、今も半袖のままだった。きっと、もう温度を感じないのだろう。それはそれで、とても良いかもしれない、と月夜は思う。フィルの暖かさを傍で感じられないのは、少しだけ寂しいが……。
「あのね、月夜」
「何?」
「私は、特別君を選ぼうと思ったわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、君のことが見えて、君も私たちが見えるみたいだったから、君を選んだ、というだけ」紗矢は話す。「あとは、君の風貌が気に入ったから、かな……。うん、理由なんて、その程度のものだよ。何か、特別な理由があったわけじゃない。少なくとも、私は、そう考えている」
「あの時間に、あの場所に、フィルを置いて、私を誘ったの?」
「そうだよ」
「どうして、紗矢が、直接、私の所に来なかったの?」
「私は、ここから出られないから」
「どうして?」
「気になるの?」
「気には、ならないけど、訊いておいた方がいいかな、と思った」
「フィルは、移動できる。けれど、私はできない。どうしてか分かる?」
「分からないよ。どうして?」
「フィルは、空間だからだよ」
「空間?」月夜は首を傾げる。
「そう、空間……」紗矢は言った。「空間は、自由に移動できる。そう、移動……。つまりは、物質の位置が変わる、ということだよね。私は、あまり、そういう学問に詳しくないから、よくは分からないけど……」
「それが、どうかしたの?」
「それが、彼が移動できる理由だよ」
「どういうこと?」
「どういうことだと思う?」
月夜は、一度黙って考える。
紗矢の説明は、少々おかしいところがある、と彼女は思った。まず、空間は、自由に移動できる、というのは、「空間」が主語なのではない。空間の中を、「私」あるいは「誰か」が、自由に移動できる、という意味だ。だから、普通、空間が、主体的に、移動できる、という捉え方はしない。しかし、紗矢はそれを混同している。いや、意図的にそうしている、と考えた方が良いかもしれない。これは、一種の言葉遊びだ。そんなふうに、言い包めようと思えば、どんなことでも、適当に言い包められるのだ。人間が持ち合わせる論理とは、そういうものだ。
「月夜は、フィルと一緒にいてくれる? それとも、もう一緒にいてくれない?」
「私は、いいよ。でも、紗矢は、それでいいの?」
紗矢は月夜を見る。
月夜も紗矢を見た。
数秒間、視線が交錯する。
「私は、それでいい」やがて、月夜から目を逸らして、紗矢は言った。「それでいいよ」
月夜は、前を向いたまま答える。
「分かった」
「何が?」
「紗矢の考えを、承認した、という意味」
「うん……。月夜なら、そう言うと思ったよ」
「予想していたの?」
「予想、というほどではないけど、なんとなく、そんな気がしていた」
「紗矢、笑わないの?」
「どういう意味?」
「嬉しくないの?」
「どういう意味?」
沈黙。
フィルは退屈そうだ。その通り、退屈なのだろう。人間の少女らが、何やら真剣そうなやり取りをしている、くらいに考えているに違いない。彼は、どんなことでも他人事だ。自分が関与していないと思っている。しかし、月夜は、彼のそんな態度が好きだった。自分もそんなふうに生きられたら良い、と素直に思う。思いは、常に素直だ、と考えたことがある。けれど、素直は、常に思いではない。どうして、そんなことを考えるのか? 考える必要がないのに、それでも考えてしまうのは、どうしてだろう?
紗矢は、身を乗り出して、月夜を軽く抱きしめた。
「何?」
月夜は尋ねる。
「ごめんね……」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
「うん……」
「月夜、温かいね」
「そう?」
「うん。私なんかよりずっと」
「私は、よく、冷たい、と言われる」
「たぶん、私が体温を持たないから、今は月夜の方が温かいんだよ」
「なるほど」
「何が、なるほどなの?」
「特に、意味のない、相槌」
「月夜は、素直だね」
「そうかな」
「そうだよ。……私も、もっと素直になりたかった」
「誰に対して?」
「自分に対して」
「それは、難しいよ」
「難しかったら、できなくても、いいかな?」
「いい、と、思う」
「ありがとう」
「なぜ、感謝するの?」
「なぜだと思う?」
月夜には、分からなかった。
空から雪が降ってくる。雪を見てから、雪だ、と月夜は思った。季節外れではないが、予想外ではある。彼女は、あまりテレビを見ないから、天気予報は確認していない。空はたしかに曇っていた。暗いから、気づかなかった。これが、ホワイトクリスマス、というものらしい。
人は、なぜ、勉強するのだろう? 一度勉強したからといって、それですべてが身につくわけではない。必ず、失われる部分が存在する。決して完全にはならない。それなのに、何度も同じことを繰り返して、内容を記憶して、少しでも自分の能力が上がれば、と期待する。いずれ死んでしまうのに、どうしてそんなことをするのか、月夜は不思議に感じる。
彼女は、言うなれば、学校の成績のために勉強している。自分の能力を上げる、ということを、勉強の目的にしていない。それは、つまり、やらされている、ということでもある。学校に通って、与えられた課題をこなして、次に進む。それらはすべて計画されている。けれど、習得の精度には個人差があるから、すべての生徒が、計画された通りに目標を達成できる、というわけではない。人間は、生まれながらにして不平等なのだから、すべての生徒の勉強の量や質が同じでも、結局のところ差に変化は生じない。だから、能力のない生徒は、能力がある生徒以上に勉強しなくてはならなくなる。どうして、そんな不合理なことを求めるのか。能力がないのなら、もう、それで良いではないか。どうして、それ以上鍛錬しなくてはならないのか。しても、仕方がない。だって、いつか死んでしまうのだから……。
自分が発見した成果が、自分が死んだあとで、ほかの人に受け継がれる。それが楽しいから、学問を極めるのだ、と言う人もいる。けれど、いつまで、そんなことを続けるつもりだろう? 終わりがないのに、いったい何を目標にしているのか。それが、月夜には分からない。生命は、そういったサイクルに縛られている。それを断ち切ることはできない。断ち切ろうとすれば、たちまち環境というシステムに阻害される。人間にそのサイクルを断ち切らせないために、世界には、予め、安全装置が組み込まれているのだ。では、それは何のためだろう? そう考えても、結局何の答えも出ない。それは、目標や、目的を掲げるのが、人間に特有な行為だからかもしれない。では、人間が、目標や、目的を掲げるのは、どうしてだろう?
そう……。目標や、目的なんて、本当は存在しない。
人間が、存在すると錯覚しているだけだ。
それらがあれば、素晴らしいと感じるし、それらがなければ、価値はないと感じる。
だから、皆、将来の夢を掲げて、それを頼りに生きている。それがなければ、まともに生きることすらできない。生物として、ここまで脆弱な種はほかにない。人間は、弱い生き物だ。生物という集合の中で、最も生きる能力を持っていないのではないか。
横を向いて、月夜は紗矢を見る。
紗矢は、死んだのに、まだ、こうして、この世界に留まっている。それは、彼女が人間だったからかもしれない。やはり、目標や、目的がないと、死後の世界でも生きていけないのだ。だから、ここに座って、自分と会話をする、そのために生きている、と思い込んでいる。あるいは、ほかにも、目標や目的が存在するのかもしれない。
ほかの、目標や、目的。
では、それらがすべて達成されれば、紗矢は消えてしまうのか?
消えるために、目標や、目的を掲げている?
なんて、馬鹿げているのだろう……。
そして、なんて、寂しい存在なのだろう……。
「月夜、何、考えているの?」
紗矢が訊いた。
「少し、わけの分からないこと」
「へえ、どんな?」紗矢はにこにこ笑って話す。「聞かせてよ。そういう話、大好きだよ」
「紗矢は、何のために、ここにいるの?」
「私?」紗矢は少し不思議そうな顔をした。「うーん、なんとなく、かな……。……月夜は、どうして、生きているの?」
「どうしてだろう……」
「それを、考えていたの?」
「うん、まあ、そう」
「そういうときって、あるよね」
「そう?」
「うん……。私も、よく考えたよ。死んでしまいたい、とも思った。結果的に、その願いは叶ったけど、でも、死んでも、何も変わらないんだよね。いっそのこと、死ぬことを目標に、それだけを楽しみに生きられたら、どれほど素晴らしかっただろう、と、今になって思うよ。彼と、毎日、それだけを頼りに生きる。どう? 素晴らしいって思わない?」
「少し、思う」
「まだまだ、楽しいことは、あったかもしれないね。今さら、もう遅いけど……。月夜は、そうならないように、祈っているよ。なるべくなら、死ぬのは早くない方がいい。まあ、こんなこと、いちいち言わなくても分かると思うけど……」
「自分から、死ぬのは、いけないこと?」
「いいこと、ではないよ」紗矢は笑った。「いけない、とは言えないけどね」
「私が、死にたいって言ったら、どうする?」
「私は、止めるかもしれない」
「うん……。それは、正しい、かな」
「……どうだろう。正しいことなんて、何もないのかもしれない」
ペットボトルの中身を飲みながら、月夜はお茶について考えた。
彼女は、どちらかというと、お茶が好きだ。どれくらい好きかというと、少なくとも、牛乳以上には好きだといえる。牛乳は、動物から齎される液体だから、彼女はあまり好きではない。その点、お茶は植物から齎される液体だから、彼女は、好ましい、と感じる。
月夜は、基本的に、動物の肉や、動物の油が嫌いだ。その第一の理由は、それらが、自分と同じ「動物」というカテゴリーに属する生き物の、殺された成れの果てのものだからだ。しかし、この理屈がおかしいことはすぐに分かる。なぜなら、植物にも、命があることに変わりはないからだ。動物を殺すと嫌悪感を抱くのに、植物を殺しても特に何も感じない、というのは、明らかに人間のエゴだ。あるいは、もう少し規模を大きくして、動物のエゴだともいえる。動物は、無意味にほかの動物を殺さない。しかし、動物は、意味がなくても、様々な植物を殺す。これは、動物と、植物の間に、何らかの差があらからだと考えられる。ほとんどの人間は、その差を無意識の内に認識している。言葉で詳細に説明できない、というだけで、その差が存在すること自体は、ほとんどの人間は分かっているのだ。
いっそのこと、植物になりたい、と月夜は思う。
植物は、痛みを感じるのか? たとえ痛みを感じても、表現する手段がなければ、それは誰にも伝わらない。動物は、痛みを感じると、それを身体を使って表現する。だから、同じ「動物」というカテゴリーに属する人間には、それが分かる。けれど、植物の場合は分からない。ここには、言語的な相違がある、とも考えられる。植物が使う言語を、人間が理解できれば、あるいは、彼らと意思の疎通を図ることができるかもしれない。
そうした結果、もし、植物が、痛みを感じていると分かったら、もっといえば、もし、植物にも、動物と同じように、感情と呼べるものがあると分かったら、人間はどうするだろう? それでも、自分勝手なエゴで、彼らを殺すだろうか?
植物も、人間と同じように、色々なことを考えているかもしれない。人間は考える葦である、と言った科学者がいたが、本当は、葦は考える人間であるのかもしれない。本当にそうだとしたら、人間はどうしたら良いだろう? そう考えたとき、月夜は、どうしても、皆消えてしまえば良いのではないか、という結論に至ってしまう。彼女には、それ以外の解決策は考えられなかった。本当は、それは、解決策、とは呼べない。人間が救われなければ、解決策ではない。人間が関わらない解決策というものは、この世界には存在しない。
世界とは何か?
世界と、人間の社会は、同義か?
……分からない。
そう、分からないことだらけ。
これだけ多くの動物を殺して、これだけ多くの植物を殺して、多種多様な手段でエネルギーを消費して、様々に思考した結果人間が導き出した答えが、分からない、という酷く空疎なものだったら、神様はどう思うだろう?
人間なんて、生み出さなければ良かった、と後悔するだろうか?
どうだろう?
「月夜、今夜は、ここに泊まっていけば?」紗矢が言った。
「家に帰って、フィルとお風呂に入らないと」
「フィルと、私と、どっちが大切?」紗矢は笑いながら尋ねる。
月夜は暫く考える。
やがて、彼女は、最も合理的な結論に至った。
「お風呂が、一番大切」
紗矢は、沈黙して、応えなかった。
「クッキーって、何?」
クリスマスになった。イヴではない。正真正銘の当日だ。月夜の家には、サンタクロースはやって来なかった。当たり前だ。よく、父親がサンタクロースだから、サンタクロースは存在しない、といった主張を耳にするが、それは論理的に間違えている。父親がサンタクロースだったからといって、世界のどこにも、サンタクロースは存在しない、というわけではない。あなたの家では、サンタクロースの役を父親がやっていた、というだけであって、サンタクロースは、世界のどこかにはいるかもしれない。反対に、いないことを証明するのは、ほとんど不可能だといって良い。悪魔の証明、というやつだ。
「クッキーとは何か、だって?」歩きながら、フィルが言った。「小麦粉を使った、焼き菓子のことに決まっているじゃないか」
「今、手には持っていない」
「じゃあ、その、手提げ鞄の中に入っているんだな。分かった」
「うん、入っているよ」
「いちいち、面倒臭い手順を踏まないと、話が通じないようだ」
「どうして、話が通じないの?」
「まあ、主体が見ているものと、客体が見ているものでは、まったく違う、ということだろう」
「どう違うの?」
「つまり、視点が違う。見えるものと、見えないものが、それぞれある。鏡を通して自分を見ることはできても、その行為をしている自分を、背後から見ることはできないだろう?」
「できない」
「そういうことさ」
「どういうこと?」
月夜は、帽子を被ってこなかった。紗矢は、サンタクロースの帽子を被ってきてほしい、と言っていたが、そんなものは持っていないので、被ることはできない。それでは、別の帽子を被っていこうか、という議論をフィルとしたが、そんな必要はないと判断して、結局、何も被っていかないことになった。
便箋と、封筒は、紗矢に言われた通り持ってきた。筆記用具も持っている。けれど、今日はクリスマス当日だから、今からサンタクロースに手紙を書いても、もう意味がないだろう。月夜は、それを分かっていて、昨日は紗矢の所に行かなかった。どうしてそんな選択をしたかというと、これが特に理由はない。たまたま、事の成り行きで、そうなっただけだ。事の成り行きとはおそろしいものだ、と月夜はまるで他人事のように考える。事実、その通り、彼女にとっては他人事だ。まさか、紗矢も、サンタクロースに手紙を送ったら、本当にプレゼントが貰えるとは考えていないだろう。
ビンゴについても、そんなものは持っていないから、今日はやるつもりはなかった。近所の店を探しても、見つからなかった。
時刻は午後六時だ。もう空は暗い。完全に夜といって良い。パーティーをするのだから、やはり、夜だろう、というフィルの意見を採用して、月夜はこの時間帯に紗矢の所に行くことにした。
「それじゃあ、今日のイベントは、サンタクロース宛に、手紙を書く、ということだけか?」草原に立ち入ったとき、フィルが尋ねた。
「うん」
「なんとも、寂しいクリスマスだな」
「そうかな?」
「しかも、届かない手紙を、二人で書くのか」
「そうなるね」
「なかなかシュールだな」
「そうかな……」
「月夜は、そういう意味のないことが好きなのか?」
「特に、好きだと感じるものは、ない」
「何も?」
「好きと、嫌いの、境界がはっきりしていないから、何も言えない」
「相変わらずだな」
「フィルは、意味のないことが好き?」
「意味がある方が、好きだな」
「自分みたいに?」
「それ、どういう意味だ?」
「ごめんなさい、適当に言いました」
「どうして、突然敬語になる?」
「敬いたかったから」
石造りの階段を上る。山の中が暗いのは分かっていたから、月夜は懐中電灯を持ってきていた。それで足もとを照らしながら、二人は先へと進む。フィルは、今は月夜の手提げ鞄の中だった。
山道は若干湿っていた。朝の霧がまだ残っているのかもしれない。草の香りと、土の香りが混ざって、自然をすぐ傍に感じた。自然とは何か、と訊かれても、たぶん誰も答えられないだろう。もちろん、答えることに価値があるとはいえない。答えない、というのが、最も懸命な対応かもしれない。
静かだった。
今日は、鳥の鳴き声は聞こえない。
やがて、道が開けて、神社がある広場に到着した。
紗矢は、石段の上に座っていた。
「月夜」二人に気づいて、紗矢が声を出しながら立ち上がった。「ちょっと、月夜……」
「何?」
「もう……」
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないじゃん」紗矢は月夜の袖を引いて、自分の隣に座らせる。「もう、どうして、昨日の内に来てくれなかったの?」
「どうして、と訊かれても、答えられない」
「ずるい」
「何が?」
「まったく、酷いなあ……」
たしかに、酷いかもしれないな、と月夜は思った。その通り、彼女は酷いことをした。もう、サンタクロースは、自分の国に帰ってしまったに違いない。
「メリークリスマス」月夜は言った。
「もう、遅いよう」紗矢が口を尖らせる。「プレゼント、もう、もらえないよ……」
「ごめんね」
「それ、本気で謝っている?」笑いながら、紗矢は月夜の顔を覗き込む。「でも、まあ、いいよ。なんか、月夜って発想が飛躍しているよね」
「そう?」
「うん……。あと、危機感がない、という感じもする」
「どうして、危機感が必要なの?」
「だって、その方が安全じゃない?」
「そうかもしれないけど、危機感は、ない方が、いいと思うよ」
「まあね」
「便箋と、封筒を持ってきたけど、書く?」
「今から?」紗矢は笑った。「今から書いても、もう、誰にも届かないじゃん」
「来年の分のお願いを、今年の内にしておく」
「ああ、なるほど……」
「書く?」
「うーん、どうしようかなあ……」紗矢は自身の顎に人差し指を当てて、考える。「……うん、でも、せっかくだから、書こう」
「紗矢は、何が欲しいの?」
「プレゼント?」
「うん」
「内緒」
「内緒が、欲しいの?」
「違うよ」
持ってきたクッキーと、麦茶を口に含みながら、二人はサンタクロースに向けて手紙を書いた。もちろん、飲食をするのは月夜だけだ。この表現は、貴重といえば貴重だろう。普段飲食をしない彼女が、だけ、と限定を伴って、飲食をすると描写されている。なかなかお目にかかれる表現ではない。
月夜は、サンタクロースへの手紙に、時間を下さい、と書いた。ほかに何も思いつかなかったからだ。彼女には、基本的に、欲しいものがない。何も欲しくないわけではないが、特別これが欲しい、と感じたことはなかった。だから、普通なら手に入らない最も有益なものとして、時間を選んだ。理由はそれだけだ。大した理由ではない。
紗矢は、幸せが欲しい、と書いていた。彼女らしいといえば彼女らしい。何が彼女を彼女たらしめるのか、それは分からない。けれど、その文面を見たとき、月夜はなぜかそう感じた。紗矢が、死ぬ前に、幸せを掴めたのか、掴めなかったのか、月夜には分からない。この場合は、どちらでも良い、とは言い切れない。それは、自分が彼女の友達だからかもしれない、と月夜はふと思う。そんなことを思うのは、しかし本当に珍しかった。自分ではない誰かを、自分と深い関係があると感じるのは、月夜にはあまりないことだ。
二人は、書き終えた便箋を丁寧に畳んで、封筒の中に仕舞った。月夜は、紗矢が書いたものを預かることにした。ここに置いておくわけにはいかない、と紗矢が自分からそうするように頼んだからだ。月夜は、特に断る理由がなかったから、紗矢のお願いを受け入れた。
「ああ、クリスマスか……。今頃、皆、恋人同士で、何か楽しいことでもやっているんだろうな……」紗矢が呟く。
「何か、楽しいこと、とは?」
「一緒にソファに座りながら、映画を観たりとか、食事をしながら愛を語り合ったりとか、あとは、プレゼントの交換会を開いたりとか、じゃないの?」
「紗矢は、そういうことがしたいの?」
「うーん、どうかなあ……。したいような、しなくてもいいような……」
「俺とやるのは、嫌らしいからな」月夜の膝の上にいるフィルが、低い声で話す。
「別に、嫌じゃないけどさあ……。今ひとつ、ぱっとしない感じだよね」
「失礼だな」
月夜はフィルの頭を撫でる。彼は、今は大人しくしている。もっとも、彼は普段から大人しい。
「月夜は、こんな所にいていいの?」
「ん? こんな所って?」
「私なんかと、こんな場所で、貴重な時間を消費していていいのか、という質問だよ」
「そうしてほしいって、紗矢が言ったんだよ」
「あ、そうか……。……もしかして、無理させちゃったかな? ……ごめんね」
「どうして、謝るの?」
「なんか、悪いことしたかな、と思って」
「よく、分からないけど……」
「ほかに、用事とかなかった?」
「用事は、ない」月夜は話す。「紗矢と、一緒にいるのは、楽しいよ」
「本当に?」紗矢は表情を明るくする。
「うん」
「よかったあ……。なんか、嫌われちゃうかもしれないって、心配していたんだ、私……」
「どうして、私が、紗矢を嫌うの?」
「うん、なんとなく……」
「なんとなくで、誰かを嫌う人がいるの?」
「いるかもね、どこかには」
「月夜は、ほかのやつとは、感覚がずれているからな」フィルが言った。「本人は、自覚していないみたいだが」
「自覚?」月夜は首を傾げる。
「ほらな」
「ほらな?」
「なんだ? 何か気に障ったのか?」
「フィルって、月夜と一緒のときも、いつもこんな感じなの?」紗矢が尋ねる。
「うん、そうだよ」
「いや、違うね」フィルが断言する。「お前と一緒にいるときだけだ、俺が、こんな無愛想なのは」
「やっぱり……」紗矢が呟いた。
「そうなの?」月夜は首の角度を大きくする。
「ああ、そうだ」フィルは薄く笑い、軽くウインクした。「俺は、いい子だからな」
いい子とは、私のことかな、と月夜は思った。
「ねえ、紗矢」月夜は言った。「一つ訊いてもいい?」
「何?」
「どうして、私にフィルを拾わせたの?」
月夜がそう尋ねると、紗矢は少しだけ驚いたような顔をした。少しだけ驚いた、のではない。少しだけ、驚いたような顔をしたのだ。それほど重要なことではないが、紗矢は、あまり、声を上げて驚くようなタイプではない。
「……フィルが、そう言ったの?」
「そうだよ」
紗矢はフィルを見る。彼は顔を横に向けて、小さく欠伸をした。どうやら、二人の話に付き合う気はないらしい。
「そっか……」
紗矢は、何も否定しなかった。
夜の冷たい空気が流れる。木々が音を立てて揺れ、草原がある方から、吹き込むように風が入り込んできた。寒い。月夜は今日もコートを着ていない。紗矢に関しては、今も半袖のままだった。きっと、もう温度を感じないのだろう。それはそれで、とても良いかもしれない、と月夜は思う。フィルの暖かさを傍で感じられないのは、少しだけ寂しいが……。
「あのね、月夜」
「何?」
「私は、特別君を選ぼうと思ったわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、君のことが見えて、君も私たちが見えるみたいだったから、君を選んだ、というだけ」紗矢は話す。「あとは、君の風貌が気に入ったから、かな……。うん、理由なんて、その程度のものだよ。何か、特別な理由があったわけじゃない。少なくとも、私は、そう考えている」
「あの時間に、あの場所に、フィルを置いて、私を誘ったの?」
「そうだよ」
「どうして、紗矢が、直接、私の所に来なかったの?」
「私は、ここから出られないから」
「どうして?」
「気になるの?」
「気には、ならないけど、訊いておいた方がいいかな、と思った」
「フィルは、移動できる。けれど、私はできない。どうしてか分かる?」
「分からないよ。どうして?」
「フィルは、空間だからだよ」
「空間?」月夜は首を傾げる。
「そう、空間……」紗矢は言った。「空間は、自由に移動できる。そう、移動……。つまりは、物質の位置が変わる、ということだよね。私は、あまり、そういう学問に詳しくないから、よくは分からないけど……」
「それが、どうかしたの?」
「それが、彼が移動できる理由だよ」
「どういうこと?」
「どういうことだと思う?」
月夜は、一度黙って考える。
紗矢の説明は、少々おかしいところがある、と彼女は思った。まず、空間は、自由に移動できる、というのは、「空間」が主語なのではない。空間の中を、「私」あるいは「誰か」が、自由に移動できる、という意味だ。だから、普通、空間が、主体的に、移動できる、という捉え方はしない。しかし、紗矢はそれを混同している。いや、意図的にそうしている、と考えた方が良いかもしれない。これは、一種の言葉遊びだ。そんなふうに、言い包めようと思えば、どんなことでも、適当に言い包められるのだ。人間が持ち合わせる論理とは、そういうものだ。
「月夜は、フィルと一緒にいてくれる? それとも、もう一緒にいてくれない?」
「私は、いいよ。でも、紗矢は、それでいいの?」
紗矢は月夜を見る。
月夜も紗矢を見た。
数秒間、視線が交錯する。
「私は、それでいい」やがて、月夜から目を逸らして、紗矢は言った。「それでいいよ」
月夜は、前を向いたまま答える。
「分かった」
「何が?」
「紗矢の考えを、承認した、という意味」
「うん……。月夜なら、そう言うと思ったよ」
「予想していたの?」
「予想、というほどではないけど、なんとなく、そんな気がしていた」
「紗矢、笑わないの?」
「どういう意味?」
「嬉しくないの?」
「どういう意味?」
沈黙。
フィルは退屈そうだ。その通り、退屈なのだろう。人間の少女らが、何やら真剣そうなやり取りをしている、くらいに考えているに違いない。彼は、どんなことでも他人事だ。自分が関与していないと思っている。しかし、月夜は、彼のそんな態度が好きだった。自分もそんなふうに生きられたら良い、と素直に思う。思いは、常に素直だ、と考えたことがある。けれど、素直は、常に思いではない。どうして、そんなことを考えるのか? 考える必要がないのに、それでも考えてしまうのは、どうしてだろう?
紗矢は、身を乗り出して、月夜を軽く抱きしめた。
「何?」
月夜は尋ねる。
「ごめんね……」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
「うん……」
「月夜、温かいね」
「そう?」
「うん。私なんかよりずっと」
「私は、よく、冷たい、と言われる」
「たぶん、私が体温を持たないから、今は月夜の方が温かいんだよ」
「なるほど」
「何が、なるほどなの?」
「特に、意味のない、相槌」
「月夜は、素直だね」
「そうかな」
「そうだよ。……私も、もっと素直になりたかった」
「誰に対して?」
「自分に対して」
「それは、難しいよ」
「難しかったら、できなくても、いいかな?」
「いい、と、思う」
「ありがとう」
「なぜ、感謝するの?」
「なぜだと思う?」
月夜には、分からなかった。
空から雪が降ってくる。雪を見てから、雪だ、と月夜は思った。季節外れではないが、予想外ではある。彼女は、あまりテレビを見ないから、天気予報は確認していない。空はたしかに曇っていた。暗いから、気づかなかった。これが、ホワイトクリスマス、というものらしい。
人は、なぜ、勉強するのだろう? 一度勉強したからといって、それですべてが身につくわけではない。必ず、失われる部分が存在する。決して完全にはならない。それなのに、何度も同じことを繰り返して、内容を記憶して、少しでも自分の能力が上がれば、と期待する。いずれ死んでしまうのに、どうしてそんなことをするのか、月夜は不思議に感じる。
彼女は、言うなれば、学校の成績のために勉強している。自分の能力を上げる、ということを、勉強の目的にしていない。それは、つまり、やらされている、ということでもある。学校に通って、与えられた課題をこなして、次に進む。それらはすべて計画されている。けれど、習得の精度には個人差があるから、すべての生徒が、計画された通りに目標を達成できる、というわけではない。人間は、生まれながらにして不平等なのだから、すべての生徒の勉強の量や質が同じでも、結局のところ差に変化は生じない。だから、能力のない生徒は、能力がある生徒以上に勉強しなくてはならなくなる。どうして、そんな不合理なことを求めるのか。能力がないのなら、もう、それで良いではないか。どうして、それ以上鍛錬しなくてはならないのか。しても、仕方がない。だって、いつか死んでしまうのだから……。
自分が発見した成果が、自分が死んだあとで、ほかの人に受け継がれる。それが楽しいから、学問を極めるのだ、と言う人もいる。けれど、いつまで、そんなことを続けるつもりだろう? 終わりがないのに、いったい何を目標にしているのか。それが、月夜には分からない。生命は、そういったサイクルに縛られている。それを断ち切ることはできない。断ち切ろうとすれば、たちまち環境というシステムに阻害される。人間にそのサイクルを断ち切らせないために、世界には、予め、安全装置が組み込まれているのだ。では、それは何のためだろう? そう考えても、結局何の答えも出ない。それは、目標や、目的を掲げるのが、人間に特有な行為だからかもしれない。では、人間が、目標や、目的を掲げるのは、どうしてだろう?
そう……。目標や、目的なんて、本当は存在しない。
人間が、存在すると錯覚しているだけだ。
それらがあれば、素晴らしいと感じるし、それらがなければ、価値はないと感じる。
だから、皆、将来の夢を掲げて、それを頼りに生きている。それがなければ、まともに生きることすらできない。生物として、ここまで脆弱な種はほかにない。人間は、弱い生き物だ。生物という集合の中で、最も生きる能力を持っていないのではないか。
横を向いて、月夜は紗矢を見る。
紗矢は、死んだのに、まだ、こうして、この世界に留まっている。それは、彼女が人間だったからかもしれない。やはり、目標や、目的がないと、死後の世界でも生きていけないのだ。だから、ここに座って、自分と会話をする、そのために生きている、と思い込んでいる。あるいは、ほかにも、目標や目的が存在するのかもしれない。
ほかの、目標や、目的。
では、それらがすべて達成されれば、紗矢は消えてしまうのか?
消えるために、目標や、目的を掲げている?
なんて、馬鹿げているのだろう……。
そして、なんて、寂しい存在なのだろう……。
「月夜、何、考えているの?」
紗矢が訊いた。
「少し、わけの分からないこと」
「へえ、どんな?」紗矢はにこにこ笑って話す。「聞かせてよ。そういう話、大好きだよ」
「紗矢は、何のために、ここにいるの?」
「私?」紗矢は少し不思議そうな顔をした。「うーん、なんとなく、かな……。……月夜は、どうして、生きているの?」
「どうしてだろう……」
「それを、考えていたの?」
「うん、まあ、そう」
「そういうときって、あるよね」
「そう?」
「うん……。私も、よく考えたよ。死んでしまいたい、とも思った。結果的に、その願いは叶ったけど、でも、死んでも、何も変わらないんだよね。いっそのこと、死ぬことを目標に、それだけを楽しみに生きられたら、どれほど素晴らしかっただろう、と、今になって思うよ。彼と、毎日、それだけを頼りに生きる。どう? 素晴らしいって思わない?」
「少し、思う」
「まだまだ、楽しいことは、あったかもしれないね。今さら、もう遅いけど……。月夜は、そうならないように、祈っているよ。なるべくなら、死ぬのは早くない方がいい。まあ、こんなこと、いちいち言わなくても分かると思うけど……」
「自分から、死ぬのは、いけないこと?」
「いいこと、ではないよ」紗矢は笑った。「いけない、とは言えないけどね」
「私が、死にたいって言ったら、どうする?」
「私は、止めるかもしれない」
「うん……。それは、正しい、かな」
「……どうだろう。正しいことなんて、何もないのかもしれない」
ペットボトルの中身を飲みながら、月夜はお茶について考えた。
彼女は、どちらかというと、お茶が好きだ。どれくらい好きかというと、少なくとも、牛乳以上には好きだといえる。牛乳は、動物から齎される液体だから、彼女はあまり好きではない。その点、お茶は植物から齎される液体だから、彼女は、好ましい、と感じる。
月夜は、基本的に、動物の肉や、動物の油が嫌いだ。その第一の理由は、それらが、自分と同じ「動物」というカテゴリーに属する生き物の、殺された成れの果てのものだからだ。しかし、この理屈がおかしいことはすぐに分かる。なぜなら、植物にも、命があることに変わりはないからだ。動物を殺すと嫌悪感を抱くのに、植物を殺しても特に何も感じない、というのは、明らかに人間のエゴだ。あるいは、もう少し規模を大きくして、動物のエゴだともいえる。動物は、無意味にほかの動物を殺さない。しかし、動物は、意味がなくても、様々な植物を殺す。これは、動物と、植物の間に、何らかの差があらからだと考えられる。ほとんどの人間は、その差を無意識の内に認識している。言葉で詳細に説明できない、というだけで、その差が存在すること自体は、ほとんどの人間は分かっているのだ。
いっそのこと、植物になりたい、と月夜は思う。
植物は、痛みを感じるのか? たとえ痛みを感じても、表現する手段がなければ、それは誰にも伝わらない。動物は、痛みを感じると、それを身体を使って表現する。だから、同じ「動物」というカテゴリーに属する人間には、それが分かる。けれど、植物の場合は分からない。ここには、言語的な相違がある、とも考えられる。植物が使う言語を、人間が理解できれば、あるいは、彼らと意思の疎通を図ることができるかもしれない。
そうした結果、もし、植物が、痛みを感じていると分かったら、もっといえば、もし、植物にも、動物と同じように、感情と呼べるものがあると分かったら、人間はどうするだろう? それでも、自分勝手なエゴで、彼らを殺すだろうか?
植物も、人間と同じように、色々なことを考えているかもしれない。人間は考える葦である、と言った科学者がいたが、本当は、葦は考える人間であるのかもしれない。本当にそうだとしたら、人間はどうしたら良いだろう? そう考えたとき、月夜は、どうしても、皆消えてしまえば良いのではないか、という結論に至ってしまう。彼女には、それ以外の解決策は考えられなかった。本当は、それは、解決策、とは呼べない。人間が救われなければ、解決策ではない。人間が関わらない解決策というものは、この世界には存在しない。
世界とは何か?
世界と、人間の社会は、同義か?
……分からない。
そう、分からないことだらけ。
これだけ多くの動物を殺して、これだけ多くの植物を殺して、多種多様な手段でエネルギーを消費して、様々に思考した結果人間が導き出した答えが、分からない、という酷く空疎なものだったら、神様はどう思うだろう?
人間なんて、生み出さなければ良かった、と後悔するだろうか?
どうだろう?
「月夜、今夜は、ここに泊まっていけば?」紗矢が言った。
「家に帰って、フィルとお風呂に入らないと」
「フィルと、私と、どっちが大切?」紗矢は笑いながら尋ねる。
月夜は暫く考える。
やがて、彼女は、最も合理的な結論に至った。
「お風呂が、一番大切」
紗矢は、沈黙して、応えなかった。
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