6 / 10
第6章 朗々
しおりを挟む
午前六時に目を覚まし、いつも通り一時間ほど勉強した。それから、フィルと一緒に家を出て、月夜は買い物に出かけた。買い物といっても、それほど遠出をするわけではない。家のすぐ傍にあるスーパーマーケットで、企業としての規模はかなり大きいが、建物自体はそれほど大きくなかった。おそらく、この辺りに空いている土地がないからだ。玄関を出て、坂道を下ると、すぐにそのスーパーマーケットに到着した。
動物、しかも猫をスーパーマーケットの中に入れるのは、規則違反ではないか、と思ったから、月夜はフィルを自分のウエストポーチに仕舞った。仕舞った、といっても、完全に密閉したわけではない。まあ、密閉したところで、彼は全然困らないだろう、と思ったが、一応、万が一に備えて、そうしておくことにした(万が一、の意味は不明)。
入り口で籠を手に取って、月夜は前に進む。今日は、紗矢とやることになったクリスマスパーティーのために、買い出しに来た。お菓子と飲み物くらいあれば良い。日常品に関しては、今は充分足りていたから、今日は買う必要はなかった。
月夜は、普段から食事をしないから、生物はできる限り買わないようにしている。保存食となれば、乾燥したものが大半だが、現代では、冷凍食品、といった大変便利なものが出回っている。だから、彼女はそのお世話になることが多かった。あるいは、そもそも、保存という行為をしない、といった選択をすることも可能だ。つまり、食べるときに買う。こうすることで、何かを食べたくなったときに限って、それが家にない、といった事態を避けることができる。もっとも、月夜が、積極的に、何かを食べたい、などと考えることは皆無といって良いが……。
お菓子コーナーでクッキーを手に取ったとき、フィルが言った。
「それを買っても、食べるのはお前だけだ、月夜」
月夜は手元のパッケージを見ながら、彼の呟きに応える。
「うん、分かっている」
「クッキーが好きなのか?」
「動物性のものが、使われていないものがいい、と思ったから、確認している」
「なんだ、月夜。お前は、ベジタリアンだったのか?」
「ベジタリアン、とは?」
「野菜しか食べない人、のことじゃないかな、おそらく」
「おそらく、ということは、自信がないの?」
「きちんとした定義とは、ずれている可能性がある、ということさ」
「ベジタリアンと、ビーガンの違いは?」
「調べてみたらどうだ?」
「どうやって?」
「図書館に行くなりして」
「今は冬休みだから、図書館は閉まっている」
「それなら、ネットで調べればいいのさ、ちゃちゃっとな」
「ネットは、あまり、使いたくない」
「どうしてだ?」
「理由はない」月夜は話す。「直感的に、そう感じる」
「感じるものは、すべて直感的さ」
「フィルは、クッキーは食べる?」
「俺は、もう、食べ物なんて必要ないんだよ」フィルは言った。「食べられないこともないだろうが、まあ、食べないね、意味がないから」
「意味って?」
「深い意味はない」
「どういう意味?」
「意味が好きなのか?」
「特に、好きではない」
「さっさと買おう」
「うん……」
月夜は移動する。歩きながら、彼女はフィルに話しかけた。
「ねえ、フィル。紗矢は、どうして、死のうと思ったのかな?」
「また、同じことを考えているのか?」フィルが呆れたような声を出す。「だから、あいつが自分で言っていただろう? 彼氏の身代わりになろうと思ったんだ。本当に、素晴らしいことだな。俺には、到底、そんなことはできない。他人のために、自分を殺すなんてな」
「じゃあ、その反対はできるの?」
「反対?」
「自分のために、自分を殺す」
「さあ、どうかな……」フィルは尋ねる。「どうして、そんなことを訊くんだ?」
「なんとなく」
「紗矢のことなら、心配しなくていい」
「心配は、していない。気になる、といった方が正しい」
「どちらでも同じだろう。両者とも、紗矢に関する事柄を、頭で考えている、という意味を示している。つまり、あいつのことを意識しているんだ」
「それは、その通り」
「どうして、お前がそんなことを考える必要があるんだ?」
「必要は、ない。でも、考えてしまう」
「まあ、そういうときもあるさ」
「紗矢は、屋上から飛び降りた」月夜は話す。「何十年も、前のこと……。暑い夏だった。彼氏を庇うために、自分が死ぬところを見せた。……どうして、突発的に、そんなことを思いついたんだろう?」
「さあね、知らないよ。彼女に訊いてみたらどうだ?」
「訊いたけど、分からない、と言っていた」
「じゃあ、分からないんだよ」
「そうかな……」
店内は空いている。平日だったが、今は冬休みだから、そうした雰囲気がどこからともなく伝わってくるような気がする。
「私にも、そんなことができるかな?」
「さあ、どうだろうな。できると思っても、実際に行動するのとは、また別の話だ」
「うん、そう」
「月夜は、紗矢が好きなんだな」
「どうして?」
「どうしてかは伝えられない。しかし、そういうのを、好き、と呼ぶのさ」
「私は、紗矢が、好きだよ」
「なんだ、自覚しているんじゃないか」
「自覚は、するものではない」
飲み物のコーナーに辿り着いて、月夜は適当に飲料を選ぶ。炭酸は極力飲みたくなかった。栄養がないのに、お腹が膨れる、というのが、はっきりいって意味が分からない。というわけで、健康的に麦茶を選んでおく。クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか、と一瞬考えたが、まあ、良いだろう、と思って、何も躊躇せずに籠に入れた。
「クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか?」
たった今考えたことを、フィルに指摘される。
「うん、そうだよ」
「変わっているな」
「何が?」
「いや、何も……」
クッキーと麦茶が入った籠を持って、レジへと向かう。これだけなら、籠に入れる必要はなかったな、と月夜は思った。
何かほかに買うものがないか、と思って、少し遠回りをしてレジに向かうことにする。魚介類や、肉類が、冷蔵棚にいくつも陳列されていたが、月夜はそれを見たくなかった。こういった症状は、ときどき何の前兆もなく訪れる。どうしてか、そうした断面を見ると、気持ち悪い、と感じてしまうのだ。人間は、陳列された魚の死体や、肉の断片を、その通り「死体」や「断片」として認識しないらしい。それは、どうしてだろう? 仮に、そこに兎の死体や、カンガルーの断片が並べられていたら、どう思うのだろう? こんなふうに、人間は、普通、自分の思考に何らかのバイアスをかけている。かかっている、のではない。意識的にかけているのだ。だから、ときどき、それが外れる。月夜の頭脳は、合理的に思考しようとする癖があるから、そういったバイアスの影響を受けにくい。けれど、そうは言っても、やはり多少の偏見は持つものだ。自分では偏見だと思っていないものが、実はとてつもない偏見だった、ということもある。
最後に、野菜のコーナーを見て、レジに向かおうとした。
しかし、そのとき、月夜の身体は止まった。
籠を持っていない方の腕を見る。
誰かに掴まれた、と感じたからだ。
しかし、周囲を見渡してみても、彼女の傍には誰もいない。
おかしい……。
その感覚は、生々しくて、冷たくて、確かなものだった。
確かなもの?
確かなものとはなんだろう?
生きていれば、確かなのか?
死んでいれば、確かではないのか?
「どうした、月夜」
ウエストポーチから顔を出したフィルに声をかけられて、月夜は我に返る。
「いや、何も」
「早く行こう。ここは寒い」
フィルに促されて、月夜はレジに向かった。
買い物を済ませたら、もう、ほかに寄るべき場所はない。横断歩道を渡って、坂道を上った。自分の家は、それなりに高い所にあるのだな、と月夜はぼんやりと考える。人、人、人。自分は、人だろうか、と唐突に思う。
どれほど風が冷たくても、人は毎日仕事に向かい、どれほど空気が乾燥していても、人は毎日学校に通う。どうして、そんなことをするのか。どうして、そんなことをする必要があるのか。誰かに操られているのではないか、と思えることが、月夜にはしばしばあった。まるで、みんな、仕事をするために、あるいは、学校に通うために、生まれてきたように見える。現に、そう考えている人もいるだろう。それは、とても素晴らしいことだが、同時にとても悲しいことでもある。しかし、人間は、もともと悲しい生き物だ。だから、悲しくて当然だ、と主張することもできる。けれど、そんな主張をしても、きっと誰も聞いてくれない。心の中では、みんな気づいているはずなのに……。
月夜は、それが、悲しい、とは思わなかった。
つまり、自分は人、人間、では、ないのか?
どっちでも良かった。
そんなことを考えている内に、いつか自分も死ぬだろう、と純粋に思う。
「今日は、紗矢の所に行かないのか?」フィルが訊いた。彼は、今はウエストポーチから出て、アスファルトの上を歩いている。
「行った方が、いいかな?」
「さあね。お前が来れば、あいつは喜ぶだろうが、あいつを喜ばせるために、お前が行動する必要はないからな」
「必要って、なんだろう?」
「義務、と似ているものだな」
「義務って、なんだろう?」
「堂々巡りになる。やめよう、そういう会話は」
「フィル、好きだよ」
「それは、どうもありがとう。嬉しいよ、月夜」
「紗矢の左腕は、どこに行ったの?」
フィルは月夜の顔を見上げる。
「……急に、どうしたんだ?」
「死んだときに、左腕を、なくした、と言っていた」
「そうらしいな」
「その、左腕は、どうなったの?」
「俺は知らない。どうして、そんなことが気になるんだ?」
「どうしてかは、分からない」
「月夜、合理的に考えるんだ。それが、お前という人間だろう?」
「私には、自分が、人間かなんて、分からない」
「それなら、お前は月夜だ。月夜は、いつも合理的に考える。それでいい」
「うん……」
「眠いのか?」
「一緒に寝る?」
「遠慮しておくよ。猫は夜行性なのさ」
「じゃあ、なおさら、今の内に眠っておいた方がいい」
「夜行性なら、眠るのも、夜にすべきだ」
「どうして?」
「素晴らしい理屈だろう?」
「理屈?」
「論理的じゃないか?」
「論理的?」
沈思。
論理とは何か? 人間は、論理的にしか考えられないのか?
家に着いた。玄関を開けて、中に入る。買ってきたものを所定の位置に仕舞ってから、硝子戸を開けて、月夜はソファに座った。フィルも彼女の膝の上に乗る。
「今日は、紗矢の所には、行かない」月夜は言った。「今度、クリスマスパーティーをするときに会うから、それでいい」
「そうか」
「フィルは、何がしたい?」
「それは、何の話だ?」
「クリスマスパーティー」
「俺は何もしたくない。その間、眠っていよう」フィルは話す。「そういえば、紗矢が、サンタクロースの帽子を持ってこい、とか言っていたが、あれは、どうするつもりなんだ?」
「持っていないから、持っていけない」
「当たり前だな」
「普通の帽子じゃ、駄目かな?」
「ないよりは、あった方がましなんじゃないか」
「あっても、ないのと、変わらないかもしれない」
「まあ、サンタクロースのものでなければ、持っていく意味はないかもな」
「あと、サンタクロースに手紙を書くために、封筒と、便箋を、用意しないといけない」
「それくらい家にあるだろう?」
「ある、はず」
「はず?」
「手紙なんて、書かないから」
「書かないで、どうするんだ?」
「読む」
「貰うのか? 誰から?」
「貰ったことは、あまりない」
「だろうな」
「ねえ、フィル」月夜はフィルの黄色い瞳を見る。「私の傍にいるのは、どうして?」
「お前の近くが、居心地が良いからだ」
「本当に? それだけの、理由?」
「そうさ」
「嘘、吐いているんじゃない?」
フィルは月夜をじっと見つめる。
「どういう意味だ?」
「ううん、深い意味はないよ。ただ、何か、考えていることがあるんじゃないかな、と思って」
「俺が、そんなことをするように見えるか?」
「少し、見える」
「何も考えていないさ」
「うん……」
「信じられないんだな」
「信じては、いるよ。でも、論理的な思考と、感情的な判断は、無関係だから」
「なるほど」
「どうして、私の傍にいるの?」
「紗矢に、そうするように言われたからだ」
月夜は黙った。フィルと数秒間見つめ合う。
フィルの瞳は、とても綺麗だった。この場合の綺麗とは、果たしてどういう意味だろう、と月夜は思考する。おそらく、エネルギー効率が良い、という意味ではない。それは確かだ。では、自分にとって利益になる、という意味か。それは、もしかすると、そうかもしれない。フィルの瞳を見ることで、何かは分からないが、自分にとって、利益になるものがある。結果的に、それを綺麗と感じる、という可能性もなくはない。
「どうして、紗矢はそんなことを頼んだの?」
「それは、知らない」
「どうして、知らないの?」
「禅問答だな。知らないものは、知らないんだ」
「教えて」
「月夜」
「何?」
「綺麗だよ」
「どうもありがとう。でも、それと、これとは、関係がないよ」月夜は微笑む。
「紗矢に、直接訊いてくれないか」
「君は、教えてくれないの?」
「ああ、教えられない。これ以上は、無理なんだ」
「どうして、無理なの?」
「どうして、という問いには、答えられないことが多い、ということを、知っておいた方がいい」
「知っているよ。でも、問いかけるのは自由だよ。たとえ、君が、それで、答えてくれないとしても、私が問いかけるのは、自由だよ」
「折れる気がないな」
「うん……」月夜は少し俯く。「……ごめんね」
「謝る必要はない」
「でも、ごめんなさい」
「泣かないでくれ」
「泣いていないよ」
「そう……。しかし、泣きそうだ」
「私も、泣くかもしれない、と思った」
フィルは面白そうに笑った。
「紗矢に、直接訊くんだ、月夜」フィルは話す。「それが、お前にとっても救いになる」
「救い? どんな?」
「救いというものに、種類はないんだ」
「そっか」
「ああ、そうだ」
「フィルは、誰のもの?」
「誰のものでもない。俺は、お前の傍にいるよ、月夜」
「できるなら、紗矢の傍にいてあげてほしい」月夜は伝える。「それが、君の役割なんじゃないの?」
「……どうして、そんなことを言う?」
「……何が?」
「いや……」フィルは言った。「なんでもない。気にしないでくれ」
月夜は、言われた通り、気にしなかった。
「紗矢は、お前を大層気に入っている。お前は、それに応えてくれるだけでいいんだ。それ以上は望まない。あいつのためにも、お前のためにもな」
「うん」
「紗矢と、仲良くしてやってくれ」
「うん、するよ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
カーテンが揺れる。室内の空気が入れ替わった。
月夜は、フィルを抱きかかえて、ソファから立ち上がる。そのまま二階に移動し、自室の机の前にある椅子に座った。
「勉強するのか?」
「うん」
「どうして、勉強するんだ?」
「フィルも、質問が好きなんだね」
「別に好きじゃないさ」
「そう?」
「ああ」
参考書を広げて、ペンを持つ。スタンドライトの電源を入れた。ページに書いてある問題を見て、ノートに解答を書く。終わったら丸つけをして、間違えたところをもう一度解き直す。こんなに簡単な作業が、ほかにあるだろうか、と月夜は思う。
フィルは、暇だったから、月夜の部屋の窓から外に出て、屋根に上がった。
空気は澄んでいるが、とても冷たい。月夜は、どうやら、家にいる間、あまり暖房をつけないようだ。猫の彼にとっては、あまり好ましい環境ではない。暖房の纏わりつくような暖かさが、月夜はあまり好きではないのかもしれない。頭が痛くなったりするのだろうか。
目の前に山脈があって、その向こう側は見えなかった。左手には、ずっと住宅街が続いている。紗矢が住む山は右手にあって、ときどき鳥の鳴き声が聞こえてきた。こんなに寒くても、声を張り上げる動物がいる。自分と同じように、暇なのだろうな、とフィルは考える。
月夜は、もう気づいているのだ、と彼は思った。考えたのではない。つまり、論理的な思考をして、そうした結論に至ったのではない、という意味だ。なんとなく、そう思った。彼女なら、気づいてもおかしくはない、と感じる。そう……。それは、信頼と、少し似ている感覚だ。根拠もなしに、そんなふうに思うのだから……。そもそも、思うのに、根拠は必要ないのかもしれない。
紗矢のことを考えた。彼女は、今、何をしているだろう? あの石段に座って、ずっと居眠りをしているのか。
フィルは、紗矢が好きだった。それは、月夜に感じるのとは、多少違った好意だ。しかし、どちらとも恋愛感情ではない。そもそも、猫が人間と子孫を残すことはできないのだから、恋愛感情、というものが生じるはずがない。けれども、それ以前に、恋愛感情と、単純な好意の間に、違いがあるのか、とも思う。どうして、その二つを区別しなくてはならないのか? そんなことをしなければ、きっと人間の世界はもっと豊かになるだろう、と彼は思う。しかし、次の瞬間には、自分には関係のないことだ、とも思った。いつもそうだ。だから、彼は提案をしない。この世界に存在する、ありとあらゆる事柄が、最終的には、自分とは関係がない、と言い切れる。たぶん、あまり素晴らしいことではないだろう。しかし、フィルは、それが、自分らしさだと思っていた。自分らしさ……。いつ使っても、不思議な言葉だ。
恋愛感情ではないとしても、二人に対する好意は確かに存在する。そして、フィルは、その内紗矢に対するものが、月夜に対するものより少し強いことを、自覚していた。自覚、という言い方は違うかもしれない。そう思いたいのだ。そう……。紗矢と月夜のどちらかを選ばなくてはならない、といった、なんともロマンチック、かつ、なんともミラキュラスな場面に遭遇したら、自分は、きっと、紗矢を選ぶだろう、とフィルは思う。そこにも、確固とした理由はない。しかし、それで良い、と彼は考える。
屋根の上を歩いて、少し運動した。もしかすると、足音が響いて、月夜の集中を欠くかもしれない。
自分が、月夜に拾われた理由……。
月夜が、自分を拾った理由……。
どちらも、どうでも良いことだ。
気にするようなことではない。
でも、訊かれたら、答えなくてはならない。
隠す理由がないから、答えるのだ。
しかし、自分にはそれができない。だから、紗矢に代わりに答えさせようとしている。
いや、それも違うか……。そうするように言ったのは、紗矢なのだから。
そうやって、いつも、自分は逃げている。なんとも酷いやつだ、とフィルは感じる。
けれど、やはり、それで良い。
「フィル?」
部屋の中から、月夜の声が聞こえた。
「なんだ?」フィルは返事をする。
「寒くない?」
「ああ、全然」
「そう」
「もう、終わったのか?」
「いや、まだ」
「俺はここにいる。心配しないでくれ」
「心配は、していない」
「じゃあ、何をしているんだ?」
「勉強」
そう言って、月夜は黙った。
フィルは一人で笑いを堪える。
魔法について考えた。魔法が存在するとしたら、それを使えるのは、どんな人間だろう? 月夜みたいに、論理的な思考をする人間か? それとも、幼児みたいに、とびきり優れた感性を持ち合わせた、紗矢のような人間だろうか?
魔法を使えたら、彼女たちは、何をするだろう?
月夜は、きっと、魔法を使わないだろう。使っても、誰も救われない、とすぐに気づくはずだ。魔法とは、本来儚いものだ。すべての人々の願いを叶えるものではない。
紗矢なら、たぶん、何も考えないでそれを使う。まずは、自分のために。そして、次に、ほかの人のために。箒に跨って、夜の街を駆けるかもしれない。それはそれで面白い。ただし、彼女はすぐに転ぶから、今度は箒の上から転落するかもしれない。
三十分くらいして、フィルは部屋に戻った。月夜はまだ勉強している。先ほどと同じ教科かは分からなかった。同じことを、こんなに長時間続けられるのは、一種の才能だ、と彼は思う。月夜本人がどう思っているのかは分からないが、少なくとも、彼はそう思った。フィルは、同じことを繰り返すと、すぐに飽きる。だから、毎日違うことをしたい、と感じる。月夜と出会ってから、多少は日常に変化があった気がした。このまま、彼女とずっと一緒にいれば、それなりに面白い日々が送れるかもしれない。
インターフォンが鳴った。
月夜は、顔を上げて、部屋の入り口を見る。それから、ペンを机の上に置いて立ち上がった。
「客か?」月夜の肩に載りながら、フィルは尋ねる。
月夜は答えずに、黙って首を傾げた。
基本的に、彼女の家には、誰も訪ねてこない。それは、彼女に友人がいないからだ。通販を利用することも、出前をとることもない。回覧板なら、ポストに入れれば済む話だから、わざわざインターフォンを押す者はいない。
誰だろう、と想像しながら、月夜は階段を下りる。
靴を履いて、玄関のドアを開けた。
前方を確認してから、左側を見る。ドアは、彼女から見て右側に向かって開くから、そちらは死角になる。だから、顔をドアの向こう側に出して、そちらも確認した。しかし、誰の姿も見えない。インターフォンは、ドアのすぐ傍にあるから、ここにいないとなれば、インターフォンを押したあとで移動した、ということになる。悪戯だろうか、と月夜は考える。
そのまま、ドアを閉めて、彼女は家の中に戻る。
「誰もいないな」フィルが言った。「まあ、そういうこともあるだろう」
「そういうことって、どういうこと?」
「悪戯をする人間もいる、ということさ」
「どうして、そんなことをするの?」
「そうしたい気分なんだよ。もしかすると、子どもかもしれない。許してやれ、ちょっと魔が差しただけだ」
「うん。もちろん、それくらいなら、全然、構わないけど」
「全然構わない、というのは、少し違うと思うが」
ドアがノックされた。
月夜は後ろを振り返る。フィルもそちらを凝視した。今度は、確実だった。確実だった、の意味が分からないが、相手がすぐそこにいると分かった、という感じか。
月夜は、再び、ドアを開ける。
少しだけ、緊張した。
しかし、やはり、そこには誰もいなかった。左を見ても、顔を出してドアの右側を見ても、誰の姿もない。
透明人間かもしれない。
誰もいないはずがなかった。ドアがノックされて、月夜がそれを開けるまで、五秒くらいしかかからなかったのだ。その間に隠れられるような場所は、玄関の近くにはない。やはり、少しおかしい。聞き間違い、という可能性はない。二回も呼び出されたのだから、誰かが故意にやった、と考えるのが自然だ。しかし、その方法が分からない。
「月夜、ドアを閉めるんだ」フィルが耳もとで囁く。
「でも、誰か、うちに用があるのかもしれない」
そう言いながら、月夜は、さすがにそれはありえないか、と自分でも思った。
「真っ当な用があるなら、こんなことはしないさ。何か、後ろめたいことがあるんだ。今すぐ、ドアを閉めた方がいい」
「うん……」
月夜は、言われた通り、ドアを閉める。
リビングに入って、暫くの間、硝子戸から外の様子を観察していたが、結局誰も現れなかった。いったい、今のはなんだったのだろう、と考えてみたが、月夜に思い当たる節はない。
けれど……。
「気にしないで、勉強をしよう」フィルが言った。
彼は、月夜の肩から飛び降りて、床に着地する。
「君も、勉強するの?」
「大人しく、勉強していた方がいい」
「大人しくない状態で、勉強なんて、できないよ」
「そんな、凝った回答を期待しているわけじゃないんだ」
階段を上って、二人は自室へと戻る。
途中で後ろを振り返って、もう一度玄関の方に目を向けてみたが、ドアが再びノックされることはなかった。
動物、しかも猫をスーパーマーケットの中に入れるのは、規則違反ではないか、と思ったから、月夜はフィルを自分のウエストポーチに仕舞った。仕舞った、といっても、完全に密閉したわけではない。まあ、密閉したところで、彼は全然困らないだろう、と思ったが、一応、万が一に備えて、そうしておくことにした(万が一、の意味は不明)。
入り口で籠を手に取って、月夜は前に進む。今日は、紗矢とやることになったクリスマスパーティーのために、買い出しに来た。お菓子と飲み物くらいあれば良い。日常品に関しては、今は充分足りていたから、今日は買う必要はなかった。
月夜は、普段から食事をしないから、生物はできる限り買わないようにしている。保存食となれば、乾燥したものが大半だが、現代では、冷凍食品、といった大変便利なものが出回っている。だから、彼女はそのお世話になることが多かった。あるいは、そもそも、保存という行為をしない、といった選択をすることも可能だ。つまり、食べるときに買う。こうすることで、何かを食べたくなったときに限って、それが家にない、といった事態を避けることができる。もっとも、月夜が、積極的に、何かを食べたい、などと考えることは皆無といって良いが……。
お菓子コーナーでクッキーを手に取ったとき、フィルが言った。
「それを買っても、食べるのはお前だけだ、月夜」
月夜は手元のパッケージを見ながら、彼の呟きに応える。
「うん、分かっている」
「クッキーが好きなのか?」
「動物性のものが、使われていないものがいい、と思ったから、確認している」
「なんだ、月夜。お前は、ベジタリアンだったのか?」
「ベジタリアン、とは?」
「野菜しか食べない人、のことじゃないかな、おそらく」
「おそらく、ということは、自信がないの?」
「きちんとした定義とは、ずれている可能性がある、ということさ」
「ベジタリアンと、ビーガンの違いは?」
「調べてみたらどうだ?」
「どうやって?」
「図書館に行くなりして」
「今は冬休みだから、図書館は閉まっている」
「それなら、ネットで調べればいいのさ、ちゃちゃっとな」
「ネットは、あまり、使いたくない」
「どうしてだ?」
「理由はない」月夜は話す。「直感的に、そう感じる」
「感じるものは、すべて直感的さ」
「フィルは、クッキーは食べる?」
「俺は、もう、食べ物なんて必要ないんだよ」フィルは言った。「食べられないこともないだろうが、まあ、食べないね、意味がないから」
「意味って?」
「深い意味はない」
「どういう意味?」
「意味が好きなのか?」
「特に、好きではない」
「さっさと買おう」
「うん……」
月夜は移動する。歩きながら、彼女はフィルに話しかけた。
「ねえ、フィル。紗矢は、どうして、死のうと思ったのかな?」
「また、同じことを考えているのか?」フィルが呆れたような声を出す。「だから、あいつが自分で言っていただろう? 彼氏の身代わりになろうと思ったんだ。本当に、素晴らしいことだな。俺には、到底、そんなことはできない。他人のために、自分を殺すなんてな」
「じゃあ、その反対はできるの?」
「反対?」
「自分のために、自分を殺す」
「さあ、どうかな……」フィルは尋ねる。「どうして、そんなことを訊くんだ?」
「なんとなく」
「紗矢のことなら、心配しなくていい」
「心配は、していない。気になる、といった方が正しい」
「どちらでも同じだろう。両者とも、紗矢に関する事柄を、頭で考えている、という意味を示している。つまり、あいつのことを意識しているんだ」
「それは、その通り」
「どうして、お前がそんなことを考える必要があるんだ?」
「必要は、ない。でも、考えてしまう」
「まあ、そういうときもあるさ」
「紗矢は、屋上から飛び降りた」月夜は話す。「何十年も、前のこと……。暑い夏だった。彼氏を庇うために、自分が死ぬところを見せた。……どうして、突発的に、そんなことを思いついたんだろう?」
「さあね、知らないよ。彼女に訊いてみたらどうだ?」
「訊いたけど、分からない、と言っていた」
「じゃあ、分からないんだよ」
「そうかな……」
店内は空いている。平日だったが、今は冬休みだから、そうした雰囲気がどこからともなく伝わってくるような気がする。
「私にも、そんなことができるかな?」
「さあ、どうだろうな。できると思っても、実際に行動するのとは、また別の話だ」
「うん、そう」
「月夜は、紗矢が好きなんだな」
「どうして?」
「どうしてかは伝えられない。しかし、そういうのを、好き、と呼ぶのさ」
「私は、紗矢が、好きだよ」
「なんだ、自覚しているんじゃないか」
「自覚は、するものではない」
飲み物のコーナーに辿り着いて、月夜は適当に飲料を選ぶ。炭酸は極力飲みたくなかった。栄養がないのに、お腹が膨れる、というのが、はっきりいって意味が分からない。というわけで、健康的に麦茶を選んでおく。クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか、と一瞬考えたが、まあ、良いだろう、と思って、何も躊躇せずに籠に入れた。
「クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか?」
たった今考えたことを、フィルに指摘される。
「うん、そうだよ」
「変わっているな」
「何が?」
「いや、何も……」
クッキーと麦茶が入った籠を持って、レジへと向かう。これだけなら、籠に入れる必要はなかったな、と月夜は思った。
何かほかに買うものがないか、と思って、少し遠回りをしてレジに向かうことにする。魚介類や、肉類が、冷蔵棚にいくつも陳列されていたが、月夜はそれを見たくなかった。こういった症状は、ときどき何の前兆もなく訪れる。どうしてか、そうした断面を見ると、気持ち悪い、と感じてしまうのだ。人間は、陳列された魚の死体や、肉の断片を、その通り「死体」や「断片」として認識しないらしい。それは、どうしてだろう? 仮に、そこに兎の死体や、カンガルーの断片が並べられていたら、どう思うのだろう? こんなふうに、人間は、普通、自分の思考に何らかのバイアスをかけている。かかっている、のではない。意識的にかけているのだ。だから、ときどき、それが外れる。月夜の頭脳は、合理的に思考しようとする癖があるから、そういったバイアスの影響を受けにくい。けれど、そうは言っても、やはり多少の偏見は持つものだ。自分では偏見だと思っていないものが、実はとてつもない偏見だった、ということもある。
最後に、野菜のコーナーを見て、レジに向かおうとした。
しかし、そのとき、月夜の身体は止まった。
籠を持っていない方の腕を見る。
誰かに掴まれた、と感じたからだ。
しかし、周囲を見渡してみても、彼女の傍には誰もいない。
おかしい……。
その感覚は、生々しくて、冷たくて、確かなものだった。
確かなもの?
確かなものとはなんだろう?
生きていれば、確かなのか?
死んでいれば、確かではないのか?
「どうした、月夜」
ウエストポーチから顔を出したフィルに声をかけられて、月夜は我に返る。
「いや、何も」
「早く行こう。ここは寒い」
フィルに促されて、月夜はレジに向かった。
買い物を済ませたら、もう、ほかに寄るべき場所はない。横断歩道を渡って、坂道を上った。自分の家は、それなりに高い所にあるのだな、と月夜はぼんやりと考える。人、人、人。自分は、人だろうか、と唐突に思う。
どれほど風が冷たくても、人は毎日仕事に向かい、どれほど空気が乾燥していても、人は毎日学校に通う。どうして、そんなことをするのか。どうして、そんなことをする必要があるのか。誰かに操られているのではないか、と思えることが、月夜にはしばしばあった。まるで、みんな、仕事をするために、あるいは、学校に通うために、生まれてきたように見える。現に、そう考えている人もいるだろう。それは、とても素晴らしいことだが、同時にとても悲しいことでもある。しかし、人間は、もともと悲しい生き物だ。だから、悲しくて当然だ、と主張することもできる。けれど、そんな主張をしても、きっと誰も聞いてくれない。心の中では、みんな気づいているはずなのに……。
月夜は、それが、悲しい、とは思わなかった。
つまり、自分は人、人間、では、ないのか?
どっちでも良かった。
そんなことを考えている内に、いつか自分も死ぬだろう、と純粋に思う。
「今日は、紗矢の所に行かないのか?」フィルが訊いた。彼は、今はウエストポーチから出て、アスファルトの上を歩いている。
「行った方が、いいかな?」
「さあね。お前が来れば、あいつは喜ぶだろうが、あいつを喜ばせるために、お前が行動する必要はないからな」
「必要って、なんだろう?」
「義務、と似ているものだな」
「義務って、なんだろう?」
「堂々巡りになる。やめよう、そういう会話は」
「フィル、好きだよ」
「それは、どうもありがとう。嬉しいよ、月夜」
「紗矢の左腕は、どこに行ったの?」
フィルは月夜の顔を見上げる。
「……急に、どうしたんだ?」
「死んだときに、左腕を、なくした、と言っていた」
「そうらしいな」
「その、左腕は、どうなったの?」
「俺は知らない。どうして、そんなことが気になるんだ?」
「どうしてかは、分からない」
「月夜、合理的に考えるんだ。それが、お前という人間だろう?」
「私には、自分が、人間かなんて、分からない」
「それなら、お前は月夜だ。月夜は、いつも合理的に考える。それでいい」
「うん……」
「眠いのか?」
「一緒に寝る?」
「遠慮しておくよ。猫は夜行性なのさ」
「じゃあ、なおさら、今の内に眠っておいた方がいい」
「夜行性なら、眠るのも、夜にすべきだ」
「どうして?」
「素晴らしい理屈だろう?」
「理屈?」
「論理的じゃないか?」
「論理的?」
沈思。
論理とは何か? 人間は、論理的にしか考えられないのか?
家に着いた。玄関を開けて、中に入る。買ってきたものを所定の位置に仕舞ってから、硝子戸を開けて、月夜はソファに座った。フィルも彼女の膝の上に乗る。
「今日は、紗矢の所には、行かない」月夜は言った。「今度、クリスマスパーティーをするときに会うから、それでいい」
「そうか」
「フィルは、何がしたい?」
「それは、何の話だ?」
「クリスマスパーティー」
「俺は何もしたくない。その間、眠っていよう」フィルは話す。「そういえば、紗矢が、サンタクロースの帽子を持ってこい、とか言っていたが、あれは、どうするつもりなんだ?」
「持っていないから、持っていけない」
「当たり前だな」
「普通の帽子じゃ、駄目かな?」
「ないよりは、あった方がましなんじゃないか」
「あっても、ないのと、変わらないかもしれない」
「まあ、サンタクロースのものでなければ、持っていく意味はないかもな」
「あと、サンタクロースに手紙を書くために、封筒と、便箋を、用意しないといけない」
「それくらい家にあるだろう?」
「ある、はず」
「はず?」
「手紙なんて、書かないから」
「書かないで、どうするんだ?」
「読む」
「貰うのか? 誰から?」
「貰ったことは、あまりない」
「だろうな」
「ねえ、フィル」月夜はフィルの黄色い瞳を見る。「私の傍にいるのは、どうして?」
「お前の近くが、居心地が良いからだ」
「本当に? それだけの、理由?」
「そうさ」
「嘘、吐いているんじゃない?」
フィルは月夜をじっと見つめる。
「どういう意味だ?」
「ううん、深い意味はないよ。ただ、何か、考えていることがあるんじゃないかな、と思って」
「俺が、そんなことをするように見えるか?」
「少し、見える」
「何も考えていないさ」
「うん……」
「信じられないんだな」
「信じては、いるよ。でも、論理的な思考と、感情的な判断は、無関係だから」
「なるほど」
「どうして、私の傍にいるの?」
「紗矢に、そうするように言われたからだ」
月夜は黙った。フィルと数秒間見つめ合う。
フィルの瞳は、とても綺麗だった。この場合の綺麗とは、果たしてどういう意味だろう、と月夜は思考する。おそらく、エネルギー効率が良い、という意味ではない。それは確かだ。では、自分にとって利益になる、という意味か。それは、もしかすると、そうかもしれない。フィルの瞳を見ることで、何かは分からないが、自分にとって、利益になるものがある。結果的に、それを綺麗と感じる、という可能性もなくはない。
「どうして、紗矢はそんなことを頼んだの?」
「それは、知らない」
「どうして、知らないの?」
「禅問答だな。知らないものは、知らないんだ」
「教えて」
「月夜」
「何?」
「綺麗だよ」
「どうもありがとう。でも、それと、これとは、関係がないよ」月夜は微笑む。
「紗矢に、直接訊いてくれないか」
「君は、教えてくれないの?」
「ああ、教えられない。これ以上は、無理なんだ」
「どうして、無理なの?」
「どうして、という問いには、答えられないことが多い、ということを、知っておいた方がいい」
「知っているよ。でも、問いかけるのは自由だよ。たとえ、君が、それで、答えてくれないとしても、私が問いかけるのは、自由だよ」
「折れる気がないな」
「うん……」月夜は少し俯く。「……ごめんね」
「謝る必要はない」
「でも、ごめんなさい」
「泣かないでくれ」
「泣いていないよ」
「そう……。しかし、泣きそうだ」
「私も、泣くかもしれない、と思った」
フィルは面白そうに笑った。
「紗矢に、直接訊くんだ、月夜」フィルは話す。「それが、お前にとっても救いになる」
「救い? どんな?」
「救いというものに、種類はないんだ」
「そっか」
「ああ、そうだ」
「フィルは、誰のもの?」
「誰のものでもない。俺は、お前の傍にいるよ、月夜」
「できるなら、紗矢の傍にいてあげてほしい」月夜は伝える。「それが、君の役割なんじゃないの?」
「……どうして、そんなことを言う?」
「……何が?」
「いや……」フィルは言った。「なんでもない。気にしないでくれ」
月夜は、言われた通り、気にしなかった。
「紗矢は、お前を大層気に入っている。お前は、それに応えてくれるだけでいいんだ。それ以上は望まない。あいつのためにも、お前のためにもな」
「うん」
「紗矢と、仲良くしてやってくれ」
「うん、するよ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
カーテンが揺れる。室内の空気が入れ替わった。
月夜は、フィルを抱きかかえて、ソファから立ち上がる。そのまま二階に移動し、自室の机の前にある椅子に座った。
「勉強するのか?」
「うん」
「どうして、勉強するんだ?」
「フィルも、質問が好きなんだね」
「別に好きじゃないさ」
「そう?」
「ああ」
参考書を広げて、ペンを持つ。スタンドライトの電源を入れた。ページに書いてある問題を見て、ノートに解答を書く。終わったら丸つけをして、間違えたところをもう一度解き直す。こんなに簡単な作業が、ほかにあるだろうか、と月夜は思う。
フィルは、暇だったから、月夜の部屋の窓から外に出て、屋根に上がった。
空気は澄んでいるが、とても冷たい。月夜は、どうやら、家にいる間、あまり暖房をつけないようだ。猫の彼にとっては、あまり好ましい環境ではない。暖房の纏わりつくような暖かさが、月夜はあまり好きではないのかもしれない。頭が痛くなったりするのだろうか。
目の前に山脈があって、その向こう側は見えなかった。左手には、ずっと住宅街が続いている。紗矢が住む山は右手にあって、ときどき鳥の鳴き声が聞こえてきた。こんなに寒くても、声を張り上げる動物がいる。自分と同じように、暇なのだろうな、とフィルは考える。
月夜は、もう気づいているのだ、と彼は思った。考えたのではない。つまり、論理的な思考をして、そうした結論に至ったのではない、という意味だ。なんとなく、そう思った。彼女なら、気づいてもおかしくはない、と感じる。そう……。それは、信頼と、少し似ている感覚だ。根拠もなしに、そんなふうに思うのだから……。そもそも、思うのに、根拠は必要ないのかもしれない。
紗矢のことを考えた。彼女は、今、何をしているだろう? あの石段に座って、ずっと居眠りをしているのか。
フィルは、紗矢が好きだった。それは、月夜に感じるのとは、多少違った好意だ。しかし、どちらとも恋愛感情ではない。そもそも、猫が人間と子孫を残すことはできないのだから、恋愛感情、というものが生じるはずがない。けれども、それ以前に、恋愛感情と、単純な好意の間に、違いがあるのか、とも思う。どうして、その二つを区別しなくてはならないのか? そんなことをしなければ、きっと人間の世界はもっと豊かになるだろう、と彼は思う。しかし、次の瞬間には、自分には関係のないことだ、とも思った。いつもそうだ。だから、彼は提案をしない。この世界に存在する、ありとあらゆる事柄が、最終的には、自分とは関係がない、と言い切れる。たぶん、あまり素晴らしいことではないだろう。しかし、フィルは、それが、自分らしさだと思っていた。自分らしさ……。いつ使っても、不思議な言葉だ。
恋愛感情ではないとしても、二人に対する好意は確かに存在する。そして、フィルは、その内紗矢に対するものが、月夜に対するものより少し強いことを、自覚していた。自覚、という言い方は違うかもしれない。そう思いたいのだ。そう……。紗矢と月夜のどちらかを選ばなくてはならない、といった、なんともロマンチック、かつ、なんともミラキュラスな場面に遭遇したら、自分は、きっと、紗矢を選ぶだろう、とフィルは思う。そこにも、確固とした理由はない。しかし、それで良い、と彼は考える。
屋根の上を歩いて、少し運動した。もしかすると、足音が響いて、月夜の集中を欠くかもしれない。
自分が、月夜に拾われた理由……。
月夜が、自分を拾った理由……。
どちらも、どうでも良いことだ。
気にするようなことではない。
でも、訊かれたら、答えなくてはならない。
隠す理由がないから、答えるのだ。
しかし、自分にはそれができない。だから、紗矢に代わりに答えさせようとしている。
いや、それも違うか……。そうするように言ったのは、紗矢なのだから。
そうやって、いつも、自分は逃げている。なんとも酷いやつだ、とフィルは感じる。
けれど、やはり、それで良い。
「フィル?」
部屋の中から、月夜の声が聞こえた。
「なんだ?」フィルは返事をする。
「寒くない?」
「ああ、全然」
「そう」
「もう、終わったのか?」
「いや、まだ」
「俺はここにいる。心配しないでくれ」
「心配は、していない」
「じゃあ、何をしているんだ?」
「勉強」
そう言って、月夜は黙った。
フィルは一人で笑いを堪える。
魔法について考えた。魔法が存在するとしたら、それを使えるのは、どんな人間だろう? 月夜みたいに、論理的な思考をする人間か? それとも、幼児みたいに、とびきり優れた感性を持ち合わせた、紗矢のような人間だろうか?
魔法を使えたら、彼女たちは、何をするだろう?
月夜は、きっと、魔法を使わないだろう。使っても、誰も救われない、とすぐに気づくはずだ。魔法とは、本来儚いものだ。すべての人々の願いを叶えるものではない。
紗矢なら、たぶん、何も考えないでそれを使う。まずは、自分のために。そして、次に、ほかの人のために。箒に跨って、夜の街を駆けるかもしれない。それはそれで面白い。ただし、彼女はすぐに転ぶから、今度は箒の上から転落するかもしれない。
三十分くらいして、フィルは部屋に戻った。月夜はまだ勉強している。先ほどと同じ教科かは分からなかった。同じことを、こんなに長時間続けられるのは、一種の才能だ、と彼は思う。月夜本人がどう思っているのかは分からないが、少なくとも、彼はそう思った。フィルは、同じことを繰り返すと、すぐに飽きる。だから、毎日違うことをしたい、と感じる。月夜と出会ってから、多少は日常に変化があった気がした。このまま、彼女とずっと一緒にいれば、それなりに面白い日々が送れるかもしれない。
インターフォンが鳴った。
月夜は、顔を上げて、部屋の入り口を見る。それから、ペンを机の上に置いて立ち上がった。
「客か?」月夜の肩に載りながら、フィルは尋ねる。
月夜は答えずに、黙って首を傾げた。
基本的に、彼女の家には、誰も訪ねてこない。それは、彼女に友人がいないからだ。通販を利用することも、出前をとることもない。回覧板なら、ポストに入れれば済む話だから、わざわざインターフォンを押す者はいない。
誰だろう、と想像しながら、月夜は階段を下りる。
靴を履いて、玄関のドアを開けた。
前方を確認してから、左側を見る。ドアは、彼女から見て右側に向かって開くから、そちらは死角になる。だから、顔をドアの向こう側に出して、そちらも確認した。しかし、誰の姿も見えない。インターフォンは、ドアのすぐ傍にあるから、ここにいないとなれば、インターフォンを押したあとで移動した、ということになる。悪戯だろうか、と月夜は考える。
そのまま、ドアを閉めて、彼女は家の中に戻る。
「誰もいないな」フィルが言った。「まあ、そういうこともあるだろう」
「そういうことって、どういうこと?」
「悪戯をする人間もいる、ということさ」
「どうして、そんなことをするの?」
「そうしたい気分なんだよ。もしかすると、子どもかもしれない。許してやれ、ちょっと魔が差しただけだ」
「うん。もちろん、それくらいなら、全然、構わないけど」
「全然構わない、というのは、少し違うと思うが」
ドアがノックされた。
月夜は後ろを振り返る。フィルもそちらを凝視した。今度は、確実だった。確実だった、の意味が分からないが、相手がすぐそこにいると分かった、という感じか。
月夜は、再び、ドアを開ける。
少しだけ、緊張した。
しかし、やはり、そこには誰もいなかった。左を見ても、顔を出してドアの右側を見ても、誰の姿もない。
透明人間かもしれない。
誰もいないはずがなかった。ドアがノックされて、月夜がそれを開けるまで、五秒くらいしかかからなかったのだ。その間に隠れられるような場所は、玄関の近くにはない。やはり、少しおかしい。聞き間違い、という可能性はない。二回も呼び出されたのだから、誰かが故意にやった、と考えるのが自然だ。しかし、その方法が分からない。
「月夜、ドアを閉めるんだ」フィルが耳もとで囁く。
「でも、誰か、うちに用があるのかもしれない」
そう言いながら、月夜は、さすがにそれはありえないか、と自分でも思った。
「真っ当な用があるなら、こんなことはしないさ。何か、後ろめたいことがあるんだ。今すぐ、ドアを閉めた方がいい」
「うん……」
月夜は、言われた通り、ドアを閉める。
リビングに入って、暫くの間、硝子戸から外の様子を観察していたが、結局誰も現れなかった。いったい、今のはなんだったのだろう、と考えてみたが、月夜に思い当たる節はない。
けれど……。
「気にしないで、勉強をしよう」フィルが言った。
彼は、月夜の肩から飛び降りて、床に着地する。
「君も、勉強するの?」
「大人しく、勉強していた方がいい」
「大人しくない状態で、勉強なんて、できないよ」
「そんな、凝った回答を期待しているわけじゃないんだ」
階段を上って、二人は自室へと戻る。
途中で後ろを振り返って、もう一度玄関の方に目を向けてみたが、ドアが再びノックされることはなかった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
家に帰ると夫が不倫していたので、両家の家族を呼んで大復讐をしたいと思います。
春木ハル
恋愛
私は夫と共働きで生活している人間なのですが、出張から帰ると夫が不倫の痕跡を残したまま寝ていました。
それに腹が立った私は法律で定められている罰なんかじゃ物足りず、自分自身でも復讐をすることにしました。その結果、思っていた通りの修羅場に…。その時のお話を聞いてください。
にちゃんねる風創作小説をお楽しみください。
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる