篝火導師

羽上帆樽

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第6章 朗々

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 午前六時に目を覚まし、いつも通り一時間ほど勉強した。それから、フィルと一緒に家を出て、月夜は買い物に出かけた。買い物といっても、それほど遠出をするわけではない。家のすぐ傍にあるスーパーマーケットで、企業としての規模はかなり大きいが、建物自体はそれほど大きくなかった。おそらく、この辺りに空いている土地がないからだ。玄関を出て、坂道を下ると、すぐにそのスーパーマーケットに到着した。

 動物、しかも猫をスーパーマーケットの中に入れるのは、規則違反ではないか、と思ったから、月夜はフィルを自分のウエストポーチに仕舞った。仕舞った、といっても、完全に密閉したわけではない。まあ、密閉したところで、彼は全然困らないだろう、と思ったが、一応、万が一に備えて、そうしておくことにした(万が一、の意味は不明)。

 入り口で籠を手に取って、月夜は前に進む。今日は、紗矢とやることになったクリスマスパーティーのために、買い出しに来た。お菓子と飲み物くらいあれば良い。日常品に関しては、今は充分足りていたから、今日は買う必要はなかった。

 月夜は、普段から食事をしないから、生物はできる限り買わないようにしている。保存食となれば、乾燥したものが大半だが、現代では、冷凍食品、といった大変便利なものが出回っている。だから、彼女はそのお世話になることが多かった。あるいは、そもそも、保存という行為をしない、といった選択をすることも可能だ。つまり、食べるときに買う。こうすることで、何かを食べたくなったときに限って、それが家にない、といった事態を避けることができる。もっとも、月夜が、積極的に、何かを食べたい、などと考えることは皆無といって良いが……。

 お菓子コーナーでクッキーを手に取ったとき、フィルが言った。

「それを買っても、食べるのはお前だけだ、月夜」

 月夜は手元のパッケージを見ながら、彼の呟きに応える。

「うん、分かっている」

「クッキーが好きなのか?」

「動物性のものが、使われていないものがいい、と思ったから、確認している」

「なんだ、月夜。お前は、ベジタリアンだったのか?」

「ベジタリアン、とは?」

「野菜しか食べない人、のことじゃないかな、おそらく」

「おそらく、ということは、自信がないの?」

「きちんとした定義とは、ずれている可能性がある、ということさ」

「ベジタリアンと、ビーガンの違いは?」

「調べてみたらどうだ?」

「どうやって?」

「図書館に行くなりして」

「今は冬休みだから、図書館は閉まっている」

「それなら、ネットで調べればいいのさ、ちゃちゃっとな」

「ネットは、あまり、使いたくない」

「どうしてだ?」

「理由はない」月夜は話す。「直感的に、そう感じる」

「感じるものは、すべて直感的さ」

「フィルは、クッキーは食べる?」

「俺は、もう、食べ物なんて必要ないんだよ」フィルは言った。「食べられないこともないだろうが、まあ、食べないね、意味がないから」

「意味って?」

「深い意味はない」

「どういう意味?」

「意味が好きなのか?」

「特に、好きではない」

「さっさと買おう」

「うん……」

 月夜は移動する。歩きながら、彼女はフィルに話しかけた。

「ねえ、フィル。紗矢は、どうして、死のうと思ったのかな?」

「また、同じことを考えているのか?」フィルが呆れたような声を出す。「だから、あいつが自分で言っていただろう? 彼氏の身代わりになろうと思ったんだ。本当に、素晴らしいことだな。俺には、到底、そんなことはできない。他人のために、自分を殺すなんてな」

「じゃあ、その反対はできるの?」

「反対?」

「自分のために、自分を殺す」

「さあ、どうかな……」フィルは尋ねる。「どうして、そんなことを訊くんだ?」

「なんとなく」

「紗矢のことなら、心配しなくていい」

「心配は、していない。気になる、といった方が正しい」

「どちらでも同じだろう。両者とも、紗矢に関する事柄を、頭で考えている、という意味を示している。つまり、あいつのことを意識しているんだ」

「それは、その通り」

「どうして、お前がそんなことを考える必要があるんだ?」

「必要は、ない。でも、考えてしまう」

「まあ、そういうときもあるさ」

「紗矢は、屋上から飛び降りた」月夜は話す。「何十年も、前のこと……。暑い夏だった。彼氏を庇うために、自分が死ぬところを見せた。……どうして、突発的に、そんなことを思いついたんだろう?」

「さあね、知らないよ。彼女に訊いてみたらどうだ?」

「訊いたけど、分からない、と言っていた」

「じゃあ、分からないんだよ」

「そうかな……」

 店内は空いている。平日だったが、今は冬休みだから、そうした雰囲気がどこからともなく伝わってくるような気がする。

「私にも、そんなことができるかな?」

「さあ、どうだろうな。できると思っても、実際に行動するのとは、また別の話だ」

「うん、そう」

「月夜は、紗矢が好きなんだな」

「どうして?」

「どうしてかは伝えられない。しかし、そういうのを、好き、と呼ぶのさ」

「私は、紗矢が、好きだよ」

「なんだ、自覚しているんじゃないか」

「自覚は、するものではない」

 飲み物のコーナーに辿り着いて、月夜は適当に飲料を選ぶ。炭酸は極力飲みたくなかった。栄養がないのに、お腹が膨れる、というのが、はっきりいって意味が分からない。というわけで、健康的に麦茶を選んでおく。クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか、と一瞬考えたが、まあ、良いだろう、と思って、何も躊躇せずに籠に入れた。

「クッキーを食べながら、麦茶を飲むのか?」

 たった今考えたことを、フィルに指摘される。

「うん、そうだよ」

「変わっているな」

「何が?」

「いや、何も……」

 クッキーと麦茶が入った籠を持って、レジへと向かう。これだけなら、籠に入れる必要はなかったな、と月夜は思った。

 何かほかに買うものがないか、と思って、少し遠回りをしてレジに向かうことにする。魚介類や、肉類が、冷蔵棚にいくつも陳列されていたが、月夜はそれを見たくなかった。こういった症状は、ときどき何の前兆もなく訪れる。どうしてか、そうした断面を見ると、気持ち悪い、と感じてしまうのだ。人間は、陳列された魚の死体や、肉の断片を、その通り「死体」や「断片」として認識しないらしい。それは、どうしてだろう? 仮に、そこに兎の死体や、カンガルーの断片が並べられていたら、どう思うのだろう? こんなふうに、人間は、普通、自分の思考に何らかのバイアスをかけている。かかっている、のではない。意識的にかけているのだ。だから、ときどき、それが外れる。月夜の頭脳は、合理的に思考しようとする癖があるから、そういったバイアスの影響を受けにくい。けれど、そうは言っても、やはり多少の偏見は持つものだ。自分では偏見だと思っていないものが、実はとてつもない偏見だった、ということもある。

 最後に、野菜のコーナーを見て、レジに向かおうとした。

 しかし、そのとき、月夜の身体は止まった。

 籠を持っていない方の腕を見る。

 誰かに掴まれた、と感じたからだ。

 しかし、周囲を見渡してみても、彼女の傍には誰もいない。

 おかしい……。

 その感覚は、生々しくて、冷たくて、確かなものだった。

 確かなもの?

 確かなものとはなんだろう?

 生きていれば、確かなのか?

 死んでいれば、確かではないのか?

「どうした、月夜」

 ウエストポーチから顔を出したフィルに声をかけられて、月夜は我に返る。

「いや、何も」

「早く行こう。ここは寒い」

 フィルに促されて、月夜はレジに向かった。

 買い物を済ませたら、もう、ほかに寄るべき場所はない。横断歩道を渡って、坂道を上った。自分の家は、それなりに高い所にあるのだな、と月夜はぼんやりと考える。人、人、人。自分は、人だろうか、と唐突に思う。

 どれほど風が冷たくても、人は毎日仕事に向かい、どれほど空気が乾燥していても、人は毎日学校に通う。どうして、そんなことをするのか。どうして、そんなことをする必要があるのか。誰かに操られているのではないか、と思えることが、月夜にはしばしばあった。まるで、みんな、仕事をするために、あるいは、学校に通うために、生まれてきたように見える。現に、そう考えている人もいるだろう。それは、とても素晴らしいことだが、同時にとても悲しいことでもある。しかし、人間は、もともと悲しい生き物だ。だから、悲しくて当然だ、と主張することもできる。けれど、そんな主張をしても、きっと誰も聞いてくれない。心の中では、みんな気づいているはずなのに……。

 月夜は、それが、悲しい、とは思わなかった。

 つまり、自分は人、人間、では、ないのか?

 どっちでも良かった。

 そんなことを考えている内に、いつか自分も死ぬだろう、と純粋に思う。

「今日は、紗矢の所に行かないのか?」フィルが訊いた。彼は、今はウエストポーチから出て、アスファルトの上を歩いている。

「行った方が、いいかな?」

「さあね。お前が来れば、あいつは喜ぶだろうが、あいつを喜ばせるために、お前が行動する必要はないからな」

「必要って、なんだろう?」

「義務、と似ているものだな」

「義務って、なんだろう?」

「堂々巡りになる。やめよう、そういう会話は」

「フィル、好きだよ」

「それは、どうもありがとう。嬉しいよ、月夜」

「紗矢の左腕は、どこに行ったの?」

 フィルは月夜の顔を見上げる。

「……急に、どうしたんだ?」

「死んだときに、左腕を、なくした、と言っていた」

「そうらしいな」

「その、左腕は、どうなったの?」

「俺は知らない。どうして、そんなことが気になるんだ?」

「どうしてかは、分からない」

「月夜、合理的に考えるんだ。それが、お前という人間だろう?」

「私には、自分が、人間かなんて、分からない」

「それなら、お前は月夜だ。月夜は、いつも合理的に考える。それでいい」

「うん……」

「眠いのか?」

「一緒に寝る?」

「遠慮しておくよ。猫は夜行性なのさ」

「じゃあ、なおさら、今の内に眠っておいた方がいい」

「夜行性なら、眠るのも、夜にすべきだ」

「どうして?」

「素晴らしい理屈だろう?」

「理屈?」

「論理的じゃないか?」

「論理的?」

 沈思。

 論理とは何か? 人間は、論理的にしか考えられないのか?

 家に着いた。玄関を開けて、中に入る。買ってきたものを所定の位置に仕舞ってから、硝子戸を開けて、月夜はソファに座った。フィルも彼女の膝の上に乗る。

「今日は、紗矢の所には、行かない」月夜は言った。「今度、クリスマスパーティーをするときに会うから、それでいい」

「そうか」

「フィルは、何がしたい?」

「それは、何の話だ?」

「クリスマスパーティー」

「俺は何もしたくない。その間、眠っていよう」フィルは話す。「そういえば、紗矢が、サンタクロースの帽子を持ってこい、とか言っていたが、あれは、どうするつもりなんだ?」

「持っていないから、持っていけない」

「当たり前だな」

「普通の帽子じゃ、駄目かな?」

「ないよりは、あった方がましなんじゃないか」

「あっても、ないのと、変わらないかもしれない」

「まあ、サンタクロースのものでなければ、持っていく意味はないかもな」

「あと、サンタクロースに手紙を書くために、封筒と、便箋を、用意しないといけない」

「それくらい家にあるだろう?」

「ある、はず」

「はず?」

「手紙なんて、書かないから」

「書かないで、どうするんだ?」

「読む」

「貰うのか? 誰から?」

「貰ったことは、あまりない」

「だろうな」

「ねえ、フィル」月夜はフィルの黄色い瞳を見る。「私の傍にいるのは、どうして?」

「お前の近くが、居心地が良いからだ」

「本当に? それだけの、理由?」

「そうさ」

「嘘、吐いているんじゃない?」

 フィルは月夜をじっと見つめる。

「どういう意味だ?」

「ううん、深い意味はないよ。ただ、何か、考えていることがあるんじゃないかな、と思って」

「俺が、そんなことをするように見えるか?」

「少し、見える」

「何も考えていないさ」

「うん……」

「信じられないんだな」

「信じては、いるよ。でも、論理的な思考と、感情的な判断は、無関係だから」

「なるほど」

「どうして、私の傍にいるの?」

「紗矢に、そうするように言われたからだ」

 月夜は黙った。フィルと数秒間見つめ合う。

 フィルの瞳は、とても綺麗だった。この場合の綺麗とは、果たしてどういう意味だろう、と月夜は思考する。おそらく、エネルギー効率が良い、という意味ではない。それは確かだ。では、自分にとって利益になる、という意味か。それは、もしかすると、そうかもしれない。フィルの瞳を見ることで、何かは分からないが、自分にとって、利益になるものがある。結果的に、それを綺麗と感じる、という可能性もなくはない。

「どうして、紗矢はそんなことを頼んだの?」

「それは、知らない」

「どうして、知らないの?」

「禅問答だな。知らないものは、知らないんだ」

「教えて」

「月夜」

「何?」

「綺麗だよ」

「どうもありがとう。でも、それと、これとは、関係がないよ」月夜は微笑む。

「紗矢に、直接訊いてくれないか」

「君は、教えてくれないの?」

「ああ、教えられない。これ以上は、無理なんだ」

「どうして、無理なの?」

「どうして、という問いには、答えられないことが多い、ということを、知っておいた方がいい」

「知っているよ。でも、問いかけるのは自由だよ。たとえ、君が、それで、答えてくれないとしても、私が問いかけるのは、自由だよ」

「折れる気がないな」

「うん……」月夜は少し俯く。「……ごめんね」

「謝る必要はない」

「でも、ごめんなさい」

「泣かないでくれ」

「泣いていないよ」

「そう……。しかし、泣きそうだ」

「私も、泣くかもしれない、と思った」

 フィルは面白そうに笑った。

「紗矢に、直接訊くんだ、月夜」フィルは話す。「それが、お前にとっても救いになる」

「救い? どんな?」

「救いというものに、種類はないんだ」

「そっか」

「ああ、そうだ」

「フィルは、誰のもの?」

「誰のものでもない。俺は、お前の傍にいるよ、月夜」

「できるなら、紗矢の傍にいてあげてほしい」月夜は伝える。「それが、君の役割なんじゃないの?」

「……どうして、そんなことを言う?」

「……何が?」

「いや……」フィルは言った。「なんでもない。気にしないでくれ」

 月夜は、言われた通り、気にしなかった。

「紗矢は、お前を大層気に入っている。お前は、それに応えてくれるだけでいいんだ。それ以上は望まない。あいつのためにも、お前のためにもな」

「うん」

「紗矢と、仲良くしてやってくれ」

「うん、するよ」

「どうもありがとう」

「どういたしまして」

 カーテンが揺れる。室内の空気が入れ替わった。

 月夜は、フィルを抱きかかえて、ソファから立ち上がる。そのまま二階に移動し、自室の机の前にある椅子に座った。

「勉強するのか?」

「うん」

「どうして、勉強するんだ?」

「フィルも、質問が好きなんだね」

「別に好きじゃないさ」

「そう?」

「ああ」

 参考書を広げて、ペンを持つ。スタンドライトの電源を入れた。ページに書いてある問題を見て、ノートに解答を書く。終わったら丸つけをして、間違えたところをもう一度解き直す。こんなに簡単な作業が、ほかにあるだろうか、と月夜は思う。

 フィルは、暇だったから、月夜の部屋の窓から外に出て、屋根に上がった。

 空気は澄んでいるが、とても冷たい。月夜は、どうやら、家にいる間、あまり暖房をつけないようだ。猫の彼にとっては、あまり好ましい環境ではない。暖房の纏わりつくような暖かさが、月夜はあまり好きではないのかもしれない。頭が痛くなったりするのだろうか。

 目の前に山脈があって、その向こう側は見えなかった。左手には、ずっと住宅街が続いている。紗矢が住む山は右手にあって、ときどき鳥の鳴き声が聞こえてきた。こんなに寒くても、声を張り上げる動物がいる。自分と同じように、暇なのだろうな、とフィルは考える。

 月夜は、もう気づいているのだ、と彼は思った。考えたのではない。つまり、論理的な思考をして、そうした結論に至ったのではない、という意味だ。なんとなく、そう思った。彼女なら、気づいてもおかしくはない、と感じる。そう……。それは、信頼と、少し似ている感覚だ。根拠もなしに、そんなふうに思うのだから……。そもそも、思うのに、根拠は必要ないのかもしれない。

 紗矢のことを考えた。彼女は、今、何をしているだろう? あの石段に座って、ずっと居眠りをしているのか。

 フィルは、紗矢が好きだった。それは、月夜に感じるのとは、多少違った好意だ。しかし、どちらとも恋愛感情ではない。そもそも、猫が人間と子孫を残すことはできないのだから、恋愛感情、というものが生じるはずがない。けれども、それ以前に、恋愛感情と、単純な好意の間に、違いがあるのか、とも思う。どうして、その二つを区別しなくてはならないのか? そんなことをしなければ、きっと人間の世界はもっと豊かになるだろう、と彼は思う。しかし、次の瞬間には、自分には関係のないことだ、とも思った。いつもそうだ。だから、彼は提案をしない。この世界に存在する、ありとあらゆる事柄が、最終的には、自分とは関係がない、と言い切れる。たぶん、あまり素晴らしいことではないだろう。しかし、フィルは、それが、自分らしさだと思っていた。自分らしさ……。いつ使っても、不思議な言葉だ。

 恋愛感情ではないとしても、二人に対する好意は確かに存在する。そして、フィルは、その内紗矢に対するものが、月夜に対するものより少し強いことを、自覚していた。自覚、という言い方は違うかもしれない。そう思いたいのだ。そう……。紗矢と月夜のどちらかを選ばなくてはならない、といった、なんともロマンチック、かつ、なんともミラキュラスな場面に遭遇したら、自分は、きっと、紗矢を選ぶだろう、とフィルは思う。そこにも、確固とした理由はない。しかし、それで良い、と彼は考える。

 屋根の上を歩いて、少し運動した。もしかすると、足音が響いて、月夜の集中を欠くかもしれない。

 自分が、月夜に拾われた理由……。

 月夜が、自分を拾った理由……。

 どちらも、どうでも良いことだ。

 気にするようなことではない。

 でも、訊かれたら、答えなくてはならない。

 隠す理由がないから、答えるのだ。

 しかし、自分にはそれができない。だから、紗矢に代わりに答えさせようとしている。
 いや、それも違うか……。そうするように言ったのは、紗矢なのだから。

 そうやって、いつも、自分は逃げている。なんとも酷いやつだ、とフィルは感じる。

 けれど、やはり、それで良い。

「フィル?」

 部屋の中から、月夜の声が聞こえた。

「なんだ?」フィルは返事をする。

「寒くない?」

「ああ、全然」

「そう」

「もう、終わったのか?」

「いや、まだ」

「俺はここにいる。心配しないでくれ」

「心配は、していない」

「じゃあ、何をしているんだ?」

「勉強」

 そう言って、月夜は黙った。

 フィルは一人で笑いを堪える。

 魔法について考えた。魔法が存在するとしたら、それを使えるのは、どんな人間だろう? 月夜みたいに、論理的な思考をする人間か? それとも、幼児みたいに、とびきり優れた感性を持ち合わせた、紗矢のような人間だろうか?

 魔法を使えたら、彼女たちは、何をするだろう?

 月夜は、きっと、魔法を使わないだろう。使っても、誰も救われない、とすぐに気づくはずだ。魔法とは、本来儚いものだ。すべての人々の願いを叶えるものではない。

 紗矢なら、たぶん、何も考えないでそれを使う。まずは、自分のために。そして、次に、ほかの人のために。箒に跨って、夜の街を駆けるかもしれない。それはそれで面白い。ただし、彼女はすぐに転ぶから、今度は箒の上から転落するかもしれない。

 三十分くらいして、フィルは部屋に戻った。月夜はまだ勉強している。先ほどと同じ教科かは分からなかった。同じことを、こんなに長時間続けられるのは、一種の才能だ、と彼は思う。月夜本人がどう思っているのかは分からないが、少なくとも、彼はそう思った。フィルは、同じことを繰り返すと、すぐに飽きる。だから、毎日違うことをしたい、と感じる。月夜と出会ってから、多少は日常に変化があった気がした。このまま、彼女とずっと一緒にいれば、それなりに面白い日々が送れるかもしれない。

 インターフォンが鳴った。

 月夜は、顔を上げて、部屋の入り口を見る。それから、ペンを机の上に置いて立ち上がった。

「客か?」月夜の肩に載りながら、フィルは尋ねる。

 月夜は答えずに、黙って首を傾げた。

 基本的に、彼女の家には、誰も訪ねてこない。それは、彼女に友人がいないからだ。通販を利用することも、出前をとることもない。回覧板なら、ポストに入れれば済む話だから、わざわざインターフォンを押す者はいない。

 誰だろう、と想像しながら、月夜は階段を下りる。

 靴を履いて、玄関のドアを開けた。

 前方を確認してから、左側を見る。ドアは、彼女から見て右側に向かって開くから、そちらは死角になる。だから、顔をドアの向こう側に出して、そちらも確認した。しかし、誰の姿も見えない。インターフォンは、ドアのすぐ傍にあるから、ここにいないとなれば、インターフォンを押したあとで移動した、ということになる。悪戯だろうか、と月夜は考える。

 そのまま、ドアを閉めて、彼女は家の中に戻る。

「誰もいないな」フィルが言った。「まあ、そういうこともあるだろう」

「そういうことって、どういうこと?」

「悪戯をする人間もいる、ということさ」

「どうして、そんなことをするの?」

「そうしたい気分なんだよ。もしかすると、子どもかもしれない。許してやれ、ちょっと魔が差しただけだ」

「うん。もちろん、それくらいなら、全然、構わないけど」

「全然構わない、というのは、少し違うと思うが」

 ドアがノックされた。

 月夜は後ろを振り返る。フィルもそちらを凝視した。今度は、確実だった。確実だった、の意味が分からないが、相手がすぐそこにいると分かった、という感じか。

 月夜は、再び、ドアを開ける。

 少しだけ、緊張した。

 しかし、やはり、そこには誰もいなかった。左を見ても、顔を出してドアの右側を見ても、誰の姿もない。

 透明人間かもしれない。

 誰もいないはずがなかった。ドアがノックされて、月夜がそれを開けるまで、五秒くらいしかかからなかったのだ。その間に隠れられるような場所は、玄関の近くにはない。やはり、少しおかしい。聞き間違い、という可能性はない。二回も呼び出されたのだから、誰かが故意にやった、と考えるのが自然だ。しかし、その方法が分からない。

「月夜、ドアを閉めるんだ」フィルが耳もとで囁く。

「でも、誰か、うちに用があるのかもしれない」

 そう言いながら、月夜は、さすがにそれはありえないか、と自分でも思った。

「真っ当な用があるなら、こんなことはしないさ。何か、後ろめたいことがあるんだ。今すぐ、ドアを閉めた方がいい」

「うん……」

 月夜は、言われた通り、ドアを閉める。

 リビングに入って、暫くの間、硝子戸から外の様子を観察していたが、結局誰も現れなかった。いったい、今のはなんだったのだろう、と考えてみたが、月夜に思い当たる節はない。

 けれど……。

「気にしないで、勉強をしよう」フィルが言った。

 彼は、月夜の肩から飛び降りて、床に着地する。

「君も、勉強するの?」

「大人しく、勉強していた方がいい」

「大人しくない状態で、勉強なんて、できないよ」

「そんな、凝った回答を期待しているわけじゃないんだ」

 階段を上って、二人は自室へと戻る。

 途中で後ろを振り返って、もう一度玄関の方に目を向けてみたが、ドアが再びノックされることはなかった。
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