篝火導師

羽上帆樽

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第2章 星々

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 線路のフェンスに凭れかかって、月夜は空を見上げている。沢山の星が輝いていて、一つ一つが生きているように見えた。月は見えない。雲に隠されているのか、今日が新月なのか、月夜には分からなかったが、見えなければ、どちらでも同じだ、と彼女は考える。見えなくても、存在するものはあるし、存在するのに、見えないものもある。見えるのと、存在するのは、どちらが先だろう? 考えても分からないが、分からないからこそ考える。この関係も、前の関係と同じだ。考えるから分からなくなるのか、それとも、分からないから考えるのか、どちらだろう、と月夜は思った。

 ときどき、彼女の背後で電車が通り過ぎて、線路の先へと消えていく。暗くて、遠くの方は見えない。電車が走る振動が、フェンスまで伝わってくるようで、それが、月夜は心地良かった。こんなふうに、ものの動きを察知できるのは、自分が生きているからだ、と彼女は感じる。フェンスは、生きていないから、振動を感じないかもしれない。けれど、感じなくても、フェンスは確かに揺れている。感じるとは、どういうことだろう? そもそも、どうして、感じる必要があるのだろう? プラスのことであれば、感じれば、たしかに嬉しいが、マイナスのことであれば、感じると、気持ち悪くなる。それなら、いっそのこと、何も感じない方が良いのではないか、と月夜は感じる。と、こんなふうに、また、そんなふうに、感じる、のだから、やっぱり、感じるのでないか、と月夜は感じた。

 沿線の道路には、今は人の姿はない。車もほとんど通らなかった。家は何軒か建っているが、窓の灯りは消えている。すぐ近くに駅のホームがあって、屋根に設置された照明だけが、この辺りを明るく照らし出していた。橙色がかった光が、どことなく不気味だ。その色の光を見ると、どうしてか、月夜は、不安な気持ちに襲われる。理由は分からない。何らかのトラウマを抱えているのかもしれない、と思ったが、普通、人は、何らかのトラウマを抱えているものだから、当たり前か、とも思った。

 ふと下を見ると、足もとに一匹の猫がいるのが分かる。彼の毛は黒いから、今まで闇に溶け込んでいたのかもしれない。瞳は黄色くて、鋭い目つきをしている。それは、最近月夜の友人になった、黒猫のフィルだった。

「やあ、月夜」フィルが喋った。「なかなか、帰ってこないから、俺の方から会いにきた」

「ごめんね」

「どうして、謝る必要がある?」

「なんとなく、謝ろうかな、と思ったから」

「謝りたかった、ということか?」

「そうかもしれない」

「それは、お前の欲望だから、俺には関係がないな」

「君は、謝られても、平気?」

「意味が分からない」

「意味、なんて、ないよ」そう言って、月夜はその場にしゃがみ込む。「一人にして、ごめんね」

「お前は、一人になりたかったのではないのか?」

「そうかも、しれない」

「確かなことが、言えないようだな」

「うん……。断定は、苦手」

「苦手、という分析結果は、断定じゃないのか?」

「そうかも」月夜は笑った。「その可能性はある」

 フィルは、月夜の腕を伝って、彼女の肩に上る。そのままそこに座って、月夜の頬を軽く舐めた。月夜は、フィルが座っている方に軽く頭を傾けて、彼のスキンシップに応じる。スキンシップは、一種の言語表現だから、そこには、何らかの意思がある、と考えられる。相手が人間ではなくても、同じ動物だから、月夜には、フィルの意思が少しだけ分かった。

 いや、本当は、少しどころではない。

 少しも、分からない、といった方が正しい、かもしれない。

 彼女には、分からなかった。

 月夜は立ち上がって、再びフェンスに凭れかかる。

「不良少女だな、月夜」フィルが彼女の耳もとで言った。「こんな時間まで、外をうろついているのがばれたら、停学処分になるぞ」

「見つからないから、大丈夫」

「どうして、そんなことが言える?」

「誰も、私のことは、気に留めていない」

「なぜ、それが分かる?」

「うーん、なぜ、かは分からないけど、そうであることは、確実に分かる、といった、ある種の錯覚、かもしれない」

「なるほど。主観の話だな」

「君には、私が見えるみたいだから、君にとっては、私は、存在することになっている、みたいだね」

「そうだ」

「変なことを、言ったかもしれない」

「一人で話していないで、俺と会話してくれよ」

「独り言を言ったのではない」

「独り言なんて、本当にあると思っているのか?」

「ないかもしれないし、あるかもしれない」

「月夜は、そういう言い方が好きなんだな」

「好き、と感じることはない」

「では、そういう言い方を好むんだな、と言い直しておこう」

「好きと、好むの、違いは?」

「さあね。あくまで、ニュアンスの違いでしかない。胡麻豆腐と、胡桃豆腐の違い、みたいなものだろう」

 月夜は、胡麻豆腐は知っていたが、胡桃豆腐は知らなかった。ただ、フィルが、たった今、思いつきで作った言葉かもしれない。

「散歩は、どうだった?」特に気になったわけではないが、月夜は尋ねた。

「ああ、相変わらず、楽しかったね」フィルは話す。「散歩は、いつでも楽しい。馴染みのある土地でも、自分の知らない場所は沢山あるから、楽しみはなくならない。今度、お前の肩に載って、散歩をさせてくれないかな?」

「それは、私が散歩をする、という意味?」

「そうだ」

「いいよ」

「目の高さが違うと、世界も違って見えるからな」

「世界、とは?」

「厳密な定義がある言葉ではないさ」

「うん……」

「どうした? 眠いのか?」

「今日は、もう寝ない」

「ほう。どうして?」

「君と、話していたい、と思ったから」

「眠るのは、時間の無駄だから、ではないのか?」

「それも、ある」

「お前は不思議な生き物だな」

「どうして?」

「まるで、生きることを嫌っているのに、それでも生きているみたいだ」フィルは説明した。「食事や、睡眠といった、生きるうえで必ずしなくてはならないことを、欠いているのにも関わらず、平均以上に活動している。俺は、昼は寝ていることが多いから、夜に活動するのは当たり前だが、お前は、昼も、夜も、活動している。ああ、たしかに、そう考えると、反対に、生きることがとてつもなく好きなのかもしれないな。どちらか分からない。まあ、お前は、きっと長生きするだろう、とだけ言っておくよ」

「どうして、そんなことが言えるの?」

「ただの思いつきさ。気にする必要はない」

「私は、これ以上、成長しない、かもしれない」

「成長、というのは、身体的な成長、という意味か?」

「そう」

「食べないで、寝ないなら、そうかもな」

「精神的な成長も、これ以上する気がしない」

「しようと思って、するものじゃないだろう。外部の環境に晒されて、したくなくても、そうなっていくものさ。それに、お前は、もう、充分成長している、と思うぞ」

「何のために、成長するのか?」

「さあね。ゴールは、死だから、死のために成長するみたいなものだな」

「君は、一度死んで、それから、どうなった?」

「うん? どうなった、というのは、どういう意味だ?」

「死んでも、まだ、成長する?」

「もともと、成長しないんだよ、俺は……」

「そうなの?」

「そうさ。そんなこと、考えたこともないね。一日、ゆったりと生きて、それで、その結果として、死んでしまうなら、それでいいんだ」

「猫に、命が九つある、というのは、本当?」

「そもそも、命なんてものがあるのか?」

「私には、ない、ような、気がする」

「俺にもないね、そんなものは」

「君は、私の身体と、私の精神の、どちらが好き?」

「俺が、お前が好きだ、なんて言ったか?」フィルは軽く笑う。

「言わなかったかもしれないけど、そういうニュアンスを、感じ取った」

「素晴らしいセンサーだな」

「それで、どっち?」

「どっちもだよ、月夜」

「私が、違う見た目だったら、好きにならなかった?」

「さあ……。実際にそういう状況じゃないと、分からないな。それに、考えても、仕方がないさ、そんなことは……」

「考えると、分からなくなる」

「ああ、その通りだ。考えるんじゃない。感じるんだ」

「考えると、感じるの違いは、何?」

「意識的か、無意識か、ではないか?」

「意識、とは?」

「お前の、その台詞には、思考を感じるよ」

「考えて、話している」

「けれど、話すというのは、どちらかというと、感覚的な行いだろう? お前は、それに気づいているはずだ。だから、余計、分からなくなる。そういうことだろう?」

「うん、そう」

「今、お前は、どこにいるんだ?」

「ここにいる」

「どうして、そう言える? 考えたからか? それとも、感じたからか?」

「感じたからの方が、近い気がする」

「それでいいんだよ。考えるのは、感じてからでいい。そして、考えない、というのが、最も簡単な選択さ。そんなふうに思うのは、本当は、考えたくないからじゃないか? 考えると、莫大なエネルギーを消費する。お前は、そういうのが嫌いなんだろう?」

「それが、無駄なら、嫌い」

「まだ、考えて、答えているだろう?」

「うん……。そうかもしれない」

「勉強不足だな」

「勉強は、考える行為?」

「少なくとも、感じるだけでは、テストでいい点はとれないな」

 猫は、人間界のテストを知っているのだろうか、と月夜は不思議に思った。

 暫くの間、二人は何も話さなかった。口を閉じて、顔を前方に向けている。しかし、そこには、古ぼけた木造の家があるだけで、別段面白くはなかった。面白くなくても、人は、行動することができる。学校は、面白い場所ではない。しかし、それでも、毎日そこに通い続けられる。それは、どうしてだろう? たしかに、面白いことがなくても、人間は生きていける。それでも、面白いことは、ないよりはあった方が良い。そう感じるのはどうしてか。そもそも、面白いというのは、具体的にどういうことだろう?

 自分が、まだ、意識的に思考しているのが分かったから、月夜は、一時的に脳内の回路を切り替えて、ぼうっと現状を観察することにした。

 まず、目の前に、アスファルトがあるのが分かった。しかし、それは、厳密には、アスファルトではない。そして、厳密とは何か、という問題が残るから、この説明自体、そもそも全然厳密ではない。ということで、アスファルトを、ただの石の塊、として処理することにする。しかし、石をこれ以上細かくしてはいけない。石は、分子が集まってできており、そして、分子は、原子が集まってできている。けれど、アスファルトは、原子ではない。これ以上の抽象化は危険だ。本質を残したまま、如何に抽象化するか、といった立場で観察しなくてはならないから、細かくしすぎてはいけない。

 次に、自分の位置情報を確認する。その前に、自分とは何か、と考える。ここでいう自分とは、哲学的な、自我や、自己、といった性質を持つものではない。単純に、存在としての自分、として扱う。最も問題なのは、肩に載っているこの黒猫を、自分として扱うか、ということだ。ここでは、黒猫も、自分の一部として扱う。なぜなら、彼は、今、自分の身体に密接している状態で、あえて分ける必要がないからだ。位置情報について考えるから、まずは起点を定めなくてはならない。起点は、とりあえず、目の前にある木造建築の、門の隣にある壁の、その表面にある表札に彫られた、とある漢字の、一画目の終着点、としておく。このときも、これ以上細かくしてはいけない。表札は、石版から成っているが、石版は原子ではないし、したがって、表札も原子ではない。

 さて、こうすれば、自分と、その一画目の終着点との間の、距離を計ることが可能になる。その距離をAとして、単位をセンチメートルと置けば、自分がどこにいるのか分かる。

 しかし、それでは、その距離Aは、いったい何を表わしているのか?

 それは、空間の存在、ではない。

 そして、物質の存在、でもない。

 距離Aは、宇宙の存在を表わしている。

 そして、宇宙は、空間ではない。

「それは、思考というんだ」肩に載っているフィルが、落ち着いた声で話しかけた。「お前には、それしか、できないみたいだな」

 月夜はフィルを優しく抱えて、自分の両腕の中に入れる。目が合った。

「うん……。私には、それしか、できない」

「それは、問題かもしれないが、それでも、問題ではない、かもしれないな」

「どういう意味?」

「月夜の真似だよ」

「私が、考えるのは、どうして?」

「考えたいからさ」フィルは答えた。「それ以外の答えなんてない」

「どうして、考えたい、と思うのかな?」

「さあ、どうしてだろうな」

「君には、分かる?」

「月夜のことは、月夜にしか分からないさ」

「それは、どうして?」

「宇宙が、そうさせているからだ、と、今、自分で、気づいたんじゃないのか?」

「どうだろう……」

 二人の背後で、大きな音を立てて電車が通り過ぎた。その間、月夜と、フィルは、何の言葉も発さなかったが、何かしらの意思を伝え合った。そうしたのは、まさにそのタイミングで、電車が二人の背後を通過したからだ。それ以外の理由はない。

 大分寒かったから、月夜は、フィルと一緒に帰路についた。

 近くにある駅から、電車に乗る。乗車中、フィルは月夜のリュックに隠れていた。フィルは、もう、自分は死んでいる、と話していたから、ほかの人には見えないのかもしれない。たしかに、見えないものは、存在しない、と判断されることが多い。でも、見えないのに、多くの人間は、心は存在する、と信じている。ほかにも、意味や、目的や、時間など、見えないものは沢山ある。幽霊の存在は信じないのに、どうして、生きる目的があると信じられるのだろう? 月夜は、むしろ、その逆だった。つまり、幽霊の存在は信じられても、生きる目的があるとは信じられない。それ以上に、自分に心があるとさえ信じられそうになかった。自分に心があると信じられなければ、当然、他者に心があるとも信じられない。けれど、フィルには、心があるような気がした。それも、きっと、幻想だろう。そう……。何もかも幻想で、現実なんてどこにも存在しない。幻想の中で、常に干渉できるものを、現実、と呼んでいるだけかもしれない。

 車内は空いていた。窓の向こうで景色が流れていく。街の光が尾を引いて、次々に右側に流れていった。本当は、景色が右側に流れているのではなく、電車が左側に走っている。人生も、それと同じかもしれない。時間が流れているのではなく、本当なら、流れなくても良いものを、生き物が、好き好んで、時間の中を流れているのだ。

 自宅の最寄り駅に到着して、月夜は電車を降りた。改札を抜けてから、リュックからフィルを出して、地面を歩かせる。駅舎の前のバスロータリーは閑散としていて、誰もいなかった。

 分かれ道を左に曲がる。前方には住宅街が続いていた。

「なあ、月夜」フィルが言った。「今度、ちょっと、俺に付き合ってくれないかな」

「付き合ってくれないかな、とは、どういう意味?」

「どういう意味だと思う?」

 月夜は前を向いたまま考える。

「恋人になる、ということ?」

「妙なバイアスがかかっているみたいだな」

「バイアスは、どれも、かかっているものだよ」

「そこは重要じゃない」

「それで、付き合う、というのは、どういう意味なのか、説明してくれる?」

「会ってほしい人がいるんだ」フィルは説明する。「いや、正確には人じゃないな……。そう、人、つまり、人間ではない。まあ、でも、それは、本質的には生き物ではない、という意味だから、お前には、普通の人間と同じように見えるかもしれない」

 歩道の真ん中に少し大きい石が落ちていて、月夜のつま先に当たって前方に転がった。月夜は、それを手に取って、歩道の隅に移動させる。誰かが怪我をするかもしれない、と思ったからだった。

「それは、どういう意味?」

「物の怪なんだ」

「物の怪とは?」

「簡単に言えば、化け物、みたいなものだな」

「化け物とは?」

「まあ、妖怪、と言っても差し支えない」

「それでは、妖怪とは?」

「なんだ、月夜。ふざけているのか? 今日は、やけにテンションが高いじゃないか」

「真剣に、質問しているつもりだけど」

「つもり、にしかなっていないぜ」

「そうかな……」

「俺も、物の怪だ」フィルは言った。「一度死んでいるからな。まあ、人によって、物の怪、の定義は違うが、今のところは、一度死んで、生き返ったもの、と定義しておくとしよう。だから、俺は物の怪だが、お前は物の怪じゃない。そして、その会ってもらいたいやつというのは、物の怪だから、一度死んでいる」

「お墓に入っているの?」

「いや……。それはどうだろう」

「どうして、私が、その人に会う必要があるの?」

「それは、お前にとって、どんな利益があるのか、という質問か?」

 目だけ横に向けて、月夜は隣を歩く黒猫を見る。

「うーん、今のは、ちょっと、違うかもしれない。純粋な質問、というか」

「一人で、退屈らしいんだ」

「どうして、一人だと、退屈なの?」月夜は首を傾げる。

「お前は、一人でも、退屈じゃないのか?」

「退屈ではない」

「まあ、そういう人間もいるのさ」

「死んでしまったのに、退屈だと感じる、というのが、よく分からない」

「そういう物の怪もいるんだよ」

「うん」

「そいつと会って、話をしてほしいんだ」

「誰が、してほしいの?」

「俺が」

「えっと、何の話をするの?」

「会えば分かる」

 月夜は沈黙する。

 彼女は、基本的に、他人から頼まれたことは断らない。断る合理的な理由があれば断るが、そうでない限りは、どんなことでも、協力しよう、と思う。しかし、そんなことに、自分が生きている価値を見出しているわけではない。ただ、なんとなく、協力した方が良いかな、と思うだけだ。断られれば、断れた側は、多少なりとも落ち込む。できるなら、誰かが落ち込むようなことは、ない方が良い、と月夜は考える。それは、もしかすると、優しさと呼ぶのかもしれない。けれど、月夜は、自分では、それを優しさだとは思っていなかった。どちらかというと、エゴといった方が正しい。そうしないと、自分が満足できない。ただ、それだけでしかない。

「分かった。じゃあ、会うよ」月夜は答えた。「いつ、会いに行けばいいの?」

「明日の夜だ」

 月夜はフィルを見る。

「随分と、急だね」

「そう、急なんだ」

「何か、急がなくてはいけない理由が、あるの?」

「退屈すぎて、そいつが発狂してしまうかもしれないからな」

「なるほど」

「いや、そこは納得するところじゃないが」

「そう?」

「ああ、そうだ」

「えっと、ごめんね」

「さては、謝れば済むと思っているな?」

「そんなふうには、思っていない」

「まあ、いいさ。とにかく、協力には感謝する。俺も、お前にそうしてもらわないと、面が立たない、というものだからな」

「面が立たない、というのは、どういう意味?」

「詳しくは知らない」

「詳しくなくても、いいよ」

「大雑把にも、知らないね」

「知らないのに、その言葉を使ったの?」

「そうだ」

「凄い」

「誰が?」

「私が」

 自宅に到着した。ドアを開けて玄関に入る。

 二人は、そのまま、バスルームに直行した。お湯が沸くまで時間がかかりそうだったから、先に身体と頭を洗った。フィルは、特にお湯が嫌いそうではない。どちらかというと、好きみたいだ。シャワーで彼の身体を洗うとき、顔に思いきりお湯がかかってしまって、フィルは文句を言った。月夜は、その様子が可愛らしくて、彼を抱きしめて謝った。

 軽く湯船に浸かってから、洗面所に出て、月夜は部屋着に着替える。そのままリビングに向かい、月夜とフィルはソファに座った。

 月夜は、今日は、本当に、眠らないつもりだった。フィルが何をするのかと尋ねると、月夜は、何をしようか、今、考えている、と答えた。

「本でも読んだらどうだ?」

「うーん、本は、読むしかない」月夜は虚ろな瞳で応える。

「どうやら、眠いみたいだな」

「眠くは、ない」

「なあ、月夜」フィルは月夜の膝の上に載る。「お前は、どうして、一人で解決しようとするんだ?」

「一人で、解決?」月夜は首を傾げた。「それは、どういう意味?」

「もっと、周囲の人間を、頼った方がいい」

「人間、ということは、君には、頼れないの?」

「いや、俺も含めて、色々な存在に、力を借りるんだ」

「どうして、そんなことをする必要があるの?」

「必要はないさ。でも、そうした方が得だろう? ないよりは、あった方がいい、というのが、お前の考え方じゃなかったのか? 俺が見る限り、お前は、他者を、自分から遠ざけようとしている。それは、どうしてだ? 一人が好きなのか? しかし、一人が好き、というのは、後天的に獲得された好みだろう? 人間は、誰しも、他者の存在を求めている。それを避けるには、意識的に、自分を他者から遠ざけるしかない。お前は、どうして、そんなふうに考えるようになった? どうして、進んで一人でいようとする?」

「どうして? 一人で?」

「ああ、そうだ」

 月夜は黙って考える。

 目の前に、真っ黒な大きな板があった。

 テレビの画面だ。

 電源を入れれば、人の顔が見え、人の声が聞こえる。

 どこにいるのか、そして、本当に存在しているのか、それすら分からない、誰かの顔と声。

 自分は、他者の存在を望んでいない?

 いや……。

 他者の、存在を、望んでいない、のではない。

 むしろ反対だ。

 自分の、存在を、望んでいないのだ。

 そう、それが正しい。

「私は、本当は、生まれたくなかったのかもしれない」月夜は言った。「自分が、存在することで、様々なエネルギーが、無駄に消費されていく。それが、嫌だ、と感じるのかもしれない」

「お前が生きている限り、消費されるエネルギーは、無駄にはならないよ」

「うん、そう……。でも、そんなふうに、感じてしまう」

「なるほど。つまり、他者と関わらないことで、自分の存在を消そうとしているんだな」

「そう、かも、しれない」

 フィルは月夜の肩に上り、彼女の頬を軽く舐めた。

 月夜は前を向いたまま動かない。

 しかし、やがて、彼女は首を傾けて、自分の頬をフィルの頬に触れさせた。

 それができるのは、自分と、相手が、生きているからだ。

 けれど、そんなふうに考えるのも、自分が、生きているからだ、といえる。

 果たして、自分は、生きているのだろうか?

 月夜は考える。

 少しだけ、悲しい気持ちになった。

 その気持ちは、フィルとは共有できない。少しはできるが、それは、本当に、最後までパックに残る牛乳みたいに、少しだけ、でしかない。

 それなら、いっそのこと、そんなことはできなくても良い、と思う。

 それが、彼女が出した結論だった。

 でも……。

 心の底では、きっと、そんな自分の考えさえも容認してくれる、都合の良い誰かの存在を望んでいる。

 そうに違いない。

 だから、矛盾している。

 そんな自分が、許せなかった。

 気持ち悪い、と思う。

 気持ちが悪くて、吐きそうになる。

 そして、そんなふうに感じるのも、やはり、自分が生きているからなのだ。

「やっぱり、眠りたい」

 そう言って、月夜はソファで横になる。

「こんな所で、眠らない方がいい。まだ、髪も、乾かしていない」フィルが諭す。

 月夜は答えない。

 そのまま、フィルを胸もとに引き寄せて、月夜はすうすうと寝息を立てた。
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